官設鉄道の歴史

▼官設鉄道(官鉄)は、明治時代の初めにできた明治新政府主体の組織である。▼現在の東海道本線などの幹線を中心として日本に鉄道を敷設した。

東京駅(2020年6月)

▼この鉄道事業を主管したのは、1870年(明治3年)に民部省・大蔵省に設置された鉄道掛。▼その後、工部省が創設され、鉄道事業は工部省主管へと変更された。

国有鉄道のマーク(2019年1月)

▼主管:1871年(明治4年)工部省鉄道寮/1877年(明治10年)工部省鉄道局/1885年(明治18年)内閣鉄道局/1889年(明治22年)内閣鉄道庁/1892年(明治25年)逓信省鉄道庁/1893年(明治26年)逓信省鉄道局/1897年(明治30年)逓信省鉄道局=行政事務担当,逓信省鉄道作業局=鉄道作業事務担当/1907年(明治40年)逓信省帝国鉄道庁/1908年(明治41年)内閣鉄道院(院電)/1920年(大正9年)鉄道省(省電)/1949年(昭和24年)日本国有鉄道(国電)/1987年(昭和62年)日本国有鉄道分割民営化(JR)

青梅鉄道公園に保存されるED16とC11(2020年10月)

▼開業当初は外国の鉄道技術に頼ることが多かった。▼後に、鉄道技術者の養成所である工技生養成所を設立するなどして日本人の鉄道技術者の養成に注力した。▼イギリスから導入された資本と鉄道技術者の指導により、日本初の鉄道となる新橋~横浜間において鉄道の建設に着手。▼その建設の中心はエドモンド・モレル。

▼エドモンド・モレルはイギリスの技術者。▼明治時代初期にイギリス公使のハリー・S・パークスの推薦により来日する。▼初代の鉄道・建築師長として京浜間の鉄道建設に従事する。▼軌間を1,067ミリに定めた他、国産の木材を枕木に使用することを決める。

新梅田シティ滝見小路(2023年3月)

▼1869年(明治2年)、右大臣三条実美の私邸において、ハリー・S・パークスと政府高官の岩倉具視、沢宣嘉(のぶよし)、大隈重信、伊藤博文が会談した。▼日本における鉄道建設計画に関する下打ち合わせを行った。▼そこで、岩倉具視は鉄道建設はイギリスにバックアップしてほしいと伝える。▼東京京都間を幹線として位置づけ、幹線に接続する支線として東京~横浜間、京都神戸間、長浜敦賀間を計画してることを明らかする。

旧敦賀港駅舎/現・敦賀鉄道資料館(2019年7月)

▼ハリー・S・パークスは、日本の鉄道建設とその運営については明治新政府が自ら行うべきであると主張する。▼江戸幕府より鉄道建設の免許を与えられていたアメリカをおさえて、日本に国有鉄道を敷設する強い姿勢を示した。▼イギリスのハリー・S・パークスの提案は、イギリス資本で明治新政府の手による鉄道建設ということを強く主張していたため、明治新政府はイギリス資本による鉄道敷設を目指すこととなった。▼アメリカの場合にはアメリカ主体の鉄道敷設となること、フランスの場合には江戸幕府と明治新政府の対立を利用するものであることが避けられる要因となった。

青梅鉄道公園に保存される2120形式タンク式蒸気機関車(2020年10月)