常陸小田駅と小田城の歴史

1.小田城の歴史 2.小田城跡の様子 3.常陸小田駅

 

常陸小田駅のプラットホーム跡(2020年6月)


小田城の歴史

筑波山の南麓は古代から中世にかけて常陸国南部の中心地であり、八幡塚古墳や平沢官衙(ひらさわかんが)遺跡、日向廃寺跡などがあります。

 

筑波山梅林から見た風景(2022年3月)

 

小田城跡は筑波山地南裾に位置しており、北西から南にかけて桜川が流れ、北には筑波山地、南に湿地をのぞむ場所にあります。小田城は小田氏の居城ですが、小田氏は鎌倉時代から戦国時代にかけて常陸南部において最大の勢力を誇った一族です。

 

現地に立つ小田城跡の説明が書かれた石碑(2020年6月)

 

小田氏は藤原北家の流れをくむ家であり、八田知家(はったともいえ)を祖として15代・小田氏治まで350年以上も小田の地を本拠として栄えました。八田知家(1142年~1218年)は小田氏の祖として小田氏繁栄の基礎をつくった人物であり、初めての常陸守護職に任じられています。

 

鎌倉の地における八田知家邸(2020年6月)

 

八田知家のきょうだいが源頼朝の乳母となったこともあり、源頼朝からの信頼が厚く、常陸支配の要として用いられました。政治の中心となった鎌倉の地ではその屋敷を鎌倉幕府の正面に構え、常陸においては源頼朝勢力の安定に尽力し、源頼朝没後は宿老として13人の合議制の一人として選任されています。

 

筑波山に咲くタンポポ(2022年6月)

 

鎌倉時代の後半になると小田氏は北条氏の進出によりその所領を減少させ、鎌倉時代の末期になると常陸守護職を失っています。南北朝時代には、南朝方の重臣である北畠親房を小田城に迎えて、南朝方の関東の拠点の役割を果たします。日本史の教科書にも記載される北畠親房が著した『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』は、この小田城で執筆されたものです。

 

小田城跡近くにある「神皇正統記寄稿之地」の石碑(2020年6月)

 

室町時代になると、小田氏は関東で最も格式の高い名家を示す「八屋形(はちやかた)」の1つとして数えられるようになりました。戦国時代になっても常陸南部では最大の勢力を誇りましたが、16世紀中頃になると、その所領を後北条氏(相模)、上杉氏(越後)、佐竹氏(常陸北部)らに囲まれて小田城は戦場となることがたびたびありました。

 

筑波山に咲くオオイヌノフグリ(2022年6月)

 

手這坂(てばいざか)の合戦において1569年(永禄12年)に城を奪われ、それ以降小田城は佐竹氏の城館となりました。そして、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めに際して、小田氏は事実上滅亡してしまいました。関が原合戦後の1602年(慶長7年)、佐竹氏が秋田へと移封となり、小田城も廃城となりました。

 

小田城本丸跡へと続く筑波線廃線跡(2020年6月)


小田城跡の様子

小田城跡の歴史的重要性は高く、また遺存状況が良好な平城跡です。1935年(昭和10年)に国の史跡指定を受けていますが、その史跡範囲はきわめて広大であり、南北550メートル、東西450メートルにもおよび、その面積は約21万7千平方メートルとなります。

 

サイクリングロードとなっている筑波線廃線跡(2020年6月)

 

1998年(平成10年)より実施した発掘調査により、小田城跡は最終期の姿が確認され、また鎌倉時代から戦国時代まで継続的に使用されてきたことが判明しました。また、つくば市による2009年(平成21年)からはじまった発掘調査をもとに、小田城跡中央の本丸跡とその周辺について中世の小田城を体感できる歴史ひろばとして復元されています。

 

小田城跡歴史ひろば案内所となる茶色の建物(2020年6月)

 

小田城跡の整備工事は、発掘調査により確認された戦国時代最後の地面を1メートルほど盛土し、確認された建物や池などの遺構をその場所に再現しています。埋まっていた堀は掘り起こし、土塁は本丸の地面より2メートルの高さとしています。

 

東虎口跡に立つ小田城跡の石碑(2020年6月)

 

虎口(こぐち)とは城の出入口のことをいいますが、北虎口跡は本丸跡にあった3つの虎口のうちの1つであり、幅3.3メートル、門跡は明確には確認されていません。

 

北虎口跡に掲示される城跡位置図(2020年6月)

 

しかし、柱穴や礎石の跡となる掘り込みが2つ発見されており、その周辺は小さな礫や土器片で舗装されていました。北虎口跡とその対岸となる北曲輪(きたくるわ)の間は、堀を埋めて造られた上幅3メートルほどの土橋(北橋)となっていました。

 

北虎口跡から北曲輪へ渡す北橋(2020年6月)

 

北堀は昭和50年代初めに埋められましたが、これを堀り直しました。当時の堀はこの復元よりも2メートルほど深く、堀底は凹凸になっている障子堀とよばれるものでした。

 

復元された北堀(2020年6月)

 

本丸跡にあった3つの虎口のうちの1つである東虎口跡は幅4メートルあり、門の礎石が1つ確認されており、その表面には方形の柱跡が残っていました。東虎口跡からその対岸となる東曲輪跡へは木橋(東橋)が架けられ、東堀を埋めて造られた土橋へとつながっていました。

 

東曲輪跡へと続く橋(2020年6月)

 

この東虎口跡は小田氏時代には、小田城の正面となる大手口と考えられています。

 

敷地内中央から東虎口跡方向を見る(2020年6月)

 

東池は小田氏時代の庭園の池であり、池底には石を敷いて州浜(すはま)や築山の存在も想定されています。東池の大きさは南北約32メートル、東西約13メートルあり、その深さは30~80センチとなります。

 

現地に展示される東池の様子(2020年6月)

 

その近くには発見された建物跡の柱位置などをもとにして四阿(あずまや)を復元しています。こうした庭園をのぞみながら、宴会や連歌、茶の湯、花香寄合などが開催され、客の接待や家臣との懇親の場として使用されています。

 

休憩施設として利用される四阿(2020年6月)

 

東池跡からは大量の高級陶磁器が出土されており、小田氏の栄華の痕跡が見られます。また、東池の南側の通称「涼台」の名で親しまれる場所から、小田城跡南側の景色を一望できます。

 

城跡南側の景色(2020年6月)

 

南西虎口跡の周辺には部分的に石垣が築かれていましたが、その状況をレプリカで復元しています。また、南西虎口門は櫓門であったと考えられています。

 

レプリカによる石垣(2020年6月)

 

馬出(うまだし)は攻撃の際に軍勢を集めるための曲輪ですが、南西馬出曲輪は南西虎口と橋でつながっています。

 

南西馬出曲輪(2020年6月)

 

南西虎口跡近くにある西池は、南北約14メートル、東西約17メートルの広さがあり、深さが約1メートルありました。

 

西池跡(2020年6月)

 

西池跡の北側一帯は城主の屋敷などがあった建物域であり、確認された建物の位置と大きさが示されています。

 

建物域(2020年6月)

 

現地に展示された本丸跡の空中写真を見ると、左上(北西)から右下(南東)にかけてきれいな直線が走っています。これが筑波線廃線跡であり、現在はサイクリングロードとして整備されています。サイクリングロードは敷地内のみ廃線上ではなく、迂回するように設置されています。

 

現地に展示される本丸跡発掘調査合成写真(2020年6月)

 

写真の左上(北西角)付近は遺構展示室となっていて、土塁と堀が外側に広がっていく様子を壁の土塁土層断面と床の堀の位置で示しています。

 

遺構展示室の様子(2020年6月)


常陸小田駅

ここを抜けてサイクリングロードをしばらく進むと、筑波線常陸小田駅のあった場所に到着します。常陸小田駅は1918年(大正7年)に筑波線の開通とともに開業し、1987年(昭和62年)に筑波線の廃止とともに廃駅となりました。

 

踏切跡らしき場所(2020年6月)

 

2面2線の相対式ホームの地上駅であり、駅本屋は下りホーム側にありました。

 

常陸小田駅配線図