南海鉄道の設立と阪和線・南海電気鉄道の歴史

1.南海ホークスと大阪球場跡地 2.難波駅(表記「なんば駅」) Θ阪堺鉄道の設立Θ 3.南海鉄道の設立と阪和線 4.新しい「南海電気鉄道」へ 5.空港特急「ラピート」 6.特急「サザン」 7.七道駅と堺鉄砲町赤レンガ館

 

背番号71/杉浦忠監督(2017年1月)


南海ホークスと大阪球場跡地

大阪といえば阪神タイガースを想起される人も多いですが、関西地方にはかつて、南海ホークス阪急ブレーブス近鉄バファローズという人気のある球団がありました。阪神タイガースの本拠地はもちろん甲子園球場なので実際には大阪府というよりも兵庫県ということになりますが、南海ホークス近鉄バファローズの本拠地は大阪府にありました。南海ホークスの本拠地であった大阪球場は1998年(平成10年)に取り壊され、現在ではなんばパークスという複合施設に生まれ変わっています。

 

大阪球場ホームベース跡(2017年1月)

 

商業施設の合間の2階部分には、かつてのホームベースとピッチャーズプレートの跡が残されています。

 

大阪球場ピッチャーズプレート跡(2017年1月)

 

この大阪球場ができたころに祀られたのが、大阪球場のすぐ近く、すなわち南海難波駅付近の高架下にある葵稲荷神社です。江戸時代にはこの辺りに幕府の米蔵があったといいます。この辺りにあった米蔵は難波米蔵とよばれ、1732年(享保17年)に飢饉にあたって設置されました。東西126メートル、南北324メートルの敷地内に米蔵が8棟置かれており、災害時のための米貯蔵の役割を担っていました。1733年(享保18年)には米蔵への水運の向上をはかるため、道頓堀湊町付近から難波新川が引かれています。しかし、この川は1958年(昭和33年)に埋められてしまいました。

 

葵稲荷神社(2017年1月)

また、葵稲荷神社のすぐそばには「なんばの福がえる」が設置されています。「なんばの福がえる」をさわると「福となす」といわれています。

 

「なんばの福がえる」(2017年1月)

 

大阪球場跡地となる「なんばパークス」には商業施設の他、「人、都市、自然がもっと一つになるために」というコンセプトのもと、多くの緑が配されています。その緑の合間には、大阪に関わった著名人の手形の碑が数多く設置されていますが、かつての南海ホークスの名選手の手形もあります。門田博光選手は1969年(昭和44年)にドラフト2位で入団し、1971年(昭和46年)には31本塁打を放ち、120打点で打点王となっています。本塁打王は3回、打点王は2回受賞しています。

 

門田博光選手(2017年1月)

 

岡本伊三美選手は1949年(昭和24年)にテスト生として入団し、1951年(昭和26年)のシーズン後半に二塁手として先発出場を果たしています。1952年(昭和27年)の中盤以降、二塁手としての定位置を獲得し、初のベストナインに選出されています。1953年(昭和28年)に首位打者を獲得し、ベストナインには5回選出されています。

 

岡本伊三美選手(2017年1月)

 

広瀬叔功選手は1955年(昭和30年)に投手として入団をしますが、怪我のため野手へと転向します。1956年(昭和31年)には初めての先発出場を果たし、4打数4安打を記録しています。1964年(昭和39年)には首位打者を獲得した他、盗塁王は5回受賞しています。

 

広瀬叔功選手(2017年1月)

 

また、南海ホークスに関係する記念グッズや写真なども展示されています。杉浦忠監督は現役時代投手として活躍し、1986年(昭和61年)~1988年(昭和63年)には南海ホークスの監督を務め、6位、4位、5位の結果でした。そのときの背番号は71でした。

 

背番号71/杉浦忠監督(2017年1月)


難波駅(表記「なんば駅」)

なんばパークスからは大阪の街並みが一望できます。南海電気鉄道の線路はそのすぐ横にあり、難波駅を起点として大阪南部へと足を延ばしています。

 

なんばパークスから見た南海電気鉄道の線路(2017年1月)

 

難波駅から鉄道が走り出したのは1885年(明治18年)のことでした。そして、開業2年目を迎えた1887年(明治20年)には、官鉄の梅田駅(現在の大阪駅)の乗降客数を凌いだといいます。そのころの会社名は「南海電気鉄道」ではなく「阪堺鉄道」といいました。その時代には、日本の鉄道は官鉄による東京・京阪神・札幌および金沢~長浜間と、日本鉄道による上野~高崎間しか運行されていませんでした。

 

阪堺鉄道の設立

南海電気鉄道のはじまりは1884年(明治17年)、その前身である阪堺鉄道の設立が認可されたときに遡ります。現存する民鉄ではわが国最古の鉄道会社となります。「民鉄」とは「国鉄」に対立する用語であり、民間が運営する鉄道を意味します。現在では一般的に私鉄とよばれています。

 

南海電気鉄道の空港特急「ラピート」(2017年1月)

 

藤田伝三郎は現在の山口県萩市出身であり、豪商の子として生まれた後、藤田財閥、藤田組の創始者となりました。1882年(明治15年)には大阪堺間鉄道(後の​阪堺鉄道​)の発起人・創立委員となっています。その後、​山陽鉄道​、宇治川電気(後の関西電力)、北浜銀行(後の三和銀行)などの創設に携わりました。

 

南海電気鉄道の前身となる阪堺鉄道がその路線を初めて敷設したのは1885年(明治18年)ですが、会社として南海電気鉄道が設立されたのは1925年(大正14年)となります。したがって、わが国最古の鉄道会社というのは路線敷設を基準として考えたものです。一方、会社設立という面から見ると、1897年(明治30年)に創立された東武鉄道がわが国で最も古い鉄道会社であり、東武鉄道は創立以来その社名を変更していない鉄道会社のうちの一つです。近江鉄道島原鉄道も創立以来、その社名を変更していません。島原鉄道は1908年(明治41年)に設立された鉄道会社であり、現在では島原鉄道線(諫早~島原外港)を運行しています。新橋横浜間において、日本で最初に走った「1号機関車」は1911年(明治44年)に島原鉄道へ払い下げられ、引退するまで島原鉄道で最後の活躍をしました。

 

また、これらの鉄道会社に先立って、日本鉄道が1881年(明治14年)に設立されていますが、この鉄道会社は1906年(明治39年)に国有化され、すでに現存しません。日本鉄道は形式的には民鉄という形でしたが、実際の路線敷設には明治政府が大きく関与しており、事実上は官設鉄道といってもよいものです。したがって、純粋な民間企業による日本初の蒸気鉄道会社と考えると、この阪堺鉄道ということになります。ただし、ここで取り上げている阪堺鉄道は現在、大阪市および堺市において路面電車を運行している阪堺電気軌道とは異なります。

 

ここでいう阪堺鉄道ではない「阪堺電車」(2017年10月)

 

ここでいう阪堺鉄道は1885年(明治18年)に難波~大和川間を開通させ、初めて小型SLを運行します。小型というのはその軌間が変則的であり838ミリしかない軽便鉄道でした。その後、1888年(明治21年)には堺(吾妻橋)まで延伸しています。

 

創業当時の難波駅は「難波停車場(ステーション)」と命名され、それ以来「ミナミ」の玄関口として栄え、大阪南部から和歌山県へかけての鉄道網の起点であり続けてきました。現在、難波駅については駅構内および車内の案内表示は読み間違えのないように「なんば駅」としています。


南海鉄道の設立と阪和線

一方で、堺と和歌山を結ぶ鉄道として、1889年(明治22年)に紀泉鉄道が計画され、1891年(明治24年)には紀阪鉄道が設立されたので、2社は調整を受けて合併して紀摂鉄道となった後、南陽鉄道となっています。これは1895年(明治28年)には南海鉄道となります。南海鉄道は1897年(明治30年)に堺~佐野(現在の泉佐野)間を開通させ、続けて佐野~尾崎間を延伸開業しています。この南海鉄道は1898年(明治31年)に阪堺鉄道の事業譲渡を受けて、1903年(明治36年)に難波~和歌山市間を全通させました。1907年(明治40年)には、難波~浜寺公園間において電車運転を開始し、1911年(明治44年)には現在の南海本線全線を電化しています。

また、高野山への鉄道については、1925年(大正14年)に高野山電気鉄道が設立され、その後、高野下~極楽橋間、ケーブル線の極楽橋~高野山間が全通し、1932年(昭和7年)に南海鉄道との相互乗り入れが行われるようになり、現在の高野線へとつながっていきます。

南海鉄道と高野山電気鉄道の相互乗り入れに先立って、1930年(昭和5年)に阪和電気鉄道(現在の阪和線)が開通しています。阪和電気鉄道は1926年(大正14年)に設立された鉄道会社であり、現在の阪和線を建設しています。1929年(昭和4年)に阪和天王寺(現在の天王寺)~和泉府中間および支線となる鳳~阪和浜寺(現在の東羽衣)間を開通し、翌1930年(昭和5年)には和泉府中~阪和東和歌山(現在の和歌山)間を開通させています。並行して走る南海鉄道に対して、阪和電気鉄道は1933年(昭和8年)に阪和天王寺~阪和東和歌山間を結ぶ特急の所要時間を48分から45分へと短縮し、ノンストップ特急の列車種別を「超特急」と名付けています。

 

阪和線内を走る紀州路快速(2019年7月)

 

これに対して、南海鉄道は1936年(昭和11年)、車両に冷房装置を取り付けるというリニューアル工事を行い、翌年までに8両の冷房車を投入しています。当時は冷房車を走らせている鉄道会社はなく、後に冷房車が一般的に普及するのが昭和40年代になってからであることを考えると、当時の冷房車がいかに先進的であったかということがわかります。阪和電気鉄道と南海鉄道との激しい競争において経営難となり、鉄道省などのすすめにより、1940年(昭和15年)に南海鉄道と合併することになります。

 

阪和線内を走る紀州路快速(2019年7月)

 

合併により、阪和電気鉄道の路線は「南海鉄道山手(やまのて)線」となります。その後、戦局の悪化などにより、国は民鉄に対して強制買収を決定し、阪和電気鉄道の路線であった南海鉄道山手線については1944年(昭和19年)に国有化を実施して「阪和線」としました。


新しい「南海電気鉄道」へ

戦局がますます厳しくなる中、南海鉄道については1944年(昭和19年)に関西急行鉄道と合併され、近畿日本鉄道が誕生しています。戦後1947年(昭和22年)になると、旧南海鉄道に所属していた路線について近畿日本鉄道からの分離が実施されます。近畿日本鉄道を誕生させた際に、これへの合流を免れていた高野下~極楽橋~高野山間を有する高野山電気鉄道を「南海電気鉄道」と改称し、これを母体として南海の再起が図られることとなりました。現在の南海本線南海高野線などの旧南海鉄道に所属した路線を南海電気鉄道へと事業譲渡し、近畿日本鉄道からの「南海」の分離が実現しました。

 

河内長野駅に到着する南海電車の車両(2016年10月)
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空港特急「ラピート」

ラピート」はなんば~関西空港間を結ぶ南海電気鉄道の空港特急です。「ラピート」という名称は公募により採用された列車名ですが、「速い」という意味のドイツ語です。1994年(平成6年)より営業運転を開始しています。

 

空港特急「ラピート」(2017年1月)

 

速達型の「ラピートα」はなんば、新今宮、天下茶屋、泉佐野、りんくうタウン、関西空港に停車します。停車型の「ラピートβ」はなんば、新今宮、天下茶屋、堺、岸和田、泉佐野、りんくうタウン、関西空港に停車します。

 

「ラピートβ」の側面(2017年1月)

 

レトロフューチャー」をそのデザインコンセプトとした「ラピート」の最大の特徴は外観フォルムにあり、先頭は特に斬新な形状をしています。また、側面の窓は航空機のイメージから生まれたという楕円型の窓になっています。


特急「サザン」

特急「サザン」は南海本線のなんば~和歌山市・和歌山港間を結ぶ特急列車です。停車駅はなんば、新今宮、天下茶屋、堺、岸和田、泉佐野、尾崎、みさき公園、和歌山大学前(ふじと台)、和歌山市、和歌山港です。

 

特急「サザン」(2020年6月)


七道駅と堺鉄砲町赤レンガ館

七道(しちどう)駅はの南海本線の駅であり、1917年(大正6年)に南海鉄道の駅として住ノ江駅~堺駅間に設置されました。その後、近畿日本鉄道の駅となり、現在は南海電気鉄道の駅となっています。

 

大和川を渡る空港特急「ラピート」(2018年12月)

 

ホームは高架駅となっており、駅の目の前にあるイオンモール堺鉄砲町とは歩道橋で接続しています。

 

大和川に架かる南海本線と阪神高速堺線(2018年12月)

 

堺鉄砲町赤レンガ館は1908年(明治41年)に堺セルロイド(現在のダイセル)の工場創設の際に茂庄五郎(しげしょうごろう)の設計により建設されたものです。

 

堺鉄砲町赤レンガ館(2018年12月)

 

茂庄五郎明治時代に関西で活躍した建築家であり、茂建築事務所を開設しています。当時「東洋のマンチェスター」とよばれた大阪のまちにおいて工場建築を多く手掛けたことで知られています。主な建築物としては、堺セルロイド会社工場の他、尼崎発電所茂庄五郎の作品と推測される)、尼崎紡績尼崎工場、日本紡績福島本社工場などがあります。セルロイドは象牙の代わりに用いられた化学素材の一つであり、世界で初めてのプラスチックです。ニトロセルロースと樟脳などから合成される合成樹脂です。加熱(90℃程度)により軟化し加工がしやすいことから、眼鏡のフレームやピンポン玉、人形、ペン軸などにも使用されました。堺セルロイドという会社はこのセルロイドの国産化に成功した会社です。

 

大和川を渡る空港特急「ラピート」(2018年12月)

 

堺鉄砲町赤レンガ館は日本の近代産業の歴史を伝える貴重な建造物ですが、ダイセル発祥の地となる堺工場が2008年(平成20年)に阪神高速大和川線の事業化により廃止となり、工場施設の解体・撤去が決定しました。

 

堺鉄砲町赤レンガ館(2018年12月)

 

しかしながら、地域住民や建築家の強い要望があり、セルロイドの国産化に奮闘した当時を偲ぶモニュメントとして保存することになりました。多くの赤レンガ工場群は整理されることになりましたが、現在ではイオンモール堺鉄砲町の敷地内に一棟のみ保存され、レストランとして営業しています。

 

堺鉄砲町赤レンガ館のレストラン(2018年12月)