八軒家浜船着場と大阪ダックツアー

八軒家浜船着場(2017年8月)


大阪八百八橋

江戸時代、大坂は八百八橋とよばれ、それほど多くの橋が架けられていたということを知ることができます。もちろん、本当に808橋が架けられていたわけではなく、約200橋ほどが架けられていたそうです。この「200」という数字は八百八町とよばれた江戸に架けられた約350橋に比べると少ないものでした。

にもかかわらず、なぜ大坂が八百八橋とよばれたかというと、江戸の約350橋の半分が公儀橋(こうぎばし)であったのに対して大坂の公儀橋はわずか12橋であり、それ以外はすべて町人たちが自腹で架けた町橋だったため、その町人たちの活力が大坂を八百八橋とよばせたといえるわけです。

公儀橋は江戸幕府の経費により架けられた橋をいい、橋の架け替えや修復も江戸幕府の経費で実施します。これは町人たちがその経費を負担して架けられた町橋に対する用語です。江戸では公儀橋のこと御入用橋とよぶこともありました。

大坂の公儀橋は、大川(旧淀川)に架けられた天満橋、天神橋、難波橋、鯰江川(現在は埋め立て)に架けられた野田橋、備前島橋、寝屋川(旧大和川)に架けられた京橋、平野川(第二寝屋川)・猫間川(現在は埋め立て)に架けられた鴫野橋、東横堀川に架けられた高麗橋、本町橋、農人橋、長堀川(現在は埋め立て)に架けられた長堀橋、道頓堀川に架けられた日本橋の12橋となります。

天満橋駅から見える天満橋(2017年8月)


八軒家浜船着場

大坂の公儀橋12橋の一つである天満橋の最寄り駅となるのが天満橋駅です。

天満橋バス停(2017年8月)

大阪市は2008年(平成20年)、この天満橋駅に隣接する場所に八軒家浜(はちけんやはま)船着場を開設しました。

八軒家浜船着場(2017年8月)


大川の対岸(北岸)

八軒家浜船着場の対岸には、大川をはさんで淀川三十石船舟唄碑が立ちます。

淀川三十石船舟唄碑(2019年1月)

【淀川三十石船舟唄碑】

江戸時代、淀川は京都大阪を結ぶ水上交通路として栄えました。大阪での基点となった八軒家船着場は、対岸の京橋、石町(こくまち)付近にありました。三十石船というのは、長さが17メートル、巾2.5メートルで米を三十石(米俵にて75俵)積み込める大きさの船という意味であり、京都大阪を往復し、多い時は一日に三百隻にのぼったこともありました。この舟唄は当時の船頭たちによって歌われていたもので、京都から大阪までの沿岸の情景を歌ったものです。

また、淀川三十石船舟唄碑の近くには、天満乃子守歌天満青物市場跡の碑も見えます。

天満乃子守歌(2019年1月)

天満青物市場天満橋北詰から西へ天神橋までの間にあり、堂島米市場雑喉場(ざこば)魚市場と合わせて大坂の三大市場と称されました。最初は石山本願寺の寺内町あたりに自然発生し、転々とした後、1653年(承応2年)にこの地に移動してきたといいます。1931年(昭和6年)になると、中央卸売市場に吸収されています。

天満青物市場跡碑(2019年1月)


「八軒家」の由来

八軒家の地名は江戸時代にこの地に8軒の船宿があったためといわれています。この辺りは熊野詣のための中継地点であったため、旅人たちはこの船宿を利用しました。

夕日に浮かぶ八軒家浜船着場付近の景色(2017年8月)

熊野詣とは紀伊半島の熊野にある本宮・新宮・那智の熊野三山を詣でることです。江戸時代の参詣者は夜に伏見を出発し、その船は翌朝に八軒家船着場に到着したといいます。


熊野街道

熊野街道の名は、京都から大阪を経由して熊野三山へ入る街道の総称として用いられます。熊野三山とは、熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社をさします。

熊野街道碑(2017年10月)

参詣者は京都から淀川を船で下り、大阪の渡辺津で船を下りて街道を南へと向ったといいます。渡辺津は現在でいうところの天満橋付近ということになりますが、江戸時代になるとこの船着場は八軒家とよばれるようになり、人や荷物の往来がとても賑やかになったといいます。

当時の渡辺津の辺り(2019年6月)

この熊野詣は平安時代の貴族たちの間で行われるようになり、時代が流れると武士や庶民へと広がっていき、蟻の熊野詣とよばれるほど流行したといいます。

現地付近に立つ「熊野かいどう」の説明(2019年6月)

【三橋楼跡】

三橋楼は現在の大阪市中央区石町にあった料理旅館です。大川に架けられた難波橋・天神橋・天満橋を北に見下ろす景勝地にあり、江戸時代末期には高級料理屋として知られていました。1875年(明治8年)には、大久保利通と木戸孝允による10時間にわたる会談が行われ、このときには合意に至らなかったものの、明治新政府の立憲体制に向けての方針を定めたといわれる大阪会議に向けての最初の意見交換の場となりました。

現地に立てられる案内板より(2019年6月)

1882年(明治15年)になると、三橋楼の敷地および建物は日本ハリストス正教会の所有となり、1911年(明治44年)にはビザンチン様式の聖堂が建設されました。その聖堂は「大阪生神女(しょうしんじょ)庇護聖堂」と名付けられましたが、1945年(昭和20年)に空襲により焼失しています。


川の駅はちけんや

八軒家浜船着場のすぐそばには2009年(平成21年)、「水の都・大阪」再生の拠点として大阪府と民間企業が協力して川の駅はちけんやを開業しています。大阪が明治時代「水の都」とよばれるようになったは、古くからその水運により経済と文化の中心都市として発展してきたことによります。

「川の駅はちけんや」案内板(2017年8月)

飛鳥時代に難波津(なにわづ)とよばれた港には、多くの人や多くの物が発着して他国との交易拠点として栄えました。現在、大阪では古くからの川に寄り添う暮らしの風景を取り戻すためのプロジェクトが進められており、船着場の整備、護岸工事、橋梁などのライトアップが行われています。

アドプト・リバー八軒家浜(2017年8月)

川の駅はちけんやには情報発信施設やレストランなどの飲食店がある他、水陸両用バス「大阪ダックツアー」の発着場所となっています。

水陸両用バス(2017年8月)


大阪ダックツアー

川の駅はちけんやを出発した水陸両用バスは、土佐堀通を西へ行き、御堂筋を南下して、本町通より東へ戻ります。

水陸両用バス(2017年8月)

大阪城を右手に見ながら、上町筋を北上して、桜ノ宮から大川に入ります。

水陸両用バス(2017年8月)

大川を下り、はちけんやで折り返し、再び北上して桜ノ宮より陸上へ戻ります。源八橋を渡り、扇町通を西へ行き、天神橋筋を下ってはちけんやへ戻るというルートになります。所要時間は陸上60分、水上30分となります。

水陸両用バス(2019年3月)