京阪電気鉄道のはじまり
戦国時代、豊臣秀吉は大坂城,淀城,伏見城を築城しました。豊臣秀吉は隠居後、隠居先の伏見城から淀城を経由して大坂城への往来のために軍用道路を確保し、さらに淀川の治水対策とするため、毛利氏に命じて淀川左岸の堤防を修築したといいます。このときにできた堤防上の道は、京橋を起点として片町,東野田,内代(うちんだい)を通り淀川左岸沿いに進み、淀を経由して京へと至ります。この道が京街道であり、おおよそ現在の京阪本線沿いとなります。今では、その周辺の姿は大きく変わりましたが、大阪の交通の要衝として大いに栄えています。関目駅の近くには「関目七曲り」とよばれるジグザグの道が今でも残されています。
整備される「京街道」石碑(2016年11月)
渋沢栄一らが、高麗橋~五条間を結ぶ旧京街道沿いに走る鉄道を敷設することを目的として、1903年(明治36年)に畿内電気鉄道を設立しました。その後、1906年(明治39年)に畿内電気鉄道は京阪電気鉄道へと社名を変更して、京阪電気鉄道の歴史がはじまります。
中書島駅に入る宇治線の列車(2017年12月)
しかしながら、開業を直前に控えて変電所火災や試運転列車による事故災害に見舞われ、その予定が延期されたものの、1910年(明治43年)には、当時の電気鉄道としては日本国内最長路線となる天満橋~五条(現在の清水五条)間46.7キロを開業しました。
路線の拡大と京阪電気鉄道の歴史
1913年(大正2年)に中書島~宇治間7.8キロを開通した後、1915年(大正4年)には五条(現在の清水五条)~三条間1.5キロを延伸開業しています。1922年(大正11年)になると和歌山水力電気を合併し、和歌山水力電気が当時運営していた13.5キロにわたる軌道線を得て、京阪電気鉄道の和歌山支店にこれらの軌道線の運営にあたらせました。また同年、淀川右岸の新線敷設を目的として新京阪鉄道を設立しました。さらに、その前年に十三~千里山間を開業していた北大阪電気鉄道をその傘下に収めて、同社が保有する淡路~天神橋(現在の天神橋筋六丁目)間の免許を得ることに成功しました。
八幡市駅を通過する特急「出町柳行き」(2017年11月)
1925年(大正14年)には、三条大橋~札ノ辻(ふだのつじ)間10.9キロを運行していた京津電気軌道を合併した後、札ノ辻~浜大津(現在のびわ湖浜大津駅)間0.4キロを延伸開業しています。さらに、1928年(昭和3年)には新京阪鉄道が天神橋(現在の天神橋筋六丁目)~西院間、桂~嵐山間を開業したため、京阪電気鉄道は現在における阪急京都線,嵐山線および千里線の路線網をほぼ完成させたといえます。
一級河川鴨川(2016年12月)
1929年(昭和4年)になると、現在の石山坂本線を運行していた大津電車軌道を合併して螢谷(後に石山駅に統合)~坂本間14.1キロをその路線網に加えます。1930年(昭和5年)には京阪電気鉄道が新京阪鉄道を合併する一方で、この新京阪鉄道の合併費用捻出と和歌山支店の業績不振などをその理由として和歌山支店の運営する軌道線を合同電気(後の東邦電力)へと譲渡しました。
空に小さな月が見える夕暮れの枚方市駅(2017年3月)
その後、戦時中の1943年(昭和18年)、京阪電気鉄道は阪神急行電鉄(略称「阪急」)との合併を余儀なくされ、合併後には京阪神急行電鉄(略称「京阪神」)の一部となっています。その後、京阪神急行電鉄より分離独立し、1949年(昭和24年)に「新しい京阪電気鉄道」として再出発しています。このとき、現在の京阪本線,交野線,宇治線,京津線,石山坂本線が京阪電気鉄道(新)の所属となりましたが、新京阪鉄道が保有していた新京阪線(現在の阪急京都本線,千里線)は現在の阪急電鉄の所属となってしまいました。
滝井駅から見える土居駅(2017年12月)
1949年(昭和24年)に「新しい京阪電気鉄道」となった後、1955年(昭和30年)には男山鉄道鋼索線(現在の石清水八幡宮参道ケーブル)を直営により営業を再開、1963年(昭和38年)には天満橋~淀屋橋間の地下延長線を開業しました。また、1989年(平成元年)には鴨東線(三条~出町柳間)を開業しています。さらに、1997年(平成9年)には京津三条~御陵(みささぎ)間を廃止して地下鉄東西線(御陵~京都市役所前間)への乗り入れを開始しています。2008年(平成20年)になると中之島線(天満橋~中之島間)を開業しています。
京阪特急の歴史
京阪電気鉄道は1914年(大正3年)、わが国の大手私鉄の中で初めて料金不要の速達電車である急行の運転を開始しています。天満橋~京都五条(現在の清水五条)間を1時間20分で結んだといいます。これが京阪特急のはじまりとなります。
八幡市駅を通過する特急「淀屋橋行き」(2017年11月)
その後、この急行は最急行と改称されたり廃止となったりしますが、1950年(昭和25年)に初の特急が設定され、京橋~七条間のノンストップ運転がはじまります。
中書島駅に停車する特急「出町柳行き」(2017年11月)
1954年(昭和29年)には、特急車両にテレビを設置した「テレビカー」を登場させるなど大きな話題となりました。昭和30年代の前半にはすべての特急に「テレビカー」を連結しています。1993年(平成5年)になると、ノンストップ運転を貫いてきた特急において、一部の列車を中書島駅に停車させることとし、戦略の転換を図るようになります。2000年(平成12年)には中書島、丹波橋が終日特急停車駅に設定されることとなりました。
中書島駅における京阪本線と宇治線の分岐(2017年12月)
2017年(平成29年)、京阪電気鉄道は特急車両8000系に連結する「プレミアムカー(PREMIUM CAR)」を投入しました。特急列車の6号車となるプレミアムカーの乗車の際には、乗車券に加えて「プレミアムカー券」が必要となります。
プレミアムカー券(2017年11月)
「プレミアムカー券」は買い物をしたときのレシートのようであり、自分が考えていたよりも薄い紙でした。
プレミアムカー座席シート(2017年11月)
その一方で、車内の座席は快適であり、他の車両が混んでいる中、座席が指定できるのには大きなメリットがあります。
樟葉駅ホームのライナー足元表示(2019年8月)
京阪本線と鴨東線
京阪本線は淀屋橋~三条間(淀屋橋—北浜—天満橋—京橋—野江—関目—森小路—千林—滝井—土居—守口市—西三荘—門真市—古川橋—大和田—萱島—寝屋川市—香里園—光善寺—枚方公園—枚方市—御殿山—牧野—樟葉—橋本—石清水八幡宮—淀—中書島—伏見桃山—丹波橋—墨染—藤森—龍谷大前深草—伏見稲荷—鳥羽街道—東福寺—七条—清水五条—祇園四条—三条)を結ぶ京阪電気鉄道の路線です。
石清水八幡宮駅近くの木津川を渡る鉄橋(2017年12月)
運行系統上は、多くの列車が三条から出町柳まで続く鴨東線(おうとうせん)を経由して出町柳駅まで直通運転されます。鴨東線は1989年(平成元年)に開業しています。三条を起点として、鴨川沿いを三条,神宮丸太町,出町柳と走ります。
神宮丸太町駅の鴨川沿いの出口(2016年12月)
運行系統上は京阪本線から列車が乗り入れ、出町柳を終点としています。この鴨東線の開業にあたっては、鴨川電気鉄道を設立の上で実施され、後にこれを吸収する形で京阪鴨東線としています。
中之島線
内山田洋とクールファイブの「中の島ブルース」の2番の歌詞では「大阪中之島」を詠っています。
水の都に すてた恋
泣いて別れた 淀屋橋
ほろりと落とした 幸せを
あなたと二人 拾う町
ああ ここは大阪 中の島ブルースよ
中之島には大阪市役所,中之島図書館,大阪市中央公会堂などがあり、大阪を代表する場所のひとつです。その中でも中央公会堂は国指定重要文化財であり、1918年(大正7年)に完成した歴史ある建造物です。
大阪市中央公会堂(2016年8月)
大阪の両替商であった岩本商店を営んでいた岩本栄之助が寄付した100万円を元手として建設されました。
大阪市中央公会堂内の廊下(2018年10月)
大阪市中央公会堂内の扉(2018年10月)
大阪市中央公会堂に保存される壁の履歴(2018年10月)
中央公会堂はなにわ橋駅からすぐのところにありますが、この下を走る中之島線は中之島駅と天満橋駅を結ぶ営業キロにしてわずか3.0kmの短い路線です。
大阪市中央公会堂(2016年8月)
開業したのは2008年(平成20年)であり、大阪でも比較的新しい路線の一つです。中之島駅,渡辺橋駅,大江橋駅,なにわ橋駅という新しい駅が設置され、天満橋で京阪本線に接続しています。
中之島周辺のオフィスビル(2016年8月)
中之島駅以外はすべて「橋」という漢字が駅名に入っています。これは中之島が堂島川と土佐堀川にはさまれた場所であるからです。かつてに比べると、川沿いもきれいに整備され、晴れた日の休日の昼間や、仕事帰りに散歩するのにはとてもいい雰囲気があります。
石清水八幡宮楼門(2017年12月)
石清水八幡宮と『徒然草』
吉田兼好は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人ですが、日本三大随筆の一つである『徒然草』を著しています。『徒然草』の第五十二段には、仁和寺の僧が石清水八幡宮に参る際、その麓の寺社に参り、山上にある本宮には参らず、長年の思いを果たしたとのエピソードがあり、吉田兼好は何事にも先達が欲しいものだと結んでいます。
石清水八幡宮南総門(2017年12月)
『徒然草』第五十二段
仁和寺にある法師、年よるまで石清水を拝まざりければ、心憂く覚えて、ある時思ひ立ちて、ただ一人徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さてかたへの人に逢ひて、「年ごろ思ひつること、果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも参りたる人ごとに山へのぼりしは、何事かありけむ、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。すこしのことにも先達はあらまほしきことなり。
その僧が訪れることができなかった石清水八幡宮は、京都府南西部にある男山にあります。
男山(2017年12月)
男山
男山は標高142メートルの「鳩ヶ峰」の別称であり、859年(貞観元年)に石清水八幡宮が置かれました。
男山(2017年12月)
石清水八幡宮は日本三大八幡宮の一社に数えられ、宇佐神宮(大分県宇佐市)、筥崎宮(はこざきぐう/福岡県福岡市)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)と並び称されます。また、その本殿は現存する八幡造において最古のものであり、最大規模を誇ります。
石清水八幡宮(2017年12月)
男山山麓の八幡(やわた)市は木津川、宇治川、桂川の3川が合流する場所にあり、古くから石清水八幡宮の門前町として栄えてきました。京阪八幡市駅から徒歩3分ほどの場所に参道への入り口となる一ノ鳥居があり、その高さは約9メートル,幅約11メートルにもなります。
一ノ鳥居(2017年12月)
一ノ鳥居(2017年11月)
二ノ鳥居(2017年12月)
表参道を上り切ると三ノ鳥居があります。
参道(2017年12月)
三ノ鳥居(2017年12月)
三ノ鳥居をくぐると一ツ石があります。
一ツ石(2017年12月)
さらには、参道の一部分が重森三玲(しげもりみれい)による「鳩峯寮の庭」という石庭となっています。重森三玲は昭和時代の作庭家であり、日本庭園史の研究家です。1917年(大正6年)に画家の道を志しますが、その後、独学で日本庭園について学び、全国の庭園の調査を重ねながら、日本庭園史の研究家として大きな功績を残しました。重森三玲による代表的庭園としては、東福寺方丈庭園、光明院波心庭、岸和田城八陣の庭、北野美術館庭園、重森三玲庭園、松尾大社庭園などがあります。
鳩峯寮の庭(2017年12月)
ケーブルのりば
男山へ登るには参道を歩いて行く他、京阪八幡市駅で下車してケーブルカーに乗り換えて行くこともできます。このケーブルカーは通称「男山ケーブル」ですが、正式名称は「京阪電気鉄道鋼索線」といいます。なお、京阪電気鉄道は2019年(令和元年)にその通称を男山ケーブルから石清水八幡宮参道ケーブル(略称「参道ケーブル」)へと改称しています。
ケーブルのりば(2019年8月)
石清水八幡宮参道ケーブルの男山橋梁(2019年8月)
ケーブルのりばは八幡市駅に隣接していますが、いったん八幡市駅の改札口を出てからの乗車となります。写真の様子を見ると、ケーブルのりば付近は閑散としていますが、年間のケーブル利用者の50%が1月に集中しており、石清水八幡宮への初詣客によるものであることがわかります。
繁忙期用ケーブル駅へつながる臨時出口(2017年12月)
夏のケーブルのりば(2019年8月)
秋のケーブルのりば(2017年11月)
鋼索線ではICカードを使用できませんので、ケーブルのりばの券売機で切符を購入します。
往復切符「かえり」(2019年8月)
往復切符を購入した場合は、自動改札機に「いきの切符」を投入(切符は出てきません)して乗車します。山上駅には自動改札機はありませんので、八幡市駅で降車する際に自動改札機に「かえりの切符」を投入します。
八幡市駅の改札口(2019年8月)
ケーブル八幡宮口駅
ケーブル八幡宮口駅は1910年(明治43年)の京阪本線開通と同時に八幡駅として開業しています。八幡駅はその後、1939年(昭和14年)に石清水八幡宮前駅、1948年(昭和23年)に八幡町駅、1977年(昭和52年)に八幡市駅と駅名変更しています。さらに2019年(令和元年)にケーブル八幡宮口駅に変更しました。
ホームより垣間見るケーブル駅(2017年11月)
旧八幡市駅駅名標(2017年11月)
出町柳方面行きホームからの風景(2017年11月)
鋼索線の歴史
鋼索線はもともと、1926年(大正15年)に男山索道が八幡口(現在のケーブル八幡宮口)~男山(現在のケーブル八幡宮山上)間を開通させたのがはじまりとなります。
男山橋梁(2017年12月)
男山索道は1928年(昭和3年)に男山鉄道と社名変更しています。
男山橋梁(2017年12月)
1929年(昭和4年)には京阪電気鉄道がこの株式を買収して子会社としますが、1944年(昭和19年)に戦争による資材供出のため解散となってしまいました。
旧八幡市駅に停車する京阪特急色の車両(2017年11月)
その後、1955年(昭和30年)に京阪電気鉄道が免許を取得してこれを復活し、男山(現在のケーブル八幡宮口)~八幡宮(現在のケーブル八幡宮山上)間を再開しました。そして現在に至りますが、今となっては京阪電気鉄道唯一の狭軌路線(1,067ミリ)となっています。
リニューアルしたケーブル車両「あかね」(2019年8月)
先に京阪電気鉄道はこの鋼索線の通称を「男山ケーブル」から「石清水八幡宮参道ケーブル」に変更したと書きましたが、これに合わせて駅名も変更され、鋼索線の八幡市駅をケーブル八幡宮口駅、男山山上駅をケーブル八幡宮山上駅としました。
ケーブルカーの車内案内(2017年12月)
鋼索線の車両と設備
初代の車両(1号・2号)は京阪電気鉄道が鋼索線を復活させた1955年(昭和19年)に新造された車両でした。その車体色は緑色の通勤車色でしたが、1968年(昭和43年)に特急色のツートンカラーに変更されました。
旧八幡市駅に停車する特急色1号車(2017年12月)
その後、2001年(平成13年)に廃車となっています。2代目(1号・2号)はこれと入れ替わる形で、2001年(平成13年)に投入された車両です。
旧八幡市駅に停車する特急色1号車(2017年12月)
塗装は先代車両と同じく特急色となっていました。
旧八幡市駅に停車する特急色1号車(2017年12月)
そして、2019年(令和元年)、この車両は石清水八幡宮を意識したデザインへとリニューアルされました。新しい1号車は「あかね」、2号車は「こがね」と命名されています。
旧男山山上駅に停車する特急色1号車(2017年12月)
鋼索線はいわゆる「つるべ式」(交走式)というタイプであり、ロープの両端に車両を繋げ、交互に山上と山下を往復します。
1号車「あかね」の外観(2019年8月)
一方の車両が山上にあがると、もう一方の車両が山下におりるという2つの車両の関係について、鋼索線では太陽と月に見立て太陽光を赤、月光を黄とし、それぞれ「あかね」と「こがね」の車両への表現となっています。
1号車「あかね」の外観(2019年8月)
2号車「こがね」の外観(2019年8月)
座席配置はリニューアル前の車両と同じくすべて固定式クロスシートとなっています。
リニューアル前の1号車の座席(2017年12月)
一部を除いて座席の大部分は、下山時の眺望をよくするため下向き(ケーブル八幡宮口駅側向き)となっています。
新しい1号車「あかね」の座席(2019年8月)
シートの色柄は今回のリニューアルにより青から赤・黄へと変更されています。
新しい1号車「あかね」の座席(2019年8月)
側面の扉はリニューアル前と同じく片側5扉をもちます。片側5扉というのは、初代の車両(1号・2号)以来変更されていません。
リニューアル前の1号車の扉(2017年12月)
新しい車両の東側の扉(2019年8月)
新しい車両の西側の扉(2019年8月)
神の遣いとされる「阿吽の鳩」と御神紋「流れ左三つ巴」という石清水八幡宮を象徴する2つの要素をモチーフとして、新しい車両のシンボルマークが作られました。
1号車「あかね」のシンボルマーク(2019年8月)
1号車「あかね」には「吽形」、2号車「こがね」には「阿形」のシンボルマークが採用されています。
2号車「こがね」のシンボルマーク(2019年8月)
また、車両のリニューアルに合わせて、巻揚装置の制御装置および誘導無線の更新、索条(ロープ)の交換などの設備工事も実施されています。
駅構内に掲示されるケーブル設備一覧表(2017年12月)
男山橋梁
ケーブル線には男山橋梁というトレッスル式橋脚をもつ橋が架かりますが、この橋梁の高さは43メートルであり、全国にある鋼索線において最も高い橋梁であるとされています。
男山橋梁(2017年12月)
その渡橋中の車窓からは木津川、宇治川、桂川の三川と渓谷などの素晴らしい眺望をのぞむことができます。
男山橋梁(2017年12月)
上下線の行き違い(2019年8月)
リニューアル前の車両による上下線の行き違い(2017年12月)
ケーブル八幡宮山上駅
ケーブル八幡宮山上駅は、1926年(大正15年)に男山索道の男山駅として開業し、戦時中の廃止を経て1955年(昭和30年)に八幡宮駅として復活しています。1957年(昭和32年)に男山山上駅となり、2019年(令和元年)にケーブル八幡宮山上駅に改称しています。
ケーブル八幡宮山上駅の頭端(2017年12月)
ケーブル(2017年12月)
旧男山山上駅駅舎(2017年12月)
旧男山山上駅駅名標(2017年12月)
旧男山山上駅から展望台と本殿へ
旧男山山上駅を降りると、左ルートは緩やかな道を通って展望台へ、直進ルートはかなり急な階段を通って展望台へ行くことができます。展望台からは裏参道へとつながります。直進ルートの急階段は閉鎖されていました。
左ルートを上り駅舎を見る(2017年12月)
展望台へと続く急階段(2017年12月)
展望台には、その生誕100年となる1986年(昭和61年)に除幕された谷崎潤一郎の文学碑がひっそりと立ちます。
谷崎潤一郎の文学碑(2017年12月)
説明文によると、谷崎潤一郎は関東大震災を契機に関西に移住してから、その風土と伝統文化に魅せられたといいます。その後、純日本的、古典的なものを主題とする作品を多数発表しています。その中でも、展望台の碑に記された小説「蘆刈(あしかり)」は「春琴抄」などとともに女性を讃美し、永遠の美を追求した中期名作群の一つとされています。この小説の舞台は大山崎から橋本へ渡る淀川の中州であり、男山と月の描写は小説のもつ夢幻能の効果が考えられているとされます。
説明文(2017年12月)
展望台から見た風景(2017年12月)
そして、右は西ケーブル参道を通って石清水八幡宮本殿へと続きます。道なりにしばらく歩いて行くと三女神社が見えます。
三女神社(2017年12月)
淀屋橋駅
中の島ブルースに淀屋橋という地名が出てきます。淀屋橋は土佐堀川にかかる橋のひとつですが、江戸時代の豪商である淀屋が架橋したのが最初となります。この淀屋橋方面へ向かってなにわ橋駅から川沿いに歩いて行くとビジネス街が見えてきます。
中之島周辺のオフィスビル(2016年8月)
5分ほど歩くとすぐに御堂筋が見えてきます。地下鉄御堂筋線と京阪本線の交差する淀屋橋駅は商都大阪の中心でもあり、多くのビジネスパーソンが淀屋橋をひっきりなしに行き交います。淀屋橋を渡った土佐堀川の向こう岸には大阪水上バス乗り場も見えます。
水上バス乗り場(2016年8月)
天満橋駅
大阪の中心部を流れる大川に架かる天満橋,天神橋,難波橋は「浪華三大橋」とよばれます。その一つ「天満橋」が初めて架けられたのは豊臣時代といわれています。
天満橋(2017年9月)
それ以来、幾度となく架け替えられた天満橋はすべて木橋でした。1885年(明治18年)の大洪水で流出した際、鉄橋に架け替えられています。
1888年に設置された鉄橋の説明とその姿(2017年9月)
1888年(明治21年)、ドイツから輸入したトラス橋が架けらました。その鉄橋の橋門上に設置された橋名飾板と、その鉄橋の姿が現在の天満橋北詰の公園に展示されています。
1888年に設置された鉄橋の橋名飾板(2017年9月)
現在の天満橋は、1935年(昭和10年)に架け替えられたものであり、珍しい2階建ての構造になっています。
2階建て構造の天満橋(2019年1月)
京阪電気鉄道が、天満橋~五条(現在の清水五条)間を開業した1910年(明治43年)に、天満橋の南側に天満橋ターミナルが誕生しました。
天満橋から見える京阪天満橋ビル(2017年9月)
大阪市電は当時、まだ天満橋には到達していませんでしたが、翌年1911年(明治44年)に梅田新道~天満橋間(曽根崎天満橋筋線)が開業しました。その後すぐに、天満橋~谷町六丁目間が開通し、これにより天満橋駅は京阪電気鉄道と大阪市電の乗り換え客で大いに賑わったといいます。
天満橋駅を大川側から見上げる(2019年1月)
開業当初の天満橋駅は、路面から直接電車に乗り込むようなスタイルであり、切符売場や係員詰所の小屋が並ぶ程度だったそうです。およそ「天満橋ターミナル」にはほど遠いものでした。
天満橋駅を出て京都方面へ向かう京阪特急(2016年11月)
しかしながら、年を追うごとに改良が重ねられ、徐々にではあるがターミナル駅としての体裁ができあがってきました。
天満橋から東側を見る(2017年9月)
1933年(昭和8年)になると京阪デパートが開店し、その後、天満橋マーケット、阪急百貨店天満橋支店と店名を変えながら営業を続けました。しかし、1961年(昭和36年)に京阪本線が淀屋橋まで延伸されることとなり、駅ビルが取り壊されたため閉店となりました。その後、天満橋駅には松坂屋大阪店が開業しますが、2004年(平成16年)に営業不振により閉店し、2005年(平成17年)より京阪シティモールとして生まれ変わりました。
天満橋(2017年9月)
八軒家浜船着場(2017年8月)
大阪八百八橋
江戸時代、大坂は八百八橋とよばれ、それほど多くの橋が架けられていたということを知ることができます。もちろん、本当に808橋が架けられていたわけではなく、約200橋ほどが架けられていたそうです。この「200」という数字は八百八町とよばれた江戸に架けられた約350橋に比べると少ないものでした。
にもかかわらず、なぜ大坂が八百八橋とよばれたかというと、江戸の約350橋の半分が公儀橋(こうぎばし)であったのに対して大坂の公儀橋はわずか12橋であり、それ以外はすべて町人たちが自腹で架けた町橋だったため、その町人たちの活力が大坂を八百八橋とよばせたといえるわけです。
公儀橋は江戸幕府の経費により架けられた橋をいい、橋の架け替えや修復も江戸幕府の経費で実施します。これは町人たちがその経費を負担して架けられた町橋に対する用語です。江戸では公儀橋のことを御入用橋とよぶこともありました。
大坂の公儀橋は、大川(旧淀川)に架けられた天満橋、天神橋、難波橋、鯰江川(現在は埋め立て)に架けられた野田橋、備前島橋、寝屋川(旧大和川)に架けられた京橋、平野川(第二寝屋川)・猫間川(現在は埋め立て)に架けられた鴫野橋、東横堀川に架けられた高麗橋、本町橋、農人橋、長堀川(現在は埋め立て)に架けられた長堀橋、道頓堀川に架けられた日本橋の12橋となります。
天満橋駅から見える天満橋(2017年8月)
八軒家浜船着場
大坂の公儀橋12橋の一つである天満橋の最寄り駅となるのが天満橋駅です。
天満橋バス停(2017年8月)
大阪市は2008年(平成20年)、この天満橋駅に隣接する場所に八軒家浜(はちけんやはま)船着場を開設しました。
八軒家浜船着場(2017年8月)
大川の対岸(北岸)
八軒家浜船着場の対岸には、大川をはさんで淀川三十石船舟唄碑が立ちます。
淀川三十石船舟唄碑(2019年1月)
【淀川三十石船舟唄碑】
江戸時代、淀川は京都と大阪を結ぶ水上交通路として栄えました。大阪での基点となった八軒家船着場は、対岸の京橋、石町(こくまち)付近にありました。三十石船というのは、長さが17メートル、巾2.5メートルで米を三十石(米俵にて75俵)積み込める大きさの船という意味であり、京都・大阪を往復し、多い時は一日に三百隻にのぼったこともありました。この舟唄は当時の船頭たちによって歌われていたもので、京都から大阪までの沿岸の情景を歌ったものです。
また、淀川三十石船舟唄碑の近くには、天満乃子守歌と天満青物市場跡の碑も見えます。
天満乃子守歌(2019年1月)
天満青物市場は天満橋北詰から西へ天神橋までの間にあり、堂島米市場、雑喉場(ざこば)魚市場と合わせて大坂の三大市場と称されました。最初は石山本願寺の寺内町あたりに自然発生し、転々とした後、1653年(承応2年)にこの地に移動してきたといいます。1931年(昭和6年)になると、中央卸売市場に吸収されています。
天満青物市場跡碑(2019年1月)
「八軒家」の由来
八軒家の地名は江戸時代にこの地に8軒の船宿があったためといわれています。この辺りは熊野詣のための中継地点であったため、旅人たちはこの船宿を利用しました。
夕日に浮かぶ八軒家浜船着場付近の景色(2017年8月)
熊野詣とは紀伊半島の熊野にある本宮・新宮・那智の熊野三山を詣でることです。江戸時代の参詣者は夜に伏見を出発し、その船は翌朝に八軒家船着場に到着したといいます。
熊野街道
熊野街道の名は、京都から大阪を経由して熊野三山へ入る街道の総称として用いられます。熊野三山とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社をさします。
熊野街道碑(2017年10月)
参詣者は京都から淀川を船で下り、大阪の渡辺津で船を下りて街道を南へと向ったといいます。渡辺津は現在でいうところの天満橋付近ということになりますが、江戸時代になるとこの船着場は八軒家とよばれるようになり、人や荷物の往来がとても賑やかになったといいます。
当時の渡辺津の辺り(2019年6月)
この熊野詣は平安時代の貴族たちの間で行われるようになり、時代が流れると武士や庶民へと広がっていき、蟻の熊野詣とよばれるほど流行したといいます。
現地付近に立つ「熊野かいどう」の説明(2019年6月)
【三橋楼跡】
三橋楼は現在の大阪市中央区石町にあった料理旅館です。大川に架けられた難波橋・天神橋・天満橋を北に見下ろす景勝地にあり、江戸時代末期には高級料理屋として知られていました。1875年(明治8年)には、大久保利通と木戸孝允による10時間にわたる会談が行われ、このときには合意に至らなかったものの、明治新政府の立憲体制に向けての方針を定めたといわれる大阪会議に向けての最初の意見交換の場となりました。
現地に立てられる案内板より(2019年6月)
1882年(明治15年)になると、三橋楼の敷地および建物は日本ハリストス正教会の所有となり、1911年(明治44年)にはビザンチン様式の聖堂が建設されました。その聖堂は「大阪生神女(しょうしんじょ)庇護聖堂」と名付けられましたが、1945年(昭和20年)に空襲により焼失しています。
川の駅はちけんや
八軒家浜船着場のすぐそばには2009年(平成21年)、「水の都・大阪」再生の拠点として大阪府と民間企業が協力して川の駅はちけんやを開業しています。大阪が明治時代「水の都」とよばれるようになったは、古くからその水運により経済と文化の中心都市として発展してきたことによります。
「川の駅はちけんや」案内板(2017年8月)
飛鳥時代に難波津(なにわづ)とよばれた港には、多くの人や多くの物が発着して他国との交易拠点として栄えました。現在、大阪では古くからの川に寄り添う暮らしの風景を取り戻すためのプロジェクトが進められており、船着場の整備、護岸工事、橋梁などのライトアップが行われています。
アドプト・リバー八軒家浜(2017年8月)
川の駅はちけんやには情報発信施設やレストランなどの飲食店がある他、水陸両用バス「大阪ダックツアー」の発着場所となっています。
水陸両用バス(2017年8月)
大阪ダックツアー
川の駅はちけんやを出発した水陸両用バスは、土佐堀通を西へ行き、御堂筋を南下して、本町通より東へ戻ります。
水陸両用バス(2017年8月)
大阪城を右手に見ながら、上町筋を北上して、桜ノ宮から大川に入ります。
水陸両用バス(2017年8月)
大川を下り、はちけんやで折り返し、再び北上して桜ノ宮より陸上へ戻ります。源八橋を渡り、扇町通を西へ行き、天神橋筋を下ってはちけんやへ戻るというルートになります。所要時間は陸上60分、水上30分となります。
水陸両用バス(2019年3月)
関目駅
関目駅は1931年(昭和6年)、京阪本線の蒲生(現在の京橋)~守口(現在の守口市)間が専用軌道化される際に開業しています。
関目駅東口(2019年2月)
1943年(昭和18年)に会社合併により京阪神急行電鉄の駅となり、1949年(昭和24年)に会社分離により京阪電気鉄道の駅となっています。
関目駅東口(2019年2月)
その後、2006年(平成18年)に地下鉄今里筋線が開通したことにより関目成育駅が開業し、関目駅は関目成育駅との乗換駅となりました。
関目成育駅との乗換口となる関目駅西口(2016年11月)
滝井駅・土居駅
滝井駅は1931年(昭和6年)に開業しました。滝井駅と隣りの土居駅までの距離は極めて短く、滝井駅から京都方面の線路の先へ視線を移すと、隣の土居駅がよく見えます。2駅の中心地点間の距離は約400メートル、ホームの端と端との距離はたった159メートルしかありません。
滝井駅から見える土居駅(2017年12月)
萱島駅
クスノキは常緑高木であり、その木の幹が10メートル以上になることも珍しくありません。世界的にみると、台湾、中国、ベトナムなどといった暖かい場所に見られ、わが国においては本州西部の太平洋側、四国、九州などに見られます。
萱島駅の大クスノキ(2017年3月)
また、森林などでは見かけることが少なく、人里近くに多く見られます。神社などでは、クスノキの大木を見かけることがしばしばあり、御神木として信仰の対象とされる場合も多くあります。
萱島駅の大クスノキ(2017年3月)
萱島(かやしま)駅ホームには有名な大クスノキがあります。その大クスノキは淀屋橋・中之島方面行きホームのまさにど真ん中にあり、ホームの屋根を突き破るかのようにそびえ立ちます。
萱島駅の大クスノキ(2017年3月)
この大きなクスノキは、高さ約20メートル、幹回りは約7メートルもあります。樹齢700年ともいわれ、昔から萱島の大クスノキとして地元のみなさんに親しまれてきました。
駅のホームにある「萱島の大クスノキ」説明文(2017年3月)
昭和47年11月、輸送力増強のため着工した土居~寝屋川信号所間高架複々線の建設の際、地元のみなさんのクスノキに寄せる尊崇の念にお応えし、新しい萱島駅と共にこのクスノキを後世に残すことにしました。特有の芳香を放ち豊かな緑を繁らせて人々にやすらぎを与えてきたクスノキをいついつまでも大切に育てていくため、ご覧の通り樹木がホームと屋根とを突き抜けるという、全国に例のみない姿となりました。
萱島駅の大クスノキと京阪電車の車両(2017年3月)
駅を出てすぐクスノキの根元には、昭和55年夏に再興された萱島神社があり、ご神木のクスノキと共に地元のみなさんに親しまれています。
大クスノキの根元(2017年3月)
萱島駅は1910年(明治43年)、京阪本線が開業したと同時に設置されています。
萱島駅の大クスノキと京阪電車の車両(2017年3月)
その後、高度経済成長時代の1972年(昭和47年)、大阪郊外の人口増加に対応するため土居駅~寝屋川信号所(萱島駅~寝屋川市駅間)までの高架複々線工事に着手します。
土居~寝屋川信号所間複々線開通記念切符
複々線化工事は1980年(昭和55年)に完了し、複々線区間は天満橋駅~寝屋川信号所となります。しかし、その工事にともない、萱島駅を少し南側へと移設しなければならなくなりました。京阪電気鉄道はその用地として萱島神社の境内とその隣接地を買収しますが、その境内にあるクスノキの保存運動が起こったといいます。そうした中から、駅の屋根を突き破るような大クスノキが残りました。
萱島駅駅名標(2017年3月)
枚方市駅
特急が停車する枚方市駅は1910年(明治43年)、京阪本線の開通と同時に枚方東口駅として開業しました。
枚方市駅(2019年2月)
その後、1949年(昭和24年)に枚方市駅と改称され、1993年(平成5年)に高架工事が完成しています。
蔦屋書店の店内にある美しい本棚(2019年2月)
また、枚方市駅は2018年(平成30年)に駅構内のリニューアル工事が完成しています。全国で初めて無印良品がトータルデザインを担当する駅となり、木目調のシンプルで心地よい空間となっています。
木目調の駅構内(2019年2月)
構内にはオブジェがあり、オブジェには以下のようなメッセージがあります。
駅構内にあるオブジェ(2019年2月)
「生きとし生けるものは、なにかある大きなものに支えられている。その大きなものは自然といってもいいし、母なる大地といってもいい。あるいは神と呼んでもいいものではないか。棒状の石に刻まれた横縞は、生きもの――とりわけて人間が時間のなかの存在であることを示そうとしたものであるが、解読不能の経文のごときもの、あるいは念仏のたぐいと見てもらってもいい。山口牧生」
蔦屋書店の店内にある美しい本棚(2019年2月)
TSUTAYA社長の増田宗昭氏の著書によると、この枚方市が蔦屋書店の創業の地ということです。
駅から「HIRAKATA T-SITE」につながる渡り廊下(2019年2月)
1982年(昭和57年)、枚方市駅前にレンタルレコード店を開業し、オープン当日からお客さんが殺到したそうです。
蔦屋書店のあるHIRAKATA T-SITE(2019年2月)
現在、枚方市駅前の「HIRAKATA T-SITE」の蔦屋書店にはさまざまなジャンルの書籍が興味をそそるように並べられている他、料理に関する本や児童書、文具などのラインアップも充実しています。
蔦屋書店の店内にある美しい本棚(2019年2月)
枚方市駅のお隣りの樟葉駅は1910年(明治43年)、京阪本線の開通と同時に設置されました。快速特急「洛楽」以外のすべての種別の列車が停車します。
樟葉駅ホーム(2019年8月)
京橋駅に到着する京阪電車の車両(2019年1月)
淀駅
淀駅の歴史は古く、京阪本線の開通と同時の1910年(明治43年)に開業しています。
淀駅駅名標(2018年2月)
1925年(大正14年)には隣接する京都競馬場が営業を開始しました。
高架ホームからみる京都競馬場(2018年2月)
1943年(昭和18年)に会社合併により京阪神急行電鉄の駅となりますが、1949年(昭和24年)には再び京阪電気鉄道の駅となっています。
高架ホームからみる京都競馬場(2018年2月)
淀駅は古くから何度も水害を受けてきましたが、1999年(平成11年)より駅の高架化工事に着手し、2009年(平成21年)には下りホームの高架化が完了しました。
京都方面行きホーム(2018年2月)
2011年(平成23年)になると上りホームの高架化も完了し、水害を受けにくい新しい高架駅として生まれ変わりました。
淀駅を通過する特急(2018年2月)
新しい駅が完成する前の地上駅は淀城趾の本丸南東部にありましたが、京都市は淀城跡公園の再整備を計画しています。
淀駅の行先標(2018年2月)
淀駅から徒歩5分ほどで淀城跡に到着します。淀城は現存しませんが、その本丸の石垣と堀の一部のみ残っています。
伏見桃山駅
京阪バスは、大阪府の京阪沿線地域や京都府南部,滋賀県大津市などでバス路線を運行している京阪電気鉄道グループのバス会社です。その歴史がはじまったのは1922年(大正11年)のことであり、当時は桃山自動車として創立されました。当時の桃山自動車は、京阪伏見桃山駅から伏見桃山陵を訪れる参拝客の輸送を担ったということです。その2年後には、社名を京阪自動車と改称し、同じ区間において乗合バスの営業を開始しています。現在では、近鉄京都線の桃山御陵前駅と京阪伏見桃山駅の間にある京阪桃山ビルの前に京阪バス発祥之地の碑が建ちます。
「京阪バス発祥之地」の碑(2017年12月)
その碑には「京阪バス株式会社の前身・桃山自動車株式会社は、大正11年7月20日、中野種一郎を発起委員長とする発起人13名により資本金5万円でこの地に創立され、自動車11両を以てハイヤー営業を開始した。大正13年10月28日、社名を京阪自動車株式会社に改め、同15年1月1日から京阪電車伏見桃山駅ー桃山御陵下間0.8粁の乗り合いバス営業を開始した。昭和2年10月30日、京阪電鉄は京阪自動車の全株式を取得、その後の京阪沿線のバス路線網拡充の基をなした。同47年4月1日、創立50周年を期して社名を京阪バス株式会社に改めた」とあります。
京都京阪バスのバス停(2018年2月)
1972年(昭和47年)、京阪自動車は社名を京阪バスと称して現在の社名としています。その後、京阪バスは2006年(平成18年)、同じ京阪グループの京阪宇治交通と京阪宇治交通田辺の2社と合併しています。京阪宇治交通の前身となるのは1922年(大正11年)に設立された宇治田原自動車商会ですが、1959年(昭和34年)に京阪グループの一員となり京阪宇治交通と社名変更しています。その後、1999年(平成11年)には宇治営業所の事業を京阪宇治交サービスへ、2002年(平成14年)には田辺営業所の一部路線を京阪宇治交通田辺へと分社化していました。
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京都京阪バスは京阪グループのバス会社ですが、以前の社名は京阪宇治バスでした。2014年(平成26年)に京阪シティバスを合併して、このときに現社名へと改称しています。また、親会社について見ると、設立当初の2002年(平成14年)は京阪宇治交通でしたが、2006年(平成18年)になると京阪宇治交通が京阪バスに合併されたため、その親会社も京阪バスへと変更されました。
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伏見稲荷駅
お隣同士となる京阪電気鉄道の伏見稲荷駅と深草駅(現在の龍谷大前深草駅)は、これまで以下のように駅名を変更しています。
【伏見稲荷駅と深草駅の駅名変更】
稲荷新道駅 ――→ 稲荷駅 ――→ 稲荷神社前駅 ――→ 伏見稲荷駅 ――→ 現在に至る
稲荷駅 ――――→ 深草駅 ―――――――――――――――――――――――→ 龍谷大前深草駅
伏見稲荷駅は1910年(明治43年)、京阪本線開通の際に稲荷新道駅として開業しました。開業当時には伏見稲荷の表参道の最寄り駅であった現在の深草駅が稲荷駅と称していましたが、稲荷新道駅から神社へと続く新しい参道の方が伏見稲荷大社に近かったことから、8か月後に稲荷新道駅は稲荷駅と改称しました。
深草駅/現在の龍谷大前深草駅(2018年4月)
これと同時に、稲荷駅は深草駅と改称しています。なお、京阪電気鉄道は2019年(令和元年)、深草駅の駅名を龍谷大前深草駅と改称しました。もともと稲荷駅として設置された現在の龍谷大前深草駅は、当初より深草車庫が併設された駅でした。1917年(大正6年)には、その車庫や留置車両が全焼する火災が発生しています。その後も車庫の他、列車無線基地局や変電所などが配置されて拠点駅として重視されましたが、1980年(昭和55年)に淀車庫が完成すると深草車庫は廃止されてしまいます。
深草駅の東側を流れる琵琶湖疎水/鴨川運河(2018年4月)
新しく「稲荷駅」と称した現在の伏見稲荷駅はその後、1939年(昭和14年)に稲荷神社前駅、1948年(昭和23年)に伏見稲荷駅となっています。伏見稲荷駅の柱は現在でも朱塗りにされていますが、これは伏見稲荷大社の千本鳥居にちなんで古くからこのような柱としています。
伏見稲荷駅(2017年12月)
伏見稲荷大社は現在では、日本を訪れる外国人に最も人気のある観光スポットの1つとなっています。「千本鳥居」とよばれる朱色の鳥居が重なる姿は訪れる観光客を圧倒しますが、この鳥居の下をくぐると願い事が叶うとされます。
千本鳥居(2017年12月)
京阪宇治線の歴史
宇治川電気は戦前、わが国の五大電力会社(東邦電力、東京電灯、大同電力、宇治川電気、日本電力)の1つであり、近畿地方を拠点としていました。宇治川電気は鉄道事業も運営しており、1926年(大正15年)には近江鉄道をその傘下におさめた後、兵庫電気軌道および神戸姫路電気鉄道を買収しています。さて、現在の京阪電気鉄道の宇治線となる軌道敷設免許は1907年(明治40年)にこの宇治川電気が取得していたものですが、これを京阪電気鉄道が1910年(明治43年)に買収したものです。これにより1913年(大正2年)、中書島~宇治間が開業しています。
京阪宇治駅駅名標(2017年12月)
1943年(昭和18年)になると、京阪電気鉄道と阪急電鉄が合併したことにより京阪神急行電鉄の所属となります。その後、これより京阪電気鉄道が分離したため、1949年(昭和24年)に宇治線となり現在に至ります。この路線は現在、京阪本線の中書島駅から分岐し、宇治駅までの間を結んでいます。
六地蔵駅に停車する「宇治行き」(2016年7月)
日本最古の電車路線
中書島駅は1910年(明治43年)、現在の京阪本線が開通したのと同時に開業しています。1913年(大正2年)には宇治線が開通したために、当時の駅を移設して乗換駅となっています。現在の中書島駅の改札の外には「日本最初の市電・中書島駅」という案内板が立ちます。
中書島駅にある案内板(2017年10月)
1970年(昭和45年)に日本最古の電車路線であった伏見線(塩小路高倉~中書島間)7.1キロと稲荷線(勧進橋~稲荷間)0.7キロが廃止となりました。このうち、伏見線の歴史は古く、1895年(明治28年)に七条停車場(現在の京都駅)~伏見町油掛間が開通しています。
伏見油掛に立つ「電気鉄道事業発祥の地」の碑(2017年12月)
この路線を開業したのは京都電気鉄道であり、これは1894年(明治27年)に設立された民間の鉄道会社です。京都電気鉄道が開業したこの路線は日本最初の営業電車路線となりました。路面電車となったこの路線の軌間は1,067ミリとされ、明治時代において日本の標準軌とされた軌間と同じです。小型の木製車両が使用され、その車体の長さは8メートル、定員が30名という電車による歴史のはじまりとなりました。1914年(大正3年)になると、この路線は延伸され中書島駅に達しています。
伏見・稲荷線廃止記念乗車券
1912年(明治45年)には、この京都電気鉄道に次いで京都市電も開業し、当時の京都には私鉄と市営の2つの路面電車が走っていました。ところが、1918年(大正7年)には京都電気鉄道は京都市に買収されることになりすべて京都市電となりました。そのため、京都電気鉄道はわずか23年で消滅してしまうことになりました。京都市電は世界的な標準軌である1,435ミリを採用していたため、京都電気鉄道買収後の1923年(大正12年)に伏見線と稲荷線を1,435ミリへと改軌して営業しました。京都電気鉄道の2つの路線は由緒ある路線であり、専用軌道区間や酒蔵の並ぶ風格のある街並を走っていたため人気があったそうです。
梅小路公園に保存される京都市電の車両(2019年1月)
京都鉄道博物館のすぐ近くの梅小路公園には京都市電の最後の新造車両となった2000形が保存されています。1964年(昭和39年)より新造されましたが、1977年(昭和52年)の京都市電全廃のときを待たずして廃車となり、2002号車~2006号車の5両は伊予鉄道へと譲渡されました。また、2001号車は保存対象となって烏丸車庫跡に保存されていましたが、2014年(平成26年)より梅小路公園で保存されています。
梅小路公園に保存される2001号車(2019年1月)
宇治茶と源氏物語のまち
宇治線の終点となる宇治駅はJR奈良線にも宇治駅があるので、通称「京阪宇治駅」とよばれています。
宇治駅駅舎(2017年12月)
両駅は宇治川をはさんで立地しており、約900メートルほどの距離があります。
宇治駅ホーム(2017年12月)
宇治駅の駅舎は1996年(平成8年)にグッドデザイン賞を受賞し、2000年(平成12年)には「近畿の駅百選」に選定されています。
宇治駅駅舎(2017年12月)
宇治というとお茶をイメージする方も多いですが、宇治市のホームページによると「宇治茶と源氏物語のまち」と紹介されています。お茶についてみると、鎌倉時代に宋から帰国した栄西が日本に茶の種を持ち帰り、それを宇治に伝えたのは栂尾山高山寺(とがのをさんこうさんじ)の明恵と伝えられています。宇治茶は室町時代に栄えますが、その象徴として宇治七名園がつくられました。茶の栽培に必要な水についても「宇治七名水」が定められました。桐原水(きりはらすい)の他、公文水(くもんすい)、法華水、阿弥陀水、百夜月井(ももよづきい)、泉殿(いずみどの)、高浄水の7つとなりますが、このうち桐原水だけが今なお枯れることなく湧き出しています。
宇治上神社境内に残る桐原水(2017年12月)
一方の『源氏物語』(54帖)についてみると、これを著したのは女流文学者である紫式部です。『源氏物語』は当時の宮廷社会の実情をリアルに描写し、因果応報の人生観を有する人間性を追求した長編小説です。紫式部は、宇治川畔一帯に華やかな貴族文化が栄えた王朝時代に登場した才女です。しかしながら、彼女の生没年もはっきりとはせず、その生涯も謎に包まれているといわれています。藤原宣孝の妻となりますが、彼が亡くなった後『源氏物語』の執筆をはじめたといいます。その後、左大臣であった藤原道長より、一条天皇の中宮になった娘の彰子に女房として宮仕えの身となりました。紫式部の作品としては『源氏物語』の他、宮仕え時代の生活を綴った『紫式部日記』や、歌人としての非凡な才能が見られる『紫式部集』があります。
宇治川西詰の紫式部石像(2017年12月)
宇治市を流れる宇治川に架かる宇治橋は、瀬田の唐橋、山崎橋と合わせて「日本三古橋」ともよばれます。宇治橋が初めて架けられたのは646年(大化2年)と伝えられているそうで、大化の改新の頃ということになります。
宇治橋(2017年12月)
この橋の近くに放生院(ほうじょういん)というお寺があります。この寺院は長年、宇治橋と深く関わってきたことから「橋寺」ともよばれています。橋寺は604年(推古12年)に聖徳太子の発願により秦河勝(はたのかわかつ)が建立したと伝えられており、宇治橋の守り寺とよばれてきました。
橋寺放生院(2017年12月)
宇治橋はしばしば流出し、1286年(弘安9年)には西大寺の僧である興正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)によって再興されています。叡尊は宇治川の中州に十三重石塔を建立するととともに、橋寺において大放生会(だいほうじょうえ)を営んだことから、それ以来「放生院」とよばれるようになりました。橋寺の本尊としては鎌倉中期の地蔵菩薩が安置されています。橋寺の本堂の前にある宇治橋断碑(だんぴ)には初めて宇治橋を架けたときの由来が彫られており、上の三分の一ほどがわが国に現存する最古の碑文の一つと考えられています。これは重要文化財に指定されており「日本三古碑」の一つともなっています。
宇治川(2017年12月)
この橋寺放生院から宇治川に沿って少し上流へ行くと宇治上神社があります。
宇治上神社(2017年12月)
宇治上神社は「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産リストに登録されていますが、その創建は古く、平安時代に平等院が建立されるとその鎮守社となりました。
平等院(2017年12月)
その後も周辺住民の崇敬を集めて社殿が維持されてきたといいます。
世界文化遺産「宇治上神社」(2017年12月)
宇治上神社の本殿はその特徴から平安時代後期に造営されたものと見られ、現存する神社本殿としては最古の建築となります。
本殿(2017年12月)
一間社流造(いっけんしゃながれづくり)の内殿三棟を左右一列に並べ、後世にこれに共通の覆屋(おおいや)をかけたものです。
本殿(2017年12月)
その身舎(もや)の扉には、建立当時の絵画が遺されています。
宇治上神社(2017年12月)
また、拝殿は鎌倉時代初期に建てられたものであり、これは現存する最古の拝殿となります。神殿は神のための建築物ですが、拝殿は人が使う建築物であり住宅の建築様式が採用されています。
本殿(2017年12月)
なお、境内に湧き出ている桐原水は宇治七名水の1つとされています。
桐原水(2017年12月)
明治時代までは、宇治上神社は隣接する宇治神社と合わせて、それぞれ離宮上社・離宮下社とよばれていました。祭神としては、宇治神社の祭神でもある皇子莵道稚郎子(うじのわけいらつこ)の他、父の応神天皇と兄の仁徳天皇を祀っています。
宇治・伏見1dayチケット
世界遺産もある宇治への小旅行には宇治・伏見1dayチケットが便利です。宇治・伏見1dayチケットをうまく利用すれば、宇治や伏見などの京阪沿線の観光地をお得にめぐることができます。
宇治・伏見1dayチケット(2017年12月)
京阪本線の八幡市~伏見稲荷間(石清水八幡宮参道ケーブルを含む)および中書島~宇治間の各駅での乗降が1日間フリーとなります。これに加えて、淀屋橋駅、中之島駅、京橋駅、出町柳駅、祇園四条駅などからフリー区間への1往復も可能となります。
黄檗駅
黄檗宗は江戸時代にはじまった日本三禅宗のうちの1つであり、萬福寺はその本山となります。萬福寺の最寄り駅となるのは黄檗駅です。
黄檗駅(2018年2月)
宇治線の黄檗駅は1913年(大正2年)、宇治線が開通すると同時に黄檗山駅として開業しています。1926年(大正15年)に黄檗駅と改称しています。
京阪黄檗駅付近の様子(2018年2月)
また、この駅に隣接するJR線の黄檗駅は1961年(昭和36年)に当時の国鉄が奈良線の駅として開業しました。
京阪黄檗駅付近の風景(2018年2月)
観月橋駅
観月橋駅の改札口は上下線が別々になっているため、改札内での上下線ホームへの往来はできません。
観月橋駅中書島方面行きホームの改札口(2019年8月)
次の改札口の写真では、観月橋駅の上を観月橋(国道24号線)が跨いでいるのを見ることができます。
観月橋駅宇治方面行きホームの改札口(2019年8月)
現在の観月橋は2階建構造の橋となっており、上の写真の観月橋は1975年(昭和50年)に新しく完成した2階部分となります。1階部分は1936年(昭和11年)に完成したものですが、こちらは観月橋駅の入口のところで京都外環状線に交差しています。
2階建構造となる観月橋(2019年8月)
「観月橋」の名は、豊臣秀吉が指月山月橋院(京都市伏見区にある曹洞宗の寺院)で月見の宴を催したことに由来するといいます。鎌倉時代末期にはすでに橋が架かっており、当時は桂橋と称していました。
丹波橋駅
丹波橋駅は1910年(明治43年)、京阪本線の開通より2か月遅れて桃山駅として開業しました。1913年(大正2年)に駅名を丹波橋駅と改称しています。連絡通路を渡ると近鉄京都線に乗り換えることができます。
丹波橋駅に停車する特急(2018年3月)
東福寺駅
東福寺駅は1910年(明治43年)、天満橋~五条(現在の清水五条)間が開通すると同時に開業しています。1957年(昭和32年)には、当時の国鉄奈良線の京都~稲荷間に国鉄の東福寺駅が新設され、翌年には京阪と国鉄の駅の連絡施設工事が完了しています。
東福寺駅ホーム(2018年9月)
清水五条駅
清水五条駅は1910年(明治43年)、当時の終着駅「五條駅」として開業しました。1963年(昭和38年)に「五条」と表記を変更し、2008年(平成20年)に清水寺の最寄り駅ということから「清水五条駅」と改称しています。
祇園四条駅
1915年(大正4年)、五条(現在の清水五条)~三条間延伸の際に「四條駅」として開業しました。1963年(昭和38年)に「四条」と表記を変更し、2008年(平成20年)に繁華街である祇園の中心地であるということから祇園四条駅と改称しています。
建仁寺(2018年7月)
祇園四条駅から歩いてすぐの場所に建仁寺があります。建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山であり、日本に正式に臨済宗を伝えた栄西が開山しました。
建仁寺(2018年7月)
方丈は室町時代の建築物であり、もともとは安国寺(広島県)にあったものです。これを1599年(慶長4年)に安国寺恵瓊が建仁寺に移築したものです。現在では重要文化財となっています。
方丈(2018年7月)
ここからさらに東へ行くと有名な八坂神社があり、その隣には円山公園があります。円山公園は1886年(明治19年)に誕生した京都市で最も古い公園です。円山公園には、優雅なたたずまいの中で、かつて国内外の賓客を迎えた長楽館があります。
長楽館入口(2017年3月)
長楽館は1909年(明治42年)に建築された建物であり、現在でもホテルとして営業しており、宿泊、レストラン、カフェとして利用することができます。
長楽館(2017年3月)
三条駅
三条駅は1915年(大正4年)、現在の京阪本線が三条まで延伸される際に開業しました。
三条駅駅名標(2017年9月)
当初は旧字体の「三條」と表記していましたが、1963年(昭和38年)に「三条」と表記を改めました。
三条駅に入る準急「出町柳行き」(2017年9月)
交野線
1.交野線の歴史 2.私市駅とその周辺の風景
私市駅に停車する枚方市~私市間を往復する車両(2019年9月)
交野線の歴史
交野線は枚方市~私市間を結ぶ京阪電気鉄道の路線です。1939年(昭和14年)に交野電気鉄道が設立されますが、これが信貴生駒電鉄の運行する枚方東口(現在の枚方市)~私市間の路線を譲り受けたものです。
交野線の列車の車内(2019年9月)
その後、京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)が交野電気鉄道の事業を譲り受けて交野線としました。1949年(昭和24年)に京阪電気鉄道が京阪神急行電鉄より分離した際に京阪交野線となりました。
車内に掲示される路線図(2019年9月)
以前は交野線から京阪本線への直通列車が運転されていたこともありましたが、現在では交野線内の枚方市~私市間の折り返し列車のみ運行されています。
私市駅とその周辺の風景
交野線の終点となる私市(きさいち)駅は1929年(昭和4年)に信貴生駒電鉄の駅として開業しました。
私市駅(2019年9月)
その後、交野電気鉄道、京阪神急行電鉄の所属を経て、現在は京阪電気鉄道の駅となっています。
私市駅に停車する「枚方市行き」(2019年9月)
現在の私市駅は2面2線の頭端式ホームをもつ駅です。
私市駅ホーム(2019年9月)
その駅舎は三角屋根が印象的な山小屋風の造りの駅舎となっていて、2002年(平成14年)には近畿の駅百選に選定されています。
私市駅駅舎(2019年9月)
七夕の原型ともいえる文化は、百済から来た渡来人よりこの地に持ち込まれたのではないかと考えられています。この地はかつて「交野ヶ原」とよばれ、交野ヶ原には川砂が白く光って見える天野川が流れていました。
私市駅近くの天野川付近の自然豊かな風景(2019年9月)
清少納言は『枕草子』において「野は交野」として風光明媚な交野ヶ原を描き、平安時代の貴族たちには狩猟の場としてよく知られた地でした。昔の人々はこの天野川の姿を、天にある無数の星たちがつくる天の川と重ねて見たのかもしれません。
私市周辺の散策マップ(2019年9月)
渡来人たちが交野ヶ原に伝えた七夕の原型はその後、さまざまな文化との融合を繰り返して現在の七夕へと進化を遂げてきました。この地で語り継がれてきた「天の羽衣伝説」などの影響を受けながら織姫と彦星の七夕物語へと発展し、また笹の葉に願いごとをしたためた短冊を付ける風習が一般的となりました。
天野川沿いの風景(2019年9月)
交野ヶ原は現在でいうところの枚方市と交野市を合わせた丘陵地をさし、この地の歴史は『古事記』や『日本書紀』が編纂される以前からはじまっています。
天野川沿いの風景(2019年9月)
『日本書紀』によると、皇后(きさき)のための用事をする役所を私府(きさふ)とよび、また皇后のための農耕などをした人を私部(きさべ)といいました。推古朝以来、交野市の村々は皇室領でしたが、その人々は皇后の部民(べのたみ)であったといいます。
私市駅近くの天野川付近の自然豊かな風景(2019年9月)
その中心となった村は当時、私部内(きさべのうち)とよばれましたが、「私市」の名はこれに由来します。私市周辺には大和の国との間を結ぶ磐船街道が走っており、天野川沿いの中心的な集落として発展してきました。現在でも古くからの家屋が残されています。
私市駅駅舎(2019年9月)
この風景が見える近くには大阪市立大学理学部附属植物園がありますが、この植物園は1950年(昭和25年)に研究施設として発足したものです。
植物園入口(2019年9月)
植物園の約26ヘクタールの敷地をもち、ここでは日本産樹木の収集に力を注いでいます。
植物園入口(2019年9月)