1.近畿日本鉄道(近鉄)の現行路線 Θ生駒鋼索線(生駒ケーブル)Θ 2.大阪電気軌道(大軌)の設立 3.参宮急行電鉄と青山トンネル 4.近畿日本鉄道の誕生 5.奈良線と生駒トンネル 6.橿原線の歴史 7.天理線の歴史 8.孤立する田原本線 9.近鉄最古の路線「道明寺線」
近鉄特急「橿原神宮前行き」(2019年1月)
近畿日本鉄道(近鉄)の現行路線
近畿日本鉄道(近鉄)は、難波線2.0キロ・奈良線26.7キロ(大阪難波~近鉄奈良)、京都線34.6キロ・橿原線23.8キロ(京都~大和西大寺~橿原神宮前)、けいはんな線18.8キロ(長田~学研奈良登美ヶ丘)、大阪線108.9キロ(大阪上本町~伊勢中川)、名古屋線78.8キロ(伊勢中川~近鉄名古屋)、南大阪線39.7キロ・吉野線25.2キロ(大阪阿部野橋~吉野)、生駒線12.4キロ(生駒~王寺)、天理線4.5キロ(平端~天理)、田原本線10.1キロ(新王寺~西田原本)、信貴線2.8キロ(河内山本~信貴山口)、湯の山線15.4キロ(湯の山温泉~近鉄四日市)、鈴鹿線8.2キロ(伊勢若松~平田町)、山田線28.3キロ・鳥羽線13.2キロ・志摩線4.5キロ(伊勢中川~賢島)、道明寺線2.2キロ(道明寺~柏原)、長野線12.5キロ(古市~河内長野)、御所線5.2キロ(尺土~近鉄御所)、生駒鋼索線2.0キロ(生駒ケーブル/鳥居前~生駒山上)、西信貴鋼索線1.3キロ(西信貴ケーブル/信貴山口~高安山)、葛城索道線(葛城登山口~葛城山上)というように数多くの路線を抱えています。
生駒鋼索線(生駒ケーブル)
生駒山地は古来より信仰の対象として知られていますが、標高642メートルの生駒山には宝山寺があります。宝山寺は1678年(延宝6年)に創建され、その後多くの人々が参詣し、現在では「生駒山」「生駒の聖天さん」として知られています。宝山寺への参詣客の輸送を担ってきたのが生駒鋼索線(通称「生駒ケーブル」)です。この路線は、鳥居前~宝山寺間を結ぶ宝山寺線と、宝山寺~生駒山上間を結ぶ山上線の2区間から構成されています。
宝山寺線は見かけは複線となっていますが、運用においては2つの単線が並列している形態であることから、それぞれ宝山寺1号線、宝山寺2号線とよばれています。宝山寺1号線は1918年(大正7年)に生駒鋼索鉄道が、わが国初めての鋼索鉄道として開業しています。鋼索鉄道は一般的にケーブルカーとよばれ、ケーブルが繋がれた車体を巻き上げて運転する鉄道のことです。鋼索鉄道は急勾配を克服するための手段としての鉄道の一つですが、日本の国土のそのほとんどが山岳地帯であるため、鋼索鉄道による高低差の克服は有効な手段の一つとなっています。
生駒山鋼索電気軽便鉄道は1913年(大正2年)、鳥居前~宝山寺間において軽便鉄道免許を取得し、翌年に「生駒鋼索鉄道」と社名変更しました。1918年(大正7年)にこれが開業しますが、鳥居前駅は大阪電気軌道(大軌)の生駒駅と接続していた他、大阪電気軌道(大軌)の役員が生駒鋼索鉄道の役員に就任するなど、当初より大阪電気軌道(大軌)より支援を受けた会社でした。当時、北浜銀行の経営破綻により経営難となっていた大阪電気軌道(大軌)は、宝山寺への参詣客の輸送を担うこの路線を重要と考え、1922年(大正11年)に生駒鋼索鉄道を合併しています。生駒鋼索鉄道を合併した大阪電気軌道(大軌)は1926年(昭和元年)、宝山寺への参詣客の輸送力増強を目的として、宝山寺1号線に並走する宝山寺2号線を開業しました。戦時中、宝山寺2号線は不要不急路線として撤去されていますが、1953年(昭和28年)に復活を果たしています。
一方、山上線は1929年(昭和4年)、生駒山上に遊園地が開園したことから来園客の輸送のために開業しています。既存の宝山寺線の延伸ではなく単独の路線となったのは、技術的な問題や2路線間の輸送量に大きな差があったからではないかといわれています。
その路線網は大阪府、京都府、奈良県、三重県、愛知県の2府3県にもおよびます。また、この総営業距離はJRを除くわが国の民鉄においては最長となっています。
大阪電気軌道(大軌)の設立
近畿日本鉄道(近鉄)は1910年(明治43年)に奈良軌道として発足し、すぐに大阪電気軌道(大軌)と改称しています。大阪電気軌道(大軌)はまさに近畿日本鉄道(近鉄)の本流となる前身会社です。創業時は現在の奈良線にあたる上本町(現在の大阪上本町)~奈良(現在の近鉄奈良)間30.6キロのみの路線でしたが、その後路線の拡張や延伸を続けてきました。
(左)創業当時の上本町駅(右)創業当時の奈良駅
1926年(大正15年)には、1914年(大正3年)にその起点として開業していた上本町駅に在阪私鉄初のターミナルビルとして大軌ビルディングを完成させています。大軌ビルディングは7階建てのドイツ建築であり、1階は新上本町駅となりました。まさに大躍進する「近鉄の象徴」でもありました。さらに、1936年(昭和11年)には大軌百貨店を開業しています。
上本町ターミナル整備完成記念乗車券
大阪電気軌道(大軌)のデボ1形は上本町(現在の大阪上本町)~奈良(現在の近鉄奈良)間が開業した1914年(大正3年)にデビューしました。正面に5枚窓、側面に3扉をもつ木製の電動客車であり、営業開始にあたって18両が製造されました。木製といえども従来のようにすべてが木造というわけではなく堅牢な鉄骨木造であり、将来の連結運転に備えて当時の車両としては最新の電機諸装置が取り付けられていました。車両はプラットホームと同一平面上で乗降できる平床式となっていました。デボ1形は後に200形と名称を変更し、奈良線や橿原線で廃車となる1964年(昭和39年)まで活躍しました。
近鉄創業70周年記念乗車券
参宮急行電鉄と青山トンネル
参宮急行電鉄は1927年(昭和2年)、大阪と伊勢を高速電気鉄道で結ぶ目的により設立された鉄道会社です。1931年(昭和6年)には山田(現在の伊勢市)~宇治山田間を開通させ、桜井~宇治山田間を結んでいます。これによって、当時の大阪電気軌道(大軌)との間で乗り入れ運転を開始し、上本町~宇治山田間(大軌上本町~桜井間39.8キロ、参急桜井~宇治山田間97.5キロ)が全通しました。
上本町・宇治山田間(大軌・参急)全通50周年記念特急券
当時、上本町~宇治山田間の直通列車には急行と準急があり、急行は上下合わせて14本(上り7本、下り7本)のダイヤが組まれていました。途中の停車駅は八木、名張、伊賀神戸、中川、松坂、外宮前、山田となっており、その所要時間は2時間30分でした。その運行に使用された2200形は、青山付近の急勾配も高速運転ができる大出力モーターと発電ブレーキなど当時の最高水準の性能をもつ電車でした。座席の大部分はクロスシートとなっており、車内にはトイレや特別室なども設置されていました。
2215+3000形+2200形
1938年(昭和13年)には参急中川(現在の伊勢中川)~桑名間を開通させ、関西急行電鉄との間で乗り入れ運転を開始し、上本町~名古屋(現在の近鉄名古屋)間の直通運転を実現しました。
【青山トンネルと新青山トンネル】
上本町~宇治山田間における青山トンネルの工事は相当に大変な工事であったといわれます。青山トンネルは現在の大阪線の西青山~東青山間に位置し、その長さは3,432メートルになります。当時の青山トンネルは単線でしたが、曲線と勾配が連続するため難工事となりました。
その後1975年(昭和50年)、新青山トンネルが完成したため、青山トンネルは廃止されています。青山トンネルが単線であったこと、33.3‰の勾配を抱えること、また曲線が連続するトンネルであることから、その勾配と曲線を緩和した新青山トンネルが建設されるに至りました。その長さは5,652メートルを誇ります。
1941年(昭和16年)になると、大阪電気軌道(大軌)は伊勢や名古屋へと進出していた参宮急行電鉄と合併し、関西急行鉄道と改称しました。関西急行鉄道は1944年(昭和19年)、まさに戦時下における陸上交通事業調整法により南海鉄道(現在の南海電気鉄道)との合併を余儀なくされ、近畿日本鉄道(近鉄)となりました。
【陸上交通事業調整法】
陸上交通事業調整法は1938年(昭和13年)に施行されましたが、戦時中、鉄道・バス会社などの整理統合の政策的促進を図るための法律です。たとえば、関西急行鉄道と南海鉄道が合併して近畿日本鉄道(近鉄)、阪神急行電鉄と京阪電気鉄道が合併して京阪神急行電鉄が誕生しています。
近鉄創業70周年記念乗車券
近畿日本鉄道の誕生
近畿日本鉄道(近鉄)は1963年(昭和38年)に奈良電気鉄道、1964年(昭和39年)に信貴生駒電鉄、1965年(昭和40年)に三重電気鉄道を合併し、現在の近畿日本鉄道(近鉄)となっています。
近畿日本鉄道の変遷
1969年(昭和44年)に上本町百貨店新館を開業し、1985年(昭和60年)には上本町ターミナルが完成しました。
上本町ターミナル整備完成記念乗車券
このとき、都ホテル大阪、都ヘルスクラブ、近鉄劇場、近鉄小劇場、ABCギャラリー、近鉄百貨店上本町店などがオープンしています。
上本町ターミナル整備完成記念乗車券
またこの頃、近畿日本鉄道(近鉄)は最新の電子技術を搭載した「インバータ電車」となる1250系をデビューさせています。
(上)デボ1形 (下)1250系
奈良線と生駒トンネル
奈良線は布施~近鉄奈良間を結ぶ路線ですが、実際の運行系統上は難波線の大阪難波~大阪上本町間と、大阪線の一部である大阪上本町~布施駅間を含めた大阪難波~近鉄奈良間を奈良線としています。
1914年(大正3年)にこの路線が開業した当時、国鉄の関西本線が湊町~奈良~名古屋間を結んでいましたが、関西本線が生駒山を迂回するルートだったため、奈良線の開通により奈良への所要時間は大きく短縮されました。奈良線の生駒山を迂回しないルートは、1914年(大正3年)の生駒トンネルの完成により実現しています。生駒トンネルは奈良線の開業と同時に開通していますが、孔舎衛坂(くさえざか)~生駒間に設けられました。生駒トンネルの長さは3,388メートルでしたが、これは1902年(明治35年)に開通した笹子トンネル(中央本線)に次いで当時の日本において2番目の長さとなりました。
1964年(昭和39年)になると、生駒トンネルの断面積が狭いということから新生駒トンネル(長さ3,494メートル)が開通したため、生駒トンネルは廃止されました。その後、けいはんな線が開業する際に、その生駒トンネルとして、廃止となった生駒トンネルの一部が断面積を拡張して使用されることになりました。
橿原線の歴史
橿原神宮前駅と複雑なジャンクションをもつ大和西大寺駅を結ぶ橿原線は、もともと大阪電気軌道(大軌)畝傍線という路線でした。1914年(大正3年)当時、大阪電気軌道(大軌)を支えていた北浜銀行が経営破綻となり、大阪電気軌道(大軌)は窮地に陥りました。経営再建にあたり、拡大策で乗り越えようとした大阪電気軌道(大軌)は歴史的な魅力が多い奈良に着目して畝傍線を開業することになります。
1921年(大正10年)に西大寺(現在の大和西大寺)~郡山(現在の近鉄郡山)間、1922年(大正11年)に郡山(現在の近鉄郡山)~平端、1923年(大正12年)に平端~橿原神宮前が開通して全通となりました。
1939年(昭和14年)になると、橿原神宮が拡張されたため、大阪電気軌道畝傍線(現在の橿原線)、吉野線、大阪鉄道(現在の南大阪線)のこの辺りの駅が統合されて橿原神宮前駅となりました。これにより、大阪から吉野へのルートとして、現在の南大阪線と橿原線を利用する形となったため、橿原神宮前~畝傍間は折り返し運転のみとなり小房(おうさ)線と改称されました。これは途中駅に小房駅があったためです。しかし、小房線は近畿日本鉄道(近鉄)に引き継がれた後、1945年(昭和20年)には休止、1952年(昭和27年)には廃止となっています。
天理線の歴史
現在の天理線の前身となる天理軽便鉄道は1915年(大正4年)、新法隆寺~天理間を開通させました。天理軽便鉄道は1914年(大正3年)に設立された鉄道会社であり、翌年に大阪方面から天理へ向かう天理教信者の輸送を目的として新法隆寺~天理間の路線を開業しました。
当時の新法隆寺駅(現在は廃止)は関西本線の法隆寺駅に隣接しており、これと連絡して大阪~天理間を結んでいました。その後、この路線は大阪電気軌道(大軌)、関西急行電鉄、近畿日本鉄道(近鉄)へと引き継がれ、1952年(昭和27年)に新法隆寺~平端間(法隆寺線)は廃線となりました。なお、現在では平端~天理間は天理線となっています。
1921年(大正10年)になると、大阪電気軌道(大軌)が天理軽便鉄道を買収して全線を天理線と改称し、その翌年には平端~天理間の軌間を762ミリから1,435ミリに改軌・電化しました。近畿日本鉄道(近鉄)の所属線となった現在では、天理線内において折り返し列車が運行されている他、京都線・橿原線の直通列車も運行されています。
その一方で、新法隆寺~平端間の軌間は天理軽便鉄道当時の762ミリのまま、電化もされずに法隆寺線と改称されました。その最盛期には1日25往復運転されていましたが、戦時体制になるとその本数は削減され、1945年(昭和20年)には不要不急路線とされ運転が休止されてしまいました。その後、資材転用のためレールは撤去されてしまい、1952年(昭和27年)に正式に廃止となりました。
孤立する田原本線
田原本線は新王寺~西田原本間10.1キロを結ぶ路線であり、起点は新王寺駅、終点は路線名が田原本線という名でありながら西田原本駅となります。田原本駅は西田原本駅から50メートルほどの至近距離にあり、橿原線の駅となっています。橿原線と田原本線は短絡線で結ばれていますが、2つの路線の間では直通運転がなされていないため、双方の路線を利用する場合には西田原本駅および田原本駅での乗り換えが必要となります。かつては2駅を統合する計画もありましたが、結果的に実現することなく、現在の状態となっています。
一方の新王寺駅についても近接する王寺駅との接続がなされており、関西本線・和歌山線との乗り換えをすることもできます。ただ、田原本線と同じく近鉄生駒線の王寺駅とは150メートルほど離れています。現在の新王寺駅・王寺駅周辺は大阪市のベッドタウンとして発展し、ターミナル駅およびショッピングタウンとして多くの人が行き交います。
田原本線は、現在では他線に乗り換えることができるとはいえ、実際は直通運転がなされていない孤立した路線となっています。ところが以前には、田原本線の線路は西田原本駅(当時は田原本駅)から東南方向へ延び、寺川、味間、大泉、大福(後の東新堂)、桜井町の5駅が設置されていました。
この路線はもともと、地元の有力者らによって設立された鉄道会社である大和鉄道が敷設しました。1918年(大正7年)には新王寺~田原本(現在の西田原本)間に蒸気鉄道が走ります。その後、1922年(大正11年)に田原本(現在の西田原本)~味間、1923年(大正12年)に味間~桜井町が延伸開業します。
このときの桜井町駅は、現在の桜井駅(万葉まほろば線/桜井線)の少し西側にありましたが、1928年(昭和3年)になると桜井町~桜井間を開通させて桜井町駅を廃止し、桜井駅への乗り入れを果たしています。1921年(大正10年)~1923年(大正12年)にかけて、大阪電気軌道(大軌)が畝傍線(現在の橿原線)を開業させたことにより、大和鉄道の経営は悪化し、大和鉄道は大阪電気軌道(大軌)の傘下となりました。
ところが、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)、利用者の少なかった大和鉄道の田原本~桜井間は不要不急路線としてレールが撤去され、資材として転用されることになってしまいました。その後も同区間は復活することなく、1958年(昭和33年)に正式に廃止となりました。現在では線路跡の大部分が県道14号線となっています。
こうした中、新王寺~田原本間のみは大和鉄道の路線として営業を続けていましたが、1961年(昭和36年)に信貴生駒電鉄が大和鉄道を合併し、この路線は田原本線となりました。さらに、1964年(昭和39年)には近畿日本鉄道(近鉄)が信貴生駒電鉄を合併し、田原本線は近畿日本鉄道(近鉄)の路線となっています。このとき、田原本線の田原本駅は西田原本駅と改称しました。
近鉄最古の路線「道明寺線」
大阪阿部野橋から南大阪線に乗ると20分ほどで道明寺駅に到着します。道明寺線は道明寺駅から延びる支線であり、石川に沿って北へ進みます。北上する石川は東西に走る大和川と合流しますが、道明寺線は大和川を渡り柏原南口駅に到着します。柏原南口駅を出発するとすぐに終点の柏原駅となりますが、柏原駅では関西本線(愛称「大和路線」)と接続しています。道明寺線は起点と終点を含んでもわずか3駅、2.2キロの短い路線ですが、大和川と石川を挟んで対峙する柏原市と藤井寺市を結ぶ路線なので、通勤や通学をはじめとする市民の足として重要な役割を担っています。
道明寺線の柏原と南大阪線の古市を結ぶ区間は、現在の近畿日本鉄道(近鉄)の数多くの路線の中でも最も古い歴史をもつ路線となります。その開業は1898年(明治31年)ですが、これは河陽(かよう)鉄道によって開通しています。河陽鉄道はこの路線を開業した翌年には河南(かなん)鉄道と社名を変更し、1919年(大正8年)には大阪鉄道(2代)となっています。
【大阪鉄道(2代)】
大阪鉄道(2代)は、大阪環状線の東側部分を敷設した大阪鉄道(初代)とは異なる鉄道会社です。大阪鉄道(2代)は現在の南大阪線や長野線などを運営していた鉄道会社であり、通称「大鉄」とよばれていました。現在の長野線は、道明寺線の起点となる道明寺駅から南大阪線に乗ると、奈良方面の次の駅は古市駅ですが、長野線はこの駅より分岐しています。南大阪線は古市駅から大きくカーブして東へと向かい橿原神宮前・吉野方面へと向かいます。一方の長野線はそのまま南下し、富田林駅などを経由し河内長野駅へと到着します。河内長野駅では南海高野線と接続しています。
南海河内長野駅のホームから見た近鉄河内長野駅(2016年10月)
この路線の開業当時はもちろん蒸気機関車がのんびりと走っていた時代でした。当時この周辺で開業していた路線は関西本線と、高野鉄道(現在の南海高野線)のみであり、河陽鉄道はこの2つの路線を結ぶことを目的としていました。また、関西本線への乗り入れを企図していたため、関西本線の軌間と同じく1,067ミリを採用していました。
6両連結サイドタンク付蒸気機関車(1898年/ナスミス・ウィルソン製)
柏原~古市間が開業したすぐ後の1898年(明治31年)、河陽鉄道は古市~富田林間を延伸開業しています。また、その先の富田林~河内長野間が開業するのは1900年(明治35年)になってからのこととなりますが、すでにこのときは河陽鉄道から河南鉄道へと事業は引き継がれています。
河陽鉄道の事業を引き受けた河南鉄道は1908年(明治41年)、道明寺駅の東側の石川を渡った丘陵地帯に玉手山遊園地を開園しています。この遊園地は西日本最古といわれた遊園地でしたが、1998年(昭和63年)にすでに閉園してしまっており、その跡地は柏原市玉手山公園として整備されています。玉手山遊園地時代には、100メートルジャンボすべり台やこども動物園などがあったといい、数多くの家族連れで賑わいました。
玉手山遊園地開園70周年記念乗車券