福知山線の歴史と明智光秀の福智山城

福知山線は尼崎~福知山間を結ぶ約106キロの路線であり、1891年(明治24年)に尼ケ崎(後の尼崎港)~伊丹間が開通したことにはじまります。尼ケ崎駅(後の尼崎港駅)は当時、この路線を開業した川辺馬車鉄道の起点駅として開業しましたが、1984年(昭和59年)に廃駅となっています。川辺馬車鉄道関西初の馬車鉄道ですが、開業2年後には摂津鉄道と改称して、池田(現在の川西池田)まで延伸を果たしています。

夜の福知山駅(2018年5月)

その後、大都市である大阪と、主要軍港であった舞鶴を結ぶ路線の計画が持ち上がり、計画の達成を目的とした阪鶴鉄道が1896年(明治29年)に設立されました。阪鶴鉄道摂津鉄道を吸収合併して、1898年(明治31年)に神崎(現在の尼崎)~塚口間を開通させ、官鉄(現在の東海道本線)への乗り入れを実現し、大阪までの直通運転を実現しています。

大阪方面行きの車窓から見た京都方面へと分岐する山陰本線(2018年4月)

阪鶴鉄道は1899年(明治32年)に福知山までの延伸を達成し、福知山線全通となりました。また、1904年(明治37年)になると、官鉄が新舞鶴~福知山間を開通させたため、これに乗り入れを開始して、大阪~舞鶴間の直通運転を実現しています。しかしながら、阪鶴鉄道は1907年(明治40年)に国有化されてしまい、福知山線は国鉄へと引き継がれることになります。


現在の福知山線

その後国鉄はJRとなり、1997年(平成9年)にJR東西線が開通すると、福知山線は尼崎駅を経由して学研都市線(片町線)との相互乗り入れも開始しました。また、新大阪大阪福知山・豊岡・城崎温泉方面を結ぶ特急「こうのとり」や、大阪~篠山口・福知山方面を結ぶ丹波路快速などが運行されています。

福知山駅北口広場(2017年5月)

丹波路快速および快速)は、大阪~篠山口・福知山間を結び、尼崎・伊丹・川西池田・中山寺・宝塚・西宮名塩(にしのみやなじお)と三田(さんだ)以降の各駅に停車する大阪駅発着の快速列車であり、223系や225系が使用されます。丹波路快速と(普通の)快速の2種類が設定されていますが、停車駅はいずれも同じです。その運行時間帯などにより名称が変わります。

大阪駅に到着する「丹波路快速」225系(2017年3月)


福知山駅と福知山城

交通の要衝とは交通において重要な場所という意味です。福知山は古くから交通の要衝でした。京都大阪神戸、山陰地方を結ぶまちとして、盆地という閉鎖的な地形ではありながら古くから栄えてきました。

福知山駅ホーム(2018年4月)

現在においても、福知山駅福知山線をはじめとして、山陰本線京都丹後鉄道のターミナルとなっています。

福知山線から京都丹後鉄道への乗換口(2017年5月)

福知山駅南口公園には、往年のC11形機関車が展示されています。まさに、鉄道のまちのシンボルとして輝いています。

南口公園に展示されるC11形(2016年3月)

この福知山駅から歩いて15分ほどの場所に福知山城があります。福知山駅を出発する列車の車窓からもその姿を小さく垣間見ることができます。

車窓から見える福知山城(2018年4月)

明智光秀は織田信長の命を受けて丹波国征討戦にあたっていましたが、これを平定すると、明智光秀は丹波地方の拠点として福智山城を築きました。その城代には藤木権兵衛と明智秀満を置きましたが、本能寺の変後、福智山城は秀吉軍の襲撃を受け、留守を預かっていた明智秀満の父は処刑されました。

夜の福知山駅(2018年5月)

その後、城主はたびたび代わりましたが、関ヶ原の戦い後、有馬豊氏が入城して現在あるような城郭および城下町を完成させています。さらに、城主はたびたび交代し、1873年(明治6年)の廃城令によって解体されてしまいました。その後、復原の計画が進められ、1986年(昭和61年)に大天守となる郷土資料館が完成しています。

福知山市民病院口駅(2018年4月)