東海道本線[JR東日本・JR東海・JR西日本]

鉄道敷設

エドモンド・モレルはイギリスの技術者であり、明治時代初期にイギリス公使のハリー・S・パークスの推薦により来日しました。初代の鉄道・建築師長として京浜間の鉄道建設に従事し、軌間を1,067ミリに定めた他、国産の木材を枕木に使用することを決めています。

青梅鉄道公園に保存されるED16とC11(2020年10月)

1869年(明治2年)、右大臣三条実美の私邸において、ハリー・S・パークスと政府高官の岩倉具視,沢宣嘉(のぶよし),大隈重信,伊藤博文が会談し、日本における鉄道建設計画に関する下打ち合わせを行いました。そこで、岩倉具視は鉄道建設はイギリスに協力を依頼し、東京~京都間を幹線として位置づけ、幹線に接続する支線として東京~横浜間,京都~神戸間,長浜~敦賀間を計画していることを明らかにしました。

旧敦賀港駅舎/現・敦賀鉄道資料館(2019年7月)

ハリー・S・パークスは、日本の鉄道建設とその運営については明治新政府が自ら行うべきであると主張し、江戸幕府より鉄道建設の免許を与えられていたアメリカをおさえて、日本に国有鉄道を敷設する強い姿勢を示しました。イギリスのハリー・S・パークスの提案は、イギリス資本で明治新政府の手による鉄道建設ということを強く主張していたため、明治新政府はイギリス資本による鉄道敷設を目指すこととなります。アメリカの場合にはアメリカ主体の鉄道敷設となること、フランスの場合には江戸幕府と明治新政府の対立を利用するものであることが避けられる要因となりました。

青梅鉄道公園に保存される2120形式タンク式蒸気機関車(2020年10月)

エドモンド・モレルは、鉄道の技術教育を提唱するとともに鉄道建設を具体化し、日本鉄道史におけるその功績はきわめて大きかったが、在職わずか1年6か月で病死しました。その墓は横浜外人墓地にあり、1962年(昭和37年)に鉄道記念物に指定されています。

新梅田シティ滝見小路(2023年3月)


官設鉄道(官鉄)

鉄道事業を主管したのは、1870年(明治3年)に民部省・大蔵省に設置された鉄道掛です。その後、工部省が創設され、鉄道事業は工部省主管へと変更されました。

国有鉄道のマーク(2019年1月)

その後主管は以下のように変遷します。

1871年(明治4年)工部省鉄道寮
1877年(明治10年)工部省鉄道局
1885年(明治18年)内閣鉄道局
1889年(明治22年)内閣鉄道庁
1892年(明治25年)逓信省鉄道庁
1893年(明治26年)逓信省鉄道局
1897年(明治30年)逓信省鉄道局(行政事務担当)・逓信省鉄道作業局(鉄道作業事務担当)
1907年(明治40年)逓信省帝国鉄道庁
1908年(明治41年)内閣鉄道院(院電)
1920年(大正9年)鉄道省(省電)
1949年(昭和24年)日本国有鉄道(国電)
1987年(昭和62年)日本国有鉄道分割民営化(JR)


新橋~横浜間開業から東海道本線開通へ

世界初の鉄道が開通してから約50年後の1872年(明治5年)10月14日(旧暦:9月12日)、新橋~横浜間に日本初の鉄道が開業しました。

 旧新橋停車場(2023年2月)

この記念すべき明治5年9月12日、新暦でいうところの1872年10月14日は、1922年(大正11年)に当時の鉄道省によって「鉄道記念日」として制定されています。1994年(平成6年)に当時の運輸省によって「鉄道の日」と改められ、国鉄を継承したJRだけでなく、全鉄道会社にとっての記念日となりました。現在では「鉄道の日」には全国各地で各鉄道会社によってさまざまなイベントが開催されています。

青梅鉄道公園9600形蒸気機関車(2020年10月)

1874年(明治7年)に大阪~神戸間の仮営業を経て、1877年(明治10年)に京都~神戸間が正式に開業しました。特に大阪~京都への延伸については、一度に開通したわけではありません。

京都駅(2019年5月)

1876年(明治9年)7月に向日町まで、9月に大宮通(仮駅)まで、1877年(明治10年)2月に京都へと達しました。このときに、京都~神戸間に設けられた中間駅は向日町,山崎,高槻,茨木,吹田,大阪,西ノ宮(現在の西宮),三ノ宮でした。

吹田駅(2016年12月)

 その後、新橋~横浜間および神戸~大阪~京都間、この東海道本線両端の間の線路は徐々に敷設され、1889年(明治22年)に最後に残った区間である関ヶ原~馬場(現在の膳所)間が開通して全通となりました。1906年(明治39年)には、新橋~神戸間を走破する「最急行」と称する列車を設定しました。最急行は現在の特急にあたる列車種別であり、運賃に加えて急行料金が必要となる初めての列車となりました。この列車はその後、1912年(明治45年)に運転区間が下関まで延長されて、初めての特別急行列車とされています。

工事中の膳所駅(2018年1月)

東海道本線は1964年(昭和39年)に全線の電化を完了しました。1987年(昭和62年)4月1日には国鉄が分割民営化され、東海道本線のうち東京~熱海間はJR東日本、熱海~米原間はJR東海(熱海駅はJR東日本、米原駅はJR西日本)、米原~神戸間はJR西日本に分割されました。

京都駅に到着する東海道本線の車両(2019年1月)


東海道本線旧ルート

当時、鉄道連絡船からバトンを渡された鉄道路線は、琵琶湖岸に沿って進み、少し東へもどるような形となっていました。東進した列車は馬場駅(現在の膳所駅)に辿り着くと、西に向きを変えて逢坂山(おうさかやま)トンネル(東海道本線旧線)を抜けて山科盆地を通り、稲荷山の南側を迂回して稲荷駅から現在の奈良線のルートを通って京都駅へ入りました。これが東海道本線の旧ルート「馬場(現在の膳所)~大谷~山科~稲荷~京都」です。

稲荷駅ランプ小屋(2017年12月)

このルートの工事は1878年(明治11年)に着工していますが、当時においては山間部を通過する初めての鉄道であったため難工事となりました。さらに、それまでの鉄道工事は外国人に依存する形で実現されてきましたが、この工事は日本人の手により進められることとなりました。この工事は1880年(明治13年)に完了し全線開通を果たしています。

京都駅展望台から見た風景(2017年11月)

しかしながら、この旧線ルートは急曲線を抱える他、急勾配の連続であったため、1915年(大正4年)になると線路変更工事が開始されることになります。1921年(大正10年)に新逢坂山トンネルが開通すると、京都~大津(初代)間の東海道本線は新線(現在の東海道本線ルート)に切り替えられることになりました。新線途上に新しい大津駅(3代)が設置され、大津駅(2代)は馬場駅に戻され、貨物駅となりました。

工事中の膳所駅(2018年1月)

一方、関東でもルートが変更になっているところがあります。当時の東海道本線のうち、国府津(こうづ)~沼津間は現在の御殿場線(国府津~松田~駿河小山~御殿場~裾野~沼津)を経由して走行していましたが、1934年(昭和9年)に現在の東海道本線のルート(国府津~小田原~熱海~三島~沼津)に切り替えられています。

東海道本線の西大路~京都間(2019年1月)


日本初の蒸気機関車

日本で初めて蒸気機関車が登場したのは、日本初の鉄道となる新橋~横浜間の走行用としてのものであり、当時10両の蒸気機関車が日本へ輸入されました。このとき、ストックトン=ダーリントン鉄道が開業してから、すでにおよそ50年になろうとしていました。

青梅鉄道公園「C11」タンク式蒸気機関車(2020年10月)

10両のうちたまたま「1号機関車」に設定された機関車は、バルカン・ファウンドリー社(イギリス)製のタンク機関車であり、1871年(明治4年)に製造されたものです。その動輪の直径は1,295ミリとなる小さな機関車です。

京都鉄道博物館:旧二条駅舎前の動輪(2019年1月)

この機関車は最初は「A1」とよばれ、後に「150形」と命名されています。その後、島原鉄道へ転じ、1936年(昭和11年)より東京(万世橋)にあった交通博物館において静態保存されていました。交通博物館が閉館となった後は鉄道博物館(さいたま市)に展示されています。この1号機関車は1958年(昭和33年)には鉄道記念物に指定され、1997年(平成9年)には国の重要文化財に指定されています。

青梅鉄道公園展示/上:150形、中:弁慶号、下:860形

「3号機関車」とよばれた後の「110形」はヨークシャー・エンジン社(イギリス)製の機関車であり、1号機関車よりやや小ぶりの機関車です。1961年(昭和36年)には鉄道記念物に指定され、青梅鉄道公園に保存展示されていましたが、現在ではその展示を終了しています。

蒸気機関車59609号

10両のうちの4両はシャープ・スチュアート社製の「A6」「A7」といわれた蒸気機関車であり、後に「160形」と称されました。その外観および性能は1号機関車とほとんど同じです。現在では、これらと同形式の蒸気機関車が明治村(愛知県)に保存されています。また、他の4両はロバート・スティーブンソン社製の「A4」とよばれ、後に「120形」となりました。

青梅鉄道公園「D51-452」後ろ姿(2020年10月)

蒸気機関車にはタンク機関車とテンダー機関車(炭水車つき機関車)があります。タンク機関車は水および石炭を機関車本体に積載していますが、テンダー機関車は水および石炭を積載した燃料運搬車が接続された機関車となります。タンク機関車の型式番号は「C11」などのようにその数字が10~49、テンダー機関車は「C58」などのようにその数字が50~99となっています。また、アルファベットは動輪(動力を伝える車輪)の数を表し、たとえば「C」は動輪が3つ、「D」は動輪が4つとなります。

京都鉄道博物館「SLスチーム号」(2019年1月)

1877年(明治10年)になると、新橋~横浜間に次いで、京都~神戸間が開業しました。京都~神戸間は新橋~横浜間に比べると、その距離が長くなるため、テンダー機関車を使用することになりました。京都~神戸間に投入された機関車は当初「D1」とよばれ、後に「5000形」とよばれます。これはシャープ社(イギリス)製であり、その出力は新橋~横浜間を走る蒸気機関車より約30%大きいものであったといいます。

新橋駅前に保存されるタンク機関車C11形(2018年9月)

当初こうした蒸気機関車の機関士として活躍し、またその整備や保守を担当したのはイギリス人でした。日本人はその下働きとして鉄道に携わることになります。日本人として初めての機関士が登場したのは1879年(明治12年)のことであり、それから10年以内にはさまざまな職種が日本人だけで運営できるようになりました。

京都鉄道博物館「SLスチーム号」(2019年1月)

1889年(明治22年)に東海道本線が全通した後、高崎~直江津間,上野~青森間,神戸~下関間などが開通し、より多くの機関車が必要となります。機関車を製造する世界の国々からはさまざまな機関車の売り込みが増えるようになり、さまざまな国のさまざまな機関車が輸入されるようになりました。

京都鉄道博物館から京都駅方面をのぞむ(2019年1月)

その後、国内で蒸気機関車を製造しようとする動きが出てきたため、外国から鉄道技術者を多く招き入れ、日本人の鉄道技術者を育成することに注力することになります。そして、ついに1893年(明治26年)、日本初の国産蒸気機関車が誕生しました。この蒸気機関車は後に「860形」(タンク機関車)と名付けられています。

青梅鉄道公園「2120形式タンク式蒸気機関車」(2020年10月)

この日本初の国産蒸気機関車はイギリス人技師の指導の下、森彦三,服部勤らの手により神戸工場で製造されました。この国産1号機は京都~神戸間を走行した後、1918年(大正7年)に樺太鉄道に移籍し、1929年(昭和4年)に廃車となりました。

京都鉄道博物館:旧二条駅舎(2019年1月)

そして、国産2号機となったのは7150形(テンダー機関車)ですが、1895年(明治28年)に手宮工場(小樽市)にて日本人の手だけによって製造されたので、この蒸気機関車こそまさに「国産第1号」となります。その名は日清戦争に勝利した直後ということもあり「大勝(だいしょう)号」と名付けられました。

青梅鉄道公園:腕木式信号機と9600形式蒸気機関車(2020年10月)

1911年(明治44年)頃には日本の蒸気機関車は約3,000両近くにもなっていましたが、1906年(明治39年)には鉄道国有化法の施行によって、それぞれにばらばらに輸入されていた全国のさまざまな蒸気機関車をすべて国鉄にて保守・点検しなければならなくなっていました。それらに関連するコストを削減するため、すべての機関車を国産化するよう方針を転換し、1911年(明治44年)には蒸気機関車の輸入税率を引き上げることにより国産機関車の保護政策を実施します。

京都鉄道博物館:国産初量産型「230形233号機」(2019年1月)

1913年(大正2年)には9600形蒸気機関車、1914年(大正3年)には8620形蒸気機関車が製造され、前者は貨物用、後者は旅客用として大正時代の代表的蒸気機関車となりました。また、急行列車用としては1919年(大正8年)~1928年(昭和3年)にかけて18900形蒸気機関車(後のC51形蒸気機関車)が製造されています。

青梅鉄道公園「9600形式テンダー式蒸気機関車9608号」(2020年10月)

その後、昭和時代に入ってからもさまざまな蒸気機関車が製造されますが、やがて電車に取って代わられるようになっていきます。最終的に国鉄が蒸気機関車の営業を終了したのは1975年(昭和50年)のこととなります。しかしながら、蒸気機関車の人気は今でも衰えず、真岡鐵道のように復活して人気を博している蒸気機関車も数多くあります。

真岡鐡道C12-66号(2020年1月)

一方、日本で初めての電車が走ったのは蒸気機関車が初めて走ったのと同じ明治時代であり、1890年(明治23年)の上野公園でした。当時、上野公園では第3回内国勧業博覧会が行われており、この会場でアメリカから輸入された2両の電車が、公園内に敷設された400メートルの線路上を走りました。短い距離でしたが、乗客を乗せて走行し、人々の人気を博しました。

京都市電2000形電車(2019年1月)

その後、営業用として初めて走行した電車は京都の路面電車であり、それは1895年(明治28年)のことでした。この路面電車は京都~伏見間の7キロほどの距離を時速10キロで走りました。さらにその後、路面電車ではない「電車」が走ったのは1904年(明治37年)、甲武鉄道が敷設した飯田町~中野間でした。


国鉄の鉄道線路名称

国鉄の線路名称は、1909年(明治42年)に公布された「国有鉄道線路名称(明治42年鉄道院告示第54号)」により定められました。ここでは、大区分となる「部」と小区分となる「線」を設定しています。

東京駅丸の内駅舎の天井(2019年3月)

たとえば、東海道本線についてみると、当初は東京~神戸間を「東海道本線」とよび、東海道本線に加えて山手線,鶴見線,御殿場線,福知山線などの支線を含めて「東海道線」としていました。

山手線(2020年7月)

すなわち、支線を含めた「東海道線」が大区分となる「部」であり、その中に東海道本線,山手線,鶴見線,御殿場線,福知山線などの小区分となる「線」があるというものです。

京都駅付近から滋賀方面を見る(2019年1月)

また、小区分の筆頭となる「線」については「東海道本線」のように「本線」と設定されます。

東京駅丸の内駅舎(2019年3月)

ただし、支線をもたない場合は「本線」となることができませんでした。

山崎駅を出発する普通列車(2017年4月)

その後、変更が実施されるなどして、国鉄分割民営化後はJR各社がそれぞれのその線路名称を引き継いだり、独自に名称を定めたりしながら現在に至ります。

東京駅(2019年3月)

東海道線についてみると、国鉄分割民営化の際に「東海道本線」のみを「東海道線」と定めたようですが、現在では「東海道本線」「東海道線」のいずれの名称も従来の「東海道本線」に対して用いられています。

大阪駅に停車する223系車両(2017年2月)

近年ではJR各社がそれぞれに愛称を定めている例も見受けられます。たとえば、JR西日本では、北陸本線の長浜~米原間および東海道本線の米原~京都間を「琵琶湖線」、東海道本線のうち京都大阪間を「JR京都線」、東海道本線の大阪~神戸間および山陽本線の神戸~姫路間を「JR神戸線」、京都~園部間(山陰本線)には「嵯峨野線」などと愛称を付し、駅においても愛称で案内などをしています。

山崎駅に到着する「京都行き」普通列車(2017年4月)

JR西日本が「JR京都線」および「琵琶湖線」の愛称を用いるようになったのは1988年(昭和63年)からです。JR京都線については、すでにこの時点で阪急京都線および近鉄京都線があったことから混同しないように「JR」と冠することになりました。

米原駅に停車する東海道本線の車両(2017年8月)

琵琶湖線については、地元などからの要望もありこの愛称としました。その後、1991年(平成3年)に田村~長浜間(北陸本線の一部)が交流電化から直流電化へと変更されたため、米原~田村~長浜間も琵琶湖線に加えられることになりました。なお、現在では、長浜~敦賀間も直流電化へと変更されていますが、この区間については琵琶湖線に加えられていません。


JR京都線

東海道本線のうち京都大阪間をJR京都線と呼称しています。JR京都線を走る普通列車には、321系207系が使用されています。207系は1991年(平成3年)より投入された車両ですが、その製造はすでに終了しています。順次321系へと置き換えられています。321系は2005年(平成17年)から製造開始・投入され、201系や205系のすべての置き換えを完了しています。

京都駅に停車する207系車両(2017年1月)

221系、223系や225系によって運行される普通列車は、JR京都線内では大阪~高槻間を快速運転、高槻以東は普通列車として運転されます。ただし、一部の列車においてはJR京都線内の全区間(大阪京都間)を快速運転する列車もあります。


サンライズエクスプレス

東海道本線は日本の鉄道史を象徴してきた路線です。現在でも、その営業距離は589.5キロ(支線を除く)にもおよび、駅数186駅を抱える日本の大動脈です。しかしながら、現在では全線走破する列車はほとんどありません。

東京駅(2019年3月)

現在では、寝台特急「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」(愛称「サンライズエクスプレス)のみが東海道本線全線を走ります。

サンライズエクスプレス(2022年12月)

「サンライズ瀬戸」の運行区間は高松~東京間、「サンライズ出雲」の運行区間は伯備線経由の出雲市~東京間です。2つの列車は岡山~東京間においては連結して運行されます。

サンライズエクスプレス(2022年12月)


特急「あさかぜ」

特急「あさかぜ」は東海道本線を走る特急としてデビューし、東京~博多間を一夜で結ぶ寝台特急として、1956年(昭和31年)~2005年(平成17年)の間活躍しました。

「あさかぜ」ヘッドマーク(2020年10月)

1958年(昭和33年)に青地に白ラインが入った20系客車を採用し、後の「ブルートレイン」の先駆けとなった戦後初の夜行特急列車です。夕方、東京および博多を出発し、昼には博多および東京に到着しました。2005年(平成17年)に廃止となっています。

寝台車(2019年1月)


特急「はやぶさ」

「はやぶさ」ヘッドマーク(2020年10月)


「びわこライナー」と「びわこエクスプレス」

琵琶湖線(京都~米原~長浜間)を走る列車には「びわこエクスプレス」という列車がありますが、この前身となるのが「びわこライナー」です。当初の「びわこライナー」は「ホームライナー」として1987年(昭和62年)にデビューしましたが、それは北陸本線の特急列車の間合い運用として大阪~米原間の通勤客を運んだのがそのはじまりとなります。

大阪駅に停車する草津行「びわこエクスプレス」(2017年8月)

ホームライナーは国鉄時代に必ず着席することをその目的として運行された列車であり、後に民営化後のJR各社や私鉄などにおいても同様の列車を通勤時間帯などに運行しています。こうした列車を総称して「通勤ライナー」などとよぶこともあります。また、間合い運用というのは、ある列車が本来の運用を終了した後、次の運用開始時刻までの間の時間を利用して別の運用にあてる方法のことをいいます。

大阪駅に停車する草津行「びわこエクスプレス」(2017年8月)

2003年(平成15年)のダイヤ改正により「びわこライナー」は特急列車へ格上げされ、特急「びわこエクスプレス」として運行されることになりました。これは北陸本線において新型車両が増備されることになり、「びわこライナー」についても車両が置き換えることになったためです。

大阪駅に停車する草津行「びわこエクスプレス」(2017年8月)

なお、2019年(平成31年)より特急「びわこエクスプレス」の列車名称は通勤特急「びわこエクスプレス」に変更されています。「びわこエクスプレス」は大阪~米原間において1往復運行されていましたが、2014年(平成26年)に草津行き1本が増発されることになりました。これにより、現在は1号が大阪行き、2号が草津行き、4号が米原行きとなっています。車両は、1号と4号は特急「サンダーバード」の間合い運用となるため683系、2号は特急「はまかぜ」の間合い運用となるためキハ189系が使用されています。


夜行急行「月光」

「月の光(ムーンライト)」より夜をイメージできることから、その名は夜行列車の愛称として使用されてきました。急行「月光」は、東京~大阪間の夜行急行として「銀河」「明星」「彗星」に次いで1953年(昭和28年)に登場しました。ところが、1964年(昭和39年)に東京~新大阪間に東海道新幹線が開業したことにより、東海道本線を昼間に走る特急はすべて廃止され、夜行急行は「月光」と「銀河」「明星」「金星」のみとなってしまいました。このとき「月光」は何とか生き残ることができましたが、東海道新幹線のダイヤ改正による増発のため1965年(昭和40年)に「月光」と「金星」は姿を消すことになりました。

京都鉄道博物館に展示される581系電車「月光」(2019年1月)
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それから僅か2年後の1967年(昭和42年)、「月光」という名の列車は「世界初の昼夜兼行車両による寝台電車」として復活します。車両本体に動力をもつ寝台電車の運行は1902年(明治35年)のアメリカに遡りますが、このときは大きな広がりを見せることはありませんでした。一方、「月光」に充てられた581系(交直両用車〔交流区間60ヘルツ対応〕)/583系(交直両用車〔交流区間50・60ヘルツ対応〕)は昼夜兼行車両、すなわち昼間は通常の座席形式、夜は座席を寝台に変更して寝台車として利用できる特殊な仕様であったため、酷使されることになります。寝台特急「月光」として新大阪~博多間を結ぶ581系/583系電車は、寝台特急として博多を出発して翌朝新大阪に到着すると、昼間は「みどり」として大分まで取って返し、夜になるとまた特急「月光」として博多に向かうという過酷な仕事をこなしました。

京都鉄道博物館に展示される581系電車「月光」(2019年1月)

このような合わせ技をもつことから581系/583系電車は、1972年(昭和47年)にかけて434両も製造され、八面六臂の活躍をすることになります。その後581系/583系電車はさまざまな特急列車に充てられるようになり、「月光形電車」と呼称されるようになりました。1972年(昭和47年)以降、寝台特急「月光」は岡山~博多・西鹿児島(現在の鹿児島中央)を結ぶようになり、1975年(昭和50年)になると二度目となる「月光」の名の消失となり、その後「月光」の名は復活していません。


ムーンライトながら

1967年(昭和42年)になると、東海道新幹線の開業や特急・急行列車の増発などにより、夜行普通列車は東京~大阪間の1往復のみと豊橋~東京間の上り列車1本のみとなりました。

185系「ムーンライトながら」(2017年8月)

廃止が決定していたこれらの夜行普通列車は利用者らによる要望により、これまで運行されていた臨時急行列車「ながら3号」を普通列車化して存続することになりました。

185系「ムーンライトながら」(2017年8月)

それ以来、東京~大垣間を結んできた通称「大垣夜行」を代替して、1996年(平成8年)に快速「ムーンライトながら」が登場しました。

「ムーンライトながら」行先標(2017年8月)

上の写真は快速「ムーンライトながら」の行先標です。鉄道やバスに表示される行き先などを示したものを行先標(行先札)などといいます。国鉄時代には、行先標(行先札)の略号を「サボ」としていたため「サボ」とよばれることもあります。これは「サインボード」などの略ともいわれます。

北陸線電化記念館に展示される行先札(2017年8月)

「ムーンライトながら」は空席が目立つようになってきた2009年(平成21年)以降は臨時列車として運行されてきましたが、2020年(令和2年)は新型コロナウイルス感染症の影響により夏・冬ともに運行されませんでした。2021年(令和3年)に廃止が発表され、2020年(令和2年)3月の運行が最後の運行となりました。これにより「月の光(ムーンライト)」を名乗る列車はすべて消失してしまいました。

快速「ムーンライトながら」(2017年8月)


ジョイフルトレイン「あすか」(2016年10月)
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ジョイフルトレイン「あすか」

「あすか」はJR西日本の保有するジョイフルトレインの一つであり、1987年(昭和62年)に7両が登場しました。ジョイフルトレインとは、団体専用列車、イベント列車、観光列車などとして使用するための車両のことをいいます。

 

吹田総合車両所に回送された「あすか」(2016年10月)
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車内には畳があったり、宴会ができたり、座席の配置が工夫してあり外の景色が見やすくなっていたりというような特徴をもちます。

 

吹田総合車両所に回送された「あすか」(2016年10月)

 

バブル期にはこうした列車が多く登場しましたが、最近では団体旅行などが減少し、ジョイフルトレインも少なくなっているます。

 

吹田総合車両所に回送された「あすか」(2016年10月)
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あすか」の車体には扇が描かれていますが、扇の配色にも伝統的な日本古来の色が使用されています。また、客室の多くは和風となっています。2016年(平成28年)中に7両のうち4両が廃車となっています。

 

吹田総合車両所に回送された「あすか」(2016年10月)
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新橋駅

1872年(明治5年)10月14日、日本初の鉄道「新橋~横浜」間が開通しました。ここにいう「新橋駅(初代)」は現存する「新橋駅(2代)」ではありません。すなわち、1872年(明治5年)に敷設された新橋~横浜間の起点となった新橋駅(初代)は「初代新橋駅」をさし、このときの新橋駅(初代)は後に「汐留駅」となっています。汐留駅は貨物駅となった後、1986年(昭和61年)に廃止されています。

品川駅に停車する上野東京ライン・常磐線直通列車(2018年8月)

開業当時の新橋駅(初代)駅舎は西洋建築の駅舎であり、リチャード・ブリジェンスにより設計されたものです。新橋駅(初代)は長らくの間、ターミナル駅として発展しましたが、1914年(大正3年)に東京駅が完成するとその機能は東京駅へと移っていくことになります。

新橋駅前に保存されるC11形(2018年9月)

一方、現在の新橋駅(2代)はもともと「烏森駅」として開業しています。烏森駅は1909年(明治42年)に旅客駅として仮本屋で営業を開始し、1914年(大正3年)に本屋が完成し、烏森駅が「新橋駅(2代)」と改称されました。新橋駅(2代)は東京都港区にあり、JR線,東京メトロ銀座線,都営地下鉄浅草線,ゆりかもめが乗り入れています。このうち、JR線について見ると、線路名称上は東海道本線1路線のみの乗り入れとなりますが、運転系統上では東海道線,京浜東北線,山手線,横須賀線が乗り入れていることになります。

秋葉原駅に到着する山手線の車両(2020年7月)

現在の新橋駅(2代)の西口広場はSL広場ともよばれますが、その名前の由来となるのが鉄道100年を記念して駅前に保存される蒸気機関車C11-292です。C11-292は1945年(昭和20年)に日本車輛により完成し、山陽本線へと配属され、播但線や姫新線などで活躍しました。したがって、C11-292は新橋駅(2代)前にありながらこの周辺では走っていなかったということになります。C11形はタンク式とよばれる小型の蒸気機関車であり、主に近距離路線や貨車の入れ替えなどに使用されていました。

蒸気機関車C11-292の前面(2018年9月)

もともと「新橋」という地名は外堀(後の汐留川)に架かっていた東海道の橋に由来する名称です。1710年(宝永7年)にこの地に芝口御門が造られたことにより、新橋は芝口御門橋と名称を変更されることになりました。しかし、1724年(享保9年)に芝口御門が消失してしまったものの再建されず、旧称の「新橋」に戻されています。

蒸気機関車C11-292の後ろ姿(2018年9月)


品川駅

1872年(明治5年)10月14日に新橋(後の汐留駅)~横浜(現在の桜木町駅)間の開通式が行われ、翌10月15日より正式に営業運転が開始されました。しかし、厳密にいうと日本最初の鉄道が走ったのはこのときではありません。なぜなら、これに先立って6月12日に品川~横浜(現在の桜木町駅)間が仮開業しています。

品川駅駅名標(2018年9月)

したがって、「鉄道開通の話」をするたびに取りあげられる新橋駅(後の汐留駅)よりも先に品川駅は開業していたことになるので、品川駅は「わが国最古の駅」ということになります。

品川駅駅名標(2018年11月)

鉄道の路線にはその起点からの距離を表す距離標が設置されていますが、これは「キロメートル」の単位によって表示されるため「キロポスト」と称されることもあります。キロポストの起点を表す標識は「ゼロキロポスト」とよばれます。品川駅には「ゼロキロポスト」がありますが、東海道本線のものではありません。日本初の鉄道の起点として「ゼロキロポスト」(当時はマイルで計測されたので「ゼロマイルポスト」)が設置されたのは新橋駅であり、これは1958年(昭和33年)に鉄道記念物に指定されています。

ホームにある安全記念碑(2018年8月)

さて、現在の品川駅にある「ゼロキロポスト」ですが、これは山手線のものであり、品川駅は山手線の起点であるということです。山手線は環状運転をしているので起点や終点といわれると不思議に感じますが、山手線の起点は品川駅、終点は田端駅となっています。すなわち、路線名称としては品川~新宿~田端間が山手線、田端~東京間が東北本線、東京~品川間が東海道本線となります。

山手線の車両E235系(2020年10月)

品川駅のホームには品川駅開業130周年安全祈念碑があり、品川駅開業130年の際に鉄道安全を祈願(品川駅開業130周年安全祈念碑)して設置されたものです。この安全祈念碑は古い電気機関車の動輪とレールからできています。また、祈念碑上部には鐘が取り付けられていますが、これは動輪よりあとの時代に取り付けられたものです。

安全祈念碑上部に取り付けられる鐘(2018年8月)


横浜駅

一方、新橋~横浜間の終点となった横浜駅(初代)は現在の横浜駅ではありません。横浜駅(初代)はリチャード・ブリジェンスにより新橋駅(初代)駅舎と同じデザインで建築されました。リチャード・ブリジェンスはバーミンガム(イギリス)生まれであり、1864年(元治元年)に来日し横浜で土木建築事務所を開いています。また、日本初の鉄道の開業に先立ち、高島嘉右衛門(たかしまかえもん)は1870年(明治3年)、大隈重信らに京浜間の鉄道敷設を進言しています。高島嘉右衛門は高島易断の開祖ですが、明治時代​に横浜の発展に寄与し「横浜の父」ともよばれています。ちなみに、横浜駅(初代)は、1915年(大正4年)に横浜駅(2代)が誕生した際に「桜木町駅」と改称されています。したがって、現在の新橋駅(初代)も横浜駅(初代)も、厳密にいうと新橋~横浜間が開業した当時の駅ではないということになります。