大阪環状線・大阪臨港線[JR西日本]

投稿者: | 2018-07-18

環状線内に乗り入れるさまざまな列車

大阪環状線(大阪―天満―桜ノ宮―京橋―大阪城公園―森ノ宮―玉造―鶴橋―桃谷―寺田町―天王寺―新今宮―今宮―芦原橋―大正―弁天町―西九条―野田―福島―大阪)は一周40分で大阪のまちを環状する鉄道であり、JR西日本鉄道網の中核となる最重要路線です。現在では、大阪環状線の営業距離は21.7キロ、その駅数は19駅となっています。

森ノ宮電車区の103系電車(2017年8月)

いずれも環状していることから山手線と比較されることも多いですが、大阪環状線の実際の運行状況は山手線とは大きく異なります。山手線は環状運転を原則としていますが、大阪環状線には各方面からさまざまな列車が乗り入れています。

山手線の車両(2020年10月)

関西本線との直通運転をしているため加茂や奈良との間を往復する大和路快速,阪和線との直通運転をしているため関西空港や和歌山との間を往復する関空快速や紀州路快速が走ります。

和歌山駅に停車する紀州路快速(2019年7月)

また、桜島線(JRゆめ咲線)からの直通列車や特急「はるか」,特急「くろしお」も大阪環状線内に乗り入れています。

特急「ハローキティはるか」(2019年6月)


新型車両323系

JR西日本では2016年(平成28年)、大阪環状線に新型車両323系を投入しました。この新型車両の投入は、2013年(平成25年)からはじまる大阪環状線改造プロジェクトの一つとなります。大阪環状線改造プロジェクトは、大阪環状線を「行ってみたい」「乗ってみたい」線区に改造し、大阪の活性化を目指すものです。新型車両323系投入の他、駅美装改良、トイレ改良、環状線内全19駅での発車メロディの導入、高架下を利用した商業施設開発、アート計画などに取り組んでいます。

新型車両323系(2017年8月)

323系車両は、ステンレスの車体に大阪環状線のラインカラーであるオレンジが配されており、その下には茶色の帯が添えられています。4号車は女性専用車両に設定されており、4号車のドア横にはピンク色をあしらっています。3ドア・ロングシート仕様となっており、これまでの4ドアの車両から大きく変化しています。大阪環状線ではさまざまな車両が走っていますが、4ドア・ロングシート車両と3ドアクロスシート車両が混在しています。これが、ホームドア導入の妨げとなっている一つの原因であり、323系車両の登場は大阪環状線内にホームドア設置を実現するための一つの課題をクリアしたことになるのかもしれません。


103系車両引退と電車カラー

大阪環状線の代表的車両であるオレンジ色103系が引退しました。

吹田総合車両所内の103系車両(2016年10月)
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老朽化が激しく323系との置き換えが進み、103系は残すところ1編成のみとなっていました。オレンジ色の車体は「103系」というその名にちなんで、2017年(平成29年)10月3日に引退の日を迎えました。

吹田総合車両所内の103系車両(2016年10月)
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JR西日本におけるその他のカラーの車両、すなわちスカイブルー,ウグイスなどは運転を継続します。

吹田総合車両所内の103系車両(2016年10月)
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103系は国鉄が通勤用電車として開発し、1969年(昭和44年)から大阪環状線に投入されています。全国的にも103系のほとんどはすでに引退していますが、JR西日本では保守管理を行い、これまで現役として活躍してきました。

吹田総合車両所内の103系車両(2016年10月)
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電車カラーについて見ると、国鉄時代には通勤型車両の塗装については赤茶色とすると決まっていました。ところが、1950年代後半より色で乗車する車両を判断することができるようにと、電車カラーを塗り分けることにしたといいます。大阪環状線では開業時よりオレンジを採用し、阪和線や片町線(学研都市線)でもオレンジの車両が採用されていました。その後、阪和線では1968年(昭和43年)にスカイブルーの車両が採用されるようになりました。

吹田総合車両所内の103系車両(2016年10月)
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オレンジ色の201系についても、大阪環状線改造プロジェクトの一環として323系との置き換えが実施され、2019年(令和元年)6月7日をもって引退しました。201系は1979年(昭和54年)に登場していますが、当初は中央線総武線東海道本線山陽本線などに投入されました。しかし、現在では首都圏の車両としては使用されておらず、大阪環状線などに集約されて残っている形となっています。


大阪環状線の歴史

大阪環状線の成立について歴史的に見ると、大阪環状線の環状路線がすべて同時に成立したのではありません。すなわち、大阪駅および天王寺駅の東側と西側ではその成立過程が異なります。大阪環状線の東側を見てみると、天王寺~玉造~京橋~梅田(現在の大阪)間は1895年(明治28年)に大阪鉄道が完成させています。

大阪鉄道(初代)は1888年(明治21年)~1900年(明治33年)に存在した鉄道会社であり、関西本線(JR難波~奈良),和歌山線(王寺~高田),桜井線(高田~桜井)を運営していました。大阪鉄道(初代)はその後、1900年(明治33年)に関西鉄道に合併されてしまい、1907年(明治40年)には国有化されています。後に大阪環状線の一部となる梅田(現在の大阪)~京橋~玉造~天王寺間のこの路線は、1909年(明治42年)から1961年(昭和36年)まで「城東線」とよばれました。

大阪の電車・列車シリーズ記念入場券
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一方、大阪環状線の西側については、西成鉄道が1898年(明治31年)に大阪~安治川口間を完成させています。このとき福島駅、野田駅が開業していますが、大阪~福島間は貨物営業のみの取り扱い(1899年/明治32年から旅客営業開始)でした。西成鉄道は1896年(明治29年)に設立された鉄道会社であり、その全線が1906年(明治39年)に国有化されています。その後、安治川口から天保山(後に桜島に移転)まで延長され、「西成線」とされました。

桜ノ宮駅を出発する大阪環状線の車両(2023年1月)

1943年(昭和18年)になると、城東線と西成線の直通運転が行われるようになります。さらに、1961年(昭和36年)には西九条~大正~天王寺間が開業し、城東線と西成線の大阪~西九条間を合わせて「大阪環状線」となりました。その際、西成線の西九条~桜島間は「桜島線」と改称されています。この時点では環状運転は行われていませんでしたが、1964年(昭和39年)に西九条駅の高架工事が完成し、環状運転が開始され、ループが完成しています。


1.野田駅と野田阪神駅 2.野田城跡 3.大阪市場線と大阪市中央卸売市場 4.大阪市場線廃線跡「野田緑道」

 

大阪市場線の廃線跡「野田緑道」(2019年8月)


野田駅

この阪神電気鉄道野田駅から500メートルほど南に行った場所にあるJR西日本の野田駅は1898年(明治31年)、西成鉄道大阪~安治川口間を開通した際に、旅客および貨物を取り扱う一般駅として設置されています。その後、西成鉄道が国有化されたことにより国鉄の駅となり、1909年(明治42年)には線路名称が「西成線」と設定されたため、西成線の所属駅となりました。

 

野田駅駅名標(2019年8月)

 

大阪環状線では奈良方面へ向かう大和路快速、関西空港へ向かう関空快速、和歌山方面へ向かう紀州路快速、また特急「はるか」特急「くろしお」なども走るため、さまざまな列車がはげしく往来します。しかしながら、野田駅ではこれらの列車がすべて通過してしまうため、昼間の特に12時~15時の時間帯においては1時間に4~5本ほどの列車しか停車しません。都会の真ん中でありながら昼間はひっそりとした駅に感じてしまうこともあります。野田駅地下鉄千日前線玉川駅と隣接しており乗換駅となっています。この野田駅と玉川駅が交差する南東方向に野田城跡の石碑が立っています。

 

JR野田駅近くのマンションの一角に立つ石碑(2019年8月)


野田城跡

野田城は戦国時代にこの辺りにあった平城ですが、野田城跡はすでに住宅地となってしまっており、どのような城郭であったのかはよくわかっていません。

 

もう一つの野田城跡の石碑(2019年8月)

 

住宅地を東へと入っていくと極楽寺というお寺があり、そこにも野田城跡の石碑が立っています。

 

極楽寺(2019年8月)


大阪市場線と大阪市中央卸売市場

大阪市中央卸売市場は大阪市内にある中央卸売市場であり、現在では本場・東部市場・南港市場の3市場が開設されています。このうち、大阪市中央卸売市場本場は大阪市福島区にあり、その取扱高は豊洲市場(東京)に次いで国内第2位を誇ります。

 

大阪市中央卸売市場本場(2019年8月)

 

1931年(昭和6年)に当時の關一(せきはじめ)大阪市長により現在地に開設されました。社会政策論および都市計画論を専攻していた關一は大蔵省、高校教諭、大学教授を経て、1923年(大正12年)に第7代大阪市長となりました。都市計画に関する知識を生かして、御堂筋の拡幅、大阪市バス事業の開始、大阪港の建設、地下鉄の建設、大阪駅前の区画整理、大阪城公園の整備などに加えて大阪市中央卸売市場の開設し、いわゆる「大大阪時代」を実現しています。

 

大阪市場線廃線跡の先に卸売市場が見える(2019年8月)

 

大阪市中央卸売市場本場の開設にともない、当時の国鉄西成線(現在の大阪環状線の一部)の野田駅付近から線路を分岐して市場へと至る貨物線の計画が立案されました。土地買収に難航したものの、1931年(昭和6年)に貨物線として開通しました。当時は野田駅の横に貨物ヤードが設置され、ここより貨物線に入って大阪市中央卸売市場本場に設置された大阪市場駅へと乗り入れていました。

 

大阪市場線廃線跡の先に卸売市場が見える(2019年8月)

 

1961年(昭和36年)に城東線と西成線を合わせて大阪環状線が成立しますが、これよりこの貨物線は大阪環状線貨物支線(通称「大阪市場線」)となりました。このとき、大阪環状線のうち大阪~野田~西九条間についてはいまだ高架線とはなっておらず、大阪環状線となったものの、西九条で分断されており、本来の環状運転は行われていませんでした。これは、大阪西九条~(現在のJRゆめ咲線)~桜島間が西成線(旧西成鉄道であったことに由来します。

 

京都鉄道博物館に保存される103系電車(2019年1月)

 

その後、1964年(昭和39年)にようやく旧西成線の高架化工事が完了し、大阪環状線は高架線となり環状運転が開始されることになります。このとき、大阪市場線梅田駅(通称「梅田貨物駅」)から通称「梅田貨物線」を経由して野田駅にて分岐し、高架となった大阪環状線の下を通り大阪市場駅へ至るように変更されています。

 

昭和39年以降の大阪市場線のイメージ図

最盛期には大阪市場駅より数多くの生鮮食料品が出荷されていましたが、その役割は車に取って代わられるようになり、1985年(昭和60年)に大阪市場線は廃止となっています。

 

大阪市場線廃線跡(2019年8月)


大阪市場線廃線跡「野田緑道」

現在では、上図の紫線の部分は線路はなくなり、野田緑道という遊歩道になっています。

 

野田緑道の傍らに立つ名標(2019年8月)

 

野田駅から大阪環状線の線路沿いに西九条方面に少し歩いて、線路と平行に走る道路の南側に病院があります。野田6丁目の交差点の少し東側ということになりますが、この病院の辺りから野田緑道に入ることができます。

 

野田緑道に少し入り大阪環状線の線路を振り返る(2019年8月)

 

野田緑道に入り南へと下ります。緑道は緩やかなと弧を描いています。

 

野田緑道に入り南方向を見る(2019年8月)

 

線路跡とおぼしき場所を歩いて行きます。

 

野田緑道(2019年8月)

 

車道により緑道が一旦途切れますが、信号を渡ると、弧を描いていた緑道が東方向に続いています。そして、緑道の先に大阪市中央卸売市場の建物が見えてきます。野田緑道が終わると、大阪市中央卸売市場に到着します。

 

野田緑道の先に卸売市場が見える(2019年8月)

 


1.ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ) 2.西九条駅と西成鉄道 3.桜島線と大阪環状線 4.伝法線→西大阪線→阪神なんば線へ

 

ユニバーサルシティ駅へと続くJRゆめ咲線の線路(2016年10月)img_1664


ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)

ユニバーサル・スタジオ・ジャパンは2001年(平成13年)、大阪市此花区桜島にオープンしました。今ではすっかり人気が定着した施設ですが、さまざまな形でのアクセスが可能です。車では阪神高速湾岸線を利用し、北港JCTを分岐してユニバーサルシティ出口よりアクセスします。全国各地から高速バスを利用することもできますし、海遊館から海上シャトル船を利用することもできます。

 

吹田総合車両所で塗装されるラッピング電車(2016年10月)img_1769

 

こうした交通アクセスの方法の中でも最もポピュラーなのが電車を利用する方法です。たとえば、新大阪駅からJR京都線に乗車し、次の大阪駅大阪環状線に乗り換えます。3つめの西九条駅桜島線(愛称「JRゆめ咲線」)に乗り換えて、2つめのユニバーサルシティ駅を降りるとすぐです。大阪駅からは大阪環状線桜島線(愛称「JRゆめ咲線」)直通列車が走っていることもありますので、その場合は西九条駅での乗り換えは必要ありません。

 

西九条駅に到着するJRゆめ咲線のラッピング電車(2016年10月)
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西九条駅と西成鉄道

西九条駅は1898年(明治31年)に西成鉄道の駅として開業しました。西成鉄道は現在の大阪環状線の一部と桜島線(愛称「JRゆめ咲線」)を敷設した鉄道会社であり、1898年(明治31年)に大阪~安治川口間を開業しています。このとき、設置された駅は福島駅野田駅、安治川口駅でしたが、開業から半年後に西九条駅が開業しています。

 

西九条駅付近高架(2017年7月)

 

当初、大阪~福島間は貨物営業のみとなっていましたが、翌1899年(明治32年)にこの区間においても旅客営業が開始されています。その後、1905年(明治38年)には安治川口~天保山間が延伸開業し、天保山駅が新設されています。

 

隣接するJR西九条駅と阪神西九条駅(2017年7月)


桜島線と大阪環状線

1906年(明治39年)になると西成鉄道は国有化され、1909年(明治42年)に大阪~天保山間の路線は西成線と命名されています。1910年(明治43年)には安治川口~天保山間が廃線となり、新たに安治川口~桜島間が開業して桜島駅が新設されました。また、1931年(昭和6年)には野田大阪市場間(大阪市場線)、1943年(昭和18年)には安治川口~大阪北港間が貨物支線として開業しました。

 

安治川口駅に到着する桜島線(JRゆめ咲線)の車両(2016年10月)img_1668

 

1961年(昭和36年)になると大阪環状線が全通し、西九条~桜島間は分離されて桜島線となりました。1968年(昭和43年)には大阪環状線との直通運転が廃止されます。1986年(昭和61年)には安治川口~桜島間の貨物営業が廃止となっています。

 

京都鉄道博物館に展示される103系(2019年1月)

 

そして、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの開業とともに安治川口駅と桜島駅の間にユニバーサルシティ駅が新設された他、桜島線には「JRゆめ咲線」という愛称がつけられ、大阪環状線との直通運転も復活しています。

 

ユニバーサルシティ駅へと続くJRゆめ咲線の線路(2016年10月)img_1665

1.浪速貨物線から大阪臨港線へ 2.木津川橋梁と岩崎運河橋梁

 

大阪臨港線路線図


浪速貨物線から大阪臨港線へ

大阪環状線は1961年(昭和36年)に成立しましたが、この大阪環状線が成立する以前に今宮~大正~境川信号場に線路は敷かれていたといいます。この線路は1928年(昭和3年)に敷設されたものであり、当時は関西本線貨物支線とされました。関西本線貨物支線は別名「浪速貨物線」ともよばれ、現在の大阪環状線今宮駅より関西本線と分岐した後、現在の大阪環状線芦原橋駅、大正駅を通り、境川信号場から南西方向へ進路を取り浪速駅(現在は廃止)へと向かいます。

 

大阪臨港線(大阪環状線貨物支線)廃線跡(2019年8月)

 

浪速駅(現在は廃止)はかつて大阪市港区にあった関西本線貨物支線上の貨物駅であり「浪速貨物駅」ともよばれていました。浪速駅(現在は廃止)より先、この線路は分岐して大阪港駅へ向かう本線と、大阪東港駅へ向かう支線となっていました。

 

大阪臨港線(大阪環状線貨物支線)廃線跡(2019年8月)

 

こうした中1961年(昭和36年)、今宮駅から関西本線貨物支線(通称「浪速貨物線」)を経由して境川信号場へ至り、ここから新たに分岐線を敷設して西九条駅へつなぐ区間が完成し、既存の西成線大阪~西九条~桜島間)の一部および城東線大阪~京橋~天王寺間)と合わせて大阪環状線となりました。

 

大阪臨港線(大阪環状線貨物支線)廃線跡(2019年8月)

 

これにより関西本線貨物支線(通称「浪速貨物線」)大阪環状線貨物支線(通称「大阪臨港線」)となりました。

 

大阪臨港線(大阪環状線貨物支線)廃線跡(2019年8月)

 

この貨物線を敷設した1928年(昭和3年)当時は単線でしたが、大阪環状線は複線となりました。現在の大正駅の東側に架かる木津川橋梁や西側に架かる岩崎運河橋梁は当時、将来を見越して複線になることを想定して設計されていたといいます。

 

岩崎運河橋梁(2019年8月)

 

その後、「大阪臨港線」はその役割を終えて2006年(平成18年)に廃止となっています。

 

大阪臨港線(大阪環状線貨物支線)廃線跡(2019年8月)


木津川橋梁と岩崎運河橋梁

大正駅をはさんで東西にそれぞれ架けられる木津川橋梁と岩崎運河橋梁は形も大きさも同じように見えます。

 

木津川橋梁(2019年8月)

 

2つの橋梁は両端に角度がなく、それぞれの橋長は木津川橋梁が106メートル、岩崎運河橋梁が91メートルとなっています。

 

岩崎運河橋梁(2017年7月)

 

また、いずれの橋梁も高さが非常に高くなっています。たとえば、次の写真を見ると、特急「くろしお」の車高に比べると鉄橋の背丈が高いのが際立ちます。

 

木津川橋梁を渡る特急「くろしお」(2019年8月)

 

木津川橋梁へは大正駅の改札口を出て180度反転し、新今宮天王寺方向へ線路沿いに歩いて行くと5分とかからず、白っぽいダブルワーレントラス橋に出会います。

 

すぐ近くに見える木津川橋梁(2019年8月)

 

岩崎運河橋梁へは木津川橋梁とは反対方向、弁天町・西九条方向への線路沿いに歩いて行くとすぐに、緑色のダブルワーレントラス橋が目に入ります。

 

岩崎運河橋梁(2019年8月)

 

トラス橋とよばれる橋梁の一種ですが、トラス橋とは細長い材料を三角形に組み、これを繰り返し用いて橋をつくったものです。さまざまなタイプのトラス橋がありますが、木津川橋梁と岩崎運河橋梁はいずれもダブルワーレントラス橋に分類される橋梁です。

 

木津川橋梁の奥に大浪橋(道路橋)が見える(2019年8月)

 

ワーレントラスは斜材をアルファベットの「W」の形に組み、縦材を用いないで橋を作るため、材料を節約することができます。ダブルワーレントラスは斜材をアルファベットの「X」の形に組むため、ワーレントラスを重ねたような構造となり、ダブルワーレントラスとよばれるようになりました。

 

ワーレントラスのイメージ図

 

ダブルワーレントラスはワーレントラスに比べると、材料がより多く使用されるため橋の重量自体が単純に重くなってしまう他、車窓の風景にしても見えにくくなるというようなデメリットがあります。ダブルワーレントラス橋は関西ではあまり見られない橋梁であり、関西地方における貴重な鉄道遺産ということになります。

 

岩崎運河橋梁(2017年7月)

 

トラス橋の歴史を紐解いてみると、その成立は比較的新しく、18世紀半ば頃にヨーロッパで誕生したと考えられています。鉄鋼の材料が大量に生産されるようになると、トラス橋は長い距離を渡すのに便利であり、特に鉄道橋によく用いられるようになったといいます。日本における最初の鉄道橋としてのダブルワーレントラスは、すでに東海道本線の敷設工事の時点で登場しています。富士川、大井川、天竜川、木曾川、長良川、揖斐川を渡すのにダブルワーレントラスが用いられました。現代においては新しい技術が開発されるようになり、より長い距離を渡すには別の方法が採用されることが多くなりましたが、トラス橋のシンプルな構造は今日の橋梁にも多く用いられています。

 


桜ノ宮駅

毛馬桜之宮公園は大川(旧淀川)にある毛馬水門から天満橋まで広がる川沿いの公園であり、きれいな桜並木が続きます。

毛馬桜之宮公園(2018年3月)

その毛馬桜之宮公園とホテル街の間、大阪環状線の桜ノ宮駅から南へ徒歩7分ほどの場所にひっそりと櫻宮(桜宮神社)という神社があります。

櫻宮(2016年11月)

櫻宮(桜宮神社)には、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、八幡大神(やはたのかみ)、仁徳天皇が祀られています。

櫻宮(2016年11月)
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櫻宮(桜宮神社)はかつて現在の東野田町にありましたが、社殿が洪水で流され、現在の中野町(現在の桜ノ宮駅付近)に漂着し、そこに祀られました。

櫻宮(2016年11月)
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そこでも水害に悩まされた末、1756年(宝暦6年)に現在の地に移りました。

櫻宮(2016年11月)
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その櫻宮(桜宮神社)近くの桜ノ宮駅ですが、1975年(昭和50年)、山陽新幹線の岡山~博多間が開業する一方で、国鉄の累積赤字はより一層大きくなりその経営状況は大きく悪化していました。国鉄は、経営状況改善に向けて合理化に着手しようとするが、労働組合との関係も悪化してストライキが行われるなどしたため、国鉄に対するイメージは著しく悪化しました。

毛馬桜之宮公園(2018年3月)

そうした中、1975年(昭和50年)~1976年(昭和51年)にかけて、累積赤字解消のため運賃値上げを実施しています。結果的に、大都市においては乗客を私鉄に奪われ、長距離輸送においては飛行機に乗客を奪われました。

大川に架かる淀川橋梁(2019年2月)

当時の桜ノ宮駅にはホームのほとんどに屋根がなく、雨の日にホームで電車待ちをするには傘をさす必要があったといいます。運賃値上げに対する見返りとして、国鉄はホームに屋根をつけ、乗客サービスを向上させるという提案をしました。

桜ノ宮駅(2017年8月)
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ところが、屋根工事にあたって、戦前から道路沿いに植えられた桜が邪魔になっていました。桜を残すか、工事を強行するかで議論がありましたが、結果的に桜は切られて工事が実施されました。その後、桜ノ宮駅の西口に桜が植えられたといいます。

大川に架かる淀川橋梁(2019年2月)

桜ノ宮駅のすぐそばを流れる大川沿いは、江戸時代から「桜の名所」として知られています。現在の桜ノ宮駅では、その発車メロディーに「さくらんぼ」(大塚愛)を使用しています。2004年(平成16年)のヒット曲ですが、歌手の大塚愛さんが大阪出身であることと、大川沿いの毛馬桜之宮公園が「桜の名所」であることから選曲されたそうです。

淀川橋梁の桁下(2019年2月)

桜ノ宮駅は1898年(明治31年)、大阪鉄道(現在の大阪環状線の一部)の駅として京橋~天満間に新設開業したものです。その後、関西鉄道が大阪鉄道を合併したため、関西鉄道の所属となっています。

桜ノ宮駅東側の廃線遺構(2016年10月)
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桜ノ宮駅の北側には、かつて広大な淀川貨物駅・淀川電車区などがありました。

桜ノ宮駅東側の廃線遺構(2016年10月)
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そのため、現在の桜ノ宮駅周辺には数多くの廃線遺構があるといわれます。

桜ノ宮駅東側の廃線遺構(2016年10月)
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現在では、淀川貨物駅などの跡地は再開発により総合医療センターやマンション群へと変化を遂げました。そうした中、歴史を物語る古い遺構の数々も少しずつ姿を消しています。

桜ノ宮駅東側の廃線遺構(2016年10月)
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桜ノ宮駅から大川沿いに北へ少し歩くと都島橋があります。都島橋東詰南側には「大阪市水道発祥之地」の碑がたちます。

大阪市水道発祥之地」石碑(2016年11月)

1895年(明治28年)、大阪市最初の上水道がこの場所から送水されました。ここから、上水道が送水されるまで飲料水は淀川の井戸水に頼っており、感染症などのリスクがあったといいます。その後、大阪市の人口が増えるにつれ施設の拡張に迫られ、柴島浄水場を建設しました。そのため、この地での送水は1915年(大正4年)に停止しました。

桜ノ宮駅を出発して淀川橋梁を渡る大阪環状線の車両(2019年2月)

桜ノ宮駅や櫻宮(桜宮神社)は大阪市都島区にありますが、櫻宮(桜宮神社)から大川沿いに少し下ると「都島区由来記」の石碑が立ちます。遠い昔、母なる川である淀川に生成した多数の島や洲によって都島の大地がつくられたのがそのはじまりです。

「都島区由来記」石碑(2016年11月)

都島区由来記」石碑が立つのは、京阪国道(国道1号線)の桜宮橋東詰です。桜宮橋は大阪を代表する美しい橋の一つであり、太陽の光が射すと銀色に輝き、地元の人々は「銀橋」として親しまれます。桜宮橋は1930年(昭和5年)に完成し、その長さは188メートル,幅23メートルになります。全国的に有名な桜の名所「造幣局の通り抜け」は桜宮橋西詰近くにあります。

OAP(大阪アメニティパーク)を背にする銀橋(2016年11月)
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平安時代には民家や寺院なども見られましたが、実際に都島区の各地に集落が形成されるようになったのは近世になってからであり、京橋口から発する京街道が開発されて、京都と大阪を結ぶ道が政治的にも経済的にも大動脈となってからのことです。1889年(明治22年)に大阪市制が施行されて大阪市が誕生した後、市域拡張および行政区の再編成などがあって、1943年(昭和18年)に都島区は現在の区域として誕生しました。

毛馬桜之宮公園(2018年3月)


大阪城公園駅

大阪のまちの中心に位置する大阪城公園の敷地面積は105.6ヘクタールです。1924年(大正13年)に大手前公園として開園し、1931年(昭和6年)に天守を復興して大阪城公園と改称しました。大阪城公園へは大阪城公園駅の他、さまざまなルートからのアクセスが可能です。JR東西線の大阪城北詰駅,大阪環状線の森ノ宮駅,地下鉄中央線および長堀鶴見緑地線の森ノ宮駅,地下鉄谷町線の谷町四丁目駅および天満橋駅,京阪電気鉄道天満橋駅などからもアクセスできます。

大阪城(2016年11月)

大阪城公園駅の設置は比較的新しく、国鉄時代の1983年(昭和58年)に「大阪築城400年まつり・大阪城博覧会」の開催に合わせて、大阪環状線の駅として森ノ宮駅~京橋駅間において開業しました。

大阪城公園駅駅名標(2017年8月)

大阪環状線では駅ごとに発車メロディを設定していますが、大阪城公園駅の発車メロディは「法螺貝」です。法螺貝とビブラフォンを組み合わせたオリジナル制作曲であり、歴史に思いを馳せる契機にしてほしいとの願いから選曲されています。また、大阪城公園駅近畿の駅百選にも選定されています。

大阪城公園駅構内に描かれる真田幸村(2017年8月)

地下鉄谷町線の天満橋駅,京阪電気鉄道天満橋駅から大阪城公園へアクセスすると京橋口が最寄りの入口となります。南北に走る谷町筋と東西に走る土佐堀通の交差点、すなわち天満橋の交差点から京阪本線の線路に沿って東へ少し歩くと、京阪東口の交差点があります。

天満橋駅~京橋駅間の京阪本線の線路(2019年1月)

京阪東口を南へ少し下ると大阪府立男女共同参画・青少年センター(ドーンセンター)がありますが、ドーンセンターの北側に豊臣時代の大坂城の石垣が保存されています。

保存される大坂城の石垣(2017年10月)

この石垣は、大坂城三の丸の石垣の一部をここに移築し、発見されたままの姿に復元したものです。豊臣時代の大坂城三の丸は、豊臣秀吉の晩年にあたる慶長3年(1598年)に大坂城の防御強化のために造られました。しかし、1614年(慶長19年)に大坂冬の陣の講和条件として徳川家康によって取り壊され、地中深く埋もれてしまいました。

保存される大坂城の石垣(2017年10月)

1989年(平成元年)の大阪府立女性総合センターの建設に伴う発掘調査で、再び姿を現しました。地表下約2メートルのところに東西21メートルにわたって発見されたこの石垣は、上部は崩されていましたが、今までに発見された豊臣時代の石垣の中でもっとも残存状態のよいものであり、当時の大坂城の面影を残しています。

保存される大坂城の石垣(2017年10月)

先にも述べたように石垣の上部は破壊されており、現存高は最大で3.3メートルとなります。前面に転石していた石垣石を加えると、その高さは5メートル以上と推定されます。2~3段の石垣石は、地表下に根石状に埋められていました。石垣は、生駒山系と六甲山系の花崗岩の自然石(割石を少量含む)を用いる「野面積(のずらづみ)」という積み方です。石の大きさは不揃いで、平均して幅46センチ、高さ35センチ、長さ58センチで、1平方メートルあたりの使用個数は4~6個です。

保存される大坂城の石垣(2017年10月)

この石垣のすぐ前に、大阪シティバス62号系統「住吉車庫前行き」の京阪東口のバス停があります。天満橋駅からこの場所へアクセスする場合には十分歩いて行ける距離ですが、天満橋駅から62号系統に乗車すると1つ目のバス停のすぐ前ということになります。

京阪東口バス停(2017年10月)

この石垣を見ながら細い道を東へ進み、突きあたりを右へ行くと大阪城公園京橋口が見えます。京橋口を抜けてすぐの場所に京橋口枡形の巨石が見えます。京橋口枡形の内側、すなわち京橋口を入って正面に見えるのが、表面積が畳約33畳敷にもなる城内第二の巨石「肥後石」です。

京橋口枡形の巨石(2016年11月)
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築城の名手である加藤肥後守清正が運んできたと伝えられてきましたが、実際は徳川幕府による大坂城再築時に、この区域の石垣築造を担当した備前岡山藩主の池田忠雄によって運ばれたものです。肥後石の左手が京橋口二番石であり、表面積が畳22畳敷の城内第7位の巨石です。外濠を渡り西の丸庭園の横を抜けて、極楽橋を渡ると天守へと向かうことができます。極楽橋の近くには大阪城御座船の乗り場があります。約20分間で大阪城の内濠をめぐる観光船です。

極楽橋から天守閣へ(2016年11月)

大阪城の本丸・二の丸は江戸幕府が再建したものですが、これを含めて外濠などの辺りは大坂城跡として国の特別史跡とされています。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が築いた大坂城はすべて土の中に埋まってしまっています。

現在の大阪城(2017年8月)

豊臣時代以前には大坂城の場所に石山本願寺があったとされています。その歴史は、本願寺8世としての職を退いた蓮如が1496年(明応5年)に上町台地の北端に小さな坊舎(石山御坊)を建設したことに端を発します。

石山本願寺のあったとされる場所(2016年11月)
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1496年(明応5年)に本願寺第8代宗主となる蓮如は摂津国東成郡生玉庄内の大坂に坊舎を築きました。この坊舎を中心として周囲に土居と塀をめぐらせて「六町の構」とよばれた寺内町が形成され、周辺には堀をつくって防備を固めました。「大坂」の地名が歴史上初めて文献に見られるのは、1498年(明応7年)の蓮如による「御文」といわれています。

1532年(天文元年)に山科本願寺が炎上すると本願寺大坂に移され、ここが本願寺教団の中心(石山本願寺)となりました。石山本願寺の寺内町では、御影堂・阿弥陀堂を中心として六町二千軒におよぶ町屋が建ち並んでいました。たくさんの職人や商人が生活しており、当時の堺とならぶ豊かな都市生活がありました。

顕如の時代になると、入京してきた織田信長と対立し、1570年(元亀元年)から11年間にわたる石山合戦となります。1580年(天正8年)、開城により石山合戦は終結に向かいますが、織田信長に引き渡された後、石山本願寺から出火し、本願寺全域を焼き尽くしました。石山本願寺は大坂を退去し、鷺森、貝塚、天満を経て、1591年(天正19年)に京都へと移転しました。

織田信長は石山本願寺が退去した大坂の地を池田恒興に与え、天下統一へと歩もうとしますが、明智光秀によりその生涯を閉じます。一方、豊臣秀吉は1583年(天正11年)に池田恒興を美濃へ移し、石山本願寺と寺内町の跡に大坂城を建設しました。この大坂城は大坂夏の陣で炎上しましたが、徳川氏により再興されています。豊臣大坂城は徳川氏の手により土の中に埋まりました。

豊臣時代の大坂城の石垣(2017年10月)

この地をめぐり、本願寺、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は戦いました。織田信長は本願寺を攻めあぐね、徳川家康は大坂冬の陣では大軍を擁しながら、豊臣氏に退けられています。強者が弱者に簡単に勝利することができなかったのは、この地の地形によるものです。大坂城のある場所は上町台地の北端であり、その北には淀川(現在の大川)などが流れ、東西は古くは海だった場所であり湿地帯が広がっていました。そのため、東西南北のうち東・西・北は足場が悪いため攻める側にとってはとても困難な場所であったとされます。

一方で、その北を淀川(現在の大川)が流れるため京へのアクセスが容易であり、南へ行けば当時商業都市として栄えたがありました。したがって、この地は天然の要害でありながら、京と堺を結ぶ交通の要衝ともなっていました。そのため、大坂の地を制することに彼らは全力を尽くしたといえます。


天王寺駅

1.天王寺ターミナル 2.新ランドマーク「あべのハルカス」 3.旧タワー「通天閣」 4.天王寺ターミナル周辺の風景

 

天王寺駅付近を走行する大和路快速と特急「はるか」(2016年11月)
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天王寺ターミナル

大阪には「キタ」と「ミナミ」とよばれる繁華街があります。「キタ」は大阪駅のある梅田周辺一帯、「ミナミ」は難波心斎橋周辺一帯をさし、いずれも大阪随一の繁華街を形成しています。

 

あべのハルカスに展示される天王寺駅周辺の模型(2016年11月)
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これに次ぐ規模を誇り、「ミナミ」とともに大阪の南の玄関口として双璧をなすのが天王寺駅です。

 

天王寺駅(2016年10月)

 

天王寺駅は1889年(明治22年)、大阪鉄道が柏原~天王寺~湊町(現在のJR難波)を開業した際に設置されています。現在では天王寺駅には数多くの路線が乗り入れます。

 

天王寺駅付近を走行する大和路快速と特急「はるか」(2016年11月)
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JRでは大阪環状線をはじめとして、関西本線阪和線が乗り入れます。

 

天王寺駅付近を走行する大和路快速と特急「はるか」(2016年11月)img_2078

 

地下鉄においては御堂筋線谷町線が乗り入れています。また、阪堺電気軌道上町線では天王寺駅前停留場が起点となっている他、近畿日本鉄道南大阪線天王寺駅に隣接する大阪阿部野橋駅がその起点となっています。大阪阿部野橋駅南大阪線の前身である大阪鉄道が建設したものですが、当時は現在地より100メートル北寄りに位置していたといいます。1937年(昭和12年)に駅舎は大鉄百貨店(現在の近鉄百貨店)を有する地上7階のビルに建て替えられています。

 

天王寺駅付近を走行する大和路快速と特急「はるか」(2016年11月)
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天王寺駅周辺ではこのように数多くの路線が乗り入れているため、以前からターミナルとしての機能を果たしてきました。

 

天王寺駅付近を走行する大和路快速と特急「はるか」(2016年11月)
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近年では、再開発により「新しいまち」へと変貌を遂げ、以前よりもさらに数多くの人が訪れるようになり、いっそうの賑わいを見せています。

 

天王寺駅周辺の模型展示(2016年11月)
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新ランドマーク「あべのハルカス」

再開発の目玉の一つであるあべのハルカスは2014年(平成26年)に開業した日本で最も高いビルです。その高さは300メートルにも及び、それまで最も高かった296メートルの横浜ランドマークタワーを抜いて、日本一の高層ビルとなりました。

 

あべのハルカス(2016年10月)
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ハルカス」という名前は古いことば「晴るかす」に由来しており、「晴るかす」には「はればれとさせる」「晴らす」という意味があります。

 

あべのハルカス(2016年10月)
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旧タワー「通天閣」

あべのハルカスからJR線に沿って新今宮方面へ歩いて行くと、道路は大きく下り坂となります。まさに上町台地の段差を感じることができます。

 

天王寺駅周辺から見る通天閣(2016年10月)
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道を下ると、その町並みはしだいに再開発による「新しいまち」から「かつての大阪」の町並みへと変化していきます。そのシンボルとしてそびえ立つのが通天閣です。

 

通天閣を見上げる(2016年10月)
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通天閣へは大阪環状線新今宮駅より徒歩10分ほどでアクセス可能です。新今宮駅は1964年(昭和39年)に国鉄の駅として開業しました。通天閣へは新今宮駅の他、地下鉄堺筋線恵美須町駅や動物園前駅阪堺電気軌道恵美須町駅南海電気鉄道新今宮駅からのアクセスもできます。

 

通天閣の足元から天井を見上げる(2016年10月)
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さて、現存する通天閣2代目であり、1956年(昭和31年)に完成しています。初代通天閣は1943年(昭和18年)に火災により焼け落ちてしまっています。通天閣は4本の足で支えられていますが、4本の足は道路をまたがる形で立っています。道路からのぞいた通天閣の宣伝広告はその歴史を物語ります。


天王寺ターミナル周辺の風景

地下鉄谷町線天王寺駅の最寄りとなる茶臼山は、大坂冬の陣のとき徳川家康の本陣となり、大坂夏の陣のときには真田幸村の本陣となりました。

 

天王寺駅構内ポスター(2016年10月)
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茶臼山は天王寺公園の中にありますが、天王寺公園も昔に比べると整備されており、市民の憩いの場となっています。

 

茶臼山(2016年10月)
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天王寺公園内の河底池に架かる和気橋は788年(延暦7年)、和気清麻呂がこの辺りで運河の建設に携わったことからそれにちなんで名づけられたといいます。

 

和気橋(2016年10月)

 

この近くには天王寺公園、天王寺動物園をはじめ、さまざまな施設があります。旧黒田藩蔵屋敷長屋門は現在の中之島にかつて存在した黒田藩蔵屋敷の表門であり、大阪府の有形文化財となっています。

 

旧黒田藩蔵屋敷長屋門(2016年10月)
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大阪市立美術館は1936年(昭和11年)に開館した美術館であり、天王寺公園内のこの場所には住友家の本邸が建てられていました。

 

大阪市立美術館(2016年10月)
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美術館の建設のために住友家から大阪市に寄贈された場所に大阪市立美術館は建設されたものです。その建物は、設立当初の本館と1992年(平成4年)に地下に新設された地下展覧会室から成ります。

 

大阪市立美術館(2016年10月)
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その近くにある慶沢園も住友家から大阪市へ寄贈されたものであり、純日本風の林泉回遊式庭園となっています。

 

日本庭園「慶沢園」(2016年10月)
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三方向に築山が築いてあります。

 

日本庭園「慶沢園」(2016年10月)
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大正駅

大正区は大阪市24区のうちの一つであり、大阪市の西端に位置しています。大正区は北から西を尻無川(岩崎運河)、大阪湾に囲まれており、東から南を木津川に囲まれていて、区全体がまるで島のように見えます。

ドーム前千代崎駅付近から大正区方向をのぞむ(2017年7月)

大正区」の名は、大正区の北端にあり木津川に架かる大正橋をその由来としています。大正橋は1915年(大正4年)に初めて架けられ、1974年(昭和49年)に現在の橋に架け替えられています。

ドーム前千代崎駅付近から北方向をのぞむ(2017年7月)

大正橋の近くにある大正駅は大阪環状線が成立した1961年(昭和36年)に境川信号場(大正区)~天王寺駅間に新設開業しました。また、1997年(平成9年)には地下鉄長堀鶴見緑地線の大正駅が開業し、大阪環状線との接続駅となりました。そして、現在においても、大正駅大正区にある唯一の鉄道駅となっています。

大阪環状線大正駅(2017年7月)