郡山城追手門(2017年6月)
郡山城への道
近鉄郡山駅は1921年(大正10年)、大阪電気軌道畝傍線(現在の近鉄橿原線)の開通と同時に郡山駅として開業しました。その後、所属会社の合併などにより、大軌郡山駅、関急郡山駅、近畿日本郡山駅などの名称変更を経て、1970年(平成19年)に近鉄郡山駅となっています。
近鉄郡山駅付近の踏切(2017年6月)
郡山城跡へは近鉄郡山駅を出て、線路沿いに北方向(大和西大寺方面)へと歩いて行きます。右手に大和郡山市役所がありますが、これを越えて踏切を渡ると郡山城跡へ到着します。
郡山城への道(2017年6月)
郡山城の歴史
郡山城は西ノ京丘陵の南端部に築かれた平山城であり、天守台のある本丸をいただき、内堀・中堀・外堀に囲まれた総構えの構造をもつ城です。
郡山城跡案内絵図(2017年6月)
筒井氏はこの辺り一帯に割拠していた豪族らを平定し、織田信長の絶対的権力を背景として安定勢力となりました。筒井順慶は1578年(天正6年)~1579年(天正7年)にかけて郡山城の縄張りを行い、1580年(天正8年)の一国一城令に基づいてこれを拡張し、大和国唯一の城郭として郡山城の築城を開始しました。1583年(天正11年)には天守閣を完成させています。
追手門の辺りから天守台を見る(2017年6月)
筒井氏の後には豊臣秀長(豊臣秀吉の弟)が大和国・和泉国・紀伊国3国の太守となり百万石の禄高をもって、1585年(天正13年)にこの地に入りました。城郭の骨格はこのころ本格的に建造され、また追手門もこのころ築かれたと考えられています。
1980年(昭和55年)に復元された追手門(2017年6月)
豊臣秀長は城下町の建設にも尽力しましたが、その没後は養子の豊臣秀保がこれを治めました。その後は増田長盛が入り、1596年(文禄5年)には秋篠川の付け替えを行って外堀を一周させ、城下町の完成へと導きました。その外堀普請による城郭の形状は現代までその姿をとどめています。現在残っている縄張りは、左京堀、鰻堀、鷺堀で囲まれた本丸・二の丸・三の丸などが城内であり、それ以外の外堀に囲まれた地域が城下となっています。
増田長盛は1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで豊臣側として戦うものの破れて改易されます。郡山城は徳川氏に接収され、一時廃城(1600年~1615年)となってしまいます。その際、追手門をはじめとする建造物は伏見城へ移されています。
1615年(元和元年)になると、郡山城は交通の要衝として再認識され復興しています。大坂夏の陣以後は水野氏、松平氏、本多氏という譜代大名が入城し、1724年(享保9年)になると、甲斐国の柳沢氏が15万石余をもって入り、明治維新まで大和国の政治・経済・文化の中心地として栄えています。
柳澤神社(2017年6月)
柳沢文庫(2017年6月)
郡山城の復元
明治維新の際、廃城となりすべての建物が取り払われ、現在復興へ向けての取り組みが行われています。
極楽橋の再現(2017年6月)
天守台は本丸の北端部に位置し、城内の中でも高所にあります。天守に関する資料はほとんど存在せず「幻の天守」とよばれてきました。しかし、石垣の修理にともなって発掘調査を実施し、豊臣時代に7×8間規模の天守が建造されていたことが判明しました。
天守台へ上る(2017年6月)
天守台から見た景色(2017年6月)
発掘の様子(2017年6月)
旧奈良県立図書館
旧奈良県立図書館は1908年(明治41年)、日露戦争の勝利を記念して、現在の奈良県庁の南側にある奈良公園内(興福寺境内)に建設された奈良県で初めての県立図書館です。建築当初は奈良県立戦捷図書館と称し、1968年(昭和43年)に図書館本館のみが郡山城内に移築されて、市民会館や教育施設として利用されてきました。この建物の設計は奈良県の技師・橋本卯兵衛が担当しています。
旧奈良県立図書館(2017年6月)