1.関西鉄道の設立とその歴史 Θ大阪鉄道(初代)Θ 2.関西鉄道のターミナル「片町駅」 3.大阪鉄道の合併と網島駅廃止
京都鉄道博物館に保存される関西鉄道社章(2019年1月)
関西鉄道の設立とその歴史
関西(かんせい)鉄道は1888年(明治21年)に設立された鉄道会社であり、その本社は三重県四日市市に置かれました。旧東海道沿いの滋賀県および三重県の各都市を官鉄(当時の東海道線)と結ぶために設立された鉄道会社です。当時は、現在における関西本線、草津線、片町線、紀勢本線、桜井線、和歌山線、奈良線の他、大阪環状線の一部を運営していました。
京都鉄道博物館に展示される関西鉄道の説明(2019年1月)
次の写真は京都鉄道博物館に保存される関西鉄道の社章ですが、黒髪山トンネル(奈良市)の出入口に取り付けられていたものです。
京都鉄道博物館に保存される関西鉄道社章(2019年1月)
関西鉄道は1890年(明治23年)に現在の草津線(草津~柘植間)を開通させ、1895年(明治28年)にはこれを名古屋まで延伸して草津~名古屋間を全通します。さらに、大阪進出を企図する関西鉄道は明治時代にすでに栄えていた大阪ミナミを目指しますが、湊町(現在のJR難波)には大阪鉄道が鎮座しており、別の作戦を講じることになります。
大阪鉄道(初代)
大阪環状線のうち、天王寺~玉造~京橋~梅田(現在の大阪)間は1895年(明治28年)に大阪鉄道(初代)が完成させています。大阪鉄道(初代)は1888年(明治21年)~1900年(明治33年)に存在した鉄道会社であり、関西本線(JR難波~奈良間)、和歌山線(王寺~高田間)、桜井線(高田~桜井間)を運営していました。
淀川橋梁を走る列車(2016年10月)
大阪鉄道(初代)は大阪~奈良を結ぶ鉄道として許可された路線でしたが、官鉄と接続することが敷設の条件となっていました。1892年(明治25年)に湊町(現在のJR難波)~天王寺~奈良間を開業していましたが、これより官鉄に接続するためには湊町(現在のJR難波)より北上して梅田(現在の大阪)に至らなければならず、すでに住宅が密集した地域の用地買収を達成することは難しくなっていました。
大阪環状線の淀川橋梁(2019年2月)
そこで、梅田(現在の大阪)へ至るためのルートを変更し、天王寺から農村地帯を北上し、大阪城の東側を通って梅田(現在の大阪)まで結ぶ計画としました。これにより1895年(明治28年)5月には天王寺~玉造間、10月には玉造~梅田(現在の大阪)間を開業して現在の大阪環状線の東側部分を完成し、当初これは「梅田線」とよばれました。梅田線は単線非電化であり、開業時に設置された途中駅は桃山(現在の桃谷)駅、玉造駅、京橋駅、天満駅の4駅のみでした。
天満駅(2017年1月)
大阪鉄道(初代)はその後、1900年(明治33年)に関西鉄道に合併されてしまい、1907年(明治40年)には国有化されています。
その標的となったのが浪速鉄道でした。浪速鉄道はかつて大阪にあった鉄道会社であり、1895年(明治28年)に片町(現在は廃止)~四条畷間を開業しています。浪速鉄道が片町(現在は廃止)~四条畷間を開業した翌1896年(明治29年)、関西鉄道はこの浪速鉄道に買収を持ちかけ、1897年(明治30年)には買収を実現しています。さらに、四条畷~木津間の免許を保有していた城河鉄道を買収して大阪進出への足掛かりとしました。これにより、現在の片町線(愛称「学研都市線」)経由での大阪~名古屋間の鉄道敷設を達成し、1898年(明治31年)には、大阪ターミナルとしての片町駅を手中にしました。
関西鉄道のターミナル「片町駅」
当時関西鉄道のターミナルとなった片町駅は、1997年(平成9年)のJR東西線開業と同時に廃止となっており、正式名称「片町線」の由来となった「片町駅」は現在ではその形および名前ともに存在しません。片町駅と同じ場所ではありませんが、かつて片町駅があった近くにJR東西線の大阪城北詰駅が設置されています。大阪城北詰駅は地下に設置されていますが、下の写真はその地上付近からかつて片町駅があった辺りを撮影したものです。ちょうど、写真の中の黄色い看板がある辺りに片町駅がありました。
大阪城北詰駅地上から旧片町駅付近を見る(2019年6月)
大阪城北詰駅近くにある大阪シティバスのバス停には「片町」の名が現在でも残っています。
大阪シティバスのバス停「片町(西)」(2019年6月)
さて、関西鉄道にとって、かつて片町駅のあった場所は鯰江川(現在は埋め立て)と寝屋川にはさまれた狭小な土地であったため駅前も狭く、旅客ターミナル駅として機能するには難しい側面がありました。
かつて鯰江川だった道路(2019年2月)
下の写真で見ると、左手にイオン京橋店(現在は閉店)の駐車場が見えますが、その前の道路が鯰江川だった場所となります。左手に全面ガラス張りの背の高いビルが見えますが、そのすぐ右横に寝屋川が流れています。片町駅はイオン京橋店(現在は閉店)の駐車場のずっと奥の方、ガラス張りのビルの右横辺りにありました。
少し下がって同じ道路を撮影(2019年2月)
次の写真は同じ道路を180度振り返って撮影したものですが、右手がイオン京橋店(現在は閉店)の店舗となり、その奥が片町線(愛称「学研都市線」)の京橋駅となります。京橋駅から片町線はJR東西線となり、次の写真でいうと手前の方へ走っていくことになります。現在では、JR東西線は京橋駅を出発すると地下へともぐります。
鯰江川(2019年2月)
関西鉄道は片町駅のある場所が狭隘なためさらに拡大する余地がないとし、片町~四条畷間にある放出駅より線路を分岐して大阪鉄道の桜ノ宮駅へ至る路線(後の桜ノ宮線)を敷設する計画を立案します。
放出駅駅名標(2019年2月)
そして、1898年(明治31年)の大阪鉄道の桜ノ宮駅開業後、関西鉄道は放出駅より分岐した新線を建設し、桜ノ宮駅に至る途中の網島駅(現在は廃止)まで結んでいます。
網島駅があったとされる場所(2016年10月)
これにより片町駅は貨物駅へと変更され、関西鉄道は網島~放出~四条畷~加茂~名古屋の路線を重要路線と位置づけ、東海道本線に対抗して優等列車を走らせるようになりました。関西鉄道の路線は官鉄(東海道本線)と競合する路線であったため政府から税制優遇などの支援は得られず、独自のサービスによりこれと戦わなければなりませんでした。大阪~名古屋間において「早風(はやかぜ)」とよばれた急行列車を設定し、その列車速度においては官鉄とほぼ互角で争ったといいます。
西大路~京都間を走行する東海道本線の車両(2019年1月)
大阪鉄道の合併と網島駅廃止
その後、関西鉄道は1900年(明治33年)に大阪鉄道を合併しますが、1901年(明治34年)に桜ノ宮~網島間が開業し、桜ノ宮駅において梅田線(後の城東線/現在の大阪環状線の一部)との接続ができるようになりました。しかしながら、大阪鉄道を合併してしまったことにより、大阪鉄道が所有していた「関西本線ルート」(湊町/現在のJR難波~天王寺~奈良~加茂~名古屋間)での大阪~名古屋間の直通運転が可能となり、必然的に桜ノ宮~網島~放出間の路線の地位は低下してしまうことになりました。この後、この路線は専ら四条畷方面へのローカル輸送に充てられることになりますが、網島駅についてもターミナル駅としての地位は低下することになります。
放出駅駅名標(2019年2月)
関西鉄道では官鉄との競争において、運賃値引をはじめとして、弁当サービス、客車内の電燈灯火サービスなどを実施します。官鉄でもこれに対抗するため乗客へのサービスを積極的に実施したため、激しい競争が繰り返されたといいます。そうした中、世は1904年(明治37年)、日露戦争へと突入して軍需輸送に重点が置かれるようになったため、サービス合戦には終止符が打たれました。その後、関西鉄道は1907年(明治40年)に国有化されています。
1912年(明治45年)、城東線(現在の大阪環状線の一部)の京橋駅への連絡用として片町駅に京橋口乗降場が新設されていましたが、1913年(大正2年)にこれを駅へと格上げして片町線の京橋駅を開業しました。これにより、城東線(現在の大阪環状線の一部)の連絡は京橋駅が担うことになり、桜ノ宮駅での城東線(現在の大阪環状線の一部)への連絡はその役割を終えることになりました。また同年、網島駅の廃止とともに桜ノ宮線も廃止となり、わずか10年余りでその歴史を閉じることになりました。
淀川貨物線と淀川駅
関西鉄道が敷設した桜ノ宮線が廃止となった1913年(大正2年)、旧桜ノ宮線から放出駅へと合流する貨物線が開通しています。
現在はマンション群の中の空き地となる廃線跡(2018年4月)
そして、時が流れて1927年(昭和2年)に貨物駅として淀川駅が誕生します。これにより先の貨物線が撤去され、新たに淀川駅から放出駅および京橋駅へ至る貨物線が開通しました。
現在はマンション群の中の空き地となる廃線跡(2018年4月)
その後、城東貨物線が完成し、また貨物の取扱量も減少するなどして、淀川駅で扱っていた貨物は他の貨物駅で代替できるようになりました。そして、1982年(昭和57年)には淀川~放出間、淀川~吹田間は貨物線としては廃止となりました。
1.百済貨物ターミナル駅(旧百済駅) 2.百済市場駅 3.平野川 4.東部市場前駅
百済貨物ターミナル駅(2019年8月)
百済貨物ターミナル駅(旧百済駅)
百済(くだら)貨物ターミナル駅は大阪市東住吉区にある関西本線貨物支線の貨物駅です。いわゆる「梅田貨物駅」(梅田駅)は大阪駅周辺の再開発計画により、その機能を百済貨物ターミナル駅へと移転しました。
百済貨物ターミナル駅の様子(2019年8月)
百済貨物ターミナル駅では2006年(平成18年)より受け入れのための設備改修工事を開始し、2013年(平成25年)のダイヤ改正の際に旧称「百済駅」から「百済貨物ターミナル駅」へと駅名変更を行いました。
百済貨物ターミナル駅の様子(2019年8月)
「百済」という地名は1889年(明治22年)当時、この辺りの4村(砂子村・中野村・湯谷島村・鷹合村)が合併して新たに「南百済村」と称されたことに依ります。現在では、小学校や公園などの名前にその地名が残っているだけとなり、行政区名では消失してしまっています。
百済貨物ターミナル駅の様子(2019年8月)
「百済駅」は百済貨物ターミナル駅の旧称です。もともと大阪南部地域における貨物取り扱いをするための機能をもつ百済駅の設置計画が承認されたのは1942年(昭和17年)のことです。その後、この計画は中断していたものの、天王寺駅の利用者が増え、その旅客と貨物の分離を図るために、百済駅(現在の百済貨物ターミナル駅)が1963年(昭和38年)に誕生しました。
百済市場駅
1964年(昭和39年)には百済駅(現在の百済貨物ターミナル駅)の北側に大阪市中央卸売市場東部市場が建設され、ここへの貨物を輸送するために百済駅(現在の百済貨物ターミナル駅)より引き込み線を敷設して百済市場駅を設置しました。百済市場駅には発着線が3線ありましたが、1984年(昭和59年)のダイヤ改正により百済市場駅は廃止となりました。現在ではおおさか東線となっている城東貨物線より百済駅(現在の百済貨物ターミナル駅)へ入る貨物列車は当時、城東貨物線(おおさか東線)から関西本線(愛称「大和路線」)への渡り線を通り、平野駅を通過すると関西本線(愛称「大和路線」)の上り線を逆走し、百済貨物ターミナル駅へと入っていました。
関西本線貨物支線とおおさか東線(城東貨物線)
逆走する理由はというと、当時は平野~百済(現在の百済貨物ターミナル)間に貨物列車専用線がなかったためです。そのため、2010年(平成22年)に貨物列車専用線を敷設し、平野駅周辺の配線改修工事も実施されました。
おおさか東線が開通する以前の城東貨物線の赤川鉄橋(2018年4月)
平野川
平野川は近鉄柏原南口駅あたりの樋門から大和川の水を引く川ですが、時代や流域によって竜華川・百済川・河内川などともよばれていました。「百済川」の名は奈良時代から平安時代にかけて百済の郡が置かれ、その中央を平野川が流れていたためということです。
平野川に架かる衛門橋から北を見る(2019年2月)
大和川より分岐した平野川は関西本線(愛称「大和路線」)に沿うように北上します。八尾空港に近くなると西進して八尾空港の北側を通って、平野駅近くまでは関西本線(愛称「大和路線」)に沿うように流れます。平野駅手前で関西本線(愛称「大和路線」)を跨いで東部市場前駅あたりまで西進します。
平野川に架かる衛門橋から南を見る(2019年2月)
東部市場前駅
東部市場前駅がまだ設置されていなかった頃には、この駅より少しばかり天王寺寄りに百済駅がありました。この百済駅は先の貨物駅(現在の百済貨物ターミナル駅)とは異なり、関西本線の旅客駅として設置されていました。
城北川(第二寝屋川)に架かる上城見橋(2019年2月)
この百済駅は1909年(明治42年)に設置された駅ですが、終戦後あたりから休止となり、1963年(昭和38年)に廃止となっています。
城北川(第二寝屋川)に架かる上城見橋(2019年2月)
先の貨物駅としての百済駅(現在の百済貨物ターミナル駅)誕生も1963年(昭和38年)であることから、旅客駅を貨物駅が継承した形となりました。
城北川(第二寝屋川)に架かる上城見橋(2019年2月)
その後、周辺の人口も増加し、住民から新駅設置の要望が強まり、1989年(平成元年)に東部市場前駅が設置されました。
平野川と城北川(第二寝屋川)が合流する城見橋付近(2019年2月)
東部市場前駅の東側には今里筋をはさんで百済貨物ターミナル駅があります。その後、駒川・今川を合流した平野川は今里筋に沿って北上し、近鉄大阪線、中央大通を跨いで第二寝屋川(城北川)に合流します。
平野川と城北川(第二寝屋川)が合流する城見橋付近(2019年2月)
1.草津線の歴史 2.草津線の優等列車 3.SHINOBI-TRAIN 4.甲西駅 5.草津駅と草津川
甲西駅に停車する草津線の普通列車(2018年2月)
草津線の歴史
草津線は関西本線の柘植駅(三重県伊賀市)を起点とし、東海道本線(愛称「琵琶湖線」)の草津駅を終点とする全長36.7キロの路線です。草津線を走る列車はすべて各駅に停車する普通列車のみであり、その大部分は草津駅で折り返し運行する列車となります。朝夕や夜間には東海道本線(愛称「琵琶湖線」)との直通列車も運行されています。
草津線の車内(SHINOBI-TRAIN)に掲示される路線案内(2018年1月)
草津線の歴史は、関西鉄道が旧東海道沿いに大津~名古屋間を結ぶ路線敷設を計画したことにはじまり、1889年(明治22年)に草津~三雲間、1890年(明治23年)に三雲~柘植間が開業しています。
甲西駅北側の旧東海道の様子(2018年2月)
この路線は開業当初は関西鉄道の本線として設定され、京都と名古屋を結ぶ幹線の一部となっていました。ところが、1898年(明治31年)に名古屋~加茂間が関西鉄道の本線として設定されると、柘植~草津間は支線となってしまいました。1907年(明治40年)になると関西鉄道は国有化され、この路線は草津線と命名されました。
草津線の優等列車
1930年(昭和5年)には、参宮急行電鉄(現在の近畿日本鉄道)への対抗策として姫路~草津~柘植~鳥羽間を結ぶ快速列車の運転が開始されました。さらに、1961年(昭和36年)には準急「鳥羽」(京都~鳥羽間)と「勝浦」(京都~紀伊勝浦間)、1962年(昭和37年)には準急「平安」(京都~桑名・名古屋間)の運行を開始しました(「鳥羽」「勝浦」は後にそれぞれ「志摩」「くまの」と改称)。その後1966年(昭和41年)になると、これらの準急列車は急行列車へと格上げされました。ところが、これらの優等列車も国鉄時代の末期になると徐々に運行本数が減便され、1986年(昭和61年)には草津線内を走るすべての優等列車の運行がなくなりました。それ以来現在まで草津線では普通列車のみの運転となっています。
草津駅に停車する221系車両(2018年2月)
この普通列車には113系、117系、221系、223系が使用されています。
湖西線を走る113系車両(2017年3月)
SHINOBI-TRAIN(シノビトレイン)
草津線は滋賀県と三重県を結んでいますが、滋賀といえば「甲賀忍者」、三重といえば「伊賀忍者」が知られています。
夜の京都駅に停車するSHINOBI-TRAIN(2017年7月)
2つの有名な忍者の古里を結ぶ路線ということにちなんで、2017年(平成29年)よりラッピング列車「SHINOBI-TRAIN」を運行しています。
忍者をイメージしたSHINOBI-TRAIN(2018年1月)
その忍者をイメージさせる黒い車両には、刀を抜く忍者や手裏剣を投げたりする忍者が描かれています。
忍者をイメージしたSHINOBI-TRAIN(2018年1月)
「SHINOBI-TRAIN」は草津線の他、湖西線でも走っているのを見ることができます。また、草津線の近くを走る信楽高原鐡道でも同じようなデザインの車両が運行されています。
「湖西線」と表示されるSHINOBI-TRAIN(2018年1月)
忍者をイメージしたSHINOBI-TRAIN(2018年1月)
SHINOBI-TRAINの車内の様子(2018年1月)
SHINOBI-TRAINの車内案内(2018年1月)
甲西駅
甲西駅は1981年(昭和56年)に開業した草津線の中では最も新しい駅であり、同年に開催されたびわこ国体に合わせて開業しました。
甲西駅駅舎(2018年2月)
甲西駅ホーム(2018年2月)
草津駅と草津川
「草津」というと、群馬県の草津温泉を思い出す方も多いですが、滋賀県にも草津市という自治体があります。草津駅は1889年(明治22年)に開業しています。
草津駅西出口の様子(2016年9月)
「草津」という地名は1299年(正安元年)に成立した『一遍上人絵伝』の中に、一遍上人が草津宿に滞在した出来事を記した文章に見られます。多くの物資が集散する場所を表す「クサグサとツ」、陸地にある津を表す「クサとツ」などの説があります。草津駅の近くには、すでに廃川となった旧草津川があります。草津川は天井川として名高いですが、天井川の歴史はそんなに古くありません。
廃川となった旧草津川(2016年9月)
約200年前くらいまでは低いところを流れていましたが、急速に川床が上がった珍しい天井川といえます。
廃川となった旧草津川(2016年9月)
明治時代ごろまでに、短期間で多くの土砂が流れ込み、川床が高くなっていきました。堤防をかさ上げすることを繰り返してきましたが、水害をもたらすことも多くあり、2002年(平成14年)に新しく作られた新川に切り替えがなされて、旧草津川は廃川となりました。
廃川となった旧草津川(2016年9月)
草津駅は東海道本線(愛称「琵琶湖線」)の新快速・快速停車駅ですが、その東海道本線や国道1号線も草津川の下を通っています。1886年(明治19年)に国道1号線のトンネル、1889年(明治22年)に東海道本線のトンネルが開通しています。