甲武鉄道の歴史と中央線を走る列車

1.中央本線の呼称 2.中央線快速 Θ中野駅と高円寺駅Θ 3.甲武鉄道の歴史 4.飯田町駅 Θ飯田橋駅と牛込駅Θ 5.武蔵境駅 6.八王子駅の歴史 7.辰野支線

 

甲武鉄道始点の地から線路跡を見る(2020年12月)


中央本線の呼称

中央本線東京(路線としての起点は神田)~塩尻~名古屋を結ぶ路線であり、このうち東京~塩尻間はJR東日本の管轄、塩尻~名古屋間はJR東海の管轄となっています。中央本線のうち、塩尻駅より東を「中央東線(ちゅうおうとうせん)」、塩尻駅より西を「中央西線(ちゅうおうさいせん)」と呼称することもあります。この名称は一時期、正式名称として使用されていたこともありますが、それは東西の両側から線路が延伸されてきたことに由来するものです。

 

新宿駅ホーム(2020年7月)

 

また、首都圏においては東京~高尾間を走るオレンジ色の列車を中央線快速、御茶ノ水~三鷹間を走る黄色の列車を中央・総武緩行線などと呼ぶこともあります。


中央線快速

中央線の快速はオレンジ色のラインが入った電車です。

 

中央線快速「東京行き」(2016年12月)

 

総武線の「黄色の電車」とこの「オレンジの電車」はいずれも中央線を走る電車でありながら、一部の駅では両色の電車を見ることができません。

 

八王子駅に到着する「オレンジの電車」(2021年2月)

 

「オレンジの電車」は東京~高尾間においては、通勤電車として快速および中央特快を運行しています。

 

新宿駅に停車する中央線快速(2020年3月)

 

東京~三鷹間は複々線となっており、この区間を快速として走る「オレンジの電車」は東京、神田、御茶ノ水、四ツ谷、新宿、中野と中野からの各駅に停車し、中央特快は東京、神田、御茶ノ水、四ツ谷、新宿、中野、三鷹、国分寺、立川と立川からの各駅に停車します。なお、快速の停車駅となっている中野以西の各駅のうち高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪については土曜および休日は停車しません。

 

中野駅と高円寺駅

 

中野駅は1889年(明治22年)、新宿~立川間の開通と同時に甲武鉄道の駅として開業しました。1906年(明治39年)には甲武鉄道の国有化によって官設鉄道の駅となりました。

 

中野駅駅名標(2020年6月)

 

高円寺駅は1922年(大正11年)に鉄道省の駅として開業し、1949年(昭和24年)の国鉄発足により国鉄の駅となりました。

 

高円寺駅駅名標(2020年7月)

 


甲武鉄道の歴史

1889年(明治22年)に甲武鉄道は新宿~立川間を開業させ、翌年には八王子駅まで延伸しています。1895年(明治28年)には、これを東へ延伸して新宿~飯田町(1999年廃止)間を完成させています。

 

飯田町駅跡地周辺地図(2020年12月)

 

さらに、飯田町(現在は廃止)~鍛冶町(現在の神田駅付近)間の延伸工事に着手しますが、すべてを完成することができずに、1904年(明治37年)に御茶ノ水駅までの区間のみの開業へと至りました。

 

御茶ノ水駅に到着する中央線快速(2020年8月)

 

この路線のうち、御茶ノ水~飯田町(現在は廃止)~中野間は1904年(明治37年)の時点ですでに電化されていましたが、これは路面電車以外では日本初となる電車運転ということになりました。その後、1906年(明治39年)には鉄道国有法の施行により甲武鉄道は国有化されてしまいます。

 

甲武鉄道始点の地に立つポスト(2020年12月)

 

甲武鉄道の「甲」は甲州(山梨)、「武」は武蔵(東京)を表しますが、まさに山梨と東京を結ぶために設立された鉄道会社です。当初は八王子駅から西へ線路を延ばして山梨県へ到達する予定でしたが、そこには険しい山があり線路の敷設は難しいと予想されたことに加えて、人口も少なく売上の面においても不透明な部分がありました。そこで、新宿からさらに都心部への延伸を目指して、1894年(明治27年)に牛込駅(現在は廃止)まで、翌年には飯田町駅(現在は廃止)まで線路を延ばすことに成功しました。

 

飯田町駅跡に残るレール(2020年12月)

 

その後、1912年(明治45年)には御茶ノ水駅から万世橋駅(現在は休止)まで線路が延伸されて、万世橋(現在は休止)~御茶ノ水~中野間で電車運転が開始されています。さらに、1919年(大正8年)になると、万世橋駅(現在は休止)から神田駅を経て東京駅へ至る高架線が完成し、東京駅中央線の電車が乗り入れることになりました。


飯田町駅

甲武鉄道の起点となった飯田町駅は1895年(明治28年)、現在の飯田橋駅の南側に設置された駅であり、当時は機関区や客車区が併設されていました。

 

甲武鉄道始点の地に掲示される当時の様子(2020年12月)

 

飯田橋駅と牛込駅

1894年(明治27年)当時、甲武鉄道は新宿~牛込間開通と同時に牛込駅を開業し、翌年には牛込駅から飯田町駅まで線路を延伸しています。1928年(昭和3年)になると、新宿~飯田町間において複々線化が実現しますが、これと同時に飯田町駅の近距離電車ホームと牛込駅を統合し、その中間に飯田橋駅が新設されました。現在の飯田橋駅は中央・総武緩行線の他、東京メトロ東西線・有楽町線・南北線、都営地下鉄大江戸線が乗り入れています。

 

東西線飯田橋駅駅名標(2020年6月)

大江戸線飯田橋駅駅名標(2020年6月)

 

JR飯田橋駅は2020年(平成2年)、ホームが約200メートルほど西側へ移設され、これと同時に西口駅舎がリニューアルオープンしました。

 

飯田橋駅西口駅舎(2020年12月)

 

これまでの飯田橋駅ホームは急カーブの上にあり、ホームに停車する電車とそのホームの隙間が大きくなっていて、きわめて危険なホームでした。これを解決するためのホーム移設となりました。

 

移設された飯田橋駅ホーム西端(2020年12月)

 

さて、飯田橋駅は飯田町駅と牛込駅を統合して新設されたものですが、今回リニューアルされた西口駅舎付近にはかつての牛込駅があったことから、一部の人々の間では「牛込駅の復活」ともいわれています。

 

飯田駅西口駅舎付近の地図(2020年12月)

 

また、飯田橋駅西口を出てすぐの場所には、江戸城外郭門の一つであった牛込見附の一部となる遺構があります。江戸城外郭門は外敵の侵入を発見し、それを防ぐために「見附」とよび、2つの門を直角に配した桝形門となっていました。

 

牛込門の遺構(2020年12月)

 

ここに残る石垣は外堀が完成した1636年(寛永13年)に建設されたものであり、石垣の一部にはこれを建設した蜂須賀忠英(阿波徳島藩主)を示す「松平阿波守」と刻まれたものが発見されています。1902年(明治35年)には石垣の大部分が撤去されてしまいますが、ここに残る石垣から当時の様子がうかがえます。

 

飯田橋駅(2020年12月)

 

大正時代に入ると周辺には冷蔵倉庫が建設されるようになり、飯田町駅は貨物ターミナルとして大きな役割を担うようになります。終戦後には荷物および貨物専用ヤードが設けられた他、1971年(昭和46年)には飯田町紙流通センターが完成し、飯田町駅は大いに栄えて、昭和時代から平成時代にかけての東京の印刷業・出版業を支えました。しかしながら、世の中の流れとともに物流はトラックへの移行していき、鉄道の貨物輸送の地位は低下して1999年(平成11年)に飯田町駅は廃止となってしまいました。

 

甲武鉄道始点の地に立つポスト(2020年12月)

 

その後、飯田町駅の跡地にはJR貨物の本社が置かれましたが、2011年(平成23年)には新宿へと移転してしまいました。現在では、貨物ターミナルの跡地は再開発されて商業施設が立ち並び、昼休みの時間帯には近隣で働く人々の多くがランチタイムを過ごしています。

 

飯田町駅跡地の現在の様子(2020年12月)

 

その光景からはかつて首都圏の流通を支えた貨物ターミナルの様子をうかがい知ることはできませんが、人々が休憩する歩道のベンチの足元には当時使用されていたレールが残されています。

 

飯田町駅跡に残るレール(2020年12月)


武蔵境駅

武蔵境駅は1889年(明治22年)、甲武鉄道が新宿~立川間を開通させた際、「境駅」として開業しました。1917年(大正6年)になると、多摩鉄道(現在の西武鉄道多摩川線)が開業して乗換駅となりました。

 

武蔵境駅(2020年12月)

 

1919年(大正8年)には、当時3つあった「境駅」(現在の武蔵境駅、境港駅、羽後境駅)という駅名の重複を避けるため「武蔵境駅」と改称しました。

 

武蔵境駅駅名標(2020年12月)


八王子駅の歴史

八王子町は1917年(大正6年)に八王子市となり、多摩地区では初めての、全国では66番目の市となりました。「八王子」の名は全国に数多くありますが、その名は午頭天王(ごずてんのう)と8人の王子を祀る信仰に由来します。この信仰が広がって八王子神社や八王子権現社が建立され、地名として定着していったとされます。

 

八王子駅とその周辺(2021年2月)

 

八王子市では八王子城にある八王子神社がその由来となります。また、八王子市はかつて養蚕業や絹織物の生産が盛んであり、桑の葉が蚕の主食であったことから「桑都(そうと)」との異名をもちます。昭和時代に作られた「八王子市歌」(作詞:北原白秋・作曲:山田耕筰)にも「桑の都」のフレーズがあります。

 

黎明 響高く
桑の都 風は光れり
八王子 旺んなり機業
新興の意気に起つべし
八王子(八王子)
古るき我が土
奮へ(いよよ)
多摩のますらを

 

八王子駅(2021年2月)

 

さらに古くは、平安時代の歌人である西行法師は「浅川を渡りて見れば富士の根の 桑の都に青嵐ふく」と詠んでいます。

 

八王子駅(2020年10月)

 

現在の八王子駅には中央線(中央本線)・横浜線・八高線が乗り入れる他、徒歩5分ほどの場所には京王八王子駅があります。

 

八王子駅(八高線)駅名標(2020年10月)

 

八王子駅はもともと、1889年(明治22年)に甲武鉄道の終着駅として開業し、東京都八王子合同庁舎付近にありました。当時は八王子~新宿間を約1時間15分ほどで運行していたといいます。

 

八王子駅に到着する特急かいじ(2020年10月)

 

その後、1901年(明治34年)に官設鉄道が上野原駅(山梨県)まで延伸された際、これとの接続をはかるために甲武鉄道八王子駅は、現在の八王子駅の場所より西へ150メートルほどの場所へと移転し、官設鉄道と甲武鉄道の共同駅となりました。1906年(明治39年)になると、甲武鉄道は国有化されて中央線(中央本線)へと統合されました。

 

八王子駅に停車する中央線の車両(2020年10月)

 

さらに、1908年(明治41年)には横浜鉄道の八王子~東神奈川間(現在の横浜線)が開通し、八王子駅へと乗り入れることになりました。

 

八王子駅に停車する横浜線の車両(2020年10月)

 

1931年(昭和6年)には八高線の八王子~東飯能間が開通し、八高線も八王子駅へと乗り入れることになり、1937年(昭和12年)には現在地に移転することになりました。

 

八王子駅に停車する横浜線の車両(2020年10月)


辰野支線

中央本線の総延長距離は辰野支線(塩尻~辰野~岡谷間)を含めて422.6キロにもなります。中央東線ではかつて、東京方面からやって来た列車は上諏訪駅、下諏訪駅と過ぎて岡谷駅を出発すると少し南下し、辰野駅へと向かいました。辰野駅からは北へ向かい、塩尻駅へと到着するルートになっていました。通称「大八(だいはち)廻り」とよばれるルート(辰野支線1983年(昭和58年)にみどり湖駅を経由する現在のルートに変更され、大幅な時間短縮となりました。

 

辰野支線路線図

大八廻り」の呼称は地元出身の政治家・伊藤大八に由来します。中央本線を敷設するにあたり、当時の鉄道局長となった伊藤大八は辰野経由のルートへの変更に成功したそうです。中央本線の首都圏および中京圏近郊では通勤客や通学客が多くなっていますが、その一方で観光客も多くなっています。たとえば、夏になると中央本線と篠ノ井線や大糸線、富士急行線を利用する登山客もかなり多くなります。かつてはこうした登山客のために夜行列車を運行していたこともあります。


市ヶ谷駅

市ヶ谷駅(2020年12月)


大久保駅

大久保駅(2020年7月)


西八王子駅

西八王子駅(2020年10月)