淀川右岸線敷設計画
1910年(明治43年)に京阪電気鉄道は天満橋~五条(現在の清水五条)間を開業していたものの、軌道条例によって建設されたこの路線はカーブ区間も多く、新しい時代への高速運転が難しい状況にありました。
中書島駅付近を走る準急「淀屋橋行き」(2019年8月)
大正時代に入ると、こうした悪条件の中でも、京阪電気鉄道が京阪本線(淀川左岸線)において成功を収めているのを見ると、淀川右岸においても大阪~京都間を結ぶ鉄道敷設計画がいくつか策定されました。
淀川右岸線と淀川左岸線の路線図
京阪電気鉄道はこうした動きに対し、自ら新京阪鉄道を設立して対抗することになります。淀川右岸線が敷設された際には他社との厳しい競争が予想されますが、それを見越して京阪電気鉄道は淀川右岸線と京阪本線(淀川左岸線)を結ぶバイパス線の敷設を企てます。1919年(大正8年)には、野江~吹田~山崎~淀間および山崎~四条大宮間の免許を取得することに成功しました。
現在の野江駅(2016年11月)
京阪電気鉄道のこの路線が敷設されれば、淀川右岸線と京阪本線(淀川左岸線)を淀川越しにバイパス線で接続できることになります。この淀川右岸線のイメージはほぼ現在の阪急京都線と重なるように見えますが、鉄道省は京阪電気鉄道のターミナル駅が天満橋駅だけでは、新線建設の乗客増に対応できないとして、大阪市内にもう1か所ターミナル駅を設けることを、この免許取得の付帯条件としています。
阪急ラッピング電車「古都(KOTO)」(2018年9月)
京阪梅田線敷設計画
ちょうどこの頃、大阪市の都市計画に合わせて城東線(現在の大阪環状線の一部)を高架化して移設する計画が浮上しました。京阪本線は当時、城東線(現在の大阪環状線の一部)と現在の京橋駅北方で交差しており、こうした計画を早い段階で知ることができる状況にありました。城東線(現在の大阪環状線の一部)の移設計画のうち、桜ノ宮~大阪間は現行線路とは離れて都島および天神橋筋六丁目付近を経由する高架線を新設するというものになっていました。
大阪環状線の京橋駅~桜ノ宮駅間の高架橋(2019年2月)
そのため、新高架線工事完了後は旧線跡地が不要となるため、京阪電気鉄道は国に働きかけてこれを取得しようと画策し、1920年(大正9年)に城東線(現在の大阪環状線の一部)の払下げに関する覚書を交わしました。京阪電気鉄道はこれに合わせて、先の特許線の計画について、葉村町(現在の中崎町駅付近)~桜ノ宮(京阪梅田線)~赤川~上新庄~高槻~四条大宮間のように変更して再申請しています。
現在の中崎町駅付近を走る大阪環状線の高架橋下(2019年2月)
京阪電気鉄道ではこれに加えて、京阪本線の森小路駅から線路を分岐させて、森小路~赤川~天神橋(現在の天神橋筋六丁目)間(京阪城北線)と赤川駅にて連絡させ、京阪本線も京阪梅田線を経由して梅田への乗り入れることができるような計画も検討していました。
京阪梅田線と京阪城北線の計画
ところが、これに対して都市計画を担当していた大阪市が、国と京阪電気鉄道の計画に猛反発したため話し合いは難航しました。2年間の調停を経て、京阪電気鉄道の子会社として新京阪鉄道が設立された1922年(大正11年)、こうした計画が認可されるに至りました。新京阪鉄道は、このうち赤川~上新庄~高槻~四条大宮間の敷設を担当すると決められました。
赤川付近:おおさか東線の城北公園通駅建設工事(2018年2月)
ようやく、京阪電気鉄道が新京阪鉄道による梅田ターミナル駅を建設し、京阪本線を梅田ターミナル駅に乗り入れるという構想を実現するかに見えました。ところが、1923年(大正12年)の関東大震災による緊縮財政のため、城東線(現在の大阪環状線の一部)の移設計画は中断を余儀なくされてしまいました。そこで、京阪電気鉄道は十三~淡路~千里山間(現在の阪急京都本線・千里線)を運営していた北大阪電気鉄道の経営権を掌握した後、1923年(大正12年)にその事業と免許を新京阪鉄道へ譲渡させました。
阪急千里線柴島駅付近(2017年1月)
▼北大阪電気鉄道は当時、淡路駅から南下して天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目駅)へと至る路線免許を保有していたが着工できずにいた。▼城東線(現在の大阪環状線の一部)の移設計画の中断により、京阪梅田線および梅田ターミナル駅の計画を断念せざるを得なくなっていた京阪電気鉄道は、北大阪電気鉄道を利用してこのターミナルを天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目駅)へと変更する。
阪急淡路駅付近の高架工事の様子(2019年5月)
▼京阪電気鉄道は、新たに淡路~上新庄間の免許を取得して新京阪鉄道の敷設予定路線と接続し、四条大宮~高槻~上新庄~淡路~天神橋(現在の天神橋筋六丁目駅)というルートで大阪へ入ることを目指そうとした。▼新京阪鉄道はついに1925年(大正14年)、天神橋(現在の天神橋筋六丁目駅)~淡路間、1928年(昭和3年)に淡路~高槻町(現在の高槻市)~京都西院(現在の西院)間(新京阪線)の開通を実現した。
大阪環状線天満駅の西側の高架橋(2019年2月)
▼これが現在の阪急京都本線の前身。▼新京阪鉄道は新京阪線をさらに延伸するため、1928年(昭和3年)より着工する。▼延伸区間となる西院~京阪京都(現在の大宮)間は1931年(昭和6年)に完成し、京都地下線として開業した。▼京都地下線は総延長わずか2キロだが、1933年(昭和8年)に開業した地下鉄御堂筋線の梅田~心斎橋間より2年ほど早くに地下鉄線を開業していることになる。
地下鉄御堂筋線心斎橋駅(2017年1月)
▼新京阪線が開通した年、ようやく城東線(現在の大阪環状線の一部)の高架工事が動き出した。▼この時点で、先の計画のうち、上新庄~赤川間、森小路~赤川~天神橋(現在の天神橋筋六丁目)間、赤川~桜ノ宮~天満~葉村町~梅田間は敷設できずにいたことになる。
大阪環状線桜ノ宮駅~天満駅間の高架橋(2019年2月)
▼さて、昭和初期にはじまる金融恐慌(昭和恐慌)の影響により、新京阪鉄道の経営が悪化し、合わせて京阪電気鉄道も苦況にあった。▼そうした中、城東線(現在の大阪環状線の一部)の移設計画についても再開したものの、当初の計画であった現行線路とは離れて都島および天神橋筋六丁目付近を経由する高架線を新設するという計画も、現行路線に沿って高架線を敷設するという計画に変更されてしまった。▼これにより工事は縮小され、京阪電気鉄道の負担分は圧縮されることになったが、それでさえ経営悪化により支払いが苦しい状況になっていたという。
大阪環状線の京橋駅~桜ノ宮駅間の高架橋(2019年2月)
▼都市計画を担当する大阪市は1928年(昭和3年)の段階で、京阪電気鉄道に対して、その新線計画が大阪市の都市計画の妨げになるとして断念するよう要請していた。▼そこで、京阪電気鉄道は、未成線となっていた上新庄~赤川間、森小路~赤川~天神橋(現在の天神橋筋六丁目)間、赤川~桜ノ宮~天満~葉村町~梅田間の計画を、京阪本線の分岐線となる野江~桜ノ宮~天満~葉村町~梅田間と、新京阪線の延伸線となる天神橋(現在の天神橋筋六丁目)~葉村町~梅田間に整理統合することにした。
京阪本線関目駅(2016年11月)
▼さらに、破産寸前の状態にあった新京阪鉄道は1930年(昭和5年)に京阪電気鉄道に吸収合併されることとなったが、京阪電気鉄道自体の経営状況もさらに悪化することになった。▼これにより、新京阪鉄道の路線は京阪電気鉄道新京阪線となり、名古屋急行電鉄の敷設計画も頓挫した。▼名古屋急行電鉄の敷設計画とは、新京阪鉄道が名古屋方面への路線として計画していたものである。▼阪急京都本線の西向日駅から線路を分岐し、大津、石山を経由して名古屋方面へ向かうという路線。▼これについても高速運転を目指しており、これが実現していれば2時間ほどで名阪間が結ばれていたことになる。
名古屋城(2018年3月)
▼こうした中、鉄道省は城東線(現在の大阪環状線の一部)の高架工事の費用を国ですべて負担することを決定したため、京阪電気鉄道への旧線跡地払い下げも破棄されることとなり、京阪梅田線の計画は断念せざるを得なくなった。▼1942年(昭和17年)にはとうとう京阪梅田線の免許は失効となった。▼その後1943年(昭和18年)に京阪電気鉄道は阪神急行電鉄と合併して京阪神急行電鉄となった。▼1949年(昭和24年)に京阪神急行電鉄より京阪電気鉄道(新)として独立することになったが、旧新京阪鉄道の路線(旧新京阪線)は京阪電気鉄道(新)のもとへは戻らず、現在の阪急京都線となっている。▼また当時、京阪梅田ターミナル駅として予定していた梅田の土地は現在では「阪急村」の一部となり、赤い観覧車がそびえ立つ。
京阪電鉄乗越橋
今でもこの計画の夢の跡を垣間見ることができる場所があります。大阪環状線の桜ノ宮駅東口を出て線路に沿って京橋方面へ少しばかり歩きます。
桜ノ宮駅東口(2019年2月)
しばらく行くと高架下に、不動産屋と美容室の間に線路の南側へと抜けられる道を見つけることができます。この場所が京阪本線より分岐して梅田を目指すことになっていた京阪梅田線が大阪環状線と立体交差をすることが予定されていた京阪電鉄乗越橋と名付けられる高架橋です。京阪電気鉄道がその建設費の負担したといわれています。
京阪電鉄乗越橋(2019年2月)
この高架橋の少し下のコンクリートの出っ張り部分(橋のグレー部分と美容室の赤いテントの間の部分)には、「京阪電鉄乗越橋、設計荷重:KS-16、基礎工:木杭、しゅん功(竣工):昭和7年8月」と書かれた銘板が残ります。
銘板(2019年2月)
この高架下は狭くて暗いですが、もし京阪梅田線の計画が実現していたら、この下を京阪線の線路が通り、大阪環状線の線路に沿って梅田まで私たちを運んでくれていたのでしょうか。
高架下部分(2019年2月)
またこのとき、伝説の電車「P-6形」は京阪デイ100形と名称を変更しています。
このとき、伝説の電車「P-6形」(京阪デイ100形)も京阪神急行電鉄の所属となっています。
伝説の電車「P-6形」
天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目)では駅ビルの2階にホームが設置され、当時としては最先端のターミナル駅となりました。また、1930年(昭和5年)には天神橋(現在の天神橋筋六丁目駅)~西院(開業後に京都西院より改称)間をノンストップ34分で結ぶ超特急の運転を開始しました。この超特急は並走する東海道本線の超特急「燕」を追い抜いたともいいます。超特急「燕」を追い抜いたとされる伝説の電車「P-6形」は、1928年(昭和3年)以降戦後の時代にかけて特急・急行として活躍した新京阪鉄道の主力車です。
京阪神急行電鉄の切符
この車両が登場するまでの長距離列車は、蒸気機関車が客車を牽引する仕様となっており、いわゆる「電車」とよばれる車両は路面電車のことをさしました。国鉄の超特急「燕」も蒸気機関車が牽引していました。そうした中、登場したP-6形はまさに高速電車の元祖とされています。
京阪神急行電鉄の切符
P-6形の特徴は全長18メートル、車体幅2.8メートルの大きさであり、地上から乗り降りできないほどの高床車となっており、当時の人々はその姿に驚きを隠せなかったといいます。この車両の登場以降、鉄道会社は車両の性能を向上させることに力を注ぐことになり、電車の技術は切磋琢磨されながら進歩しました。
京阪神急行電鉄の切符