新快速の歴史

1.新快速の源流となるモハ43系(急電) 2.急電の消滅と新快速の登場 3.153系から117系へ 4.近年の新快速車両

 

京都鉄道博物館に展示される新快速のヘッドマーク(2019年1月)


新快速の源流となるモハ43系(急電)

京阪神地区において、JR西日本が運行する新快速は快速列車の一種であり、特急・急行列車を除いて最も停車駅が少ない速達列車です。播州赤穂・上郡・網干・姫路大阪京都米原長浜・近江塩津・敦賀を結んでおり、中でも大阪京都間においては大阪駅新大阪駅、高槻駅、京都駅にのみしか停車しない速達列車となっています。

 

快速列車停車駅・桂川駅/2008年開業(2016年9月)
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この新快速の源流となるのは、1934年(昭和9年)に吹田~須磨間が電化されると同時に投入され、当時の京阪神地区における速達列車となったモハ43系です。モハ43系は2ドア・セミクロスシートをもち、急行として大阪神戸間を28分で結びました。当時の停車駅は大阪駅、三ノ宮駅、神戸駅でした。その後、1936年(昭和11年)には元町駅を停車駅として追加しています。

 

国鉄は当時、急行料金が必要な列車を「急行列車」とよび、急行料金が不要な列車を「急行電車」とよんでいました。先に述べたモハ43系は急行料金不要の急行電車であり、当時は「急電」とよばれました。これをを継いだのが、1936年(昭和11年)に登場したモハ52系です。

 

吹田総合車両所に展示されるモハ52系(2016年10月)
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モハ52系はまさに京阪神地区の急行電車として使用するために作られた車両であり、その車体形状としては流線形を取り入れ、編成全体を固定編成としました。また、車両床下にはスカートを採用し、車体塗装はクリーム色とマルーン色のツートンカラーとしました。

 

吹田総合車両所に展示されるモハ52系(2016年10月)
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モハ52系はその美しい流線形の姿から、後世の電車史にまさに「名車」として語り継がれることとなります。当時はこの名車を「流電」とよんでいました。


急電の消滅と新快速の登場

1937年(昭和12年)になると、急電(急行電車)の運転区間は京都神戸間に延長され、京都大阪間はノンストップ36分で結ばれるようになっていました。その後一時期、戦争が激化したことにより休止を余儀なくされますが、1949年(昭和24年)に急電(急行電車)は復活を果たしています。そして、1950年(昭和25年)になると、従来の流電(モハ52系)を彷彿させるクリーム色とマルーン色のツートンカラーを施した80系電車(モハ80系)が投入されるようになります。

 

この80系電車(モハ80系)は京阪神地区の急電(急行電車)として投入されるのに先立って、客車に類似したスタイルと車内設備をもつ本格的長距離用電車として東京~沼津間において営業運転を開始していました。このときの80系電車(モハ80系)はオレンジ色と緑色のツートンカラーが施されていました。後にこの80系電車(モハ80系)は「湘南形電車(湘南電車)」とよばれるようになり、この言葉は国鉄の長距離列車の総称として使用されるようになりました。また、オレンジ色と緑色のツートンカラーも「湘南色」とよばれるようになります。

 

80系電車(モハ80系)が京阪神地区の急電(急行電車)として投入される際、湘南色塗装は京阪神地区には馴染まないことから、往年の流電(モハ52系)を想起させるクリーム色とマルーン色のツートンカラーとしました。しかしながらその後、急電(急行電車)が増発されたことから80系電車(モハ80系)が不足するようになり、その他の車両が使用されることもありました。

 

1956年(昭和31年)に一部の急電(急行電車)米原まで運転区間が延長されるようになりますが、1957年(昭和32年)には「急行電車」の名称が「快速電車」と変更されることになりました。これにより、急電は事実上消滅してしまうことになります。その後、快速電車は高槻駅、芦屋駅を停車駅として追加し、1964年(昭和39年)には東海道新幹線が開通したことをきっかけとして新大阪駅を停車駅に加えました。さらに、1970年(昭和45年)の大阪万博開催をきっかけとして茨木駅も停車としました。

 

国鉄は「私鉄王国・関西」の牙城を崩すために大阪万博終了後の1970年(昭和45年)、京都~西明石間において新しい列車種別としての新快速を登場させました。新快速は特急料金などが不要であり、列車種別としては快速の一種ですが、現在の京阪神地区においてはその最上位列車となっています。初めて登場した新快速の車両は横須賀線色113系ですが、横須賀線色(スカ色)とはクリーム色と青色のツートンカラーをさします。この車両は大阪万博における観光客輸送に活躍した車両を転用したものですが、当初は1日6往復のみの運行でした。

 

新快速の運転区間となった京都~西明石間における停車駅は大阪駅、三ノ宮駅、明石駅のみであり、すでに東海道新幹線が開通していたにもかかわらず、すべての新幹線が停車する新大阪駅には新快速は停車しませんでした。その理由は東海道本線と並行して走る私鉄への対抗策でもありました。その後、1971年(昭和46年)には、運転区間を草津駅まで延長し、大津駅石山駅を停車駅として追加しています。


153系から117系へ

1972年(昭和47年)に山陽新幹線が開業すると山陽本線を走っていた急行が廃止されることとなり、ここで使用されていた153系を京阪神地区の新快速増発増強用として転用することになりました。その塗色も白い車体に青色のラインを帯びたものへと改められ、この色は「新快速色」とよばれるようになりました。1972年(昭和47年)から走りはじめたこの新快速は、京都大阪間をわずか29分で結び、「ブルーライナー」の愛称で親しまれるようになりました。

 

大阪の電車・列車シリーズ記念入場券
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停車駅について見ると、1972年(昭和47年)に運転区間が姫路駅まで延長されましたが、明石~姫路間の停車駅は加古川駅のみでした。そして、1978年(昭和53年)には神戸駅、1985年(昭和60年)には新大阪駅、1986年(昭和61年)には山科駅と停車駅がどんどん増えることになります。

 

京都鉄道博物館に展示される新快速の模型電車(2019年1月)

 

153系の老朽化が進むと、1980年(昭和55年)には117系が投入されるようになりました。117系は近郊形電車となりますが、前頭部形状を流線形、車体色はクリーム色を基調としてマルーン色のラインを帯びたものとしました。これはまさにかつての名車である流電(モハ52系)を意識した車両であり、その愛称を公募により「シティライナー」としました。車内は2ドア・転換クロスシートが採用されています。

 

京都鉄道博物館に展示されるシティライナーのポスター(2019年1月)

 

1986年(昭和61年)になると、新快速の運転区間は彦根駅まで延長され、停車駅は守山駅、野洲駅、近江八幡駅、能登川駅となりました。

 

守山駅(2017年7月)

 

さらに、1988年(昭和63年)には米原駅まで運転区間が延長され、1990年(平成2年)からは一部の新快速が高槻駅、芦屋駅にも停車するようになります。

 

米原駅に停車する新快速車両(2017年8月)


近年の新快速車両

1989年(平成元年)になると221系近郊形電車が投入されるようになりました。ベースカラーは白を用いてブラウンとブルーの帯を配し、明るいイメージを醸し出しています。そのコンセプトを「パノラマ通勤車」とし、通勤利用から観光利用まで対応できるように3扉転換クロスシートを採用しています。また、1991年(平成3年)からは時速120キロ運転を開始しています。

 

1995年(平成7年)に投入された223系(1000番台・2000番台)は近郊形電車として初めての最高時速130キロ運転機能を所持しています。その車体デザインは、阪和線・関西空港線で先にデビューしていた223系(0番台)とは少し変更されています。1999年(平成11年)以降に223系が大量投入され、2000年(平成12年)になると全車223系への置き換えが完了し、時速130キロ運転を実現しています。停車駅について見ると、1997年(平成9年)には尼崎駅が停車駅に追加され、高槻駅にすべての新快速が停車するようになります。また、2003年(平成15年)になると、芦屋駅にもすべての新快速が停車するようになります。2011年(平成23年)には加えて南草津駅が停車駅となり現在へと至ります。2011年(平成23年)に投入された225系は、JR西日本が今後の近郊形直流電車の標準車両と開発したものであり、グッドデザイン賞(日本産業デザイン振興会)を受賞しています。

 

快速列車停車駅・桂川駅/2008年開業(2016年9月)img_1304