1.大阪城公園と大阪城公園駅 2.豊臣大坂城の石垣 3.京橋口枡形の巨石 4.極楽橋から天守へ 5.石山本願寺と難攻不落の城
豊臣時代の大坂城石垣(2017年10月)
大阪城公園と大阪城公園駅
大阪のまちの中心に位置する大阪城公園の敷地面積は105.6ヘクタールです。1924年(大正13年)に大手前公園として開園し、1931年(昭和6年)に天守を復興して大阪城公園と改称しました。大阪城公園へは大阪城公園駅の他、さまざまなルートからのアクセスが可能です。JR東西線の大阪城北詰駅、大阪環状線の森ノ宮駅、地下鉄中央線および長堀鶴見緑地線の森ノ宮駅、地下鉄谷町線の谷町四丁目駅および天満橋駅、京阪電気鉄道の天満橋駅などからもアクセスできます。
大阪城(2016年11月)
大阪城公園駅の設置は比較的新しく、国鉄時代の1983年(昭和58年)に「大阪築城400年まつり・大阪城博覧会」の開催に合わせて、大阪環状線の駅として森ノ宮駅~京橋駅間において開業しました。
大阪城公園駅駅名標(2017年8月)
大阪環状線では駅ごとに発車メロディを設定していますが、大阪城公園駅の発車メロディは「法螺貝」です。法螺貝とビブラフォンを組み合わせたオリジナル制作曲であり、歴史に思いを馳せる契機にしてほしいとの願いから選曲されています。また、大阪城公園駅は近畿の駅百選にも選定されています。
大阪城公園駅構内に描かれる真田幸村(2017年8月)
豊臣大坂城の石垣
地下鉄谷町線の天満橋駅、京阪電気鉄道の天満橋駅から大阪城公園へアクセスすると京橋口が最寄りの入口となります。南北に走る谷町筋と東西に走る土佐堀通の交差点、すなわち天満橋の交差点から京阪本線の線路に沿って東へ少し歩くと、京阪東口の交差点があります。
天満橋駅~京橋駅間の京阪本線の線路(2019年1月)
京阪東口を南へ少し下ると大阪府立男女共同参画・青少年センター(ドーンセンター)がありますが、ドーンセンターの北側に豊臣時代の大坂城の石垣が保存されています。
保存される大坂城の石垣(2017年10月)
この石垣は、大坂城三の丸の石垣の一部をここに移築し、発見されたままの姿に復元したものです。豊臣時代の大坂城三の丸は、豊臣秀吉の晩年にあたる慶長3年(1598年)に大坂城の防御強化のために造られました。しかし、1614年(慶長19年)に大坂冬の陣の講和条件として徳川家康によって取り壊され、地中深く埋もれてしまいました。
保存される大坂城の石垣(2017年10月)
1989年(平成元年)の大阪府立女性総合センターの建設に伴う発掘調査で、再び姿を現しました。地表下約2メートルのところに東西21メートルにわたって発見されたこの石垣は、上部は崩されていましたが、今までに発見された豊臣時代の石垣の中でもっとも残存状態のよいものであり、当時の大坂城の面影を残しています。
保存される大坂城の石垣(2017年10月)
先にも述べたように石垣の上部は破壊されており、現存高は最大で3.3メートルとなります。前面に転石していた石垣石を加えると、その高さは5メートル以上と推定されます。2~3段の石垣石は、地表下に根石状に埋められていました。石垣は、生駒山系と六甲山系の花崗岩の自然石(割石を少量含む)を用いる「野面積(のずらづみ)」という積み方です。石の大きさは不揃いで、平均して幅46センチ、高さ35センチ、長さ58センチで、1平方メートルあたりの使用個数は4~6個です。
保存される大坂城の石垣(2017年10月)
この石垣のすぐ前に、大阪シティバス62号系統「住吉車庫前行き」の京阪東口のバス停があります。天満橋駅からこの場所へアクセスする場合には十分歩いて行ける距離ですが、天満橋駅から62号系統に乗車すると1つ目のバス停のすぐ前ということになります。
京阪東口バス停(2017年10月)
京橋口枡形の巨石
この石垣を見ながら細い道を東へ進み、突きあたりを右へ行くと大阪城公園の京橋口が見えます。京橋口を抜けてすぐの場所に京橋口枡形の巨石が見えます。
京橋口枡形の巨石(2016年11月)
京橋口枡形の内側、すなわち京橋口を入って正面に見えるのが、表面積が畳約33畳敷にもなる城内第二の巨石「肥後石」です。築城の名手である加藤肥後守清正が運んできたと伝えられてきましたが、実際は徳川幕府による大坂城再築時に、この区域の石垣築造を担当した備前岡山藩主の池田忠雄によって運ばれたものです。肥後石の左手が京橋口二番石であり、表面積が畳22畳敷の城内第7位の巨石です。
極楽橋から天守へ
外濠を渡り西の丸庭園の横を抜けて、極楽橋を渡ると天守へと向かうことができます。極楽橋の近くには大阪城御座船の乗り場があります。約20分間で大阪城の内濠をめぐる観光船です。
極楽橋から天守閣へ(2016年11月)
大阪城の本丸・二の丸は江戸幕府が再建したものですが、これを含めて外濠などの辺りは大坂城跡として国の特別史跡とされています。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が築いた大坂城はすべて土の中に埋まってしまっています。
現在の大阪城(2017年8月)
石山本願寺と難攻不落の城
豊臣時代以前には大坂城の場所に石山本願寺があったとされています。その歴史は、本願寺8世としての職を退いた蓮如が1496年(明応5年)に上町台地の北端に小さな坊舎(石山御坊)を建設したことに端を発します。
石山本願寺のあったとされる場所(2016年11月)
1496年(明応5年)に本願寺第8代宗主となる蓮如は摂津国東成郡生玉庄内の大坂に坊舎を築きました。この坊舎を中心として周囲に土居と塀をめぐらせて「六町の構」とよばれた寺内町が形成され、周辺には堀をつくって防備を固めました。「大坂」の地名が歴史上初めて文献に見られるのは、1498年(明応7年)の蓮如による「御文」といわれています。
1532年(天文元年)に山科本願寺が炎上すると本願寺は大坂に移され、ここが本願寺教団の中心(石山本願寺)となりました。石山本願寺の寺内町では、御影堂・阿弥陀堂を中心として六町二千軒におよぶ町屋が建ち並んでいました。たくさんの職人や商人が生活しており、当時の堺とならぶ豊かな都市生活がありました。
顕如の時代になると、入京してきた織田信長と対立し、1570年(元亀元年)から11年間にわたる石山合戦となります。1580年(天正8年)、開城により石山合戦は終結に向かいますが、織田信長に引き渡された後、石山本願寺から出火し、本願寺全域を焼き尽くしました。石山本願寺は大坂を退去し、鷺森、貝塚、天満を経て、1591年(天正19年)に京都へと移転しました。
織田信長は石山本願寺が退去した大坂の地を池田恒興に与え、天下統一へと歩もうとしますが、明智光秀によりその生涯を閉じます。一方、豊臣秀吉は1583年(天正11年)に池田恒興を美濃へ移し、石山本願寺と寺内町の跡に大坂城を建設しました。この大坂城は大坂夏の陣で炎上しましたが、徳川氏により再興されています。豊臣大坂城は徳川氏の手により土の中に埋まりました。
この地をめぐり、本願寺、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は戦いました。織田信長は本願寺を攻めあぐね、徳川家康は大坂冬の陣では大軍を擁しながら、豊臣氏に退けられています。強者が弱者に簡単に勝利することができなかったのは、この地の地形によるものです。大坂城のある場所は上町台地の北端であり、その北には淀川(現在の大川)などが流れ、東西は古くは海だった場所であり湿地帯が広がっていました。そのため、東西南北のうち東・西・北は足場が悪いため攻める側にとってはとても困難な場所であったとされます。
一方で、その北を淀川(現在の大川)が流れるため京へのアクセスが容易であり、南へ行けば当時商業都市として栄えた堺がありました。したがって、この地は天然の要害でありながら、京と堺を結ぶ交通の要衝ともなっていました。そのため、大坂の地を制することに彼らは全力を尽くしたといえます。