水戸線の歴史
水戸線は小山~友部間(小山—小田林—結城—東結城—川島—玉戸—下館—新治—大和—岩瀬—羽黒—福原—稲田—笠間—宍戸—友部)を結ぶ路線であり、東北本線と常磐線を繋いでいます。
小山駅の東北本線(宇都宮線)ホーム(2023年8月)
起点となる小山駅のみが栃木県にあり、それ以外のすべての駅が茨城県にあります。小山駅では東北本線(宇都宮線)の他、両毛線,東北新幹線に乗り換えることができます。
小山駅で停車する水戸線の車両(2023年8月)
また、途中駅となる下館駅では真岡鐡道と関東鉄道、終点となる友部駅では常磐線に接続しています。運行系統上は友部駅から常磐線に入り、水戸行き,勝田行き,高萩行きとなる列車もあります。
下館駅駅名標(2023年8月)
水戸線内を走る列車はすべての駅に停車する普通列車となっています。以前は一部の普通列車が大和(やまと)駅,小田林駅,東結城駅を通過していたことがありましたが、現在ではすべての列車がこれらの駅にも停車します。
小山駅で停車する水戸線の車両(2023年8月)
水戸線の歴史は1889年(明治22年)、水戸鉄道(初代)により小山~水戸間が開業したことにはじまります。この時点では現在の常磐線よりも先に水戸駅に到達したことになります。その後、1892年(明治25年)に水戸鉄道(初代)が日本鉄道に合併されたため、日本鉄道の路線となりました。
小山駅東公園に保存されるC50-123(2023年8月)
1895年(明治28年)には日本鉄道海岸線(現在の常磐線)が土浦から友部まで延伸されたため、現在の水戸線と接続することになります。この時点で事実上、友部~水戸間は海岸線(現在の常磐線)の一部となりました。日本鉄道が国有化された後、1909年(明治42年)には正式に友部~水戸間は常磐線に編入され、小山~友部間が水戸線となりました。
赤電
勝田車両センターは1961年(昭和36年)に国鉄の勝田電車区として開設され、2004年(平成16年)に勝田車両センターと改称されています。2021年(令和3年)に60周年を迎えましたが、その際に、かつて運行されていた401系の塗装(通称「赤電」)をイメージした記念ラッピング車両を常磐線および水戸線で運行することになりました。
小山駅に停車するE531系「赤電」(2023年12月)
結城駅
結城のまちは江戸時代、鬼怒川の要衝にあり、結城紬の他、農産物の集散地として大いに栄えました。明治時代になると、紬・桐製品,かんぴょう,皮靴などの産業が盛んとなり、町では問屋が繁盛しました。
結城の町並み(2023年5月)
結城紬は茨城県結城市や栃木県小山市などで生産される絹織物のであり、奈良時代から続いているその製法は国の重要無形文化財となっています。
奥順壱の蔵(2023年5月)
「つむぎの館」は2006年(平成18年)、結城紬の産地製造問屋の奥順が設立した結城紬ミュージアムです。
「つむぎの館」(2023年5月)
奥順は1907年(明治40年)に奥澤庄平商店から分離独立し、奥順商店として創業しています。
奥順弐の蔵(2023年5月)
「つむぎの館」は結城駅から徒歩10分ほどの場所にあります。
地機織/重要無形文化財(2023年5月)
「つむぎの館」には資料館や展示館の他、染色体験工房もあります。また、結城紬製品のショップがあります。
結城紬陳列館(2023年5月)
織場館(2023年5月)
笠間駅
水戸線の路線の終点となる友部駅そして宍戸駅,笠間駅,稲田駅,福原駅は笠間市内にある駅です。笠間市は2006年(平成18年)に笠間市(旧),友部町,岩間町が合併して成立しています。
笠間芸術の森公園内の時計台(2019年5月)
笠間市はもともと、笠間城の城下町および笠間稲荷神社の鳥居前町として栄えました。
笠間芸術の森公園(2019年5月)
また、笠間焼のまちとしても全国的に知られています。
陶炎祭(2019年5月)
笠間焼は安永年間(1772年~1781年)に本格的に誕生したと考えられますが、明治時代,大正時代になって笠間焼としての様式が確立されたといえます。
笠間焼(2020年6月)
現在では、それぞれの陶芸家がさまざまな作風により活躍する場として大いに栄えています。
陶炎祭(2019年5月)
笠間焼は毎年ゴールデンウイークになると「陶炎祭(ひまつり)」とよばれる陶器市が開催され、会場となる笠間芸術の森公園には多くの人々が訪れます。
笠間芸術の森公園の案内図(2019年5月)
笠間芸術の森公園内には陶芸体験施設「笠間工芸の丘」、陶芸専門美術館「茨城県陶芸美術館」、陶芸の人材育成機関「茨城県立笠間陶芸大学校」などの施設から成ります。
陶炎祭(2019年5月)
笠間日動美術館は1972年(昭和47年)、日動画廊創業者である長谷川仁により笠間市に建設されました。笠間日動美術館へは、笠間駅より徒歩25分ほどの場所にあります。また、市内循環バスに乗車し「日動美術館入口」下車によりアクセスすることもできます。
フランス館屋上(2022年9月)
その敷地内にはパレット館,フランス館,企画展示館がある他、敷地内中央部には野外彫刻庭園があります。フランス館1階には長谷川仁の記念室やミュージアムショップがあり、屋上からは笠間市内の町並みを見ることができます。
フランス館屋上(2022年9月)
真岡鐡道と真岡線の歴史
真岡鐵道の本社のある栃木県真岡市(もおかし)は人口8万人ほどを抱える栃木県南東部にある市です。真岡市はかつては木綿の生産地として発展しましたが、洋服が主流となり木綿工業が衰退してからは内陸工業地帯として発展してきました。
真岡駅構内(2020年6月)
真岡鐵道真岡線は、木綿で繁栄した真岡と焼き物でよく知られる益子(ましこ)、山の中にある人里となる茂木(もてぎ)を結ぶ路線であり、この地域を走る唯一の交通機関です。
真岡駅に停車する真岡鐡道の車両(2020年2月)
乗降客数の減少により、1982年(昭和57年)には国鉄再建促進特別法に基づく第二次特定地方交通線となり、1984年(昭和59年)には廃止対象路線となりました。
真岡駅に停車する真岡鉄道の車両(2024年9月)
しかしながら、通学の足となる真岡線を廃止することは難しいということから再検討した結果、栃木県をはじめとする周辺自治体および民間企業などの出資による第三セクター方式により真岡線を存続することとしました。これにより、真岡鐡道が1987年(昭和62年)に設立されて真岡線を引き継ぎ、1988年(昭和63年)より運行を開始しました。
SLもおか号/下館~茂木間乗車記念証
真岡線の歴史は1912年(明治45年)に下館~真岡間に真岡軽便線が開業したことにはじまります。1913年(大正2年)には真岡~七井間、1920年(大正11年)には七井~茂木間が延伸開業し「真岡線」と改称しています。
真岡駅の保存客車に展示される鉄道案内図(2020年6月)
1962年(昭和37年)には上野~下館~茂木間で準急「つくばね」が運転を開始し、その後急行に格上げされましたが、1968年(昭和43年)に真岡線への乗り入れを廃止しています。
真岡鐡道ディーゼル機関車DE10形(2020年6月)
さらに、1988年(昭和63年)には水戸線を通じての小山駅直通列車もすべて廃止となっています。真岡鐵道による運営となってから、真岡線に乗車するには下館駅での乗り換えが必須となり、終点の茂木駅では接続路線がなく、いわゆる盲腸線となっています。
下館駅1番線ホームの真岡線のりば(2020年1月)
盲腸線
ある路線の起点または終点が、別の路線に接続していないような路線を盲腸線とよぶことがあります。盲腸は大腸の一部をなす臓器ですが、大腸と小腸の境目のあたりにあります。いわゆる「盲腸」とよばれる病気こと虫垂炎は強い痛みを引き起こしますが、その原因は盲腸そのものにあるのではなく、盲腸に付属する細い袋状の臓器である虫垂が炎症を起こすことにより発症するものです。
真岡鐡道C12-66号(2020年1月)
それはさておき、臓器である盲腸も虫垂で行き止まりとなりますが、盲腸線はそれと同じようにそこから先へは行くことができないという意味を表しています。また、他の路線に接続されていないので、比較的乗客が少ない路線が多いといえます。
真岡駅(2024年9月)
蒸気機関車「もおか号」
真岡線を走るC12形蒸気機関車「もおか号」は臨時快速列車であり、土・日・祝日などに1往復のみ運行されています。「もおか号」の停車駅は下館,折本,久下田,寺内,真岡,西田井,益子,七井,多田羅,市縞,茂木となります。
真岡鐡道C12-66号(2020年1月)
C12形蒸気機関車は1932年(昭和7年)~1947年(昭和22年)にかけて293両が製造された車両ですが、真岡線で運行されるのは「C12-66号」であり、1933年(昭和8年)に日立製作所で製造されたものです。
下館駅周辺の風景(2023年8月)
当初は九州の機関区に配備されて指宿線を走った後、石巻線,山田線(岩手県),黒石線,小海線と渡り歩き、1972年(昭和47年)に会津若松機関区で廃車となりました。その後、1991年(平成3年)より川俣駅跡(福島県川俣町)において静態保存されていたものです。
蒸気機関車C12-66号が牽引する客車(2020年1月)
これを芳賀地区広域行政事務組合(真岡市,益子町,茂木町,市貝町,芳賀町)が譲り受けることになり、1993年(平成5年)より1年をかけ、JR大宮工場にて全面的な修繕を受けて動態復元を実現しました。1994年(平成6年)に試運転をした後、真岡線にて運行を開始しています。
「もおか号」の最後尾(2020年1月)
真岡鐡道では1998年(平成10年)より、このC12形とC11形の2両体制で蒸気機関車の通年運行を実施してきましたが、2018年(平成30年)にC11形の運行を取りやめました。その理由は、蒸気機関車の老朽化にともなってその維持費が大きくなり、真岡鐡道の経営を圧迫するというものです。その燃料費は年間8千万円かかる他、6年ごとの定期検査費用は前回の場合1億5千万円ほどかかっています。
SLもおか券/下館~茂木
この蒸気機関車C11-325号は運用を停止された後、SL「大樹」を運行する東武鉄道に移籍します。C11-325号は1946年(昭和21年)に製造されたタンク式蒸気機関車であり、新潟県内の小学校で静態保存されていたものを整備し、真岡鐡道で活躍していました。
東武鉄道500系車両(2022年9月)
ディーゼル機関車DD13-55号
DD13-55号は1967年(昭和42年)に富士重工で製造された旧国鉄DD13形に準じたディーゼル機関車です。当初はDD55-4号として神奈川臨海鉄道で活躍したものです。
下館駅に停車するDE10-1535号(2020年1月)
「もおか号」の復活に合わせて1993年(平成5年)に神奈川臨海鉄道より購入し、「もおか号」の回送牽引機として活躍してきました。しかしながら、DD13-55号は2004年(平成16年)、その座をDE10-1535号に譲り引退しました。
下館駅に停車するDE10-1535号(2020年1月)
真岡駅
真岡駅には真岡鐡道本社と車両基地があり、その駅舎は1997年(平成9年)にSLの形を模したものに改築されてひと際目立つ建築物となりました。同年、「地域の核として期待される巨大な蒸気機関車の複合施設の駅」であるとして、関東の駅百選に選出されています。
SLを模した真岡駅駅舎(2020年2月)
真岡駅には、2013年(平成25年)に完成したSLキューロク館が併設されています。SLキューロク館の館内および館外には9600形蒸気機関車など数多くの車両が展示されています。「SLキューロク館」の名称は館内に展示される9600形蒸気機関車が「キューロク」の愛称でよばれたことから、このように名付けられました。
館内に展示される「キューロク」(2020年2月)
9600形蒸気機関車は1913年(大正2年)~1926年(大正15年)にかけて784両が製造されたものであり、火室を動輪上に置いたためボイラーの中心が高い位置になり、その外観は独特のスタイルとなりました。
益子駅
益子の地では8世紀~9世紀にかけて窯業が栄え、須恵器や瓦などが盛んに焼成されたことが知られていますが、現在の益子焼へとつながる窯業のはじまりは江戸時代末期のことでした。
益子焼の販売店が立ち並ぶ町並み(2020年2月)
福手村(現在の栃木県茂木町)の出身であった大塚啓三郎は奉公するうちに、笠間(茨城県笠間市)で製陶の技術を習得し、益子に戻って1852年(嘉永5年)に築窯して製陶をはじめたといいます。その後も藩が窯業を奨励したため、数年と経たないうちに益子では商品価値のあるものが作られるようになりました。
茨城県「笠間芸術の森公園」(2019年5月)
明治時代になると、益子の窯業は仕法窯から民窯へと移り変わり、日用品として陶器の一大産地へと発展を遂げています。
益子焼窯元共販センター(2020年2月)
明治時代に神奈川県で生まれた濱田庄司は製陶の技術を学んだ後、1924年(大正13年)に益子へと入り、この地の土と釉薬により作陶を開始しました。濱田庄司の作陶は東京での個展開催などを通じて知られるようになり高い評価を得るようになります。その後、濱田庄司は1949年(昭和24年)に栃木県文化功労章を受け、1955年(昭和30年)に人間国宝に認定されており、益子焼の大成者となりました。
「陶芸メッセ・益子」に残る濱田庄司旧宅(2020年2月)
濱田庄司はもともとは日用品であった益子焼を民衆の芸術品として世界に知らしめた陶芸家です。1924年(大正13年)より益子の地へと移り住み、1930年(昭和5年)から現在の「陶芸メッセ・益子」に残る濱田庄司旧宅を創作活動の中心拠点としました。
濱田庄司旧宅に飾られる雛人形(2020年2月)
ここにある登り窯は濱田庄司が使用していた窯を復元したものです。
復元された登り窯の様子(2020年2月)
益子で一般的に使用された登り窯は10~13部屋から構成されており、4~5日の時間をかけてゆっくりと焼きあげていました。
復元された登り窯の様子(2020年2月)
昭和に入ってからは、プラスティック製品の普及などにより陶器の未来は陰りを見せるようになりますが、益子の陶器は1956年(昭和31年)に信越本線横川駅の弁当容器の受注により支えられることになります。
信越本線横川駅ホーム(2019年12月)
昭和40年代になると、製陶に関連する軒数は400を数えるようになりました。益子焼における茶褐色の釉薬と厚手の器は機能的でないとして避けられた時代もありましたが、本物が求められる時代になり現在の隆盛へとつながり、益子は全国に知られる陶芸のまちとなりました。
益子駅(2020年2月)
陶芸のまち「益子」の玄関口となるのは真岡鐡道の益子駅となります。
益子駅駅舎(2020年2月)
益子焼窯元共販センターのある「陶芸メッセ・益子」や益子焼の販売店が立ち並ぶあたりへのアクセスは益子駅より徒歩で20分~25分ほどです。
益子駅前に飾られる大きな益子焼(2020年2月)
益子駅が開業したのは1913年(大正2年)ですが、当時は官鉄の駅として開業しました。
益子駅ホーム(2020年2月)
国鉄時代を経て、1987年(昭和62年)にJR東日本の駅となりますが、真岡線が第三セクターへ転換されたことから1988年(昭和63年)に真岡鐡道の駅となりました。
益子駅ホーム(2020年2月)
かつては2線を有する駅でしたが、現在の真岡鐡道の益子駅は1面1線を有する地上駅となっています。また、駅舎と反対側につながる跨線橋が設置されています。
跨線橋の上から見下ろした線路(2020年2月)
1999年(平成11年)になると、益子駅のその駅舎は「焼き物の町に配慮した瓦屋根の駅舎にツインタワーをシンボルとした斬新な駅」として関東の駅百選に選定されています。
瓦屋根とツインタワーを配した駅舎(2020年2月)
また、東京~益子間では「関東やきものライナー」とよばれるバスも運行されています。関東やきものライナーの下り線は秋葉原駅を出発し、笠間・茂木・益子まで運行するバスです。
益子焼の販売店が立ち並ぶ町並み(2020年2月)
陶芸のまちの中心となる「陶芸メッセ・益子」には益子古城(御成山遺跡)があります。
遺跡広場となる御成山遺跡(2020年2月)
遺跡は観音寺の北の台地に存在し、遺跡広場となる本郭を中心に置き、東郭・西郭・北郭をその周辺に配し、それぞれの郭について空堀や堀切、切岸によって分けられています。
空堀の様子(2020年2月)
この遺跡では平成時代に入ってからの発掘調査によって建物址などが発見され、およそ50年間にわたって存続した戦国時代の益子氏の城と考えられています。
空堀の様子(2020年2月)
古い資料によると、紀古佐美あるいは紀貫之の子孫が平安時代末期よりこの地を治めて益子を名乗ったといいます。この遺跡は戦国時代の北関東地方の武将の城として貴重である他、一時代の城の形態がこの遺跡ほど明確に示されている例は全国的にも数少ないといいます。益子町では後世に伝えるために遺跡を「遺跡広場」として保存しています。
遺跡広場の案内表示(2020年2月)
1937年(昭和12年)の創業となる益子の外池酒造店では酒蔵を見学することができます。
外池酒造店(2020年2月)
併設される売店では「燦爛(さんらん)」ブランドの清酒や焼酎「益子の炎」などの他、スイーツなども購入することができます。
「燦爛」純米大吟醸(2020年2月)
酒蔵には杉玉が吊るされています。酒林(さかばやし)ともよばれる杉玉は杉の葉を集めて球状にしたものですが、緑の杉玉を軒先に吊るすことにより新酒ができたことを知らせるものです。
杉玉(2020年2月)
また、緑の杉玉は時が過ぎると枯れてきて茶色に変化しますが、こうした色の変化により新酒の熟成具合を知ることができます。
外池酒造店(2020年2月)
その起源は奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)に由来し、酒の神様に感謝をささげるものであったといいます。
外池酒造店(2020年2月)