交野線の歴史と七夕の成り立ち

1.交野線の歴史 2.私市駅とその周辺の風景

 

私市駅に停車する枚方市~私市間を往復する車両(2019年9月)


交野線の歴史

交野線は枚方市~私市間を結ぶ京阪電気鉄道の路線です。1939年(昭和14年)に交野電気鉄道が設立されますが、これが信貴生駒電鉄の運行する枚方東口(現在の枚方市)~私市間の路線を譲り受けたものです。

 

交野線の列車の車内(2019年9月)

 

その後、京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)が交野電気鉄道の事業を譲り受けて交野線としました。1949年(昭和24年)に京阪電気鉄道京阪神急行電鉄より分離した際に京阪交野線となりました。

 

車内に掲示される路線図(2019年9月)

 

以前は交野線から京阪本線への直通列車が運転されていたこともありましたが、現在では交野線内の枚方市~私市間の折り返し列車のみ運行されています。


私市駅とその周辺の風景

交野線の終点となる私市(きさいち)駅は1929年(昭和4年)に信貴生駒電鉄の駅として開業しました。

 

私市駅(2019年9月)

 

その後、交野電気鉄道、京阪神急行電鉄の所属を経て、現在は京阪電気鉄道の駅となっています。

 

私市駅に停車する「枚方市行き」(2019年9月)

 

現在の私市駅は2面2線の頭端式ホームをもつ駅です。

 

私市駅ホーム(2019年9月)

 

その駅舎は三角屋根が印象的な山小屋風の造りの駅舎となっていて、2002年(平成14年)には近畿の駅百選に選定されています。

 

私市駅駅舎(2019年9月)

 

七夕の原型ともいえる文化は、百済から来た渡来人よりこの地に持ち込まれたのではないかと考えられています。この地はかつて「交野ヶ原」とよばれ、交野ヶ原には川砂が白く光って見える天野川が流れていました。

 

私市駅近くの天野川付近の自然豊かな風景(2019年9月)

 

清少納言は『枕草子』において「野は交野」として風光明媚な交野ヶ原を描き、平安時代の貴族たちには狩猟の場としてよく知られた地でした。昔の人々はこの天野川の姿を、天にある無数の星たちがつくる天の川と重ねて見たのかもしれません。

 

私市周辺の散策マップ(2019年9月)

 

渡来人たちが交野ヶ原に伝えた七夕の原型はその後、さまざまな文化との融合を繰り返して現在の七夕へと進化を遂げてきました。この地で語り継がれてきた「天の羽衣伝説」などの影響を受けながら織姫と彦星の七夕物語へと発展し、また笹の葉に願いごとをしたためた短冊を付ける風習が一般的となりました。

 

天野川沿いの風景(2019年9月)

 

交野ヶ原は現在でいうところの枚方市と交野市を合わせた丘陵地をさし、この地の歴史は『古事記』や『日本書紀』が編纂される以前からはじまっています。

 

天野川沿いの風景(2019年9月)

 

日本書紀』によると、皇后(きさき)のための用事をする役所を私府(きさふ)とよび、また皇后のための農耕などをした人を私部(きさべ)といいました。推古朝以来、交野市の村々は皇室領でしたが、その人々は皇后の部民(べのたみ)であったといいます。

 

私市駅近くの天野川付近の自然豊かな風景(2019年9月)

 

その中心となった村は当時、私部内(きさべのうち)とよばれましたが、「私市」の名はこれに由来します。私市周辺には大和の国との間を結ぶ磐船街道が走っており、天野川沿いの中心的な集落として発展してきました。現在でも古くからの家屋が残されています。

 

私市駅駅舎(2019年9月)

 

この風景が見える近くには大阪市立大学理学部附属植物園がありますが、この植物園は1950年(昭和25年)に研究施設として発足したものです。

 

植物園入口(2019年9月)

 

植物園の約26ヘクタールの敷地をもち、ここでは日本産樹木の収集に力を注いでいます。

 

植物園入口(2019年9月)