阪神本線・阪神なんば線[阪神電気鉄道]

投稿者: | 2018-08-29

阪神タイガースの誕生

「阪神電車」の正式名称は阪神電気鉄道であり、現在では阪急阪神ホールディングスの子会社となっています。そして、プロ野球の阪神タイガースの親会社でもあり、1935年(昭和10年)に大阪野球倶楽部(大阪タイガース)を設立し、1961年(昭和36年)に阪神タイガースとしています。その本拠地はもちろん甲子園球場であり、これまでプロ野球の試合の他、高校野球でも数々の名勝負を生んできた球場です。

山陽電鉄舞子公園駅を出発する直通特急(2017年8月)

甲子園球場へは阪神電気鉄道で容易にアクセスすることができます。阪神電気鉄道の起点となる大阪梅田駅から、直通特急(山陽電気鉄道への直通運転)または特急に乗車すると、尼崎駅の次が甲子園駅となりますので、甲子園駅で下車します。乗車時間は15分ほどです。甲子園駅の西改札口を出ると、目の前に野球場が見えてきます。徒歩3分ほどで甲子園球場の入口に到着します。

大阪梅田駅に停車する直通特急(2016年10月)

JR神戸線東海道本線)には甲子園口駅がありますが、こちらは甲子園球場への最寄り駅とはなりません。甲子園口駅から甲子園球場まで歩くとすると、30分以上かかってしまいます。


摂津電気鉄道から阪神電気鉄道へ

阪神電気鉄道はもともと、神阪電気鉄道の名で1893年(明治26年)に設立を発起し、翌年にはこれを摂津電気鉄道と改称しています。これを受けて1899年(明治32年)に摂津電気鉄道を設立し、すぐに阪神電気鉄道と社名変更しています。その社名の由来はというと、大阪の「阪」と神戸の「神」を一字ずつ取って「阪神」としたものであり、大阪~神戸間(大阪梅田—福島—野田—淀川—姫島—千船—杭瀬—大物—尼崎—出屋敷—尼崎センタープール前—武庫川—鳴尾・武庫川女子大前—甲子園—久寿川—今津—西宮—香櫨園—打出—芦屋—深江—青木—魚崎—住吉—御影—石屋川—新在家—大石—西灘—岩屋—春日野道—神戸三宮—元町)を結ぶ鉄道ということになります。

香櫨園駅の下り線ホームに入線する普通列車(2019年2月)

三崎省三(みさきしょうぞう)は兵庫県生まれであり、1899年(明治32年)に技師として​阪神電気鉄道​に入社しました。その後、アメリカに渡り、鉄道の技術や経営を学んで​阪神電気鉄道​の礎を築いています。1939年(昭和14年)~1945年(昭和20年)にかけての第二次世界大戦の前後には、それまで存在していた鉄道会社の多くが強制的に統合させられるなどして、会社名の変更を余儀なくされたり、姿を消したりする鉄道会社が数多くありました。近畿圏においても、大手私鉄である近鉄,南海,阪急,京阪が社名変更や会社統合を経験しています。そうした中、阪神電気鉄道は三崎省三が入社した年である1899年(明治32年)以来ずっと「阪神電気鉄道」の名を守り続けています。

香櫨園駅の下り線ホームを通過する直通特急(2019年2月)

阪神電気鉄道は1905年(明治38年)、神戸(現在の神戸三宮)~出入橋(1948年/昭和23年廃止)間(後の阪神本線)を開業させ、その区間を約1時間30分の所要時間で結んでいます。この路線の一部は路面電車のように道路上に敷かれていましたが、その軌間を標準軌1,435mmとし、それ以外の区間はすべて専用軌道として、都市間を高速で運転する鉄道の建設を実現しています。これが関西の私鉄初の(路面電車ではない)電車を走らせた瞬間となるとともに、まさにインターアーバン(都市間電気鉄道)の先駆けともいえる路線となりました。

尼崎駅に停車する普通梅田行き(2016年10月)

19世紀後半にアメリカ中西部において都市と都市を結ぶ電気鉄道が急速に発達したといわれています。こうした鉄道を「インターアーバン(都市間電気鉄道)」とよんでいます。日本にも早い段階でインターアーバン(都市間電気鉄道)に関する情報は輸入されることになりますが、当時の日本における交通事情や規制などがその建設の課題となっていました。そうした中、インターアーバン(都市間電気鉄道)建設の先駆けとなったのが阪神電気鉄道でした。

日本の鉄道は開業当初、当時鉄道視察のためにヨーロッパへ渡った大隈重信がイギリスの技術を採用することに決定し、軌間については1,067ミリとすることになりました。1,067ミリというのは、帝国主義の時代にイギリスが植民地用規格として作り出したものであり、日本の他、南部アフリカやスーダン,ナイジェリア,ガーナ,インドネシア,フィリピン,ニュージーランドなどで取り入れられているものです。

阪神電気鉄道は鉄道敷設にあたりアメリカ視察を経験し、1,435ミリの標準軌を採用して高速で走行する現実を見て、1,067ミリではなく1,435ミリの軌間で大阪~神戸間の鉄道敷設を実現したいと考えました。しかし、軌道(主に路面電車)を除く民営の鉄道の敷設および運行に関する規則を定めた私設鉄道法(1900年/明治33年公布)によると、軌間は1,067ミリとしなければなりませんでした。また、私設鉄道法を管轄する逓信省は官鉄の大阪~神戸間と並行する路線の建設に反対していたため、阪神電気鉄道は私設鉄道法より規制の緩い軌道条例(1887年/明治20年公布)によるインターアーバン(都市間電気鉄道)の建設を目指して、内務省の許可(後に逓信省の許可)を得ることにより課題をクリアしました。

香櫨園駅ホーム(2019年2月)

こうした中、阪神本線では利用者が急増しますが、車両の増強が追いつかず、ダイヤ編成に苦慮することになります。そこで、阪神電気鉄道では1919年(大正8年)、「千鳥式運転」なる奇策を生み出します。これは、全線を4区間に分けて、列車Aは第一区間のみに停車、列車Bは第二区間のみに停車、列車Cは第三区間のみに停車、列車Dは第四区間のみに停車というような特殊パターンの急行運転を実施しました。車両の増強が完了した1921年(大正10年)にはこれを終了し、通常の急行運転を開始しています。


国道線

阪神電気鉄道では、1975年(昭和50年)まで路面電車を走らせていましたが、そのときまで路面電車として残っていた路線は、「北大阪線」とよばれた野田~天神橋筋六丁目間、「甲子園線」とよばれた上甲子園~浜甲子園間、「国道線」とよばれた野田~東神戸間でした。北大阪線はもともと阪神電気鉄道が出資する北大阪電気軌道が軌道敷設の認可を受け、工事着手前に阪神電気鉄道がこれを合併して1914年(大正3年)に完成させたものです。甲子園線は当時、阪神が開発した住宅地へのアクセス鉄道として1926年(大正15年)に甲子園~浜甲子園間が先行開業しました。その後、順次延伸して上甲子園~中津浜間が1930年(昭和5年)に全線開業しています。

阪神本線を走る直通特急(2019年2月)

すでに阪神本線を開業させていた1925年(大正14年)に阪神電気鉄道は、その子会社として阪神国道電軌を設立しました。当時、阪神国道(現在の国道2号線)建設の計画が進められており、ここに他社の手により路面電車が走ることを危惧した阪神電気鉄道は阪神国道電軌の手によって1927(昭和2年)に野田~東神戸間を開業しました。これが完成してすぐ1928年(昭和3年)には阪神電気鉄道は阪神国道電軌を合併して、野田~東神戸間を「国道線」と称するようになりました。その後、この路線だけではなく北大阪線や甲子園線も合わせて「国道線」とよばれることもありました。


ターミナルの建設

神戸(現在の神戸三宮)~出入橋(1948年/昭和23年廃止)間(後の阪神本線)を開業させた翌1906年(明治39年)には、当時の国鉄大阪駅の場所に阪神電車ターミナルをより近づけるために出入橋~梅田間仮線を単線にて開業しました。

ホームに到着する車両(2017年8月)
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1914年(大正3年)になると、大阪中央郵便局の南側に本格的な梅田ターミナル駅を完成させ、仮線の複線化も完成させています。さらに、1939年(昭和14年)には梅田駅は地下化され、5つのホームと4線が設置され、現在でもほぼ変更されることなく使用されています。もう一方の終点である三宮についても、国鉄三ノ宮駅と少し距離があったため移設し、1912年(大正元年)に開業しています。こちらも1933年(昭和8年)には地下化され、都市間高速鉄道の理想へ近づくべく大きく前進をしました。

大阪神ビルディング/阪神百貨店(2018年7月)


阪神なんば線

阪神なんば線は2009年(平成13年)に開業した路線ですが、もともと1924年(大正13年)に大物(だいもつ)~伝法(でんぽう)~千鳥橋間が開通したことにはじまります。

西九条の交差点付近を跨ぐ阪神なんば線(2017年7月)

この路線は「伝法線」と名付けられましたが、その後1928年(昭和3年)には尼崎~大物間を延伸開業しました。1964年(昭和39年)には伝法線は「西大阪線」と改称され、そして千鳥橋~西九条間が延伸開業しました。

阪神西九条駅(2017年7月)

伝法線については、大阪では伝法線千鳥橋駅と阪神本線野田駅を結び、神戸では尼崎~神戸間に新線を建設するという計画もあったそうです。新線を急行線とし、従来の阪神本線を普通線とする計画でしたが、実現するには至りませんでした。

阪神西九条駅(2017年7月)
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2009年(平成13年)になると、西九条~大阪難波間を開業し、路線名を「阪神なんば線」と改称して近鉄奈良線との相互直通運転を開始しています。

尼崎駅に停車する大阪難波駅経由「東花園行き」(2016年10月)img_1638


阪急阪神1dayパス

阪神電気鉄道を堪能するには阪急阪神1dayパスが便利でお得です。阪急阪神1dayパスは阪神沿線(神戸高速鉄道を含む)および阪急沿線にある施設や観光地へのお出かけに便利な1日乗り放題切符です。大人1,200円(小児600円)で、阪急電車全線,阪神電車全線,神戸高速鉄道全線が乗り放題となります。2007年(平成19年)から発売されています。

阪急阪神1dayパス(2019年2月)


阪神電車の車両

5500系は阪神電気鉄道が1995年(平成7年)より投入した通勤形車両であり、現在普通列車の車両として活躍しています。車体色は「アレグロブルー」とよばれる青色と「シルキーグレー」とよばれる白色のツートンカラーとなっています。

阪神5500系(2016年10月)
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野田阪神駅

現在、阪神電気鉄道の本社は野田駅の北側にあります。北大阪線が1914年(大正3年)に開業し、この場所がその起点となったこともあり、阪神電気鉄道にとっては大切な場所の一つといえます。この地に1918年(大正7年)、大阪市電の野田線(玉川町三丁目~野田阪神電車前)が開業することになりますが、阪神電気鉄道野田駅の前に設置した大阪市電の駅名を野田阪神電車前としました。大阪市電が私鉄の社名を駅名に入れたのは、一つには大阪市電の西野田線(船津橋~兼平町)にすでに野田停車場(現在の大阪環状線野田駅付近)があったからのようです。

 

野田駅(高架)と野田阪神前交差点(2017年7月)

 

ちなみに、1997年(平成9年)にJR東西線をこの地に通したJR西日本はその名を避けたのか、その駅名を海老江駅としています。また、現在でも阪神電気鉄道野田駅との乗換駅となっている地下鉄の駅名も野田阪神駅となっています。

 

地下鉄千日前線野田阪神駅駅名標(2017年7月)


西宮駅

西宮駅は1905年(明治38年)に阪神本線の開通と同時に開業しました。

西宮駅(2019年6月)

「西宮駅」の正式名称は「西宮駅」ですが、阪急電鉄の西宮北口駅やJR線の西宮駅(以前は「西ノ宮駅」)と区別するため「阪神西宮」または「西宮駅」などと呼称されます。

西宮駅(2019年2月)

西宮市は兵庫県においては神戸市,姫路市に次ぐ都市であり、えびす神社の総本社となる「西宮神社」の門前町として栄えてきました。西宮神社は全国のえびす神社の総本社ですが、阪神電気鉄道の西宮駅がその最寄り駅となり、そこから徒歩5分ほどの場所にあります。

西宮駅(2019年2月)

創建時期は不明ですが、平安時代末期にはすでに高倉上皇のご奉幣をはじめ皇族神祇伯の参拝がきわめて盛んであったといいます。

西宮神社(2019年2月)

えびす様はもともと神戸和田岬の沖で出現され、鳴尾の漁師がお祀りしていました。西の方に宮地があるとのご神託により、この地に来られたとの言い伝えがあります。古くより漁業の神として信仰されており、西宮のまちの発展とともに商売繁盛の神として広く知られるようになります。

西宮神社前のえべっさん筋(2019年2月)

特に、中世以降には福の神と崇める信仰が盛んとなって、傀儡師の活動、謡曲や狂言を通じて社勢が広まっていきました。また、徳川時代以降には商業の発展にともない、海上守護神商売繁盛の神として広く知られるようになり、現在では全国各地から多くの人々の崇敬を受けています。

西宮神社境内図(2019年2月)

毎年1月9日から11日の十日えびすには百万人にもおよぶ参拝者が訪れます。本えびすの10日午前0時には神門を閉じて、神職は忌籠(いごもり)を厳修します。午前6時の表大門の開閉とともに走り参りを行う風習があり、福男が選ばれます。

福男選びの案内板(2019年2月)

表大門は豊臣秀頼による寄進と伝えられており、表大門の左右にある大練塀(おおねりへい)は国の重要文化財とされています。また、えびすの森は兵庫県の天然記念物に指定されています。

表大門(2019年2月)

表大門は東側練塀の南寄りにあり、旧街道に向かって東面して立ちます。全体が赤く丹塗りされていることから「赤門」として親しまれてきました。

大練塀(2019年2月)

2本の円柱を本柱とし、4本の角柱を控柱とする四脚門(よつあしもん)となっており、全体の構造はそれぞれの柱を貫材および虹梁を用いてつなぐ簡素なつくりとなっています。

表大門(2019年2月)

大練塀は、境内を取り囲む築地塀のうち東面および南面に築かれている全長247メートルの練塀であり、室町時代初期以前に建てられたと推定される現存最古の築地塀です。

大練塀(2019年2月)

この塀は、京都三十三間堂の太閤塀と名古屋熱田神宮の信長塀と並んで三大塀の一つとされますが、その規模の大きさおよび構造の堅牢さにおいて他に類を見ない貴重なものとなっています。

大練塀(2019年2月)

嘉永橋(かえいばし)は境内に残る最も古い石造の桁橋であり、六甲山産の花崗岩を用いて作られています。

嘉永橋(2019年2月)

1848年(嘉永元年)に神池の西側中央部に架けられたものであり、境内社松尾神社への参道上に位置しています。敷石の上に石製欄干を組み、両橋詰に袖高欄を付しており、2013年(平成25年)に国の登録有形文化財となっています。

神池(2019年2月)

瑞寶橋(ずいほうばし)は拝殿正面に位置する石造の太鼓橋であり、六甲山産の花崗岩を用いて作られています。

瑞寶橋(2019年2月)

円弧状の桁石の上を十七等分して敷石を割り付け、青銅製の欄干を備えた丁寧なつくりとなっています。

瑞寶橋(2019年2月)

境内中央に配された神池に架かっており、2013年(平成25年)に国の登録有形文化財となっています。

瑞寶橋(2019年2月)


香櫨園駅

香櫨園(こうろえん)駅は阪神本線の駅であり、1907年(明治40年)に西宮駅~打出駅間に「香枦園駅」として誕生しています。その後、高架工事が進められ、1998年(平成10年)には下り線ホームが高架駅となりました。また、2001年(平成13年)には上り線ホームが高架駅となり、このときに「香櫨園駅」と改称しています。

香櫨園駅駅名標(2019年2月)

この駅が開業した1907年(明治40年)、香櫨園駅から北へ徒歩10分程度の場所に香櫨園遊園地が開設されています。この遊園地は、大阪の商人であった香野蔵治と櫨山(はぜやま)喜一が中心となって開設を準備しました。「香櫨園」の名称は2人の商人の名に由来しています。阪神電気鉄道も遊園地の経営に参画して、当初は近畿最大の遊園地として人気を博しました。しかし、すぐに来園者が少なくなり経営難となり、1913年(大正2年)にこの遊園地は閉園しています。

香櫨園駅駅舎(2019年2月)

香櫨園駅のレトロな佇まいはひと際目を引きますが、この駅は近畿の駅百選にも選定されています。

香櫨園駅駅舎(2019年2月)

駅構造としては2面2線をもつ高架駅となっています。夙川(しゅくがわ)は兵庫県南東部を流れる河川であり、六甲山地の東端にあり芦屋市と西宮市の境にあるゴロゴロ岳を水源として大阪湾へと注いでいます。

香櫨園駅のすぐ下を夙川が流れる(2019年2月)

夙川沿いは公園が整備され夙川河川敷緑地(通称「夙川公園」)となっていて、この公園へと続いている川沿いの道は夙川オアシスロードとよばれています。

香櫨園駅前には夙川オアシスロードの表示が見える(2019年2月)

香櫨園駅の駅舎はこの夙川をまたぐ形で設置されています。

夙川のすぐ上に設置される駅のテラス(2019年2月)

また、川のすぐ上の駅舎部分はテラスのようになっていて、ホームからこのテラスへ出ることができます。

テラスに出ると…(2019年2月)

京阪本線には、香櫨園駅によく似た名前の「香里園駅」があります。香里園駅は1910年(明治43年)、「香里駅」として開業しました。この駅が開業した際に駅の近くに香里遊園地も開園しています。駅の周辺における当時の大字は「郡(こおり)」でしたが、その頃に人気を博していた阪神電気鉄道が運営する香櫨園遊園地にちなんで「香里遊園地」と名付けました。香里遊園地は当時、菊人形展を開催して多くの来園者が訪れたといいます。その後、香里遊園地は1912年(大正2年)に当時の枚方駅(現在の枚方公園駅)付近に移転し後のひらかたパークの起源となっています。香里駅は1938年(昭和13年)に「香里園駅」と改称しています。

香櫨園駅(2019年2月)


阪神尼崎駅

阪神尼崎駅」は阪神電気鉄道の駅であり、1905年(明治38年)の阪神本線の開通と同時に開業しています。本来の駅名は「尼崎駅」ですが、この駅から北西方向約1.8キロの位置にJR西日本の尼崎駅があるため、阪神電気鉄道の駅は一般的に「阪神尼崎駅」とよばれています。

庄下川(しょうげがわ)を跨ぐ尼崎駅(2019年2月)

尼崎駅の東側には阪神電気鉄道の尼崎工場がありますが、この尼崎工場では阪神電気鉄道のすべての車両の整備や検査が行われています。尼崎工場には尼崎車庫が併設されています。また、開業当初にはここに阪神電気鉄道の本社がありましたが、現在は「阪神野田駅」前のビルに本社は移転しています。

阪神尼崎駅前に建つ時計(2019年2月)

尼崎工場に併設する尼崎車庫の西側には古い煉瓦造りの建築物を見ることができます。

煉瓦造りの建築物(2019年2月)

この煉瓦造りの建築物は、阪神電気鉄道が開業した1905年(明治38年)以前に建築されたものであり、かつての尼崎発電所です。この火力発電所で発電された電気により阪神電気鉄道の車両は走行していました。また、この沿線の一般の家庭にも電力を供給していたそうです。現在ではその役割を終え、資材倉庫として利用されています。

工事中の尼崎城址公園の向こうに見える旧尼崎発電所(2019年2月)

尼崎藩主・譜代大名の戸田氏鉄(とだうじかね)は1617年(元和3年)、大坂の西側を守る拠点として江戸幕府の命により尼崎城の築城に着手しました。尼崎城は甲子園球場3.5個分の広さに相当し、4層4階の天守を擁する巨大なものでした。

尼崎城址公園東側から見た尼崎城(2019年2月)

その城下町を建設するにあたっては、大物(だいもつ)周辺(現在の尼崎市大物~東本町)に散在していた寺院を城の西に集約して「寺町」をつくりました。

尼崎城復活のポスター(2019年2月)

現在においても、寺町の区画は当時と比べてほとんど変わりはなく、11の寺院が寺町に集中しています。国が指定する重要文化財や兵庫県および尼崎市が指定する文化財も多く残されており、寺町は城下町としての名残をとどめています。

阪神尼崎駅前に建つ「寺町案内」(2019年2月)

戸田氏鉄は徳川家の家臣であり、1603年(慶長8年)に家督を継いで近江膳所藩第2代藩主となります。大坂の陣の功績により、1616年(元和2年)に摂津尼崎藩5万石、1635年(寛永12年)に美濃大垣10万石へと移封されています。寺町に集約された寺院としては、滋賀県大津市にあった戸田氏の菩提寺である全昌寺がある他、現存する尼崎最古の古刹となる大覚寺、その本堂・多宝塔が国の重要文化財となっている長遠寺、文化財を多くもち寺町の中心的寺院となった本興寺などがあります。

尼崎城址公園南側から見た尼崎城(2019年2月)

戸田氏の後、1635年(寛永12年)になると青山幸成が遠江掛川より入城し、1711年(宝永8年)には桜井松平家の松平忠喬が入城します。これより幕末までは桜井松平氏が城主を務めていました。1846年(弘化3年)には本丸御殿が火災により全焼しましたが、1年半後に再建されています。

尼崎城址公園西側から見た尼崎城(2019年2月)

その後、1873年(明治6年)になると、明治新政府の廃城令により建物の一部を除いて取り壊されてしまいました。

再建される尼崎城(2019年2月)

戸田氏鉄が築城してから約400年が過ぎ、ミドリ電化の創業者であった安保詮氏が私財を投入し、尼崎城の再建計画がはじまりました。2016年(平成28年)に天守再建に着工し、2019年(平成31年)3月に建築工事が完了して一般公開されています。

尼崎城址公園南側から見た尼崎城(2019年2月)

新たな尼崎城は「阪神尼崎駅」の南側の尼崎城址公園内にありますが、この新しい尼崎城の天守の位置は、戸田氏鉄が築城した尼崎城の位置より北西へ約300メートルの場所となります。復活した尼崎城の天守は地上5階建の鉄筋コンクリート造となっています。

完成間近の尼崎城(2019年2月)

契沖(けいちゅう)は江戸時代中期の古典学者です。彼の実家は下川氏であり、祖父は加藤清正の家臣、父は尼崎藩士であり青山幸成に仕えました。下川氏の三男として生まれた契沖の生誕の地となる「契沖生誕の比定地」の碑は尼崎城の南側にあります。

契沖生誕の比定地(2019年2月)

その後、父が浪人となり、契沖は11歳になると大阪今里の妙法寺で真言宗の僧として修業をするようになります。高野山で学んだ後、24歳のときに「阿闍梨」の位を得ました。水戸光圀の理解を得て、40歳の半ば頃には『万葉代匠記』を著した他、国学の発展に大きく寄与して「古学の祖」として称えられます。

古学の祖「契沖阿闍梨」の碑(2019年2月)

尼崎城址公園のすぐ南側には櫻井神社がありますが、この神社は1882年(明治15年)に建立されています。櫻井神社には1711年(正徳元年)から幕末までの尼崎藩を治めた桜井松平家(後に桜井氏)の歴代藩主が祀られています。

櫻井神社(2019年2月)