旧長浜駅舎と長浜鉄道スクエア・北陸線電化記念館

1.長浜城 2.長浜駅の誕生と旧長浜駅舎 3.長浜鉄道スクエア 4.北陸線電化記念館 5.慶雲館

 

長浜鉄道スクエア(2017年8月)


長浜城

1573年(天正元年)、織田信長に攻撃された浅井(あざい)久政・長政父子は自害し、その城であった小谷(おだに)城には姉川合戦と小谷城攻めにおいて活躍した羽柴秀吉が入城することになります。1575年(天正3年)、羽柴秀吉は今浜(現在の長浜)への移城にともない、小谷城を廃城とします。小谷城の建物や城下町は今浜(現在の長浜)に移設され、羽柴秀吉は1576年(天正4年)に完成した城に入城します。このとき、今浜は「長浜」と改名されています。

 

長浜城(2017年11月)

 

羽柴秀吉が小谷城から琵琶湖岸へ本拠を移したのは、その舟運を重視したからだと考えられています。その後、羽柴秀吉は1582年(天正10年)までここに在城しましたが、本能寺の変で織田信長が亡くなった後、清須会議において長浜城は柴田勝家に譲渡されています。

 

長浜城(2017年8月)


長浜駅の誕生と旧長浜駅舎

長浜駅北陸本線米原金沢間)に所属していますが、「琵琶湖線」という愛称をもつ東海道本線京都米原間、北陸本線米原長浜間に該当しているので、京都大阪方面へ直通する多くの列車がこの駅を発着します。明治維新後の新政府は現在の東海道本線となる大動脈の敷設と、横浜神戸敦賀などの港へ連絡する鉄道の敷設を優先しようと考えていました。

 

野洲駅に入る京都方面行き普通(快速)列車(2017年7月)

 

そうした中、長浜駅敦賀港へ向かう路線上の駅として1880年(明治13年)にイギリス人技師の設計により着工しますが、実際の工事を担当したのは稲葉弥吉でした。稲葉弥吉はその後、さまざまな鉄道建設に携わり、1914年(大正3年)に設立された天理軽便鉄道の代表にもなっています。こうして長浜駅は1882年(明治15年)に開業しますが、1882年(明治15年)というと新橋横浜間に鉄道が初めて走ってから、まだ10年しか経っていない頃のことです。しかしながら、財政難に陥った新政府は鉄道敷設を中断し、長浜京都への連絡には琵琶湖の水運を利用することとしました。そのため、長浜駅のすぐ横には港が作られ、鉄道連絡船への乗換駅として誕生することになりました。乗客たちは長浜で鉄道から大湖汽船に乗り換えて大津まで行き、大津から再度鉄道に乗り換えて京都大阪へと向かいました。こうした状況は1889年(明治22年)、東海道本線の全通が達成されるまで続いています。

 

長浜駅に到着するの普通(快速)列車(2017年8月)

 

現在の長浜駅舎は2006年(平成18年)、敦賀駅までの直流化の際に完成し、初代駅舎のデザインを模したものですが、旧長浜駅舎は現存する駅舎としてはわが国最古の駅舎であり、現在では鉄道資料館として使用されています。東海道本線が全通した後、琵琶湖の鉄道連絡船が廃止され、長浜駅は鉄道連絡船への乗換駅としての役割を終えることになります。1903年(明治36年)には、駅舎も新たな場所に新築されることになり、旧長浜駅舎は放置されることになりました。しかし、1958年(昭和33年)になると、明治時代の西洋建築の面影をもつ旧長浜駅舎は国鉄の鉄道記念物に指定されることになります。

 

旧長浜駅舎(2017年8月)

 

コンクリートを使用して建設された駅舎は当時としてはとても珍しいものでした。木骨コンクリート造りとなる建物の四隅には花崗岩を配し、窓枠や出入口およびそのトレードマークとなる2本の煙突には赤い煉瓦が使用されています。屋根は木造ですが、外壁はその厚みが50センチにもなるコンクリートの素面仕上げとなっています。駅舎の大きさは東西24.5メートル、南北9.7メートルです。


長浜鉄道スクエア

長浜市は旧長浜駅舎のような歴史的建造物の再生により、まちを活気づける努力を続けており、これを「黒壁プロジェクト」とよんでいます。北国(ほっこく)街道は、琵琶湖の北東岸を北上し、柳ヶ瀬、栃ノ木峠を経由して北ノ圧に通じる北陸と京阪神を結ぶ重要な街道でした。この街道の交差点に1900年(明治33年)、国立第百三十銀行長浜支店が開業しました。その黒漆喰の壁は別名「黒壁銀行」とよばれるに至ります。この黒壁銀行の建物は、1987年(昭和62年)に解体の危機に遭遇することになりますが、市民がこれを残すことを提案して黒壁ガラス館として再スタートを切ることになりました。

 

長浜鉄道スクエア入口(2017年8月)

 

それ以来、黒壁銀行を中心として、古民家を利用したレストランや展示場などが集まる黒壁スクエアが形成されるようになっていきます。旧長浜駅舎の建物を中心として、長浜鉄道文化館と北陸線電化記念館を併設して「長浜鉄道スクエア」と呼称して整備しています。2000年(平成12年)に開業した長浜鉄道スクエアは鉄道の文化を後世に伝える資料館であり、明治時代の鉄道黎明期から現在に至るまでの鉄道の歴史に触れることができます。

 

長浜鉄道スクエア内の旧駅舎の前庭には旧長浜駅「29号分岐器ポイント部」が保存展示されています。長浜駅開業以来、駅構内で約80年間、使われてきたのが「29号分岐器ポイント部」です。イギリスのキャンメル社から輸入され、本線に使われた後、計重台線(貨車の重さを測る設備)にと二度の務めを果たしました。ふつうポイントは痛みやすく長年使われることはありませんが、このポイントは酷使をまぬがれたため生き残り、ついには現存最古のポイントとなりました。

 

旧長浜駅29号分岐器ポイント部(2017年8月)

 

レールと枕木間の座金には、”KOBE 1881 I.G.R. MAKERS”の文字があり、鉄道局神戸工場製を示しています。鉄道用品は輸入に頼る時代でしたが、はやくも先人たちはこのような単純なものから国産化を進め、外国依存から抜け出そうとしていたのです。旧長浜駅舎とともに、このポイントは日本の鉄道創業期を語る貴重な文化遺産といえます。

 

北陸本線のトンネルに使用されていた石額も前庭に多数展示されています。これらの石額は北陸本線が新線に切り替えられた際に使われなくなった石額です。このうち、「大亨貞(だいきょうてい)」は子不知トンネル(新潟県糸魚川市)にあった石額であり、後藤新平による題字です。

 

大亨貞(2017年8月)

 

徳垂後裔(とくすいこうえい)」は山中トンネル(福井県今庄町)の山中信号揚口にあった石額であり、黒田清隆による題字です。

 

徳垂後裔(2017年8月)

 

功加干時(こうかうじ)」は山中トンネル(福井県敦賀市)の杉津口にあった石額であり、黒田清隆による題字です。

 

功加干時(2017年8月)

 

與國咸休(よこくかんきゅう)」は葉原トンネル(福井県敦賀市)の敦賀口にあった石額であり、黒田清隆による題字です。

 

與國咸休(2017年8月)

 

永世無窮(えいせいむきゅう)」は葉原トンネル(福井県敦賀市)の北口にあった石額であり、黒田清隆による題字です。

 

永世無窮(2017年8月)

 

萬世永頼(ばんせいえいらい)」は柳ヶ瀬トンネル東口(滋賀県余呉町)にあった石額であり、伊藤博文による題字です。

 

萬世永頼(2017年8月)

柳ヶ瀬トンネル(2017年8月)


北陸線電化記念館

旧長浜駅舎に隣接する北陸線電化記念館には、D51形蒸気機関車とED70形交流電気機関車1号機が保存展示されています。

 

D51形蒸気機関車(2017年8月)

 

D51形は蒸気機関車の中では最も多く作られたものであり、1,115両を数えます。北陸線の他、日本各地で運転されました。

 

D51形蒸気機関車(2017年8月)

 

ED70形交流電気機関車は交流電化区間で営業運転される車両であり、この1号機は北陸線の電化完成と同時に投入され、田村~敦賀間を走行しました。

 

ED70形交流電気機関車1号機(2017年8月)

 

蒸気機関車に比べると、運転がしやすくスピードも出たため、鉄道はより便利な時代へと入っていきました。そして、ED70形交流電気機関車日本初の本格的に量産された歴史的車両ともいえるものです。

 

ED70形交流電気機関車1号機(2017年8月)


慶雲館

旧長浜駅舎のすぐ前には慶雲館があります。1886年(明治19年)、明治天皇皇后両陛下が京都へ行幸されることとなり、その帰路に長浜に立ち寄られることが決まると、地元の豪商であった浅見又蔵は私財を投じて慶雲館の建設に着手しました。浅見又蔵はもとは、薬種商の三男として生まれましたが、後に浅見家の養子となりました。又蔵は、浜ちりめん製造業を営んできた浅見家を地元の豪商に育てあげ、鉄道敷設や銀行設立などに尽力しました。

 

表門(2017年8月)

 

慶雲館は、明治20年(1887年)2月21日、明治天皇・昭憲皇太后の御休憩所として、長浜の豪商・浅見又蔵氏が資材を投じて建設しました。命名は同行した初代内閣総理大臣・伊藤博文です。約6,000平米の広大な敷地内には、地元の宮大工平山久左衛門(屋号山久)により総檜造りの秀麗な本館や茶室などが整備され、以後も長浜の迎賓館として使われてきました。

明治45年に造営された庭園は京都の平安神宮神苑などを手がけ、近代日本庭園の先覚者と呼ばれた七代目小川治兵衛(屋号植治)によるもので、国の名勝に指定されています。主庭となる南庭は、地形に大きな起伏をつけた立体的な構造と巨石や大灯籠を用いた豪壮な意匠が特徴です。また、毎年一月十日から三月十日までの間、新春の風物詩「長浜盆梅展」の会場となり見事な枝振りの梅と純和風の建物、そして雪吊が施された庭園の美しさに多くの観光客が訪れます。

 

案内板(2017年8月)

 

表門を入ると右側に巨大な灯籠があり、その高さは約5メートル、重さは約20トンにもなるといいます。

 

大灯籠(2017年8月)

 

前庭を通って中門を抜けると、玄関前には格調高い玄関前庭があります。

 

中門(2017年8月)

玄関(2017年8月)

 

建物の2階には玉座があり、2階からは美しい本庭を見ることができます。

 

玉座がある2階建の建物(2017年8月)

2階から見た本庭(2017年8月)

 

庭園は1912年(明治45年)、2代目の又蔵により慶雲館25周年を記念して造営されました。

 

慶雲館の松尾芭蕉の句碑(2017年8月)