九度山駅[南海電気鉄道]

投稿者: | 2022-11-27

丹生官省符神社拝殿(2016年10月)
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九度山(くどやま)駅は1924年(大正13年)、当時の南海鉄道(現在の南海電気鉄道)が路線を延伸開業したことにより、当時の終着駅として開業しました。その後、路線は高野山駅(現在の高野下駅)まで延伸され、途中駅となりました。

九度山駅ホーム(2016年10月)
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九度山駅は高野山への代表的な入山道となる高野山町石道(ちょういしみち)への最寄り駅となります。真田幸村(真田信繁)が父(真田昌幸)とともに高野山蟄居を命じられた地の玄関口ともなっています。

真田父子が暮らした住居の跡地に建つ寺(2016年10月)
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2016年(平成28年)にNHK大河ドラマ「真田丸」の放送がきっかけとなり、この地は真田昌幸・真田幸村(信繁)父子ゆかりの地としての盛り上がりました。

九度山駅待合室に設置される真田父子のパネル(2016年10月)
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高野山麓にある和歌山県九度山町は人口5,000人足らずの町であり、美しい風景や歴史があります。大阪からは南海高野線に乗車し、河内長野・橋本を経由して九度山駅に到着します。

九度山駅(2016年10月)

真田幸村ゆかりの地へは九度山駅を出て、赤く塗られた九度山駅前バス停の横の階段を下りて右へ曲がります。

九度山駅前バス停(2016年10月)
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国道370号線を横切る歩道橋を渡ると「真田のみち」のゲートがあり「九度山まちなかエリア」へと入っていきます。

「真田のみち」入口(2016年10月)
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しばらく歩くと古民家を再利用した「まちなか休憩所」が見えてきます。休憩ができる他、おみやげも販売しています。

まちなか休憩所(2016年10月)
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長野県に生まれた真田幸村(信繁)が大坂と関係をもつのは、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭した後、父・真田昌幸がこれに服従することになったときのことです。真田幸村(信繁)は人質として大坂へ行くこととなり、秀吉の近くで馬廻衆を務め、秀吉の信頼を得るようになりました。

真田父子が蟄居した場所であった現在の「真田庵」(2016年10月)
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しかしながら、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の死後、石田三成らと結んだ真田昌幸は関ヶ原の戦いにて徳川家康に敗れます。本来なら死罪に相当するところ、関ヶ原の戦いで徳川方に従軍していた真田幸村(信繁)の兄である真田信幸(真田信之)と、その舅となる本田忠勝の執り成しにより、徳川家康より1600年(慶長5年)に高野山への蟄居を命じられます。

道の駅「柿の郷くどやま」(2016年10月)
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蟄居を命じられた真田父子は、はじめ高野山の蓮華定院(れんげじょういん)に身を寄せることになります。その後、妻子との生活が許されるようになったため、高野山麓の九度山へと移り住むことになりました。

九度山駅を出発し高野山方面へ向かう列車(2016年10月)
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真田父子が蟄居した場所の跡地にあるのが善名称院(ぜんみょうしょういん)です。「九度山まちなかエリア」の中心部にあります。現在では「真田庵」とよばれています。

真田庵(2016年10月)
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 父・真田昌幸は1611年(慶長16年)にこの地で生涯を閉じ、真田幸村(信繁)は1614年(慶長19年)に大坂より迎えが来るまで14年間この地で過ごすことになります。

真田庵(2016年10月)
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真田父子が暮らした住居の跡地に建てられた善名称院の境内には、真田昌幸が「真田地主大権現」として祀られています。

真田庵の守護神・真田地主大権現(2016年10月)
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さらに、真田を詠った松尾芭蕉の句碑、真田宝物資料館、真田幸村(信繁)が雷を封じたとされる「雷封じの井」などがあります。「雷封じの井」は大きな石を蓋として閉じられた井戸ですが、落雷を真田幸村(信繁)が井戸に封じ、人々を救ったとの伝説があります。

「雷封じの井」(2016年10月)
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まさに「真田」を感じられる寺ですが、1741年(寛保元年)に善名称院を建立したのは大安上人です。本尊として延命子安地蔵菩薩が祀られ、今では地元の人々が参る寺となっています。

真田父子四百回忌碑(2016年10月)
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境内にある善名称院土砂堂(他5棟)は九度山町指定文化財となっています。大安上人は盛んに土砂加持祈祷を行い、清浄な小石を納める土砂堂を創建しました。現在のお堂は江戸時代末期の建築となっています。

土砂堂(2016年10月)
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真田古墳はこの真田庵から東へ170メートルほどの場所にあります。真田古墳には伝説があり、この穴は大坂城につながっていて、当時の真田幸村(信繁)はこの穴を抜けて戦場の大坂へ出向いたというものです。

真田古墳(2016年10月)
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これは実際には地下式石室であり、その石室は南向きの横穴式で、割石積みの側壁と平石を用いた奥壁、そして天井により構成されたものとされています。すなわち、真田古墳は「抜け穴」ではなく、現在では古墳時代後期の横穴式石室をもつ円墳と判断されています。

真田古墳(2016年10月)
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九度山駅から徒歩10分、真田庵の近くには2016年(平成28年)にオープンした「九度山・真田ミュージアム」があります。

九度山・真田ミュージアム(2016年10月)
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ここでは、真田昌幸・真田幸村(信繁)父子と真田幸村(信繁)の子である大助の3代にわたる資料などを展示し、後世へとその業績を語り継ぐことを目的とした施設です。

九度山・真田ミュージアム(2016年10月)
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館内は、エントランス、上田時代、九度山時代、九度山異聞、大坂の陣、真田伝説、十勇士伝説、企画展示室の小部屋に区切られています。

南海電車「九度山きっぷ」の特典(2016年10月)
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九度山で暮らした当時のことだけではなく、それ以前・以後の真田家について知ることができます。

九度山・真田ミュージアム(2016年10月)
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真田古墳から東へ徒歩3分の場所にある「旧萱野家(大石順教尼の記念館)」は九度山町指定文化財です。ここはもともと「不動院」という寺であり、1703年(元禄16年)に建立されたものです。現在では民家となっており、全体的には江戸時代中期の建築となっています。

旧萱野家/大石順教尼の記念館(2016年10月)
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真田庵から徒歩3分ほどの場所にある「米金の金時像」は、明治時代から大正時代にかけての陶芸家である南紀荘平の作品であり、その高さは2メートルほどあります。このように大きな陶像はとても珍しいものであり、町の人々からも親しまれています。

米金の金時像(2016年10月)
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「九度山まちなかエリア」を抜けて丹生川を渡ると、道の駅「柿の郷くどやま」が見えてきます。

道の駅「柿の郷くどやま」(2016年10月)
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九度山駅からは徒歩約15分です。道の駅「柿の郷くどやま」には農産物直売所、カフェ、体験・研修施設、世界遺産情報センターなどがあります。

道の駅「柿の郷くどやま」(2016年10月)
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道の駅「柿の郷くどやま」の隅には大きな栴檀(せんだん)の木があります。ここから先は「九度山世界遺産エリア」へと入り、世界遺産の慈尊院までは徒歩約10分です。

栴檀の木(2016年10月)
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道の駅「柿の郷くどやま」からしばらく歩くと小さな慈尊院橋があります。

慈尊院橋(2016年10月)
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これを渡ると慈尊院に到着します。

慈尊院(2016年10月)
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慈尊院は816年(弘仁7年)、弘法大師・空海は朝廷より高野山を賜り、高野山を開く際に高野山参詣のための要所となるこの地に伽藍を創建しました。

慈尊院(2016年10月)
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ここは高野山入山への表玄関となり、高野山の庶務を担当する事務所が置かれ、宿泊所や修行の場として利用されました。

慈尊院(2016年10月)
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835年(承和2年)、空海の母が亡くなった際に廟堂を建立して弥勒菩薩を安置し、これ以降に弥勒菩薩の別名となる「慈尊院」と称されるようになりました。慈尊院弥勒菩薩坐像は国宝に指定されており、慈尊院本堂(弥勒堂)は重要文化財に指定されています。

慈尊院本堂(2016年10月)
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境内には「高野山町石道参詣登山の方は出発点である当院の国宝である本尊弥勒菩薩さまへお参りされ道中安全・諸祈願をしてお登りください」と案内があります。

慈尊院本堂(2016年10月)
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大師堂は「四国堂」ともよばれ、弘法大師像と四国八十八箇所のそれぞれの札所の本尊を模した88像を祀ってあります。ここに参れば、四国にお参りしたのと同様のご利益が得られるということです。

大師堂(2016年10月)
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多宝塔の本尊は大日如来が安置されているため「大日塔」ともよばれています。

多宝塔(2016年10月)
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弘法大師・空海が創立したものですが、現存する多宝塔は寛永年間に再建されたものであり、和歌山県指定文化財となっています。

多宝塔(2016年10月)
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多宝塔の横の急な階段を上ると、世界遺産の丹生官省符(にうかんしょうふ)神社があります。

丹生官省符神社(2016年10月)
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空海が慈尊院を建立した際に、守り神として地元にゆかりのある神を祀った神社です。急な階段の途中には石造大鳥居(一の鳥居)がありますが、九度山町指定文化財となるこの大鳥居をくぐって119段の階段を上ると、赤い鳥居(二の鳥居)があります。

石造大鳥居/一の鳥居(2016年10月)
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二の鳥居をくぐると広場があり拝殿があります。

丹生官省符神社拝殿(2016年10月)
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もともと丹生官省符神社は紀ノ川河畔にありましたが、その後この地に移されて神々が合祀され「七社明神」とも称されるようになりました。

丹生官省符神社拝殿(2016年10月)
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拝殿は向かって右から第一殿、第二殿、第三殿とされますが、明治時代に入ってから三殿となったものです。第一殿、第二殿は1517年(永正14年)にこの地に移築されて再建されたものであり、第三殿は1541年(天文10年)に再建されたものです。

丹生官省符神社拝殿(2016年10月)
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高野山への表参道となる町石道は慈尊院から高野山へと続く約20キロの道ですが、当時木製と卒塔婆を立てて道標としました。

町石道(2016年10月)
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現在でも1町(約109メートル)ごとに石柱が残っています。

町石道(2016年10月)
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高野山壇上伽藍が起点となっていて、慈尊院に至る道に180基の石柱があります。

町石道(2016年10月)
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高野山の弘法大師信仰が広まるにつれて全国から多くの人が参拝するようになり、高野山への道が7つ開かれて「高野七口」ともよばれました。

町石道(2016年10月)
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町石道は主要参詣道として多くの人が利用しましたが、この他、高野街道京大坂道(きょうおおさかみち)、黒河道(くろこみち)、大峰道(おおみねみち)、熊野古道小辺路(くまのこどうこへち)、相ノ浦道(あいのうらみち)、有田・龍神道(ありだりゅうじんみち)が「高野七口」となります。

現地に掲示される周辺地図(2016年10月)
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丹生官省符神社のすぐ近くに勝利寺があります。勝利寺は慈尊院より前に創建されたともいわれており、弘法大師・空海が42歳の頃には厄除けのために十一面観音を奉納しました。

勝利寺(2016年10月)
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急な階段を上ったところに勝利寺仁王門があります。仁王門は1755年(宝暦5年)に上棟し、1773年(安永2年)に完成したと考えられています。

勝利寺仁王門(2016年10月)
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仁王門をくぐると本堂が見えます。本堂は1771年(明和8年)くらいに建立されたものではないかと思われます。

勝利寺本堂(2016年10月)
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勝利寺の北には紙遊苑があります。高野紙の伝統文化とその技術を伝える体験資料館となっています。

紙遊苑(2016年10月)
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ここでは、弘法大師・空海に教えてもらったとされる紙漉きを体験することができます。

紙遊苑(2016年10月)
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