山陽鉄道の歴史と山陽本線沿線の風景

1.明石海峡大橋とその周辺の施設 2.舞子駅と垂水駅 3.山陽鉄道の設立と山陽本線の歴史 Θ下関駅Θ 4.明石市と明石駅

 

明石海峡大橋(2017年8月)


明石海峡大橋とその周辺の施設

明石海峡大橋は神戸市と淡路市を結ぶ「世界最長の吊り橋」であり、その長さは3,911メートルとなっています。

 

明石海峡大橋(2017年8月)

 

1998年(平成10年)にその営業を開始しています。

 

明石海峡大橋(2017年8月)

 

神戸市側にはその添加施設として舞子海上プロムナードが開設されています。舞子海上プロムナードとは明石海峡へと突出した総延長約317メートルとなる回遊式遊歩道です。

 

明石海峡大橋(2017年8月)

 

遊歩道の海面からの高さは約47メートルとなっています。

 

明石海峡大橋(2017年8月)

 

明石海峡大橋の神戸市側の袂には橋の科学館があります。

 

橋の科学館(2017年8月)

 

橋の科学館には、明石海峡ができるまでの様子や橋の保全技術、その他橋に関するさまざまな知識が展示されています。

 

橋の科学館入場券(2017年8月)

 

旧武藤山治(むとうさんじ)邸(旧鐘紡舞子倶楽部)は1907年(明治40年)、衆議院議員であった武藤山治が舞子海岸に建築した住宅です。武藤山治は「鐘紡の中興の祖」と称されますが、武藤山治の死後、この建築物は鐘淵紡績によってその従業員の厚生施設(鐘紡舞子倶楽部)として利用されてきました。

 

舞子公園に建つ旧武藤山治邸(2017年8月)

 

明石海峡大橋建設時には道路拡幅工事のため、1995年(平成7年)に和館が取り壊され、洋館は神戸市垂水区へと移築されました。その後、兵庫県は2007年(平成19年)、カネボウよりこの建築物および調度品など譲り受け、舞子公園へこれを移築・修復して復活させています。この建築物は2011年(平成23年)に国の登録有形文化財となっています。

 

舞子公園に建つ旧武藤山治邸(2017年8月)

 

移情閣は1915年(大正4年)に神戸の貿易商である呉錦堂が建築した別荘です。1984年(昭和59年)に孫中山記念館として一般公開されることになりますが、これはかつてこの地を訪れたことのある孫文に由来し、これに関する資料を展示しています。1993年(平成5年)には県指定重要文化財となり、2001年(平成13年)には国指定重要文化財となっています。

 

八角堂がそのシンボルとなる移情閣(2017年8月)


舞子駅と垂水駅

明石海峡大橋へのアクセスには、JR神戸線(山陽本線)舞子駅または山陽電気鉄道(山陽電車)の舞子公園駅が最寄りとなります。JRの舞子駅は1896年(明治29年)、山陽鉄道時代舞子公園仮停車場として誕生しています。当時は東隣りの垂水駅が「舞子駅」と称していました。当時の舞子駅は1888年(明治21年)に垂水駅として開業しますが、翌年に「舞子駅」と改称していました。

 

舞子公園から舞子駅ホームを見る(2017年8月)

 

その後、1899年(明治32年)には再度垂水駅に戻っていますが、同年に舞子公園仮停車場は「舞子仮停車場」と改称しています。1906年(明治39年)に山陽鉄道は国有化されますが、同時に舞子駅仮停車場は「舞子駅」に昇格しています。

 

舞子公園から舞子駅ホームを見る(2017年8月)

 

舞子駅と垂水駅の駅名変遷をまとめると、次のようになります。

〔舞子駅の歴史〕舞子公園仮停車場(明治29年)→舞子仮停車場(明治32年)→舞子駅(明治39年)
〔垂水駅の歴史〕垂水駅(明治21年)→舞子駅(明治22年)→垂水駅(明治32年)

 

舞子公園から舞子駅ホームを見る(2017年8月)

 

現在の舞子公園一帯は古くから「舞子の濱」とよばれ、白砂青松淡路島を望むことができる風光明媚な景色は多くの詩歌に詠まれ親しまれてきました。江戸時代には「東海道五十三次」を描いた安藤広重が、舞子浜の美しい海岸の風景を描いています。また、志賀直哉も『暗夜行路』の一節で舞子浜の様子を描写しています。

 

舞子公園の横を走る普通列車(2017年8月)

 

その後「須磨から明石は松原づたい」ともいわれた松林は、時代の流れとともに取り払われ、砂浜も削り取られてしまいました。今では舞子公園の松林が少しばかりのその面影を残すだけとなりました。

 

舞子公園に立つ松林の案内板(2017年8月)


山陽鉄道の設立と山陽本線の歴史

山陽本線は、神戸~門司間を結ぶ534.4キロに渡る長い路線です。東海道本線大阪神戸間および山陽本線の神戸姫路間については、1988年(昭和63年)より「JR神戸線」という愛称を付けています。神戸駅東海道本線と山陽本線の区切りとなる駅ですが、運行系統上はこの駅を始発駅および終着駅とする列車はほとんどなく、東海道本線と山陽本線において直通運転が行われています。

山陽本線は、山陽鉄道が1888年(明治21年)に兵庫~明石間を開通させたことがそのはじまりとなります。その後すぐに、明石姫路間を延伸開業し、1889年(明治22年)には兵庫~神戸間を開通させて東海道本線との接続が成りました。

 

京都鉄道博物館の展示(2019年1月)

 

さらに順次西へ延伸していき、1891年(明治24年)には岡山、1892年(明治25年)には三原(現在の糸崎駅)、1894年(明治27年)には広島、1897年(明治30年)には徳山、1898年(明治31年)には三田尻(現在の防府駅)、1900年(明治33年)には厚狭、1901年(明治34年)には馬関(後の下関駅)まで延伸されて山陽鉄道は全通となります。

 

下関駅

山陽鉄道の終点となる馬関駅は後に「下関駅」を名乗ることになりますが、このときの「下関駅」は現在の下関駅の場所とは異なります。1901年(明治34年)に開業した馬関駅と、関門海峡を挟んで対岸にある九州鉄道の門司駅の間に、山陽鉄道は関門連絡線を就航させました。さらに、馬関駅前には日本最初のステーションホテルを開業させるなど馬関駅は大いに繁栄しました。ところが、1942年(昭和17年)になると関門海底トンネルを旅客列車が走ることになり、すでに「下関駅」と改称していた馬関駅は、現在の下関駅の場所に移転を余儀なくされました。

 

山陽鉄道の新しいサービスとしては、1898年(明治31年)からお座敷客車や食堂車、寝台車など新たな車両を次々と投入し、1902年(明治35年)にはステーションホテルの経営に着手しています。また、先に関西鉄道が導入していた手荷物運搬サービスについて、山陽鉄道がこれに本格的に取り組み「赤帽制度」として確立しています。その他にも、急行列車の運転をはじめたり、列車ボーイを導入したりしています。その積極的な経営手法は、数々の日本で初めての鉄道サービスを実現したといいます。明治時代に実現したこうした鉄道サービスは、現代の鉄道でも活かされています。その後、1906年(明治39年)に国有化されることになり、山陽鉄道から「山陽線」そして「山陽本線」へと名称を変更しています。


明石市と明石駅

兵庫県明石市は瀬戸内海に面するまちであり、陸上交通においては阪神と播磨を結ぶ拠点となり、海上交通においては淡路島を経由して四国へ至る玄関口となってきました。現在では、淡路島との間の明石海峡には明石海峡大橋が架けられています。

 

明石海峡大橋(2017年8月)

 

瀬戸内海に面する明石市は豊かな漁場をもち、なかでも明石だこは全国的にもよく知られ、たこ焼きのルーツともいわれる玉子焼(明石焼)の専門店も数多くあります。また、明石市立天文科学館は東経135度日本標準時上にある科学館であり、国の登録有形文化財として明石市のシンボルとなっています。明石駅はその明石市の玄関口となる駅であり、山陽電気鉄道山陽明石駅とも隣接しています。1888年(明治21年)に山陽鉄道の兵庫~明石間が開通する際に開業しています。

 

明石城の坤櫓(2017年8月)

 

明石城跡を整備した明石駅前の兵庫県立明石公園には中部幾次郎(なかべいくじろう)翁銅像が立ちます。中部幾次郎は大洋漁業の創業者であり、明石の水産・公共・公益のために尽くしたその功績がたたえられ、明石市が銅像を立てたものです。

 

中部幾次郎翁銅像(2017年8月)

 

中部幾次郎は1866年(慶応2年)、明石市東魚町(現本町)に生まれました。幼少の頃から父の鮮魚運搬卸業を手伝い、地方の一個人商店にすぎなかった林兼商店を日本有数の水産会社に育てあげました。中部幾次郎は故郷を愛する気持ちが深く、明石中学校(現県立明石高校)の建設にあたり、経費の半額を寄付したり、市水産会長を務めるなど明石市の発展に尽くし、また、朝鮮の方魚津尋常高等小学校や明石女学校、農林水産講習所、釜山高等水産学校の建設にも尽力しました。1946年(昭和21年)には貴族院議員に勅選されましたが、同年81歳で没し、浜光明寺に葬られました。

 

(左)坤櫓と(右)巽櫓(2017年8月)

 

明石城は旧名を「鶴の城」といいますが、後に荻生徂徠の門人である片山兼山が「喜春城」と命名しています。現在では日本の百名城(日本城郭協会)の一つにも数えられます。1619年(元和5年)に初代明石藩主となる小笠原忠政(後の小笠原忠真)が、2代将軍の徳川秀忠に命じられて西国監視のために築城したものです。このとき、江戸幕府の援助と岳父となる姫路城主の本多美濃守忠政の協力を得て完成させています。明石城内に現存する2つの三重櫓となる坤櫓(ひつじさるやぐら)と巽櫓は国の重要文化財に指定されています。坤櫓は明石城において最大規模となる三重櫓であり、これは伏見城より移築されたと伝わります。1982年(昭和57年)の大改修では、その構造上から見ると他から移築されたものであることが明らかになっています。

 

坤櫓(2017年8月)

 

天守が築かれなかった明石城においては、この坤櫓が天守代用とされました。坤櫓の大きさは10.94メートル×9.15メートルであり、その高さは13.28メートルとなっています。

 

坤櫓(2017年8月)

 

天守台の大きさは約152坪の広さとなっており、熊本城天守と同規模になります。なぜ、天守が築かれなかったのかは不明です。

 

天守台(2017年8月)

 

巽櫓は坤櫓より一回り小さくなっていますが、本丸南東隅に築かれた三重櫓です。櫓の大きさは9.03メートル×7.88メートルであり、その高さは12.53メートルとなっています。

 

巽櫓(2017年8月)

 

巽櫓は船上城から移築されたといわれていますが、その天守であった可能性もあるそうです。しかしながら、当時の巽櫓は寛永年間に焼失したため、現存する櫓は後に再建されたものです。

 

巽櫓(2017年8月)

 

1585年(天正13年)に高山右近は豊臣秀吉に命じられて船上城および城下町を整備しました。明石川をはさんで明石城の西方向にある当時の船上城には、明石海峡を往来する船がその整備された港に入りました。また、船上城の北側には陸上交通の大動脈となる山陽道が走っていたため、水陸交通の要衝として重要視されていました。現在では、その城跡は船上西公園となっています。

 

艮櫓跡(2017年8月)

 

艮櫓(うしとらやぐら)跡となっている場所は本丸北東隅となりますが、かつて三重櫓が建っていました。その大きさは約9.1メートル四方の広さをもち、約11.4メートルの高さをもっていたといいます。明石城にははじめから天守がなく、本丸の四隅に三層の隅櫓が配置されていました。中でも北東の隅にあった艮櫓は、本丸の鬼門にあたるとして重要視されていました。しかし、明治時代に学校建築用材として解体されてしまいました。

 

艮櫓跡(2017年8月)

 

明石城主となる小笠原家に伝わる「清流話」というものには、初代城主である小笠原忠政(後の小笠原忠真)の命を受けた宮本武蔵が樹木屋敷を造ったという記録があります。

 

武蔵の庭園入口(2017年8月)

 

樹木屋敷は、御茶屋、鞠の懸り(まりのかかり)、築山、泉水、滝などを設けた城主の遊興所のことであり、それらの建物の総称です。現在の武蔵の庭園にある御茶屋は木造入母屋造、一部は寄棟造となっています。御茶屋は藩主が客を接待するための迎賓館のような役割を果たしていたと考えられています。

 

御茶屋(2017年8月)