城東貨物線からおおさか東線へ

1.おおさか東線の開通 2.おおさか東線の車両 3.吹田駅と南吹田駅 4.与謝蕪村生誕の地と城北公園通駅 5.JR野江駅と野江駅 6.高井田中央駅

 

おおさか東線の普通列車201系(2019年3月)


おおさか東線の開通

大阪外環状鉄道は1996年(平成8年)に大阪府・大阪市・JR西日本などの出資により設立された第三セクター方式の鉄道会社であり、大阪市中央区に本社を置いています。おおさか東線では上下分離方式が採用され、大阪外環状鉄道が第三種鉄道事業者として路線を保有し、JR西日本にこれを貸し付けて、JR西日本が鉄道を運行する形としています。

 

201系の車内の様子(2019年2月)

 

おおさか東線は、城東貨物線の線路などを利用して新大阪駅と久宝寺駅を結ぶ路線であり、2008年(平成20年)に放出~久宝寺間(通称「南区間」)が開業しました。北区間とよばれる放出~新大阪間は2019年(平成31年)に完成し、将来的には新大阪駅からさらに延伸して北梅田駅/うめきた(大阪)地下駅(仮称)への乗り入れも想定されています。

 

ウグイス色の201系(2019年2月)

 

貨物線から旅客線への工事の内容は、単線であった城東貨物線の線路を複線とすること、新大阪駅におけるおおさか東線ホームを増築すること、新大阪駅へ入ることができるように城東貨物線の線路を延長すること、鴫野駅および放出駅において片町線(学研都市線)の移設をすることでした。

 

JR野江駅付近の城東貨物線の名残(2019年2月)

 

2016年(平成28年)に放出~新大阪間の新駅の概要が発表されていますが、北区間の駅舎のデザインコンセプトは「地域が刻んできた歴史と、暮らす人々のつながりを感じる駅」とされ、キーワードは「水都・水運の歴史、水辺の自然の豊かさ、人のつながり」となっています。

 

新大阪駅に停車する久宝寺行き(2019年3月)


おおさか東線の車両

おおさか東線の普通列車はウグイス色201系の車両が使用されていますが、2022年(令和4年)以降は221系への置き換えが予定されています。

 

放出駅で出発を待つ201系(2019年2月)

 

また、北区間開業と同時に新たに設定された直通快速では207系や321系が使用されます。

 

直通快速として利用される207系(2019年4月)


吹田駅と南吹田駅

「吹奏楽」はもちろん「すいそうがく」と読みますが、「吹田」も「すいた」と読みます。大阪の人であればこれを読めない人はいませんが、他の地域の方にとっては読むのが難しい場合もあるようです。なぜ「すいた」と読むかについては諸説あるということですが、一つにはかつてはこの周辺一帯が水田だったため「水田」を「すいた」と読ませたという説があります。「深田」とは沼田、泥の深い田の意味ですが、「ふかだ(た)」または「ふけた(だ)」と読みます。この辺りが深田であったため「深田(ふけた)」を「吹田(ふけた)」と充てて、後に「水田(すいた)」が転化し「吹田(すいた)」となったとする説もあります。その他にも数多くの説があるようです。

 

JR京都線の吹田駅ホームから京都方面を望む(2016年10月)
img_1808

 

吹田市の歴史は、1889年(明治22年)に島下郡(しましもぐん)吹田村として発足したことにはじまります。その頃、現在のアサヒビールの前身となる大阪麦酒が創業しています。現在でも吹田駅の目の前にはアサヒビール吹田工場があります。その後、1908年(明治41年)に三島郡吹田町となり、1923年(大正12年)には東洋一を誇った吹田操車場が操業を開始します。これより「ビールと操車場のまち」とよばれるようになりました。そして、1940年(昭和15年)には吹田市となっています。

 

JR京都線の吹田駅付近(2016年10月)
img_1809

 

アサヒビール吹田工場最寄りの吹田駅はJR京都線(東海道本線)の駅ですが、1876年(明治9年)に大阪~高槻間に開業しました。この吹田駅の京都寄りの隣りとなる岸辺駅との間には吹田貨物ターミナル駅があります。また、大阪寄りの隣りの駅は東淀川駅となりますが、位置的には吹田駅と東淀川駅の中間あたりに南吹田駅があります。

 

南吹田駅駅名標(2019年3月)

 

南吹田駅の南側には神崎川が流れますが、奈良方面からやって来て新大阪駅方面へ向かうおおさか東線の線路は神崎川を渡る手前で二股に分かれます。

 

南吹田駅ホームから見た神崎川橋梁(2019年3月)

 

右へ分岐して東海道本線京都方面行き)に沿って吹田貨物ターミナル駅へ向かう線路がかつての城東貨物線です。おおさか東線が開通した今でももちろん、貨物列車が行き交います。一方、左へ分岐して南吹田駅へ入り、さらに東海道本線大阪方面行き)と合流して新大阪駅へと向かうのがおおさか東線となります。この線路が神崎川を渡るために真新しい神崎川橋梁が架けられています。

 

南吹田駅ホームから見た神崎川橋梁(2019年3月)

 

南吹田駅はその仮称を西吹田駅(仮称)としていましたが、吹田市の最南端にあることから南吹田駅としました。南吹田駅のデザインコンセプトは「神崎川と水路の風景」です。

 

南吹田駅駅名標(2019年3月)

 

駅周辺は神崎川の水資源を生かした水田、くわいの栽培地であった地域の歴史・風土のあるまちであることから、神崎川・水路の風景を表現しています。

 

南吹田駅前交通広場(2019年3月)

 

くわいはその栽培品種が中国原産(野生種は東南アジア原産)となるオモダカ科の野菜であり、水田で栽培されます。

 

南吹田駅前交通広場(2019年3月)

 

初夏になると小さな白い花を咲かせます。

 

南吹田駅前交通広場(2019年3月)

 

くわいは「慈姑」と書きますが、その外観が鍬(くわ)に似ているところから鍬芋とよばれるようになったことから「くわい」というようになったという説があります。

 

南吹田駅駅舎(2019年3月)

 

かつてのこの周辺の地域は、神崎川の豊かな水資源を活かした水路がめぐり、水田には小さな白い花を咲かせていたといいます。

 

南吹田駅駅舎(2019年3月)

 

また、この地域で使われていた風車は羽根にドンゴロス(麻布)を張った風車でした。

 

駅前交通広場のドンゴロス風車(2019年3月)

 

風車は風を受けて揚水ポンプを動かし、水路から田へ水をくみ上げ、田園の営みを支えていました。この風車をドンゴロス風車とよんでいます。

 

駅前交通広場のドンゴロス風車(2019年3月)

 

南吹田駅の駅前交通広場にはドンゴロス風車が立ちます。

 

南吹田駅構内(2019年3月)


城北公園通駅と与謝蕪村生誕の地

城北公園淀川河川敷を利用して作られた公園であり、1934年(昭和9年)に開園しています。その面積は約9.5ヘクタールですが、当時の大阪市内では、中之島公園、天王寺公園、大阪城公園に次ぐ大公園でした。1964年(昭和39年)には菖蒲園が開園し、毎年5月~6月にかけて多くの人がこの菖蒲園に訪れます。

 

与謝蕪村生誕の地(2018年3月)

 

大阪市旭区にある城北公園の前を走る道が城北公園通です。豊崎4丁目(大阪市北区)から城北公園の前を通り、国道1号線の合流地点となる今市(大阪市旭区)までを結ぶ道です。この道沿いには鉄道駅がないため、守口車庫前~大阪駅前間を結ぶバス(大阪シティバス)が頻繁に行き交います。

 

大阪駅前バスターミナルに停車するバス車両(2016年10月)

 

おおさか東線の全線開業により鉄道駅がなかった場所に鉄道駅ができることになりました。

 

城北公園通駅駅名標(2018年3月)

 

開業前より大阪市旭区は、新駅の仮称となっていた「都島駅」という駅名に対して「城北公園通駅」とすることをJR西日本に対して求めていました。

 

城北公園通駅ホーム(2019年3月)

 

その理由としては「旭区にあるのになぜ都島なのか」「都島では1.6キロ離れた地下鉄都島駅や都島本通を連想させる」などの声があるからということです。

 

城北公園通駅行先表示板(2019年3月)

 

その後、2018年(平成30年)に、JR西日本はこの駅の名称を「城北公園通駅」とすることを決定しています。

 

城北公園通駅の近くに保存される古い市バス(2016年10月)img_1607

 

しかしながら、実際の城北公園は、城北公園通駅最寄りのバス停(赤川1丁目)から3つ先のバス停(城北公園前)前となってしまいます。

 

城北公園通駅の近くに保存される古い市バス(2016年10月)img_1608

 

2002年(平成14年)に新大阪~都島(仮称)間の工事が認可された後、工事に着手しました。城北公園通駅も完成へ向けて、工事は進んでいきました。以下は開業前の工事の様子です。

 

城北公園通駅付近の工事の様子(2018年2月)

城北公園通駅付近の工事の様子(2016年10月)
img_1326

img_1325

img_1324

img_1323

img_1327

img_1602

img_1604

img_1605

img_1599

 

城北公園通駅のデザインコンセプトは「淀川の渡し舟」とされ、新駅の位置する城北地域を含む旧淀川には多くの渡し場があり、水運とともに歩んできたことから、渡し舟が水面に浮いている様を表現しています。

 

阪神高速守口線の都島ランプ付近の城北運河(2016年10月)img_1331

 

城東貨物線淀川橋梁は大阪市東淀川区と大阪市都島区を結ぶ淀川に架かる全長約600メートルにおよぶ鉄橋であり、2013年(平成25年)までは鉄道(城東貨物線)と道が1つの橋を共用するという鉄道道路併用橋として利用されていました。

 

城北公園通駅からJR淡路駅へ向かう鉄橋付近(2016年10月)img_1587

 

淀川下流側は城東貨物線単線線路が敷設されており、淀川上流側は木造による歩道部分が設置されていました。これは、城東貨物線が建設当時から上下線による複線での運行を予定しており、淀川橋梁もそれを想定して当初より複線仕様で建設されています。なお、おおさか東線の全線開業に際して、線路が複線化されることにより歩道部分は廃止されることになりました。淀川橋梁はもともとは1929年(昭和4年)に架けられた橋ですが、地域住民の生活道路として利用され続け、地元では「じゅうはちもんてっきょう」赤川鉄橋」とよばれてきました。「じゅうはちもんてっきょう」とよばれるのは、18個のトラス桁が連続する橋となっていることからです。

 

通称「赤川鉄橋」(2016年10月)
img_1591

 

赤川鉄橋付近から淀川の下流へと歩いてしばらく行くと、その堤防沿いに「蕪村生誕の地」の石碑があります。

 

「蕪村生誕の地」石碑(2016年10月)
img_1586

 

「蕪村」とは、もちろん江戸時代中期の俳人・画人である与謝蕪村のことですが、俳人として松尾芭蕉や小林一茶と並び称され、また画人としては池大雅や円山応挙と並び称されます。

 

改札口の前に掲示される蕪村の肖像画(2019年3月)

 

与謝蕪村は1716年(享保元年)、この近くの毛馬村(現在の都島区毛馬町)に生まれ、20歳の頃、江戸に俳諧を学びに出ます。俳諧の他、写生画や南宋画、文人画にも優れ、松尾芭蕉の没後にはその足跡を訪ねて旅をしています。1766年(明和3年)には俳諧の結社「三菓社」を結成して、松尾芭蕉の復興を目指してその精神に近づこうとしています。

 

城北公園通駅ホーム(2019年3月)

 

その後、大坂へは何度か訪れていますが、とうとう故郷の毛馬へは戻ることはできず、『春風馬堤曲』に「春風や堤長うして家遠し」と残しています。この句には、大坂に奉公に出た娘がその里帰りの中、故郷への家路を急いで堤の上を歩いていく情景が描かれています。この句にちなんで毛馬桜之宮公園内には「春風橋」という名の橋が架けられています。

 

城北公園通駅蕪村口(2019年3月)

 

駅の西口、すなわち「蕪村口」を出るとすぐに蕪村通り商店街が見えてきます。

 

蕪村通り商店街(2019年3月)

 

与謝蕪村の石碑のあるすぐ横には毛馬水門があります。

 

堤防側よりみた毛馬水門(2016年10月)
img_1584

 

昔から淀川は大規模な洪水が頻発し、周辺の人々にたびたび大きな被害をもたらしました。明治時代になると、1896年(明治29年)より淀川の改修工事を実施し、淀川(後に大川)は新淀川として付け替えられました。

 

淀川大堰周辺図(2018年3月)

 

また1907年(明治40年)には閘門、1910年(明治43年)には洗堰が設置されました。これにより大川(旧淀川)に流れ込む水量を調節することができるようになりました。これらの治水工事は「近代治水工事の発祥」とされます。

 

現地に掲示される案内板(2018年3月)

 

現在の施設は1974年(昭和49年)に新設されたものですが、明治時代につくられた閘門と洗堰は、2008年(平成20年)に国の重要文化財となっています。

 

南側よりみた毛馬水門(2018年3月)


JR野江駅と野江駅

野江」は淀川左岸から寝屋川右岸にかけてのかつての湿地帯南部に位置する地名であり、旧榎並荘25ヵ村の一つでした。室町時代、淀川の流れにより運ばれた土砂がこの地に堆積し、新たな村が生まれたとされています。

 

JR野江駅付近の工事の様子(2019年2月)

 

平安時代以降、「榎並荘」の名がよく知られるようになったのは、この地が近衛家の荘園であったことに由来します。伝承では、大榎のよく繁った土地であり、その森には鬼女が住んでいて、これを北面の武士である橘氏らが討ち取ったとされています。その功により武士たちにこの地が与えられ、榎を伐採して開墾したことから「榎並」と称したといわれています。

 

JR野江駅付近の工事の様子(2019年2月)

 

また、この地は河内の入り江と大川に挟まれた干拓地でしたが、茨田堤の造成により平安時代には農地となりました。この農地は大川の南にあったことから「江南」となり、これに「榎並」の文字を充てたとの説もあります。

 

JR野江駅付近の工事の様子(2019年2月)

 

明治時代に入り、野江村・関目村・内代村の3村が合併して榎並村となり、1914年(大正3年)には榎並町となっています。野江の「野」は野原を意味し、「江」は岸を意味すると考えられています。言い伝えによると、奈良時代の孝謙天皇に油を献上したことから「油え」と称した地域にあたるとして、これが転じて「野江」となったという説もあります。

 

JR野江駅付近の工事の様子(2019年2月)

 

JR野江駅おおさか東線の延伸区間開通とともに開業しています。その駅のデザインコンセプトは「榎並猿楽」とされ、鎌倉時代に能のルーツのひとつとなる榎並猿楽がこの地より発祥したことにちなみ、猿楽の衣装と能の舞台を引用し表現しています。また、近くを走る京阪本線野江駅と区別するため、駅名は「JR野江駅」としています。

 

JR野江駅付近の工事の様子(2019年2月)

JR野江駅付近の工事の様子(2016年12月)

JR野江駅付近の工事の様子(2016年11月)
img_1996

img_1999

img_2001

img_2002

img_2003

JR野江駅付近の工事の様子(2016年8月)
IMG_0983

IMG_0982

IMG_0977

IMG_0976

IMG_0974

 

京阪電気鉄道の野江駅は1910年(明治43年)、京阪本線の開通と同時に開業しています。

野江駅西側(2016年11月)
img_1994

 

野江駅の西口を出て徒歩3分ほどの場所にはおおさか東線JR野江駅があり、乗換駅となっています。


高井田中央駅

高井田中央駅は当初、仮駅名は高井田駅でしたが、関西本線に高井田駅(大阪府柏原市)があるため高井田中央駅となりました。

 

高井田中央駅(2019年2月)

 

場所的にいうと高井田地域の中央ではありませんが、駅が中央大通上にあることから「中央」と名付けています。

 

高井田中央駅(2019年2月)

 

地下鉄中央線高井田駅と隣接しており、乗換駅となっています。

 

高井田中央駅(2019年2月)

 

2019年(平成31年)にはおおさか東線の北区間開通にともない、奈良新大阪間を結ぶ直通快速停車駅になりました。

 

地下鉄高井田駅(2019年2月)