「阪神尼崎駅」と尼崎城の歴史

1.阪神尼崎駅 2.旧尼崎発電所 3.尼崎城の歴史 4.契沖生誕の地 5.櫻井神社

 

尼崎城復活のポスター(2019年2月)


阪神尼崎駅

阪神尼崎駅」は阪神電気鉄道の駅であり、1905年(明治38年)の阪神本線の開通と同時に開業しています。本来の駅名は「尼崎駅」ですが、この駅から北西方向約1.8キロの位置にJR西日本の尼崎駅があるため、阪神電気鉄道の駅は一般的に「阪神尼崎駅」とよばれています。

 

庄下川(しょうげがわ)を跨ぐ尼崎駅(2019年2月)

 

尼崎駅の東側には阪神電気鉄道の尼崎工場がありますが、この尼崎工場では阪神電気鉄道のすべての車両の整備や検査が行われています。尼崎工場には尼崎車庫が併設されています。また、開業当初にはここに阪神電気鉄道の本社がありましたが、現在は「阪神野田駅」前のビルに本社は移転しています。

 

阪神尼崎駅前に建つ時計(2019年2月)


旧尼崎発電所

尼崎工場に併設する尼崎車庫の西側には古い煉瓦造りの建築物を見ることができます。

 

煉瓦造りの建築物(2019年2月)

 

この煉瓦造りの建築物は、阪神電気鉄道が開業した1905年(明治38年)以前に建築されたものであり、かつての尼崎発電所です。

 

旧尼崎発電所(2019年2月)

 

この火力発電所で発電された電気により阪神電気鉄道の車両は走行していました。また、この沿線の一般の家庭にも電力を供給していたそうです。現在ではその役割を終え、資材倉庫として利用されています。

 

工事中の尼崎城址公園の向こうに見える旧尼崎発電所(2019年2月)


尼崎城の歴史

尼崎藩主・譜代大名の戸田氏鉄(とだうじかね)は1617年(元和3年)、大坂の西側を守る拠点として江戸幕府の命により尼崎城の築城に着手しました。尼崎城は甲子園球場3.5個分の広さに相当し、4層4階の天守を擁する巨大なものでした。

 

尼崎城址公園東側から見た尼崎城(2019年2月)

 

その城下町を建設するにあたっては、大物(だいもつ)周辺(現在の尼崎市大物~東本町)に散在していた寺院を城の西に集約して「寺町」をつくりました。現在においても、寺町の区画は当時と比べてほとんど変わりはなく、11の寺院が寺町に集中しています。国が指定する重要文化財や兵庫県および尼崎市が指定する文化財も多く残されており、寺町は城下町としての名残をとどめています。

 

阪神尼崎駅前に建つ「寺町案内」(2019年2月)

 

戸田氏鉄は徳川家の家臣であり、1603年(慶長8年)に家督を継いで近江膳所藩第2代藩主となります。大坂の陣の功績により、1616年(元和2年)に摂津尼崎藩5万石、1635年(寛永12年)に美濃大垣10万石へと移封されています。寺町に集約された寺院としては、滋賀県大津市にあった戸田氏の菩提寺である全昌寺がある他、現存する尼崎最古の古刹となる大覚寺、その本堂・多宝塔が国の重要文化財となっている長遠寺、文化財を多くもち寺町の中心的寺院となった本興寺などがあります。

 

尼崎城址公園南側から見た尼崎城(2019年2月)

 

戸田氏の後、1635年(寛永12年)になると青山幸成が遠江掛川より入城し、1711年(宝永8年)には桜井松平家の松平忠喬が入城します。これより幕末までは桜井松平氏が城主を務めていました。1846年(弘化3年)には本丸御殿が火災により全焼しましたが、1年半後に再建されています。

 

尼崎城址公園西側から見た尼崎城(2019年2月)

 

その後、1873年(明治6年)になると、明治新政府の廃城令により建物の一部を除いて取り壊されてしまいました。

 

再建される尼崎城(2019年2月)

 

戸田氏鉄が築城してから約400年が過ぎ、ミドリ電化の創業者であった安保詮氏が私財を投入し、尼崎城の再建計画がはじまりました。2016年(平成28年)に天守再建に着工し、2019年(平成31年)3月に建築工事が完了して一般公開されています。

 

尼崎城址公園南側から見た尼崎城(2019年2月)

 

新たな尼崎城は「阪神尼崎駅」の南側の尼崎城址公園内にありますが、この新しい尼崎城の天守の位置は、戸田氏鉄が築城した尼崎城の位置より北西へ約300メートルの場所となります。復活した尼崎城の天守は地上5階建の鉄筋コンクリート造となっています。

 

完成間近の尼崎城(2019年2月)


契沖生誕の地

契沖(けいちゅう)は江戸時代中期の古典学者です。彼の実家は下川氏であり、祖父は加藤清正の家臣、父は尼崎藩士であり青山幸成に仕えました。下川氏の三男として生まれた契沖の生誕の地となる「契沖生誕の比定地」の碑は尼崎城の南側にあります。

 

契沖生誕の比定地(2019年2月)

 

その後、父が浪人となり、契沖は11歳になると大阪今里の妙法寺で真言宗の僧として修業をするようになります。高野山で学んだ後、24歳のときに「阿闍梨」の位を得ました。水戸光圀の理解を得て、40歳の半ば頃には『万葉代匠記』を著した他、国学の発展に大きく寄与して「古学の祖」として称えられます。

 

古学の祖「契沖阿闍梨」の碑(2019年2月)


櫻井神社

尼崎城址公園のすぐ南側には櫻井神社がありますが、この神社は1882年(明治15年)に建立されています。櫻井神社には1711年(正徳元年)から幕末までの尼崎藩を治めた桜井松平家(後に桜井氏)の歴代藩主が祀られています。

 

櫻井神社(2019年2月)