わずか10年の都「長岡京」とその周辺駅

1.長岡京遷都 2.JR長岡京駅 3.阪急西山天王山駅 4.JR山崎駅

 

「史跡長岡宮跡」碑(2018年11月)


長岡京遷都

長岡京桓武天皇により造営された都であり、それまで都のあった平城京より784年(延暦3年)に遷都されました。このときから10年間だけ、長岡京は当時のわが国の首都ということになります。

 

長岡宮跡碑が立つ周辺の様子(2018年11月)

 

当時の長岡京は現在における長岡京市、向日市、大山崎町、京都市まで及んでおり、南北5.3キロ、東西4.3キロにわたります。

 

現地案内板による長岡京全体像(2018年11月)

 

この広大な敷地面積は平城京よりも大きく、平安京に匹敵するほどの大きさということになります。現在ではその地下に長岡京の遺跡(長岡京跡)が長い眠りについています。

 

現地案内板による長岡京全体像(2018年11月)

 

長岡京という名は当時のこの辺りの長岡という地名に由来しますが、長岡の地は向日神社のある低い丘陵(通称「向日丘陵」)一帯を示し、当時の詔には「水陸の便有りて、都を長岡に建つ」とあります。

 

長岡宮跡碑が立つ周辺の様子(2018年11月)

 

長岡京は大きく宮域(きゅういき)と京域(きょういき)に分けられます。宮域は当時「長岡宮(ながおかきゅう)」とよばれ、長岡京の敷地における北部中央に位置する場所であり、現在でいうところの向日市あたりということになります。

 

現地に立つ長岡京の説明板(2018年11月)

 

ここには国家の中枢機関が置かれ、大極殿(だいごくでん)や朝堂院(ちょうどういん)、内裏(だいり)などがありました。大極殿は天皇が政治を司る場所、朝堂院は国儀大礼を行う場所、内裏は天皇の住まいということになります。当時の向日市のこの場所は、今でいうところの「霞が関」のような場所だったといえます。

 

現地に立つ長岡京の説明板(2018年11月)

 

大極殿という名は中国における宮殿の正殿「大極殿」に由来します。大極とは天空の中心となる北極星をさしますが、当時の天皇は中国の天文思想に習って世界を支配する中心としてこの名を採用しました。このことからも、大極殿は当時存在した多くの国の役所の中でも最も重要な施設の一つであるということがわかります。

 

現地案内板による長岡宮模型図(2018年11月)

 

模型に見られる大極殿は最も北の位置、朝堂院は最も南の位置に置かれています。これらは模型によると塀で囲まれていますが、この塀は、回廊とよばれる通路のある塀や築地(ついじ)とよばれる土塀となっていました。

 

長岡宮跡碑が立つ周辺の様子(2018年11月)

 

長岡京の大極殿跡が発掘されたのは1961年(昭和36年)のことですが、1964年(昭和39年)に「長岡宮跡」として国の史跡に指定されています。その後、この辺りで発見される重要遺跡は長岡宮跡の追加指定となっています。国が指定した史跡は一般的に重要文化財に相当します。

 

長岡宮跡碑が立つ周辺の様子(2018年11月)

 

一方の京域はこの宮域を取り囲む街区であり、中央には朱雀大路(すざくおおじ)が走ります。

 

現地案内板による長岡京条坊復元図(2018年11月)

 

これを中心として、縦横に大路と小路(こうじ)が碁盤の目のように配されています。この区画内には、貴族の邸宅や長岡宮に勤務する役人の住宅街がありました。

 

現地案内板による長岡京条坊復元図(2018年11月)


JR長岡京駅

長岡京時代に経済の中心となったのは現在の長岡京市ですが、現在の長岡京市の中心となる駅はJR京都線(東海道本線)の長岡京駅となります。長岡京駅はもともと1931年(昭和6年)、東海道本線向日町駅山崎駅の間に「神足(こうたり)駅」として開業しました。

 

山崎駅駅名標(2018年11月)

 

1972年(昭和47年)には神足駅(現在の長岡京駅)のある自治体名が長岡京市となりましたが、駅名はそのまま神足駅とされていました。その後、1995年(平成7年)に長岡京駅と改称されました。長岡京駅以外に長岡京市内には阪急電鉄長岡天神駅および西山天王山駅があります。


阪急西山天王山駅

西山天王山駅は2013年(平成25年)に開業した駅であり、阪急電鉄においては最も新しい駅です。長岡天神駅と大山崎駅の間に設置されています。この駅舎の真上には高速バスの乗り場である高速長岡京バスストップが設置されています。つまり、阪急京都線の上を京都縦貫自動車道が走っていて、その交差する場所に西山天王山駅高速長岡京バスストップがあるということです。バスストップは駅の東口からエレベーターにより連絡しています。

 

西山天王山駅西口(2017年4月)

 

天王山というと「天王山トンネル」「天下分け目の天王山」などの言葉が浮かびます。天王山トンネルは名神高速の大山崎IC~茨木IC間にあるトンネルであり、「渋滞の名所」としてよく知られていました。かつては天王山の戦いとよばれてきた山崎の戦いは1582年(天正10年)、明智光秀が織田信長を討ったのを見て、羽柴秀吉軍が中国攻めから取って返し、明智光秀軍を押し返した戦いです。以前よりこの戦いが戦局を決めたといわれてきたため、「天王山」という言葉は、勝敗を決める分かれ目の大事な一戦という意味で使われてきました。しかしながら最近の研究では、いわゆる「天王山の戦い」が戦局に影響を与えていないということもあり、山崎の戦いとよばれるようになったといいます。そもそも天王山は京都府大山崎町にある山であり、かつての摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)を分けていますが、合戦自体は山の上で行われたわけではなく、天王山の東側の湿地帯での戦いとなりました。

 

JR山崎駅の大阪方面行きホーム上にある府境標(2018年11月)

 

巨大なターミナル駅などでは高速バスの乗り場が併設される例はよくありますが、普通と準急しか停車しない駅に高速バス乗り場がある珍しい例といえます。京都府北部や関東地方、中国地方などと高速バス路線で結ばれています。なお、この西山天王山駅が開業した2013年(平成25年)、阪急電鉄は三宮駅を「神戸三宮駅」、服部駅を「服部天神駅」、中山駅を「中山観音駅」、松尾駅を「松尾大社駅」と改称しています。


JR山崎駅

当時の長岡京の玄関口となった港は現在の大山崎町と(京都市伏見区)付近にあったといいます。大山崎町は桂川、宇治川、木津川の合流地点であるため、古くから交通の要衝として栄えました。

 

山崎駅駅舎(2017年4月)

 

河川がある場所の行き交いを便利にするためには橋が必要となりますが、古くは725年(神亀2年)に行基がこの地に橋を架けて布教の拠点としています。そして、長岡京時代にも遷都にともない、橋が架けられています。大山崎町は京都府内における最も面積の小さい自治体ですが、町内にはJR京都線(東海道本線)の山崎駅阪急電鉄大山崎駅があります。

 

山崎駅構内通路(2017年4月)

 

山崎駅は1876年(明治9年)に高槻駅と向日町駅の間に設置されました。

 

京都方面行きホームへの階段(2017年4月)

 

また、山崎駅はJR京都線内において最も大阪府よりにある京都府内の駅です。そのため、駅敷地の一部は大阪府内にあり、ホーム上には府境を示す看板を見ることができます。

 

大阪方面行きホーム上にある府境標(2018年11月)