筑波山
筑波山は別名「紫峰」ともよばれ、古来「雪の富士、紫の筑波」「西の富士、東の筑波」とも称えられてきた関東の二名山の一つです。
母子島遊水地から見る筑波山(2022年1月)
男体山と女体山の二峰をもち、朝には藍色、昼は緑色、夕方は紫色と一日に何度もその表情を変えます。また、神の住む山として古くから多くの人が信仰の対象とし、男女が歌を詠む歌垣の場所となりました。万葉集にも二十五首の歌が詠まれています。
筑波山中腹から見た風景(2020年8月)
「筑波の道」というのは連歌の異称です。これは、神話に登場する日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国遠征の帰途、筑波を過ぎて甲斐に到着した際、「新治(にいはり)筑波(つくは)を過ぎて幾夜か寝つる」と歌ったことに対し、甲斐の老人が「かがなべて夜には九夜(ここのよ)日には十日を」と答えたという昔から伝えられてきた出来事が連歌の初めとされたことによるものです。
母子島遊水地から見る筑波山(2022年1月)
筑波山神社
筑波山は延喜年間(782年~806年)、法相宗の僧である徳一(とくいつ)によって古筑波山寺が建立され、開山したと伝えられています。その後、空海が入山して知足院中禅寺と号しました。筑波山神社はその筑波山にある歴史ある神社です。神話の時代より筑波山神社には、二峰が並ぶ筑波山のその山容から男女二柱の祖神が祀られました。古代、物部氏の一族は筑波国造に命じられ、祭政一致により筑波山神社に奉仕しました。
筑波山神社(2020年8月)
筑波山神社の拝殿は山の中腹にあり、その本殿は男体山と女体山の頂上にあります。したがって、その境内は中腹の拝殿から山頂までを含む約370ヘクタールにもおよぶ広さとなります。
筑波山ケーブルカー・ロープウェイ
筑波山頂ヘはケーブルカーやロープウェイでアクセスすることができます。筑波山ケーブルカーは山麓の宮脇駅と筑波山頂駅を結び、筑波山ロープウェイは筑波スカイラインの終点となるつつじヶ丘駅と女体山駅を結んでいます。
筑波山ケーブルもみじ号(2020年8月)
筑波鉄道筑波線
筑波線は筑波山麓を走る路線であり、かつて土浦~筑波~岩瀬間を結んでいました。筑波線を開業した筑波鉄道は1914年(大正3年)に設立されましたが、それに先立ち1911年(明治44年)に土浦~岩瀬間を結ぶ軽便鉄道の免許を取得しています。
筑波山麓(旧上大島駅付近)の町並み(2017年8月)
軽便鉄道とは、一般的な鉄道よりも線路の幅が狭く、小型の車両を使用するような鉄道をさします。かつてはわが国にも、主要駅と小さな集落を結ぶ軽便鉄道が数多く存在しました。大正時代には100路線ほど、昭和30年代にも60路線ほど存在しましたが、昭和50年代までにはそのほとんどが廃線となりました。
旧筑波駅ホーム(2017年8月)
軽便鉄道は自動車の普及していなかった時代に荷物の運搬用などとして設置されたものです。普通の鉄道に比べるとレール軌間が狭く、簡易的な鉄道といえます。工事用軌道,森林鉄道,炭鉱鉄道などがその一例となります。
筑波山麓(旧上大島駅付近)の町並み(2017年8月)
軌間とは、2本のレールにおいて1本のレールともう1本のレールの間のことをさし、レールゲージともいいます。世界的には標準軌間は1,435ミリとなっており、これより広い場合を広軌、狭い場合を狭軌としています。日本の場合は明治時代に1,067ミリが標準軌間とされましたので、これより狭い場合を狭軌とよんでいます。
筑波鉄道の旧筑波駅ホーム(2017年8月)
筑波線の当初の計画は、真壁を経由して下館へ至る計画でしたが、岩瀬へ至る路線へと変更され、1918年(大正7年)に土浦~筑波~真壁~岩瀬間が開業しました。
筑波駅跡(2017年8月)
筑波鉄道は1945年(昭和20年)、現在の常総線となる路線をかつて運行していた常総鉄道と合併して常総筑波鉄道となります。さらに、1965年(昭和40年)には常総筑波鉄道が鹿島参宮鉄道と合併して関東鉄道となっています。また、関東鉄道は1979年(昭和54年)に筑波鉄道を設立し、筑波線をこれに譲渡しました。
旧筑波駅ホーム(2017年8月)
そして、1987年(昭和62年)4月1日、国鉄が分割民営化された同日に筑波線全線が廃止となりましたが、この廃止当時の駅数は18駅でした。
旧筑波駅ホーム(2017年8月)
その18駅とは、土浦,新土浦,虫掛,坂田,常陸藤沢,田土部,常陸小田,常陸北条,筑波,上大島,酒寄,紫尾,常陸桃山,真壁,樺穂,東飯田,雨引,岩瀬です。現在では筑波線の廃線跡は自転車道「つくばりんりんロード」として整備されています。
筑波休憩所(旧筑波駅)に立つ案内板(2017年8月)
さらに、この「つくばりんりんロード」(40キロ)に加えて、霞ヶ浦を周回する湖岸道路140キロ(霞ヶ浦湖岸道路)を合わせて「つくば霞ヶ浦りんりんロード」とよんでいます。
筑波駅石碑に記される「つくばりんりんロード」の文字(2017年8月)
常陸小田駅
筑波山の南麓は古代から中世にかけて常陸国南部の中心地であり、八幡塚古墳や平沢官衙(ひらさわかんが)遺跡,日向廃寺跡などがあります。小田城跡は筑波山地南裾に位置しており、北西から南にかけて桜川が流れ、北には筑波山地、南に湿地をのぞむ場所にあります。小田城は小田氏の居城ですが、小田氏は鎌倉時代から戦国時代にかけて常陸南部において最大の勢力を誇った一族です。
現地に立つ小田城跡の説明が書かれた石碑(2020年6月)
小田氏は藤原北家の流れをくむ家であり、八田知家(はったともいえ)を祖として15代・小田氏治まで350年以上も小田の地を本拠として栄えました。八田知家(1142年~1218年)は小田氏の祖として小田氏繁栄の基礎をつくった人物であり、初めての常陸守護職に任じられています。
鎌倉の地における八田知家邸(2020年6月)
八田知家のきょうだいが源頼朝の乳母となったこともあり、源頼朝からの信頼が厚く、常陸支配の要として用いられました。政治の中心となった鎌倉の地ではその屋敷を鎌倉幕府の正面に構え、常陸においては源頼朝勢力の安定に尽力し、源頼朝没後は宿老として13人の合議制の一人として選任されています。
筑波山梅林から見た風景(2022年3月)
鎌倉時代の後半になると小田氏は北条氏の進出によりその所領を減少させ、鎌倉時代の末期になると常陸守護職を失っています。南北朝時代には、南朝方の重臣である北畠親房を小田城に迎えて、南朝方の関東の拠点の役割を果たします。日本史の教科書にも記載される北畠親房が著した『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』は、この小田城で執筆されたものです。
小田城跡近くにある「神皇正統記寄稿之地」の石碑(2020年6月)
室町時代になると、小田氏は関東で最も格式の高い名家を示す「八屋形(はちやかた)」の1つとして数えられるようになりました。戦国時代になっても常陸南部では最大の勢力を誇りましたが、16世紀中頃になると、その所領を後北条氏(相模)、上杉氏(越後)、佐竹氏(常陸北部)らに囲まれて小田城は戦場となることがたびたびありました。
筑波山に咲くオオイヌノフグリ(2022年6月)
手這坂(てばいざか)の合戦において1569年(永禄12年)に城を奪われ、それ以降小田城は佐竹氏の城館となりました。そして、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めに際して、小田氏は事実上滅亡してしまいました。関が原合戦後の1602年(慶長7年)、佐竹氏が秋田へと移封となり、小田城も廃城となりました。
小田城本丸跡へと続く筑波線廃線跡(2020年6月)
小田城跡の歴史的重要性は高く、また遺存状況が良好な平城跡です。1935年(昭和10年)に国の史跡指定を受けていますが、その史跡範囲はきわめて広大であり、南北550メートル、東西450メートルにもおよび、その面積は約21万7千平方メートルとなります。
サイクリングロードとなっている筑波線廃線跡(2020年6月)
1998年(平成10年)より実施した発掘調査により、小田城跡は最終期の姿が確認され、また鎌倉時代から戦国時代まで継続的に使用されてきたことが判明しました。また、つくば市による2009年(平成21年)からはじまった発掘調査をもとに、小田城跡中央の本丸跡とその周辺について中世の小田城を体感できる歴史ひろばとして復元されています。
小田城跡歴史ひろば案内所となる茶色の建物(2020年6月)
小田城跡の整備工事は、発掘調査により確認された戦国時代最後の地面を1メートルほど盛土し、確認された建物や池などの遺構をその場所に再現しています。埋まっていた堀は掘り起こし、土塁は本丸の地面より2メートルの高さとしています。
東虎口跡に立つ小田城跡の石碑(2020年6月)
虎口(こぐち)とは城の出入口のことをいいますが、北虎口跡は本丸跡にあった3つの虎口のうちの1つであり、幅3.3メートル、門跡は明確には確認されていません。
北虎口跡に掲示される城跡位置図(2020年6月)
しかし、柱穴や礎石の跡となる掘り込みが2つ発見されており、その周辺は小さな礫や土器片で舗装されていました。北虎口跡とその対岸となる北曲輪(きたくるわ)の間は、堀を埋めて造られた上幅3メートルほどの土橋(北橋)となっていました。
北虎口跡から北曲輪へ渡す北橋(2020年6月)
北堀は昭和50年代初めに埋められましたが、これを堀り直しました。当時の堀はこの復元よりも2メートルほど深く、堀底は凹凸になっている障子堀とよばれるものでした。
復元された北堀(2020年6月)
本丸跡にあった3つの虎口のうちの1つである東虎口跡は幅4メートルあり、門の礎石が1つ確認されており、その表面には方形の柱跡が残っていました。東虎口跡からその対岸となる東曲輪跡へは木橋(東橋)が架けられ、東堀を埋めて造られた土橋へとつながっていました。
東曲輪跡へと続く橋(2020年6月)
この東虎口跡は小田氏時代には、小田城の正面となる大手口と考えられています。
敷地内中央から東虎口跡方向を見る(2020年6月)
東池は小田氏時代の庭園の池であり、池底には石を敷いて州浜(すはま)や築山の存在も想定されています。東池の大きさは南北約32メートル、東西約13メートルあり、その深さは30~80センチとなります。
現地に展示される東池の様子(2020年6月)
その近くには発見された建物跡の柱位置などをもとにして四阿(あずまや)を復元しています。こうした庭園をのぞみながら、宴会や連歌、茶の湯、花香寄合などが開催され、客の接待や家臣との懇親の場として使用されています。
休憩施設として利用される四阿(2020年6月)
東池跡からは大量の高級陶磁器が出土されており、小田氏の栄華の痕跡が見られます。また、東池の南側の通称「涼台」の名で親しまれる場所から、小田城跡南側の景色を一望できます。
城跡南側の景色(2020年6月)
南西虎口跡の周辺には部分的に石垣が築かれていましたが、その状況をレプリカで復元しています。また、南西虎口門は櫓門であったと考えられています。
レプリカによる石垣(2020年6月)
馬出(うまだし)は攻撃の際に軍勢を集めるための曲輪ですが、南西馬出曲輪は南西虎口と橋でつながっています。
南西馬出曲輪(2020年6月)
南西虎口跡近くにある西池は、南北約14メートル、東西約17メートルの広さがあり、深さが約1メートルありました。
西池跡(2020年6月)
西池跡の北側一帯は城主の屋敷などがあった建物域であり、確認された建物の位置と大きさが示されています。
建物域(2020年6月)
現地に展示された本丸跡の空中写真を見ると、左上(北西)から右下(南東)にかけてきれいな直線が走っています。これが筑波線廃線跡であり、現在はサイクリングロードとして整備されています。サイクリングロードは敷地内のみ廃線上ではなく、迂回するように設置されています。
現地に展示される本丸跡発掘調査合成写真(2020年6月)
写真の左上(北西角)付近は遺構展示室となっていて、土塁と堀が外側に広がっていく様子を壁の土塁土層断面と床の堀の位置で示しています。
遺構展示室の様子(2020年6月)
ここを抜けてサイクリングロードをしばらく進むと、筑波線の常陸小田駅のあった場所に到着します。常陸小田駅は1918年(大正7年)に筑波線の開通とともに開業し、1987年(昭和62年)に筑波線の廃止とともに廃駅となりました。
踏切跡らしき場所(2020年6月)
2面2線の相対式ホームの地上駅であり、駅本屋は下りホーム側にありました。
常陸小田駅のプラットホーム跡(2020年6月)
常陸北条駅
つくば市はかつて広い農村地帯でしたが、1960年代以降「筑波研究学園都市」として開発が進み、1985年(昭和60年)には通称「つくば万博」が開催されました。1987年(昭和62年)に谷田部町、大穂町、豊里町、桜村が合併してつくば市が誕生し、1988年(昭和63年)には筑波町、2002年(平成14年)には茎崎町を編入して現在に至ります。
つくば中央公園にある桜村にあった農家建築の復元(2020年2月)
『古事記』に「新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる(新治・筑波を過ぎてどのくらいの夜を過ごしたことか)」の記述が見られる旧筑波町は「筑波山の玄関口」として賑わいました。中でも旧北条町は旧筑波町の中心地として栄え、旧筑波線が開通するまでの時代には、筑波山を目指す人々はその山頂を正面に見て、北条から筑波山へとつながる「つくば道」を歩きました。昭和初期には約5,000人~6,000人の人々が暮らし、まちの中を走る旧筑波線の常陸北条駅の構内には「筑波山正門」と書かれた大きな塔楼があったといいます。
筑波山ケーブルカー宮脇駅近くから旧筑波町方面を見る(2020年8月)
旧北条町にあった常陸北条駅はすでに廃駅となっていますが、現在でも比較的幅のあるプラットホームが残っています。
旧常陸北条駅跡(2019年10月)
常陸北条駅は1918年(大正7年)に開業しましたが、当時は2面3線をもつ地上駅でした。しかしながら、筑波線の廃止後、駅舎は撤去されてしまっています。
旧常陸北条駅跡(2019年10月)
大化の改新によって、高,久自,仲,新治,筑波,茨城の6国が統合されて常陸国となりました。常陸北条駅跡地から車で5分ほどの場所にある平沢官衙(ひらさわかんが)遺跡は、奈良時代および平安時代における常陸国筑波郡の役所跡です。
平沢官衙遺跡(2020年8月)
1975年(昭和50年)の調査により重要な遺跡であることが判明し、1980年(昭和55年)に国の史跡に指定されました。
平沢官衙遺跡(2020年8月)
一般的な遺跡では見られない大型の高床式倉庫と推定される建築物が数多く並び、それらを大きな溝が囲むという遺跡になっています。
現地に掲示される遺跡の平面図(2020年8月)
倉庫は当時の税としての稲や麻布などを収納した役所の正倉跡と考えられます。出土品としては土器類・瓦・硯の破片、焼米などがあります。
復元された建築物(2020年8月)
平沢官衙遺跡近くには北条大池がありますが、ここには250本もの桜が植えられていて桜の名所として知られています。
北条大池(2020年8月)
北条大池は「つくば道」(旧登山道)の入り口に位置するため池です。
平沢官衙遺跡(2020年8月)
筑波駅
筑波駅は、つくば駅が開業する前の時代にはこの辺りの主要駅であり、筑波山への玄関口として多くの観光客が乗降しました。
旧筑波駅ホーム(2017年8月)
筑波駅はつくば駅から20キロほど離れた場所にあり、車で30分ほど走らなければなりません。
つくば駅(2022年11月)
つくば駅からは筑波山口行きのバス(つくバス北部シャトル)に乗って、終点で下車すればかつて筑波駅があった場所に到着します。
筑波山口バスターミナル(2017年8月)
筑波山シャトルバスに乗車した場合には沼田で下車し、筑波山口バス停まで徒歩3分ほどです。
旧筑波駅付近の廃線跡「つくばりんりんロード」(2017年8月)
この筑波駅があった場所(筑波山口バス停)には「つくばりんりんロード」の休憩所が置かれていて、ホームの一部が活用されています。
旧筑波駅付近の廃線跡「つくばりんりんロード」(2017年8月)
旧筑波駅駅舎は現在、関東鉄道つくば北営業所として利用されています。
旧筑波駅駅舎で営業を続ける関東鉄道つくば北営業所(2017年8月)
また、関東鉄道つくば北営業所前の筑波山口バスターミナルは現在も営業を続けており、複数の路線バスが発着します。
筑波山口バスターミナル(2017年8月)
真壁駅
真壁駅は1面2線をもつ島式ホームと1面1線をもつ単式ホームからなる地上駅でした。
真壁駅跡(2020年2月)
その名残は今でも真壁駅跡に見ることができます。
島式ホームと単式ホームが見える(2020年2月)
真壁駅の廃止後も「真壁駅」の名はバス停の名(真壁駅停留所)として残りました。当時はつくばセンター方面、岩瀬駅方面,下館駅方面と結ぶ路線バスが発着していましたが、2011年(平成23年)をもってすべての路線バスが廃止され、バス停の名称としても「真壁駅」の名はなくなりました。
真壁の町並み(2020年2月)
この真壁駅跡から東へ徒歩10分ほどの場所には真壁城跡があります。真壁城は、平安時代末から戦国時代にかけて真壁郡の周辺を領有していた真壁氏の居城であり、筑波山より北西にある台地上に築かれた平城(平地に立地している城)です。
真壁城跡石碑(2020年2月)
真壁城には中央の本丸(城の中心となる曲輪=小区画)を同心円状に囲むような二の丸(本丸を守るための曲輪)があり、二の丸の東側に三の郭(中城),四の郭(外曲輪)があります。
真壁城跡本丸の案内板(2020年2月)
真壁城跡は1994年(平成6年)に国史跡の指定を受け、1997年(平成9年)より発掘調査が実施されています。
保存・整備工事の様子(2020年2月)
発掘調査の成果によると、室町時代の後半には方形の館が築かれ、徐々に改築されながら、戦国時代から安土桃山時代にかけて現状のような形になったと考えられています。
真壁城跡石碑(2020年2月)
城内には当時の建物などは残っていませんが、土塁や堀などの痕跡が良好に保存されています。
真壁城跡周辺の様子(2020年2月)
真壁城の遺構が良好に残っている地区は県道41号線より東側にありますが、南北約400メートル,東西約850メートル,国史跡の指定面積は約12.5ヘクタールになります。
真壁城跡周辺の様子(2020年2月)
この地区より西側には城下町が形成されていて、それが現在の真壁の町並みとして残っています。
真壁の町並み(2020年2月)
真壁のひなまつりは2002年(平成14年)、町おこしとしてお雛様を飾るというところからはじまり、翌年には約40軒、現在では約160軒の家々にお雛様が飾られるようになりました。
真壁のひなまつり(2020年2月)
真壁地区は2010年(平成22年)、茨城県初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、この歴史的な町並みを舞台として毎年開催される真壁のひなまつりは全国的に有名になり、今では観光客も10万人を超えるようになりました。
真壁のひなまつり(2020年2月)
伝統的建造物群保存地区とは、歴史的な景観を形成している地区を伝統的な建造物単体だけではなく、町並み全体を構成する堀や石垣などの工作物、樹木や池などの環境も含めて、一体的に保存する価値が高いと市町村が決定したものです。
大正時代のお雛様(2020年2月)
その中でも、特に価値が高いとして国が選定したものが重要伝統的建造物群保存地区です。
伝統的建造物群保存地区の案内板(2020年2月)
真壁にはこの保存地区を中心として100棟を超える登録文化財があります。
登録有形文化財「旧真壁郵便局」(2020年2月)
江戸時代から明治時代にかけての土蔵や見世蔵、大正時代から昭和時代にかけての町屋や洋風建築などが残っています。
登録有形文化財「店舗及び主屋」(2020年2月)
真壁地区の中心的な役割を果たすのが2011年(平成23年)に完成した真壁伝承館であり、この場所には江戸時代に真壁陣屋(江戸時代の役所)、明治時代には真壁支庁、その後真壁町役場があったところです。
真壁伝承館(2020年2月)
真壁伝承館が建設される際には真壁陣屋跡の発掘調査が実施され、数多くの遺構や出土品が発見されました。
登録有形文化財「土蔵」(2020年2月)
こうした貴重な資料は真壁伝承館の歴史資料館で見ることができます。
登録有形文化財「長屋門土蔵」(2020年2月)
雨引駅
雨引(あまびき)駅は1918年(大正7年)、筑波線の真壁~岩瀬間が延伸開業した際に設置されました。駅は2面2線をもつ相対式ホームとなっていて、上り(真壁・土浦方面行き)ホーム上に駅本屋がありました。1987年(昭和62年)の筑波線廃止と同時に廃駅となっています。
雨引山に放し飼いにされるクジャク(2020年2月)
雨引山楽法寺(あまびきさんらくほうじ)は「雨引観音(あまびきかんのん)」とよばれ、安産・子育て・厄除け祈願でよく知られています。坂東二十四番札所であり、春は桜、初夏は紫陽花(あじさい)、秋は紅葉を楽しむことができます。
雨引観音の本堂/観音堂(2020年2月)
雨引観音は旧雨引駅からは車で5分ほどの場所にありますが、現在は桜川市バス「ヤマザクラGO」でのアクセスとなります。「ヤマザクラGO」は筑波山口~旧酒寄駅跡~桜川市役所真壁庁舎~真壁城跡~雨引観音~桜川市役所大和庁舎~大和駅入口~岩瀬駅~桜川市役所岩瀬庁舎を結ぶルートを走りますが、雨引観音へは休日のみの運行となります。
雨引観音/撮影スポット(2024年9月)
雨引観音は雨引山の中腹にありますが、梁(中国)の人である法輪独守居士が587年(用明天皇2年)、そこに延命観世音菩薩を祀って開山しました。推古天皇が病に伏したときには、はるか遠く雨引観音の観世音菩薩に病気平癒を祈らせて回復したと伝えられます。延命観世音菩薩立像は国指定重要文化財となっています。
境内の様子(2020年2月)
聖武天皇の730年(天平2年)には、光明皇后が自らの安産を祈願したところ母子ともに無事であったことから、雨引山は安産・子育ての霊場と定められました。
雨引山からの風景(2024年9月)
このとき三重塔が建てられ、現在ではここに光明皇后の紺紙金泥の法華経が大切に保存されています。1683年(天和3年)、この三重塔を再建するべく第二重目まで建設したが果たせず、後にこれを完成させ、1853年(寛永6年)には三重塔を改めて多宝塔として現在に至ります。
多宝塔(2020年2月)
「雨引山」の名の由来は嵯峨天皇の821年(弘仁12年)の夏のことに遡ります。日照り続きにより大飢饉に見舞われた際、嵯峨天皇は写経してこれを雨引観音に納めて本尊に降雨祈願をしたといいます。その後、ほどなく雨が降り出して七日七夜降り続いたことから、「天彦山」と称されていたのを勅命により「雨引山」としました。
仁王門(2020年2月)
駐車場から境内へと続く145段の石段(磴道)は1821年(文政4年)より1年2か月の歳月を費やして完成されたものです。
駐車場から磴道へ(2020年2月)
この大石段は「厄除けの石段」ともよばれ、一段一段「南無観世音菩薩」と唱えて登れば厄が落ちるといわれています。
駐車場から磴道へ(2020年2月)
石段の途中にある仁王門は1254年(建長6年)に宗尊親王が建立した門であり、鎌倉時代の仏師である康慶の彫刻した仁王尊を祠っています。
145段の大石段(2020年2月)
仁王尊は二躯であり、一つは「阿」の字、もう一つは「吽」の字を表すといいます。門の周囲の彫刻は1704年(宝永元年)に無関堂円哲が彫刻したものです。現在の建造物は1628年(天和2年)に再建されたものであり、茨城県指定文化財となっています。
仁王門(2020年2月)
石段を登りきると本堂(観音堂)があります。創建当初の本堂は1254年(建長6年)、宗尊親王が本堂が朽壊しているのを嘆き、当時の執権・北条時頼を諭してこれを再建したといわれています。
境内(2024年9月)
現在の本堂は1474年(文明6年)に当時の真壁城主がこれを完成させ、その後1526年(大永6年)にはこれが改築されました。さらに、1682年(天和2年)には大本堂が建立されています。
本堂/観音堂(2020年2月)
大正時代に建立された阿弥陀堂では、シロアリ被害などによる老朽化にともない再建工事が行われています。合わせてバリアフリー化の工事も行われています。
バリアフリー化の工事について(2020年2月)
茨城県指定文化財となる東照山王権現社殿は、高さ5.53メートルある入母屋造りの建物です。その社殿からは徳川家康神像(本像)と徳川将軍歴代の位牌や東照大権現宮と山王大権現宮の棟札が発見されました。東照大権現と山王大権現は別々に祀られていましたが、1727年(享保12年)に合祀再建されました。
東照山王権現社殿(2020年2月)
雨引山では1996年(平成8年)頃より数羽のクジャクを放し飼いにするようになりましたが、今では多くのクジャクを境内で見ることができるようになり、観光客を喜ばせています。
雨引山に放し飼いにされるクジャク(2020年2月)
岩瀬駅
岩瀬駅は1889年(明治22年)に水戸鉄道(初代)の駅として開業し、1892年(明治35年)に日本鉄道の駅となった後、1906年(明治39年)に国有化されています。
水戸線岩瀬駅開業百周年記念碑(2020年2月)
鉄道が開通すると、この辺りで産する花崗岩の需要が高まり、しばらくすると岩瀬駅は水戸線の中でも貨物取扱量が多い駅の一つとなりました。
岩瀬駅ホーム(2020年2月)
さらに、1918年(大正7年)になると筑波線が真壁駅から延伸されて岩瀬~土浦間が全通し、岩瀬駅は近くにある富谷観音と雨引観音への乗降客で賑わうことになります。岩瀬駅の北方にある富谷山の中腹には富谷観音(宝樹院小山寺)があり、古くから開運、安産、子育てにご利益があると知られています。富谷観音は735年(天平7年)に行基が開山したと伝えられています。
岩瀬駅駅舎(2020年2月)
戦後になると全国の交通網は大いに発達し、岩瀬駅の貨物取扱量と観光客は急激に減少することになり、とうとう1982年(昭和57年)には貨物取り扱いを廃止せざるを得なくなってしまいました。
岩瀬駅のホームをつなぐ跨線橋(2020年2月)
その後、1987年(昭和62年)には筑波線が廃止され、2014年(平成26年)には駅業務を他社に委託する業務委託駅となり、2019年(平成31年)にはみどりの窓口が廃止されました。
岩瀬駅改札口(2020年2月)
現在では、岩瀬駅は単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合わせて2面3線のホームを有する地上駅となっており、それぞれのホームは跨線橋で往来します。
手前が単式ホーム1番線/奥が島式ホーム2番線・3番線(2020年2月)
かつてはJR線のホームの南側(現在の3番線の南側)に筑波線のホームがあり4番線・5番線がありました。
筑波線の岩瀬駅跡・廃線跡(2020年2月)
現在では、その跡地はつくばりんりんロードの起点および休憩所、駐車場となっています。
筑波線の岩瀬駅跡・廃線跡(2020年2月)