1.竹田駅 2.四神と城南宮 3.院政と鳥羽離宮(城南離宮) 4.城南宮へのアクセス 5.城南宮と曲水の宴 6.鳥羽伏見の戦い
城南宮/室町の庭(2019年4月)
竹田駅
竹田駅は京都線および京都市営地下鉄の駅です。竹田駅はもともと、1928年(昭和3年)に奈良電気鉄道(奈良電)が京都~桃山御陵前間を開通した際に城南宮前(じょうなんぐうまえ)駅として設置されました。
竹田駅(2017年12月)
その後、1940年(昭和15年)に竹田駅と改称されています。旧駅名が城南宮前駅であることからわかるように、竹田駅は城南宮の最寄り駅となります。
竹田駅(2017年12月)
城南宮は竹田駅より徒歩15分ほどの場所にあり、現在では「方除(ほうよけ)の大社」として全国的に知られています。
城南宮(2019年4月)
方除は引っ越しや工事、家相などの心配を取り除くことですが、古くから住まいを清めるための御砂や方角の災いを方除御札を城南宮で授かるという習慣もあります。また、現在では家庭円満や厄除、安全祈願および車の御祓いのため全国から多くの人々が訪れます。
城南宮(2019年4月)
四神と城南宮
城南宮の歴史は平安京に都を遷した794年(延暦13年)にまで遡りますが、このとき平安京の守護神として創建したと伝えられます。城南宮は国常立尊(くにのとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)、息長帯日売尊(おきながたらしひめのみこと)を合祀した平安京(平安城)の南に位置する宮です。
城南宮(2019年4月)
四神(しじん)は東西南北四方位の守護神のことですが、京においては東の青龍(蒼龍)、西の白虎、南の朱雀、北の玄武を示します。京の四方(東:八坂神社、西:松尾大社、南:城南宮、北:上賀茂神社)と中央(平安神宮)に位置する五社が守護する平安京は四神相応の都として造営されました。
城南宮東側の鳥居(2019年4月)
院政と鳥羽離宮(城南離宮)
院政とは天皇が譲位し上皇(太上天皇)となった後も、天皇に代わって政治を行うことであり、平安時代末期から鎌倉時代初期までに見られた政治形態です。1086年(応徳3年)に白河天皇は堀河天皇に譲位して上皇となった後も政務を担当し、これが院政のはじまりといわれています。
城南宮/平安の庭(2019年4月)
白河上皇は堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇の時代、鳥羽上皇は崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の時代、後白河上皇は二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇の時代、後鳥羽上皇は土御門天皇、順徳天皇、仲恭天皇の時代にそれぞれ院政を行いました。院政は後鳥羽上皇が承久の乱によりその実権を失うまで続きました。
城南宮にて再現される曲水の宴(2019年4月)
鳥羽離宮(城南離宮)は院政が行われた広大な離宮であり、その広さは東西1.5キロメートル、南北1キロメートルにもおよびます。平安京の朱雀大路からまっすぐ南に下った場所にあり、その造営は院政のはじまりとされる1086年(応徳3年)に開始されました。白河上皇の時代に続き、鳥羽上皇の時代にも造営は続きました。
城南宮/城南離宮の庭(2019年4月)
北殿、南殿、泉殿、馬場殿が大きな池の近くに造られましたが、それぞれの殿舎の往来には船が使われました。鳥羽上皇の時代になると、東殿、田中殿が造営されました。
現地に掲示される鳥羽離宮の様子(2019年4月)
城南宮へのアクセス
近畿日本鉄道・地下鉄烏丸線の竹田駅西口をしばらく南下すると右手には森があります。
森(2019年4月)
この辺りは鳥羽離宮の東殿のあった場所であり、三重塔3基、多宝塔1基が築かれるなどして他の殿とは異なる様相を呈していたといいます。こうした塔は白河天皇(成菩提院陵)、鳥羽天皇(安楽寿院陵)、近衛天皇(安楽寿院南陵/再建多宝塔が現存)の御陵となっています。
近衛天皇安楽寿院南陵(2019年4月)
森の中にある安楽寿院は真言宗智山派の寺院であり、鳥羽離宮の東に鳥羽上皇が造営した仏堂をその起源とします。その境内の近くには鳥羽天皇と近衛天皇の御陵があります。
安楽寿院(2019年4月)
このように東殿周辺は死後の世界に関わる領域となっています。
史跡安楽寿院境内(2019年4月)
この辺りの森を右手に見ながら、さらに南下すると大きな通り新城南宮道があります。これを西へ入るか、さらに南側には城南宮道がありますのでこれを西へ入ることもできます。新城南宮道または城南宮道を西へ進むと、高速道路(阪神高速8号京都線)の走る大きな通り(油小路通)があり、これを越えます。新城南宮道と油小路通の交差点の北東には北向山(きたむかいざん)不動院があります。
北向山不動院前より新城南宮道の東を見る(2019年4月)
北向山不動院は天台宗の寺院であり、1130年(大治5年)に鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮内に創建されたものです。開祖となった興教(こうきょう)大師が不動明王を王城鎮護のために北向きに安置したことにより、鳥羽上皇より「北向山不動院」の名を賜ったとされます。
北向山不動院(2019年4月)
現在本堂となるのは1712年(正徳2年)に東山天皇の旧殿を移設したものです。
北向山不動院(2019年4月)
城南宮道と油小路通の交差点の北西角には城南離宮道標を見つけることができます。
城南離宮道標(2019年4月)
さらに西へ歩いて行くと城南宮の東側の鳥居に到着します。この鳥居は1861年(文久元年)に兵庫津の北風家により寄進されたものです。兵庫津は現在の神戸港の前身であり、北風家はその兵庫の廻船問屋でした。城南宮の氏子であった長谷川家より貞忠がその養子となって北風家を継いでいます。
城南宮東側の鳥居(2019年4月)
城南宮と曲水の宴
城南宮東側鳥居の扁額の文字は有栖川宮幟仁(ありすがわのみやたかひと)親王によるものです。歌道と書道をその家学とする有栖川宮家において、有栖川宮幟仁親王は書道有栖川流を大成して確立しています。
鳥居の扁額(2019年4月)
鳥羽離宮(城南離宮)で院政が行われるようになると、城南宮はより一層崇められるようになり、平安時代後期には古来の弓馬術である流鏑馬(やぶさめ)や馬を走らせて勝負する競馬(くらべうま)などの行事が行われて賑わうようになりました。
城南宮(2019年4月)
城南宮の庭園「楽水苑」には花の庭、平安の庭、室町の庭、桃山の庭、城南離宮の庭というように趣向が凝らされた庭があり、ここでは毎年春と秋に「曲水の宴」とよばれる優雅な行事が行われます。
曲水の宴(2019年4月)
曲水の宴は、奈良時代から平安時代にかけて宮中で催された歌会を再現した行事です。平安の庭を模した緑の中をゆるやかな一筋の遣水(やりみず)が流れていて、そのほとりで雅やかな曲水の宴は催されます。
曲水の宴(2019年4月)
境内には小さな社がいくつかありますが、これらは摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)などとよばれます。いずれも本社に附属する神社ですが、特に本社と関係が深い神社は摂社とよばれるそうです。三照宮社(さんしょうぐうしゃ)、芹川天満宮(唐渡天満宮)、真幡寸神社(まはたきじんじゃ)、飛鳥田神社などがあります。
三照宮社(2019年4月)
芹川天満宮(唐渡天満宮)には菅原道真が祀られますが、1111年(天永2年)に城南宮の南となる芹川の地に勧請されたと伝えられます。大正時代の初めに現在地に遷されています。
芹川天満宮(2019年4月)
鳥羽伏見の戦い
王政復古の大号令により江戸幕府が廃された後、最後の将軍・徳川慶喜は二条城から大坂へと移り住みました。
城南宮西側の鳥居(2019年4月)
そして、徳川家の領地返納を決定した薩摩藩・長州藩などに対して不満を抱えた幕臣(会津藩・桑名藩など)は1868年(明治元年)正月一日に挙兵し、大坂から京へ攻め入りました。新政府軍(薩摩藩・長州藩など)は城南宮に布陣してこれを迎え撃ち、鳥羽伏見の戦いが勃発しました。
鳥羽伏見の戦い跡の碑(2019年4月)
この一戦がきっかけとなり、これから2年に渡る戊辰戦争がはじまりました。