米原駅と特急街道の主役「サンダーバード」

投稿者: | 2019-02-02

1.特急街道の主役「サンダーバード」 2.「サンダーバード」とよく似た外観をもつ「しらさぎ」 3.交通の要衝「米原駅」 Θ新幹線駅とならなかった彦根駅Θ 4.愛称「マンモス」(EH10形電気機関車)

 

大阪駅に停車する特急「サンダーバード」(2017年3月)


特急街道の主役「サンダーバード」

湖西線山科~近江塩津間を結ぶ路線であり、琵琶湖の西側湖岸を走ります。起点は山科となりますが、湖西線を走るすべての列車が京都駅まで乗り入れています。また、終点の近江塩津を越え、北陸本線を経由して敦賀へ至る列車もあります。湖西線の開通は比較的新しく、1974年(昭和49年)に全線が開通しています。

 

大阪駅に停車する特急「サンダーバード」(2017年3月)

 

湖西線開業までは大阪から北陸方面へ向かう優等列車は、東海道本線北陸本線を経由して走っていました。ところが、湖西線開業の翌年になると、優等列車の大部分は山科において東海道本線と分岐する湖西線経由に切り替えられることになりました。その後、湖西線はまさに「特急街道」となりますが、現在でもこの「特急街道」における優等列車の主役となる「サンダーバード」は、かつて「雷鳥」とよばれた時代がありました。

 

京都鉄道博物館に展示される「雷鳥」(2019年1月)

 

長距離を走行する特急として1964年(昭和39年)に、481系交直流電車大阪~富山間に特急「雷鳥」として、名古屋~富山間に特急「しらさぎ」として投入されました。その後483系を経て、1968年(昭和43年)に485系となります。485系交直流特急電車であり、交流電化区間および直流電化区間のいずれも走行することができ、電車特急隆盛の一時代を築いた車両といえます。

 

山科駅付近を走行する485系(1978年5月)
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国鉄の分割民営化後、JR西日本の時代となり、「雷鳥」はさらなるスピードアップを目指して「スーパー雷鳥」へと発展し、681系・683系へと進化を遂げました。

 

大阪~金沢間を結ぶサンダーバード(2017年3月)

 

さらに2011年(平成23年)になると、「雷鳥」はすべて「サンダーバード」へと名称変更され、まさに「特急街道」の主役として大車輪の活躍を見せるようになりました。

 

大阪~金沢間を結ぶサンダーバード(2017年3月)


「サンダーバード」とよく似た外観をもつ「しらさぎ」

金沢~敦賀~米原~名古屋間を結ぶ特急「しらさぎ」は、その外観が「サンダーバード」ととてもよく似ています。

 

敦賀駅に到着する特急「しらさぎ」(2018年7月)

 

車体の側面に施されたラインが「サンダーバード」がブルーであるのに対し、「しらさぎ」はブルーとオレンジのラインが施されています。

 

「しらさぎ」のラインカラー(2017年5月)

 

「しらさぎ」が名古屋~富山間において運転を開始したのは雷鳥と同じく1964年(昭和39年)のことでした。

 

米原駅に到着する特急「しらさぎ」(2017年8月)

 

当時は名古屋~米原~富山~高山~名古屋というルートを循環していた準急「こがね」「しろがね」という循環列車がありました。循環列車というのは、起点を出発した後、いくつかの駅に停車して終点となる起点にもどってくる列車です。国鉄時代には、急行列車準急列車・普通列車のいずれにおいても循環列車が設定されていたことがあります。特急列車にはその運行の特性上、循環列車が設定されたことはありません。国鉄が分割民営化された後は循環列車はほとんど運行されていません。

 

米原駅に到着する特急「しらさぎ」(2017年8月)

 

準急「こがね」は名古屋~(東海道本線)~米原~(北陸本線)~富山~(高山本線)~岐阜~(東海道本線)~名古屋のように運行していました。準急「しろがね」は準急「こがね」の逆回りとなります。この準急列車と同じようなルートに急行列車ではなく、特急列車を設定することになったのは雷鳥の投入と関係があります。雷鳥がデビューした1964年(昭和39年)、大阪~富山間を結んだのは481系でしたが、この481系の空いた時間帯に「しらさぎ」として利用されることになりました。


交通の要衝「米原駅」

「要衝」とは重要な場所のことを意味し、「交通の要衝」とは交通面において重要な場所ということになります。米原は古くから交通の要衝として発展してきた交通都市です。江戸時代の五街道の一つである中山道と、五畿七道の一つである北陸道の分岐点となっていました。現在においても、米原駅東海道新幹線東海道本線北陸本線近江鉄道の乗換駅となっています。東海道新幹線では1964年(昭和39年)に新幹線駅が開業し、滋賀県内唯一の新幹線駅となりました。彦根駅を新幹線駅とする計画もありましたが、在来線との乗り換えなどを考慮した結果、米原駅を新幹線駅とすることになりました。

 

在来線ホームから見た新幹線ホーム(2017年8月)

 

新幹線駅とならなかった彦根駅

彦根城へのアクセスは彦根駅が玄関口となります。彦根駅はJR線と近江鉄道が乗り入れる駅です。1889年(明治22年)、関ヶ原~膳所駅間の開通の際に東海道本線の駅として開業しています。

 

京都方面行きホームから米原方面を望む(2016年4月)
彦根駅から米原方面をのぞむ

 

1898年(明治31年)になると、近江鉄道の彦根~愛知川(えちがわ)間が開通し、彦根駅はその起点となりました。JR線は1番のりば、2番のりばのホームをもち、3線を有しています。

 

2007年に開設された彦根駅東口(2016年4月)
彦根駅

 

関ヶ原の合戦後、徳川家康は石田三成がその居城としていた佐和山城を攻撃しました。佐和山城が陥落して石田氏が滅亡すると、徳川家の家臣であった井伊直政が一時的に入城します。しかし、井伊氏がそのまま佐和山城を引き継ぐと、民衆たちが石田氏への思いを捨てきれないと考えたことから、別の場所に城を築くことになりました。

 

2007年に開設された彦根駅東口(2016年4月)

 

彦根駅西口のロータリーにはその井伊直政の像があります。

 

彦根駅西口(2016年4月)
彦根駅西口

 

井伊直政は1561年(永禄4年)、現在の静岡県井伊谷に生まれました。関ヶ原の戦いにおいて徳川四天王の一人として功績をあげました。新しい城を築く計画についてですが、彦根山へ移すことになります。ところが1602年(慶長7年)、井伊直政は病気で亡くなってしまったため、その遺志を継いだ子らが1622年(元和8年)に彦根城を完成させます。結局、完成には20年の歳月を費やしたことになります。

 

平和堂を背にする井伊直政像(2016年5月)

 

現在では彦根城は、姫路城、松本城、犬山城とともに国宝に指定されています。天守は幾度かの戦災を免れて、当時の姿を残しています。天守までの石段は不規則に作られていて、敵が攻めにくいように工夫されています。

 

彦根駅駅名標(2016年4月)

 

米原の読み方には「まいばら」と「まいはら」がありますが、駅名は1889年(明治22年)の設置当初より「まいばらえき」としました。新幹線駅を設置した際に米原(まいばら)駅が所属していたのは坂田郡米原(まいはら)町でしたが、2005年(平成17年)に米原町、伊吹町、山東町が合併して「米原(まいばら)市」が発足しました。これにより、駅名と自治体名が統一されることになりました。

 

米原駅駅名標(2017年8月)


愛称「マンモス」(EH10形電気機関車)

EH10形は国鉄の直流電気機関車であり、東海道本線および山陽本線において貨物列車の牽引用として使用されました。

 

横から見たEH10-61(2019年5月)

 

国鉄史上最大級の電気機関車であることから「マンモス」という愛称で親しまれました。

 

東淡路南公園に保存されるEH10-61(2019年5月)

 

1955年(昭和30年)の東海道本線米原電化に際し、関ヶ原における10パーミルの勾配区間において、1200トンになる貨物列車を牽引するには従来のEF15形では不可能であると判断されました。そこで、それに取って代わる高出力の電気機関車として登場したのがEH10形でした。その第1号車は1954年(昭和29年)に登場し、それ以降東海道本線の貨物列車牽引の主力機関車として活躍しました。

 

接近して見たEH10-61(2019年5月)

 

EH10形は1957年(昭和32年)までに64両が製作されました。しかしその後、時代の流れとともに老朽化が進み、後進のEH60形、EH65形に取って代わられるようになりました。

 

東淡路南公園に保存されるEH10-61(2019年5月)

 

EH10形のうち最後の車体となったEH10-61は、大阪市東淀川区にある東淡路南公園内に静態保存されています。

 

東淡路南公園に保存されるEH10-61(2019年5月)

 

しかしながら、EH10-61は完全に金網フェンスで保護されていますので、撮影はとても難しい状況です。

 

東淡路南公園に保存されるEH10-61(2019年5月)

 

東淡路南公園には、阪急淡路駅やJR淡路駅から徒歩7分ほどで到着します。

 

EH1061号機の経歴(2019年5月)