富山地方鉄道(2016年9月)
大伴家持
平安時代の代表的歌人である大伴家持は746年(天平18年)、越中(現在の富山県)守として赴任しています。ここに5年間滞在しますが、立山の風景に魅せられ、多くの歌を詠んでいます。
立山(たちやま)に 降り置ける雪を 常夏(とこなつ)に
見れども飽かず 神からならし (『万葉集』)
「立山に降り積もる雪を夏に見ても飽きることはない。それは山に神がいるからにちがいない」という意味になります。立山は富士山、白山と並んで日本三霊山とされ、古来より神仏習合の立山信仰の対象として、全国各地から多くの人々が訪れています。その立山が初めて文献に登場するのが、先の大伴家持の歌も収録する『万葉集』です。『万葉集』は7世紀後半~8世紀後半にかけて編纂されたものであり、わが国に現存する最古の和歌集です。さまざまな人々が詠んだ歌を4500首以上収録し、その成立は759年(天平宝字3年)以降であるようです。
立山の歴史
立山は古くは「タチヤマ」とよばれ、「そびえ立ちたる山」「切り立ちたる山」よりその名がついたのではないかとされています。立山は一つの山を指すのではなく、この辺りの山々の総称となっています。
現在では神社の鎮座する頂上を「雄山(おやま)」とよんでいますが、江戸時代には「立山」と記しているものもあります。雄山、大汝山(おおなんじやま)、富士ノ折立(ふじのおりたて)を「立山本峰」、これに浄土山(じょうどさん)、別山(べっさん)を合わせて「立山三山」、さらに鬼岳、獅子岳を合わせて「立山連峰」といいます。
越中と信州を分けるこの立山を開山したのは佐伯有頼(さえきのありより)と伝えられますが、戦国時代に生きた佐々成政(さっさなりまさ)も織田信長を失った後の織田家を守ろうとして、この山々を自ら越えて浜松の徳川家康に会いに行ったとされます。佐々成政は富山城を居城とし、その城下町を整備した他、常願寺川の治水にも尽力しています。その後、加賀藩の前田氏が中心となって立山の管理を行うようになります。
立山黒部の開発
鉄道開発のきっかけは富山県が工業化へと舵を切り、発電所建設事業を推進しようと動きはじめたことからです。1921年(大正12年)に富山県営鉄道により南富山~千垣間(現在の富山地方鉄道上滝線・立山線)が開通します。
【富山地方鉄道】
富山地方鉄道は富山県東部を中心として鉄道路線やバス路線を運行する鉄道会社であり、1943年(昭和18年)に富山電気鉄道を母体として加越鉄道、富山県営鉄道、黒部鉄道、越中鉄道、富山市営軌道が合併して生まれた鉄道会社です。
電鉄富山~宇奈月温泉間を結ぶ本線、寺田~立山間を結ぶ立山線、稲荷町~南富山を結ぶ不二越線、南富山~岩峅寺間を結ぶ上滝線のいわゆる「鉄道線」は富山県民に「地鉄」の愛称で親しまれています。これに対して「軌道線」は「富山市内軌道線」とよばれ、南富山駅前~大学前間を結んでいます。
富山地方鉄道(2016年9月)
昭和になると黒部川では5つの発電所が建設されました。1951年(昭和26年)に関西電力がこれらの発電所を引き継ぎ、2015年(平成27年)までにさらに8つの発電所を建設しました。黒部川は古くから水力発電の適地とされ、その険しい地形と大雪のために長い年月をかけて完成をみることになります。
黒部ダム(2016年9月)
黒部峡谷鉄道
黒部峡谷鉄道本線は宇奈月~欅平(けやきだいら)間を結んでいます。1926年(大正15年)に宇奈月~猫又(ねこまた)間、1929年(昭和4年)に猫又~小屋平(こやだいら)間、1931年(昭和6年)に小屋平~小黒部間、1937年(昭和12年)に小黒部~欅平間が開通しています。
敷設工事が開始された1923年(大正12年)当初は、黒部川電源開発のための資材運搬用の鉄道であって専らダム建設工事のための資材や作業員の輸送を目的としており、1926年(大正15年)に黒部専用鉄道(日本電力の専用軌道)として開通しています。。その後日本発送電、1951年(昭和26年)には関西電力へと譲渡され、1953年(昭和28年)に関西電力が黒部鉄道として地方鉄道の営業運転を開始しました。1971年(昭和46年)になると、関西電力は黒部峡谷鉄道を設立しこれを分社化し、後に黒部峡谷鉄道が関西電力より宇奈月~欅平間の譲渡を受け、正式に独立しました。
もともとは資材運搬用の鉄道であったので、そのレール軌間は狭軌とよばれるものであり762ミリとなっています。1953年(昭和28年)に地方鉄道として正式に営業を開始することになりますが、それまでも登山家などの乗車については生命の保障をしないことを前提として、便乗を認めていた時代もありました。営業車両の合間を縫って、現在でも資材運搬用の専用列車が走行しています。
トロッコ列車による運行ということになりますが、トロッコとは工事現場から土砂や石などの運搬に使用される貨車のことです。トロッコ列車は窓ガラスがないため雨風が吹き込みますが、自然の景観をより楽しむことができます。現在では、窓ガラスのない普通客車(オープン型)以外に窓ガラス付きのリラックス客車(車両券530円)や特別客車(車両券370円)があります。宇奈月~欅平間において、一般客が乗車可能となる駅は宇奈月、黒薙(くろなぎ)、鐘釣(かねつり)、欅平となります。
機関車EDV形(2016年9月)
関西電力黒部専用鉄道
黒部峡谷鉄道本線(宇奈月~欅平間)の終点となる欅平から黒部第四発電所へと至る工事用専用軌道は通称「上部軌道」とよばれています。これに対し、宇奈月~欅平間の本線は「下部軌道」とよばれることもあります。上部軌道の正式名称は関西電力黒部専用鉄道ですが、原則として関係者以外は乗車することができません。ただし、見学会に参加した場合には特別に乗車することができます。
関西電力黒部専用鉄道(2016年9月)
立山黒部アルペンルート
立山黒部アルペンルートは現在、富山県~立山~長野県に達する総延長約90キロメートルを8つの交通機関で結んでいます。そのルートは「宇奈月温泉~(富山地方鉄道)~立山~(立山ケーブル)~美女平~(高原バス)~室堂~(立山トンネルトロリーバス)~大観峰~(立山ロープウェイ)~黒部平~(黒部ケーブルカー)~黒部湖~(徒歩)~黒部ダム~(トロリーバス)~扇沢~(路線バス)~信濃大町」となります。
立山トンネルトロリーバス
立山トンネルトロリーバスは室堂~大観峰間3.7kmを結んでおり、全区間がトンネル内における軌道となっています。この路線が開通したのは1970年(昭和45年)のことですが、当初は通常のバスによる運行でした。その後、観光客が増加するにつれてバスの運行本数が増加し、トンネル内での運行であることから排気ガス量も増加したため、トロリーバスに取って代わられることとなりました。実際にトロリーバスが走り出したのは1996年(平成8年)のことです。これにより室堂バスターミナルは日本最高所にある鉄道駅となりました。
室堂みくりが池(2016年9月)
みくりが池の水面には立山を映す影が見えますが、この影が大きなハート型に見える場所があるといいます。
立山ロープウェー
立山黒部アルペンルートの中でもハイライトとなるのが立山ロープウェーからの眺望です。立山ロープウェーは支柱がまったくないワンスパン方式を採用していますが、この方式としては日本最長となります。360度にわたり大きなパノラマを楽しむことができます。この立山ロープウェーが開業したのは1970年(昭和45年)であり、大観峰~黒部平間を結んでいます。1987年(昭和62年)には設備施設などが交換され、リニューアルしました。
黒部ケーブルカー
今回、関西電力の見学区間へは黒部湖駅から出発となりますので、黒部ケーブルカーで黒部湖駅へ向かいます。立山黒部貫光の「黒部ケーブルカー」は、立山ロープウェイの黒部平駅と黒部ダムのある黒部湖駅を約5分で結んでいます。雪害からの保護のため全線が地下式ケーブルカーとなっています。黒部ケーブルカーの正式名称は鋼索線ですが、同じく立山黒部貫光が運行する「立山ケーブルカー」の正式名称も鋼索線であるため、正式名称が案内として用いられることはありません。
黒部ケーブルカー(2016年9月)
関電トンネルトロリーバス
関電トンネルトロリーバスは正式には「関電トンネル無軌条電車」であり、扇沢~黒部ダム間6.1kmを結んでいます。この路線はもともと、黒部ダム建設の際にその資材運搬用として敷設されたものであり、1964年(昭和39年)より一般用に開放されています。この路線も立山トンネルトロリーバスと同様、ほぼすべての区間がトンネル内の運行となるため排気ガス量の懸念があったため、トロリーバスの導入となりました。2019年(平成31年)には電気バスへの変更が予定されています。
見学ルート
見学順は、
黒部トンネル内専用バス(10.3km/所要時間40分)→インクライン(815m/所要時間20分)→黒部川第四発電所(見学/所要時間70分)→上部専用鉄道(6.5km/所要時間32分)→竪坑エレベーター(200m/所要時間2分)→工事用トロッコ電車(500m/所要時間3分)
となります。本線の欅平駅と上部軌道の欅平上部駅は200mほどの高低差があり、本線と上部軌道はもちろん直通していません。エレベーター内には軌道が敷設してあり、上部軌道の軌間も本線と同じく762mmであるため、上部専用鉄道の車両についても点検・修理などの際にはこのエレベーターを通じて宇奈月まで運ばれることになります。上部軌道の欅平上部駅と黒部第四発電所の区間には「高熱隧道」とよばれる温泉の湧き出る部分があり、現在では黒部川の水で冷却されていますが少し温度が高くなるそうです。
富山港線の歴史
富岩(ふがん)鉄道はもともと、現在の富山ライトレール富山港線を敷設した鉄道会社であり、その設立は1923年(大正12年)に遡ります。当時、富山駅では工事がすすめられており、富山港線の富山駅への乗り入れ方法を決めることができずに、富山駅の手前に富山口駅を設置し、1924年(大正13年)に富山口~岩瀬港(現在の岩瀬浜)間を開業しました。その後、富山~富山口間が開通し、1927年(昭和2年)より貨物営業、1928年(昭和3年)より旅客営業が開始されました。また、1936年(昭和11年)には西ノ宮信号所(現在の大広田)~岩瀬埠頭(後の富山港)間の貨物線を開業しています。
富岩鉄道は1937年(昭和12年)より富山電気鉄道の傘下にありましたが、1941年(昭和16年)にはこれに事業を譲渡して富岩鉄道は解散しています。1943年(昭和18年)になると、富山電気鉄道を中心として加越鉄道、富山県営鉄道、黒部鉄道、越中鉄道、富山市営軌道の6社が合併して富山地方鉄道となったため、富山港線は富山地方鉄道富岩線となり、すぐに戦時買収により国有化されて国鉄富山港線となっています。
富山ライトレールの誕生
国鉄の分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)が富山港線を運営することになりますが、将来の新幹線開業のため富山駅を高架化する計画が持ち上がり、輸送量の減少が続く富山港線では廃止することも検討されるようになりました。そうした中、第三セクター会社がこれを引き受け、LRT(ライトレール・トランジット)化して運営することが決定しました。2004年(平成16年)に富山市をはじめとして北陸電力、株式会社インテックなどが第三セクター会社「富山ライトレール」を設立して、2006年(平成18年)に新たな「富山港線」の運営をはじめました。
【ポートラム】
富山ライトレールの愛称は「ポートラム」と名付けられています。それは港の「ポート」と路面電車を表す「トラム」を合成したものです。富山駅から2km区間を併用軌道化し、「新たな路面電車」として生まれ変わりました。路面電車の車体は赤、緑、青、黄、黄緑、橙、紫というカラフルな車体となっています。ドイツのアドトランツ社のライセンスによる超低床車両は加速・減速の技術もすばらしく、専用軌道では60km/時の速さで走行します。
富山ライトレール「ポートラム」
再生後の路線
JR富山駅北口には富山ライトレールの富山駅北停車場があり、「ポートラム」はこの富山駅北停車場と岩瀬浜停車場間を結んでいます。その総延長は併用軌道部分を合わせて7.6km、軌間は1,067mmとなっています。
駅数については、富山港線時代には10駅だったものが、富山ライトレールになってからは13駅に増えています。しかし、駅が増えたにもかかわらずその車両は高速域を長い間維持することができる車両であるため、富山港線時代と比べてもその所要時間はほとんど変わりません。また、駅は富山港線時代に比べて簡素な構造となり、券売機や改札口がなくなりました。そのため、維持費が軽減され、また乗客にとっても簡単に乗車できるということから乗客が増加し、路線再生に大きな貢献をしたと考えられています。
富山ライトレール路線図