北陸本線・湖西線・小浜線[JR西日本]

投稿者: | 2018-08-09

1.北陸本線の歴史 2.新線開通 3.路線名「北陸本線」 4.敦賀港駅と敦賀港線 Θ敦賀ムゼウムΘ 5.敦賀港の風景 6.北陸本線とその支線 ΘIRいしかわ鉄道Θ

 

敦賀駅に停車する福井方面行きの列車(2018年7月)


北陸本線の歴史

北陸本線の歴史は1882年(明治15年)、長浜~柳ヶ瀬間、洞道口(後の洞道西口)~敦賀間および敦賀金ヶ崎(現在の敦賀港)間が開業したことにはじまります。この頃は柳ヶ瀬と洞道口(後の洞道西口)の間は線路がつながっていなかったので、乗客はその間の山道を歩いたといいます。

 

雪の残る敦賀駅(2018年2月)

 

その後、1884年(明治17年)に難工事の末にとうとう柳ヶ瀬トンネルが完成し、長浜金ヶ崎(現在の敦賀港)間が開通しました。敦賀港へ到着した物資は金ヶ崎(現在の敦賀港)から長浜へと運ばれ、長浜港と大津港を結ぶ連絡船を経由して京都大阪へと到着しました。しかし当時は、柳ヶ瀬トンネルは急勾配が続くので、馬力のない機関車は立ち往生することがありました。

 

長浜城から見える琵琶湖の風景(2017年8月)

 

敦賀より先、敦賀~福井間は1896年(明治29年)、福井~小松間は1997年(明治30年)、小松~金沢~高岡間は1998年(明治31年)、高岡~富山間は1999年(明治32年)に延伸開業しています。

 

敦賀駅に停車する福井方面行きの列車(2018年7月)

 

さらに富山線として、富山~魚津間は1908年(明治41年)、魚津~泊(とまり)間は1910年(明治43年)、泊~青海(おうみ)間は1912年(大正元年)、信越線として直江津~名立(なだち)間は1911年(明治44年)、名立~糸魚川間は1912年(大正元年)に開通しています。そして、1913年(大正2年)に青海~糸魚川間が開通して米原~直江津間が全通しました。

 


新線開通

1957年(昭和32年)になると、現在の新疋田~近江塩津間に深坂トンネルが開通し、北陸本線新線敦賀~新疋田~近江塩津~余呉~木ノ本)となります。これにより旧線敦賀~疋田~刀根~洞道西口~雁ヶ谷~柳ヶ瀬~中之郷~木ノ本)は柳ヶ瀬線(1964年/昭和39年全線廃止)と改称されました。

 

敦賀駅に停車する北陸本線の車両(2017年5月)

 

さらに、1963年(昭和38年)には敦賀~新疋田間においてループ線が完成したため、柳ヶ瀬線は疋田~木ノ本間と変更されました。

 

敦賀~新疋田間のループ線

新たなループ線京都方面へ向かう上り線とされ、敦賀駅を出ると下り線と交差し大きく右へとループを描いていきます。単線だった頃のこの区間は25パーミルという急勾配であったため、ループを描く上り線は勾配を10パーミルにおさえることとしました。ループ線は衣掛山を右へ巻きながら最初のトンネルへと入り、トンネルを抜けると敦賀の街並みが見えてきます。さらにループを巻いて、次のトンネルへ入り、そのトンネルを抜けると先ほど上ってきた上り線が見え、下り線と並行して、新疋田駅へと向かいます。

 

敦賀駅からループ線へと向かう新快速の車両(2018年4月)

 

また、敦賀より先は現在は北陸トンネルを抜けて、南今庄、今庄へと続きますが、旧線敦賀を出ると海岸線へ出て、新保、杉津(すいづ)、大桐、今庄へと続いていました。旧線敦賀を出発すると急勾配となり、小さなトンネルがいくつか続いていたといいます。杉津に停車したときの景色はとてもすばらしかったそうです。


路線名「北陸本線」

1896年(明治29年)に敦賀~福井間(北陸線)が開業し、その翌年に敦賀金ヶ崎(現在の敦賀港)間の旅客営業が廃止されると、1902年(明治35年)に米原~敦賀金ヶ崎間(東海道線)は北陸線に編入されることになります。

 

敦賀駅に停車する北陸本線の車両(2017年5月)

 

1909年(明治42年)になると、北陸線は北陸本線と改称され、富山線も北陸本線に統合されることになります。その後、1919年(大正8年)には敦賀敦賀港間(北陸本線)の旅客営業が再開されます。

 

敦賀駅に停車する福井方面行きの列車(2018年7月)

 

先に述べたように、1957年(昭和32年)には北陸本線新線が開通したため、旧線柳ヶ瀬線と名称変更されました。その後、柳ヶ瀬線は廃止され、敦賀敦賀港間も1987年(昭和62年)に旅客営業を廃止しています。


敦賀港駅と敦賀港線

敦賀港駅は1882年(明治15年)、金ヶ崎として開業しました。

 

敦賀港の景色(2016年10月)
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1897年(明治30年)には旅客営業が廃止となり金ヶ崎貨物取扱所となりますが、1908年(明治41年)には再度金ヶ崎駅となりました。その後、1919年(大正8年)に敦賀港駅と改称しています。

 

敦賀港の景色(2016年10月)
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敦賀港駅は1900年代のはじめには日本と大陸を結ぶ懸け橋として栄えました。欧亜国際連絡列車とよばれるその列車は新橋~金ヶ崎(後の敦賀港駅)間を東海道線(現在の東海道本線)と北陸線(現在の北陸本線)を経由して結び、敦賀港からウラジオストクまでを船で結び、さらにシベリア鉄道を経由してヨーロッパ諸都市を結ぶまさに「国際列車」が走っていました。

 

廃止となった敦賀港線(2019年7月)

 

金ヶ崎駅(後の敦賀港駅)にはロシアやヨーロッパ各地へと向かう人々で賑わいました。

 

敦賀港の景色(2016年10月)
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敦賀ムゼウム

 

敦賀港駅近くの金ヶ崎緑地公園内には敦賀ムゼウムがあります。

 

遠くに見える敦賀ムゼウム(2016年10月)
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1920年(大正9年)、敦賀港にはポーランド孤児が上陸し、1940年(昭和15年)には「命のビザ」を持ったユダヤ人難民が上陸しました。敦賀ムゼウムではこれに関連する資料が展示されています。

 

敦賀ムゼウム(2019年7月)

 

北陸本線の貨物支線である通称「敦賀港線」は敦賀港駅と敦賀駅を結ぶ路線です。

 

廃止となった敦賀港線(2019年7月)

 

近年においては、化学工業品や食料工業品などの輸送に利用されてきましたが、その輸送量が減少したため、2009年(平成21年)をもって休止となっていました。JR貨物は2018年(平成30年)、敦賀港敦賀間の鉄道事業廃止届を提出し、この路線は2019年(平成31年)に廃止となりました。

 

廃止となった敦賀港線(2019年7月)

 

オフレールステーションとはJR貨物による貨物駅の一種であり、線路・貨物列車を使用せずにトラックによりコンテナ輸送を行うものです。敦賀港駅では2009年(平成21年)より敦賀港オフレールステーションに改めて運用してきました。現在は敦賀港新営業所と称していますが、今後のコンテナ貨物の取り扱いについても、トラックでの輸送を継続していく予定です。

 

廃止となった敦賀港線(2019年7月)


旧敦賀港駅舎

敦賀港駅近くの敦賀湾に面したところには金ヶ崎緑地が整備されており、市民の憩いの場となっています。

 

金ヶ崎緑地に設置されている案内板(2016年10月)
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金ヶ崎緑地のすぐそばには敦賀鉄道資料館があります。

 

敦賀鉄道資料館/旧敦賀港驛舎(2016年10月)
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敦賀鉄道資料館には、敦賀の鉄道に関する歴史やその他の鉄道資料が展示されています。

 

敦賀鉄道資料館/旧敦賀港驛舎(2016年10月)
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重要な資料がたくさんあるにもかかわらず、入館料は無料となっています。

 

敦賀鉄道資料館/旧敦賀港驛舎(2019年7月)

 

また、敦賀鉄道資料館の建物自体が、かつての敦賀港駅舎となっています。

 

敦賀鉄道資料館/旧敦賀港驛舎(2016年10月)
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この駅舎は、1999年(平成11年)に開催された「つるが・きらめきみなと博21」の際に再現されたものです。

 

敦賀鉄道資料館/旧敦賀港驛舎(2016年10月)
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敦賀港の風景

夕暮れになると、ボードウォークからのぞむ風景はより一層美しくなります。

 

敦賀港の景色(2016年10月)
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ボードウォークは緑地公園の海沿いに設置された散歩道です。

 

ボードウォーク(2016年10月)
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この散歩道から敦賀港を一望することができます。

 

敦賀港の景色(2016年10月)
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敦賀湾の反対側、道をはさんだ向こう側には赤レンガ倉庫が2棟あります。

 

敦賀赤レンガ(2016年10月)

 

これは1905年(明治38年)に、アメリカの石油会社が建設した石油貯蔵用の倉庫です。

 

敦賀赤レンガ(2016年10月)

 

その後もさまざまな倉庫として使用されてきましたが、2009年(平成21年)に登録有形文化財とされました。

 

敦賀赤レンガ(2016年10月)
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これらは福井県内でも有数のレンガ建築物であり、敦賀港を象徴する建物ですが、2015年(平成27年)に修復工事が完了しました。北棟がジオラマ館、南棟がレストラン館としてオープンしています。

 

入口横の案内板(2016年10月)
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赤レンガ倉庫の隣りには2018年(平成30年)よりキハ28形気動車が展示されています。この気動車は1968年(昭和43年)に「キハ28-1019」として富士重工で製造された急行形であり、かつて小浜線で急行「わかさ」として活躍しました。

 

赤レンガ倉庫の横に展示されるキハ28形(2019年7月)

 

急行「わかさ」はもともと1961年(昭和36年)、西舞鶴~金沢間を走る準急列車としてデビューしたものでした。小浜線において初めての優等列車となった準急「わかさ」は1966年(昭和41年)に急行列車へと格上げされました。1972年(昭和47年)になると山陰本線・舞鶴線への乗り入れを果たしますが、1996年(平成8年)には小浜線内の東舞鶴~敦賀間のみを走る急行となりました。1999年(平成11年)には京都~東舞鶴間において、特急「まいづる」が運行されるようになったため、急行「わかさ」は廃止となりました。

 

キハ28形(2019年7月)

 

キハ28形は全国的によく知られる車両の一つですが、保存されている車両はそう多くはありません。ここに展示されるキハ28-1019は、前面窓が側面まで回り込んでいるパノラミックウインドウ、運転台下部に拝障器(スカート)ありという特徴をもつ車両です。これら2つの特徴をもつキハ28形は製造された111両のうち、国内で完全な形で現存しているのはここに展示される車両のみであり、極めて稀有な存在となっています。

 

パノラミックウインドウをもつキハ28形(2019年7月)

 

1976年(昭和51年)にこの車両は冷房用発電装置を搭載し「キハ28-3019」と改番され、引き続き北近畿地区を中心として活躍していましたが、2000年(平成12年)に廃車となりました。その後、白浜、大阪と渡り歩いて保存されてきましたが、2017年(平成29年)の「つるが鉄道フェスティバル」で展示されたのを契機として敦賀市が取得することになったものです。

 

キハ28形(2019年7月)


北陸本線とその支線

現在では米原~金沢間を結ぶ176.6キロを北陸本線とよび、合わせて敦賀敦賀港間(通称「敦賀港線」)を結ぶ貨物支線をもちます。

 

敦賀駅に入る貨物列車(2018年4月)

 

起点の米原駅では東海道本線と接続し、終点の金沢駅ではIRいしかわ鉄道と接続しています。JR西日本では、東海道本線京都~米原間および北陸本線の米原~長浜間において「琵琶湖線」という愛称を付けており、東海道本線北陸本線の相互乗り入れ電車も設定されています。

 

敦賀駅 福井・金沢方面時刻表(2017年5月)

 

IRいしかわ鉄道

IRいしかわ鉄道は第三セクターの鉄道会社であり、金沢~俱利伽羅(くりから)間17.8キロを運行しています。IRいしかわ鉄道の路線はもともと北陸本線の一部でしたが、北陸新幹線が延伸開業したため金沢~直江津間が並行在来線となり、JR西日本から経営が分離されました。

 

敦賀駅の階段に描かれた北陸新幹線(2018年6月)

 

このうち、金沢~俱利伽羅間はIRいしかわ鉄道、俱利伽羅~市振(いちぶり)間はあいの風とやま鉄道、市振~直江津間はえちごトキめき鉄道へと移管されることとなりました。


米原駅

1.特急街道の主役「サンダーバード」 2.「サンダーバード」とよく似た外観をもつ「しらさぎ」 3.交通の要衝「米原駅」 Θ新幹線駅とならなかった彦根駅Θ 4.愛称「マンモス」(EH10形電気機関車)

 

大阪駅に停車する特急「サンダーバード」(2017年3月)


特急街道の主役「サンダーバード」

湖西線山科~近江塩津間を結ぶ路線であり、琵琶湖の西側湖岸を走ります。起点は山科となりますが、湖西線を走るすべての列車が京都駅まで乗り入れています。また、終点の近江塩津を越え、北陸本線を経由して敦賀へ至る列車もあります。湖西線の開通は比較的新しく、1974年(昭和49年)に全線が開通しています。

 

大阪駅に停車する特急「サンダーバード」(2017年3月)

 

湖西線開業までは大阪から北陸方面へ向かう優等列車は、東海道本線北陸本線を経由して走っていました。ところが、湖西線開業の翌年になると、優等列車の大部分は山科において東海道本線と分岐する湖西線経由に切り替えられることになりました。その後、湖西線はまさに「特急街道」となりますが、現在でもこの「特急街道」における優等列車の主役となる「サンダーバード」は、かつて「雷鳥」とよばれた時代がありました。

 

京都鉄道博物館に展示される「雷鳥」(2019年1月)

 

長距離を走行する特急として1964年(昭和39年)に、481系交直流電車大阪~富山間に特急「雷鳥」として、名古屋~富山間に特急「しらさぎ」として投入されました。その後483系を経て、1968年(昭和43年)に485系となります。485系交直流特急電車であり、交流電化区間および直流電化区間のいずれも走行することができ、電車特急隆盛の一時代を築いた車両といえます。

 

山科駅付近を走行する485系(1978年5月)
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国鉄の分割民営化後、JR西日本の時代となり、「雷鳥」はさらなるスピードアップを目指して「スーパー雷鳥」へと発展し、681系・683系へと進化を遂げました。

 

大阪~金沢間を結ぶサンダーバード(2017年3月)

 

さらに2011年(平成23年)になると、「雷鳥」はすべて「サンダーバード」へと名称変更され、まさに「特急街道」の主役として大車輪の活躍を見せるようになりました。

 

大阪~金沢間を結ぶサンダーバード(2017年3月)


「サンダーバード」とよく似た外観をもつ「しらさぎ」

金沢~敦賀~米原~名古屋間を結ぶ特急「しらさぎ」は、その外観が「サンダーバード」ととてもよく似ています。

 

敦賀駅に到着する特急「しらさぎ」(2018年7月)

 

車体の側面に施されたラインが「サンダーバード」がブルーであるのに対し、「しらさぎ」はブルーとオレンジのラインが施されています。

 

「しらさぎ」のラインカラー(2017年5月)

 

「しらさぎ」が名古屋~富山間において運転を開始したのは雷鳥と同じく1964年(昭和39年)のことでした。

 

米原駅に到着する特急「しらさぎ」(2017年8月)

 

当時は名古屋~米原~富山~高山~名古屋というルートを循環していた準急「こがね」「しろがね」という循環列車がありました。循環列車というのは、起点を出発した後、いくつかの駅に停車して終点となる起点にもどってくる列車です。国鉄時代には、急行列車準急列車・普通列車のいずれにおいても循環列車が設定されていたことがあります。特急列車にはその運行の特性上、循環列車が設定されたことはありません。国鉄が分割民営化された後は循環列車はほとんど運行されていません。

 

米原駅に到着する特急「しらさぎ」(2017年8月)

 

準急「こがね」は名古屋~(東海道本線)~米原~(北陸本線)~富山~(高山本線)~岐阜~(東海道本線)~名古屋のように運行していました。準急「しろがね」は準急「こがね」の逆回りとなります。この準急列車と同じようなルートに急行列車ではなく、特急列車を設定することになったのは雷鳥の投入と関係があります。雷鳥がデビューした1964年(昭和39年)、大阪~富山間を結んだのは481系でしたが、この481系の空いた時間帯に「しらさぎ」として利用されることになりました。


交通の要衝「米原駅」

「要衝」とは重要な場所のことを意味し、「交通の要衝」とは交通面において重要な場所ということになります。米原は古くから交通の要衝として発展してきた交通都市です。江戸時代の五街道の一つである中山道と、五畿七道の一つである北陸道の分岐点となっていました。現在においても、米原駅東海道新幹線東海道本線北陸本線近江鉄道の乗換駅となっています。東海道新幹線では1964年(昭和39年)に新幹線駅が開業し、滋賀県内唯一の新幹線駅となりました。彦根駅を新幹線駅とする計画もありましたが、在来線との乗り換えなどを考慮した結果、米原駅を新幹線駅とすることになりました。

 

在来線ホームから見た新幹線ホーム(2017年8月)

 

新幹線駅とならなかった彦根駅

彦根城へのアクセスは彦根駅が玄関口となります。彦根駅はJR線と近江鉄道が乗り入れる駅です。1889年(明治22年)、関ヶ原~膳所駅間の開通の際に東海道本線の駅として開業しています。

 

京都方面行きホームから米原方面を望む(2016年4月)
彦根駅から米原方面をのぞむ

 

1898年(明治31年)になると、近江鉄道の彦根~愛知川(えちがわ)間が開通し、彦根駅はその起点となりました。JR線は1番のりば、2番のりばのホームをもち、3線を有しています。

 

2007年に開設された彦根駅東口(2016年4月)
彦根駅

 

関ヶ原の合戦後、徳川家康は石田三成がその居城としていた佐和山城を攻撃しました。佐和山城が陥落して石田氏が滅亡すると、徳川家の家臣であった井伊直政が一時的に入城します。しかし、井伊氏がそのまま佐和山城を引き継ぐと、民衆たちが石田氏への思いを捨てきれないと考えたことから、別の場所に城を築くことになりました。

 

2007年に開設された彦根駅東口(2016年4月)

 

彦根駅西口のロータリーにはその井伊直政の像があります。

 

彦根駅西口(2016年4月)
彦根駅西口

 

井伊直政は1561年(永禄4年)、現在の静岡県井伊谷に生まれました。関ヶ原の戦いにおいて徳川四天王の一人として功績をあげました。新しい城を築く計画についてですが、彦根山へ移すことになります。ところが1602年(慶長7年)、井伊直政は病気で亡くなってしまったため、その遺志を継いだ子らが1622年(元和8年)に彦根城を完成させます。結局、完成には20年の歳月を費やしたことになります。

 

平和堂を背にする井伊直政像(2016年5月)

 

現在では彦根城は、姫路城、松本城、犬山城とともに国宝に指定されています。天守は幾度かの戦災を免れて、当時の姿を残しています。天守までの石段は不規則に作られていて、敵が攻めにくいように工夫されています。

 

彦根駅駅名標(2016年4月)

 

米原の読み方には「まいばら」と「まいはら」がありますが、駅名は1889年(明治22年)の設置当初より「まいばらえき」としました。新幹線駅を設置した際に米原(まいばら)駅が所属していたのは坂田郡米原(まいはら)町でしたが、2005年(平成17年)に米原町、伊吹町、山東町が合併して「米原(まいばら)市」が発足しました。これにより、駅名と自治体名が統一されることになりました。

 

米原駅駅名標(2017年8月)


愛称「マンモス」(EH10形電気機関車)

EH10形は国鉄の直流電気機関車であり、東海道本線および山陽本線において貨物列車の牽引用として使用されました。

 

横から見たEH10-61(2019年5月)

 

国鉄史上最大級の電気機関車であることから「マンモス」という愛称で親しまれました。

 

東淡路南公園に保存されるEH10-61(2019年5月)

 

1955年(昭和30年)の東海道本線米原電化に際し、関ヶ原における10パーミルの勾配区間において、1200トンになる貨物列車を牽引するには従来のEF15形では不可能であると判断されました。そこで、それに取って代わる高出力の電気機関車として登場したのがEH10形でした。その第1号車は1954年(昭和29年)に登場し、それ以降東海道本線の貨物列車牽引の主力機関車として活躍しました。

 

接近して見たEH10-61(2019年5月)

 

EH10形は1957年(昭和32年)までに64両が製作されました。しかしその後、時代の流れとともに老朽化が進み、後進のEH60形、EH65形に取って代わられるようになりました。

 

東淡路南公園に保存されるEH10-61(2019年5月)

 

EH10形のうち最後の車体となったEH10-61は、大阪市東淀川区にある東淡路南公園内に静態保存されています。

 

東淡路南公園に保存されるEH10-61(2019年5月)

 

しかしながら、EH10-61は完全に金網フェンスで保護されていますので、撮影はとても難しい状況です。

 

東淡路南公園に保存されるEH10-61(2019年5月)

 

東淡路南公園には、阪急淡路駅やJR淡路駅から徒歩7分ほどで到着します。

 

EH1061号機の経歴(2019年5月)


長浜駅

1.長浜城 2.長浜駅の誕生と旧長浜駅舎 3.長浜鉄道スクエア 4.北陸線電化記念館 5.慶雲館

 

長浜鉄道スクエア(2017年8月)


長浜城

1573年(天正元年)、織田信長に攻撃された浅井(あざい)久政・長政父子は自害し、その城であった小谷(おだに)城には姉川合戦と小谷城攻めにおいて活躍した羽柴秀吉が入城することになります。1575年(天正3年)、羽柴秀吉は今浜(現在の長浜)への移城にともない、小谷城を廃城とします。小谷城の建物や城下町は今浜(現在の長浜)に移設され、羽柴秀吉は1576年(天正4年)に完成した城に入城します。このとき、今浜は「長浜」と改名されています。

 

長浜城(2017年11月)

 

羽柴秀吉が小谷城から琵琶湖岸へ本拠を移したのは、その舟運を重視したからだと考えられています。その後、羽柴秀吉は1582年(天正10年)までここに在城しましたが、本能寺の変で織田信長が亡くなった後、清須会議において長浜城は柴田勝家に譲渡されています。

 

長浜城(2017年8月)


長浜駅の誕生と旧長浜駅舎

長浜駅北陸本線米原金沢間)に所属していますが、「琵琶湖線」という愛称をもつ東海道本線京都米原間、北陸本線米原長浜間に該当しているので、京都大阪方面へ直通する多くの列車がこの駅を発着します。明治維新後の新政府は現在の東海道本線となる大動脈の敷設と、横浜神戸敦賀などの港へ連絡する鉄道の敷設を優先しようと考えていました。

 

野洲駅に入る京都方面行き普通(快速)列車(2017年7月)

 

そうした中、長浜駅敦賀港へ向かう路線上の駅として1880年(明治13年)にイギリス人技師の設計により着工しますが、実際の工事を担当したのは稲葉弥吉でした。稲葉弥吉はその後、さまざまな鉄道建設に携わり、1914年(大正3年)に設立された天理軽便鉄道の代表にもなっています。こうして長浜駅は1882年(明治15年)に開業しますが、1882年(明治15年)というと新橋横浜間に鉄道が初めて走ってから、まだ10年しか経っていない頃のことです。しかしながら、財政難に陥った新政府は鉄道敷設を中断し、長浜京都への連絡には琵琶湖の水運を利用することとしました。そのため、長浜駅のすぐ横には港が作られ、鉄道連絡船への乗換駅として誕生することになりました。乗客たちは長浜で鉄道から大湖汽船に乗り換えて大津まで行き、大津から再度鉄道に乗り換えて京都大阪へと向かいました。こうした状況は1889年(明治22年)、東海道本線の全通が達成されるまで続いています。

 

長浜駅に到着するの普通(快速)列車(2017年8月)

 

現在の長浜駅舎は2006年(平成18年)、敦賀駅までの直流化の際に完成し、初代駅舎のデザインを模したものですが、旧長浜駅舎は現存する駅舎としてはわが国最古の駅舎であり、現在では鉄道資料館として使用されています。東海道本線が全通した後、琵琶湖の鉄道連絡船が廃止され、長浜駅は鉄道連絡船への乗換駅としての役割を終えることになります。1903年(明治36年)には、駅舎も新たな場所に新築されることになり、旧長浜駅舎は放置されることになりました。しかし、1958年(昭和33年)になると、明治時代の西洋建築の面影をもつ旧長浜駅舎は国鉄の鉄道記念物に指定されることになります。

 

旧長浜駅舎(2017年8月)

 

コンクリートを使用して建設された駅舎は当時としてはとても珍しいものでした。木骨コンクリート造りとなる建物の四隅には花崗岩を配し、窓枠や出入口およびそのトレードマークとなる2本の煙突には赤い煉瓦が使用されています。屋根は木造ですが、外壁はその厚みが50センチにもなるコンクリートの素面仕上げとなっています。駅舎の大きさは東西24.5メートル、南北9.7メートルです。


長浜鉄道スクエア

長浜市は旧長浜駅舎のような歴史的建造物の再生により、まちを活気づける努力を続けており、これを「黒壁プロジェクト」とよんでいます。北国(ほっこく)街道は、琵琶湖の北東岸を北上し、柳ヶ瀬、栃ノ木峠を経由して北ノ圧に通じる北陸と京阪神を結ぶ重要な街道でした。この街道の交差点に1900年(明治33年)、国立第百三十銀行長浜支店が開業しました。その黒漆喰の壁は別名「黒壁銀行」とよばれるに至ります。この黒壁銀行の建物は、1987年(昭和62年)に解体の危機に遭遇することになりますが、市民がこれを残すことを提案して黒壁ガラス館として再スタートを切ることになりました。

 

長浜鉄道スクエア入口(2017年8月)

 

それ以来、黒壁銀行を中心として、古民家を利用したレストランや展示場などが集まる黒壁スクエアが形成されるようになっていきます。旧長浜駅舎の建物を中心として、長浜鉄道文化館と北陸線電化記念館を併設して「長浜鉄道スクエア」と呼称して整備しています。2000年(平成12年)に開業した長浜鉄道スクエアは鉄道の文化を後世に伝える資料館であり、明治時代の鉄道黎明期から現在に至るまでの鉄道の歴史に触れることができます。

 

長浜鉄道スクエア内の旧駅舎の前庭には旧長浜駅「29号分岐器ポイント部」が保存展示されています。長浜駅開業以来、駅構内で約80年間、使われてきたのが「29号分岐器ポイント部」です。イギリスのキャンメル社から輸入され、本線に使われた後、計重台線(貨車の重さを測る設備)にと二度の務めを果たしました。ふつうポイントは痛みやすく長年使われることはありませんが、このポイントは酷使をまぬがれたため生き残り、ついには現存最古のポイントとなりました。

 

旧長浜駅29号分岐器ポイント部(2017年8月)

 

レールと枕木間の座金には、”KOBE 1881 I.G.R. MAKERS”の文字があり、鉄道局神戸工場製を示しています。鉄道用品は輸入に頼る時代でしたが、はやくも先人たちはこのような単純なものから国産化を進め、外国依存から抜け出そうとしていたのです。旧長浜駅舎とともに、このポイントは日本の鉄道創業期を語る貴重な文化遺産といえます。

 

北陸本線のトンネルに使用されていた石額も前庭に多数展示されています。これらの石額は北陸本線が新線に切り替えられた際に使われなくなった石額です。このうち、「大亨貞(だいきょうてい)」は子不知トンネル(新潟県糸魚川市)にあった石額であり、後藤新平による題字です。

 

大亨貞(2017年8月)

 

徳垂後裔(とくすいこうえい)」は山中トンネル(福井県今庄町)の山中信号揚口にあった石額であり、黒田清隆による題字です。

 

徳垂後裔(2017年8月)

 

功加干時(こうかうじ)」は山中トンネル(福井県敦賀市)の杉津口にあった石額であり、黒田清隆による題字です。

 

功加干時(2017年8月)

 

與國咸休(よこくかんきゅう)」は葉原トンネル(福井県敦賀市)の敦賀口にあった石額であり、黒田清隆による題字です。

 

與國咸休(2017年8月)

 

永世無窮(えいせいむきゅう)」は葉原トンネル(福井県敦賀市)の北口にあった石額であり、黒田清隆による題字です。

 

永世無窮(2017年8月)

 

萬世永頼(ばんせいえいらい)」は柳ヶ瀬トンネル東口(滋賀県余呉町)にあった石額であり、伊藤博文による題字です。

 

萬世永頼(2017年8月)

柳ヶ瀬トンネル(2017年8月)


北陸線電化記念館

旧長浜駅舎に隣接する北陸線電化記念館には、D51形蒸気機関車とED70形交流電気機関車1号機が保存展示されています。

 

D51形蒸気機関車(2017年8月)

 

D51形は蒸気機関車の中では最も多く作られたものであり、1,115両を数えます。北陸線の他、日本各地で運転されました。

 

D51形蒸気機関車(2017年8月)

 

ED70形交流電気機関車は交流電化区間で営業運転される車両であり、この1号機は北陸線の電化完成と同時に投入され、田村~敦賀間を走行しました。

 

ED70形交流電気機関車1号機(2017年8月)

 

蒸気機関車に比べると、運転がしやすくスピードも出たため、鉄道はより便利な時代へと入っていきました。そして、ED70形交流電気機関車日本初の本格的に量産された歴史的車両ともいえるものです。

 

ED70形交流電気機関車1号機(2017年8月)


慶雲館

旧長浜駅舎のすぐ前には慶雲館があります。1886年(明治19年)、明治天皇皇后両陛下が京都へ行幸されることとなり、その帰路に長浜に立ち寄られることが決まると、地元の豪商であった浅見又蔵は私財を投じて慶雲館の建設に着手しました。浅見又蔵はもとは、薬種商の三男として生まれましたが、後に浅見家の養子となりました。又蔵は、浜ちりめん製造業を営んできた浅見家を地元の豪商に育てあげ、鉄道敷設や銀行設立などに尽力しました。

 

表門(2017年8月)

 

慶雲館は、明治20年(1887年)2月21日、明治天皇・昭憲皇太后の御休憩所として、長浜の豪商・浅見又蔵氏が資材を投じて建設しました。命名は同行した初代内閣総理大臣・伊藤博文です。約6,000平米の広大な敷地内には、地元の宮大工平山久左衛門(屋号山久)により総檜造りの秀麗な本館や茶室などが整備され、以後も長浜の迎賓館として使われてきました。

明治45年に造営された庭園は京都の平安神宮神苑などを手がけ、近代日本庭園の先覚者と呼ばれた七代目小川治兵衛(屋号植治)によるもので、国の名勝に指定されています。主庭となる南庭は、地形に大きな起伏をつけた立体的な構造と巨石や大灯籠を用いた豪壮な意匠が特徴です。また、毎年一月十日から三月十日までの間、新春の風物詩「長浜盆梅展」の会場となり見事な枝振りの梅と純和風の建物、そして雪吊が施された庭園の美しさに多くの観光客が訪れます。

 

案内板(2017年8月)

 

表門を入ると右側に巨大な灯籠があり、その高さは約5メートル、重さは約20トンにもなるといいます。

 

大灯籠(2017年8月)

 

前庭を通って中門を抜けると、玄関前には格調高い玄関前庭があります。

 

中門(2017年8月)

玄関(2017年8月)

 

建物の2階には玉座があり、2階からは美しい本庭を見ることができます。

 

玉座がある2階建の建物(2017年8月)

2階から見た本庭(2017年8月)

 

庭園は1912年(明治45年)、2代目の又蔵により慶雲館25周年を記念して造営されました。

 

慶雲館の松尾芭蕉の句碑(2017年8月)


敦賀駅

1.敦賀駅開業100周年記念碑 2.「鉄道のまち」と大谷吉継 3.敦賀駅の歴史 4.気比神宮 5.「銀河鉄道999」のブロンズ像 6.ぐるっと敦賀周遊バス 7.旧敦賀港ランプ小屋 8.金崎宮・金ヶ崎城跡

 

気比神宮の大鳥居(2019年7月)


敦賀駅開業100周年記念碑

敦賀駅の所在地は敦賀市鉄輪(かなわ)町一丁目です。

 

敦賀駅駅名標(2016年10月)

 

駅舎を出てすぐのところには敦賀駅開業100周年を記念して設置された動輪があります。

 

敦賀駅開業100周年記念の動輪(2017年3月)

 

その碑文には「この動輪敦賀駅開業100周年を記念して設置したものであり、地元敦賀市と国鉄が両輪となって力強く200年を目指して驀進することを象徴しています」とあります。

 

動輪の碑文(2017年3月)

 

駅の住所といい、駅前に動輪が設置されていることといい、敦賀は「鉄道のまち」であることを実感することができます。

 

敦賀駅開業100周年記念の動輪(2017年3月)

 


「鉄道のまち」と大谷吉継

敦賀駅には駅員の手作りによる「SL吉継号」の顔出しパネルが設置されていました。

 

SL吉継号(2017年3月)

 

こうしたパネルの設置は2015年(平成27年)からはじまったそうです。「トワイライトエクスプレス」「北陸新幹線W7系」のテーマに続き、敦賀城主であった大谷吉継と鉄道をテーマとして作製されました。

 

敦賀駅前の風景(2016年10月)
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敦賀港は古くから大陸への玄関口として重要な役割を担ってきました。大谷吉継は1589年(天正17年)に豊臣秀吉の命を受けて敦賀領主となり、敦賀港の町立てと共に敦賀城の城郭を完成させました。そのころ、京の寺社・町屋の復興や大坂城・伏見城などの建設を支える木材の移入港として、港の繁栄の基礎を築きました。

 

敦賀駅(2019年6月)

 


敦賀駅の歴史

日本鉄道史において、敦賀は日本海側の海運を太平洋側に輸送する大動脈として日本海側で初めての蒸気機関車が走った場所です。

 

敦賀駅前の風景(2016年10月)
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その敦賀駅は1882年(明治15年)、洞道口(後の洞道西口)~敦賀間および敦賀~金ヶ崎(現在の敦賀港駅)間が開業した際に設置されました。

 

敦賀駅(2016年10月)
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気比神宮

気比神宮は『古事記』や『日本書紀』にもその名が見られる北陸道総鎮守・越前国一之宮です。702年(大宝2年)に文武天皇が社殿を造営したものであり、悠久二千年の歴史を誇る元の官幣大社です。その境内にある角鹿(つぬが)神社は「敦賀」発祥の地と伝えられています。

 

氣比神宮(2016年10月)
気比神宮

 

1570年(元亀元年)には織田信長と朝倉氏の戦乱により焼失してしまいましたが、1614年(慶長19年)に福井藩初代藩主となった結城秀康がその社殿を造営しました。しかしながら、これも1945年(昭和20年)の戦災により焼失し、1985年(昭和60年)以降の大造営により本殿は改修され、幣殿や拝殿も造営されました。また、その大鳥居は重要文化財であり、奈良県の春日大社、広島県の厳島神社のそれと並んで、日本三大木造大鳥居とされています。

 

気比神宮の大鳥居(2016年10月)
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大鳥居はもともと、嵯峨天皇の810年(弘仁元年)に通称「赤鳥居」として東参道口に創建されました。しかしながらその後、度重なる災害のために倒壊し、1645年(正保2年)に境域の西門に配してその礎石を移しました。これは寛永年間に、旧神領地佐渡国鳥居ヶ原から伐採奉納された榁樹1本により両柱を支えて再建されたものであり、現在の朱塗りの大鳥居となっています。

 

気比神宮の大鳥居(2019年7月)

 

古くから木造では「天下無双の大華表(おおとりい)」と称されてきたものであり、1901年(明治34年)に国宝に指定されています(現在は重要文化財)。

 

気比神宮の大鳥居(2019年7月)

 

それぞれの時代に権威ある伝統技術によって保存修理が続けられ、今日までその威容が伝えられています。正面の扁額は有栖川宮威仁親王の筆によるものです。

 

有栖川宮威仁親王による扁額(2016年10月)
氣比神社

 

当時の敦賀駅は気比神宮の大鳥居近くに置かれ、線路は町中を通り、港と鉄道の結節点となっていた金ヶ崎駅へと続いていました。

 


「銀河鉄道999」のブロンズ像

敦賀駅から気比神宮に続く商店街沿いには「銀河鉄道999」「宇宙戦艦ヤマト」などのブロンズ像が設置されています。

 

「銀河鉄道999」が描かれるバス停(2016年10月)
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駅前を出てメインストリートを進んでいくと少年星野鉄郎のブロンズ像に出会います。

 

「少年星野鉄郎」(2016年10月)
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そこには「未来の地球では機械人間が生身の人間を支配していた。宇宙にあこがれる少年星野鉄郎は、母を機械伯爵に殺された孤児である。彼は機械人間になり永遠の命を持つことを誓う」という説明があります。「メーテルとの出会い」のブロンズ像には、「999号は無料で機械の体をくれる星へ向かう銀河鉄道である。機械人間から999号のパスを盗み、追い詰められた鉄郎は死んだ母に生き写しのメーテルに助けられる。しかし、気を失いパスを落としてしまう」とあります。

 

「メーテルとの出会い」(2016年10月)
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車掌さんのブロンズ像「旅立ち」には「人はみな、星の海を見ながら思い描いた希望を追い求めて、果てしなく長い旅に出る。終わることのない永遠の流れの中で、果てしなく続くレールの上を、夢と希望と野心そして若さを乗せて列車は走る。いま、汽笛が新しい若者の旅立ちの訪れをつげる」とあります。

 

「旅立ち」(2016年10月)
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ぐるっと敦賀周遊バス

敦賀駅から少し離れた場所、かつて貨物線として利用された通称「敦賀港線」の敦賀港駅(旧金ヶ崎駅)近くの山の上には金ヶ崎城跡があります。

 

金ヶ崎緑地に設置される近隣地図(2019年7月)

 

敦賀駅からバスに乗ると気比神宮を通り過ぎて、約10分足らずで金崎宮バス停に到着します。敦賀駅前の通りにも銀河鉄道999のモニュメントが並んでいましたが、金崎宮バス停にも松本零士氏の「銀河鉄道999」のキャラクターが描かれています。

 

金崎宮バス停(2019年7月)

 

ぐるっと敦賀周遊バスは敦賀観光バスが運行する敦賀の観光地をめぐる周遊バスです。1乗車につき200円ですが、1日フリー券は500円で販売されています。バスルートはショッピングルートと観光ルートのとなります。

 

雪の残る敦賀駅(2018年2月)

 

金崎宮バス停に停車するのは観光ルートのバスであり、敦賀駅気比神宮→キッズパークつるが→博物館通り→金崎宮金ヶ崎緑地赤レンガ倉庫→松原海岸→松原神社→お魚通り→大鳥居敦賀駅と巡ります。

 

ぐるっと敦賀周遊バス時刻表(2019年7月)

 

金崎宮バス停のすぐ近くには、高野山真言宗の金前寺(こんぜんじ)が見えます。金前寺は736年(天平8年)に聖武天皇の勅願によって泰澄(たいちょう)が、十一面観世音菩薩を本尊として現在の金崎宮の地に建立したものです。

 

金前寺(2019年7月)

 

811年(弘仁2年)には空海がこの地に滞在し、その時代には金崎宮一帯に伽藍十二坊を有すほど栄えていたといいます。金前寺の脇の道には「金崎宮・金ヶ崎城跡にお越しの方」への案内とともに、「官幣中社金﨑宮」の石碑が立っています。近代社格制度は明治時代以降に新たに神社を等級化した制度であり、社格を官社と諸社(民社)、無格社に分けたものです。官社は祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける神社であり、神祇官が祀る官幣社と国司が祀る国幣社に分けられています。さらに、それぞれには大・中・小の格があります。この制度は第二次世界大戦以後に廃止されました。

 

「官幣中社金﨑宮」の石碑(2019年7月)

 


旧敦賀港ランプ小屋

金崎宮・金ヶ崎城跡へ向かうためにこの道を進むと、古いレンガ造りの建物が見えてきます。この建物は旧敦賀港駅ランプ小屋(金ヶ崎停車場ランプ小舎)であり、敦賀~長浜間に鉄道が敷設された1882年(明治15年)に完成したものです。

 

旧敦賀港駅ランプ小屋(2019年7月)

 

旧長浜駅舎と並んでわが国における最古の鉄道建築物の一つとなっています。建物内の2つの部屋ではランプ小屋に関するパネル展示と鉄道開業当時のランプ小屋内部を復元した展示が行われています。

 

旧敦賀港駅ランプ小屋(2019年7月)

 

金ヶ崎駅(後の敦賀港駅)では1882年(明治15年)、朝6時に発車する列車が運行されていました。鉄道にはその当時、まだ電灯が用いられておらず、薄暗い時間帯の駅から列車を運行するためには多くの石油ランプが必要でした。石油ランプの正しい管理は安全な列車運行になくてはならないものであり、その注油は必ずランプ小屋で行うものとされていました。

 

当時の石油缶(2019年7月)

 

当時の金ヶ崎駅(後の敦賀港駅)のランプ小屋は横浜駅、京都駅に次いで3番目の大きさを誇っており、大阪駅のランプ小屋は金ヶ崎駅(後の敦賀港駅)のランプ小屋より小さかったといいます。

 

通称「敦賀港線」の跡(2019年7月)

 


金崎宮金ヶ崎城跡

かつての金ヶ崎駅(後の敦賀港駅)の横を過ぎて、金崎宮・金ヶ崎城跡へと近づいていきます。

 

金崎宮(2019年7月)

 

金ヶ崎城敦賀湾に突き出た丘の上に築かれた中世の城であり、現在は周囲が埋め立てられてしまっていますが、当時は北・西・南の三方を海に囲まれていました。東へと続く天筒山城の尾根には城戸が設置され、難攻不落の城となっていました。これへと向かって階段を上ります。

 

長い階段を上っていく(2019年7月)

 

これを上りきると、金崎宮・金ヶ崎城跡に到着します。

 

金崎宮(2019年7月)


1.江若鉄道 2.湖西線の歴史 3.湖西線を走る車両 Θ大津京駅Θ 4.おごと温泉駅 5.堅田駅と琵琶湖周辺の風景 6.中江藤樹と安曇川駅 7.雪景色の近江中庄駅

 

天候不良のため近江中庄駅に停車する新快速(2018年2月)


江若鉄道

北陸新幹線大阪への延伸は2016年(平成28年)、与党検討員会で京都小浜ルートに決定しました。北陸新幹線が走ることになった小浜市は若狭湾に面したまちであり、古くから港町として栄えてきました。国宝や国指定の重要文化財などがある寺社が多く存在し「海のある奈良」などとよばれることもあります。奈良市とは1971(昭和46年)に姉妹都市を締結しています。

 

奈良駅西口(2017年6月)

 

たとえば、真言宗の寺院である明通寺(みょうつうじ)は、806年(大同元年)に坂上田村麻呂により創建されたと伝えられており、その本堂と三重塔は国宝に指定されています。

 

湖西線の車窓から見える風景(2018年2月)

 

江若(こうじゃく)鉄道は、その小浜市のある若狭地方と滋賀県の近江地方を結ぶことを目的として設立された鉄道会社です。1919年(大正8年)に鉄道免許を受けた江若鉄道は1921年(大正10年)、滋賀県内の三井寺(後の三井寺下)~叡山間を開業しました。

 

三井寺大門(2019年6月)

 

その後順次延伸し、1931年(昭和6年)には浜大津~近江今津間を開業しています。しかしながら、目標としていた近江今津から若狭へ至る線路については資金不足のため着工することができませんでした。

 

雪景色の安曇川駅(2018年1月)


湖西線の歴史

湖西線は1974年(昭和49年)に山科~近江塩津間が開業していますが、それに先立って1969年(昭和44年)にはこの江若鉄道の浜大津~近江今津間の敷設計画は廃止となっています。これより、江若鉄道は鉄道事業から撤退し「江若交通」と社名を変更しました。現在では琵琶湖西岸地域を中心として路線バスを運行しています。

 

湖西線の車両から見た雪景色(2018年2月)

 

その後、江若鉄道における輸送は湖西線に引き継がれることになりますが、若狭・近江間の鉄道接続は琵琶湖若狭湾快速鉄道(若狭リゾートライン)構想として残ってきたようです。しかしながら、先に述べた通り北陸新幹線の延伸が京都小浜ルートとなるとこの構想も廃止となります。福井県は京都小浜ルートの決定を受けて、新たな新幹線の要望を提案しています。その提案する北陸・中京新幹線北陸新幹線米原ルートを基本とし、東海道新幹線に乗り入れるというものです。

 

京都駅を出発して新大阪駅へと向かう東海道新幹線(2019年1月)

 

湖西線山科~近江塩津間を結ぶ路線ですが、すべての列車が山科駅の隣りの京都駅まで乗り入れています。

 

敦賀駅に掲示される新快速・普通列車の近江塩津駅乗換表(2017年5月)

 

また、かつては湖西線を走る新快速は主として近江今津止でしたが、現在では新快速敦賀駅までの延長運転となっています。

 

天候不良のため近江中庄駅に停車する新快速(2018年2月)

 

新快速が「敦賀行き」となったのは2006年(平成18年)のことです。これにより、実際の湖西線近江塩津駅までですが、運行系統上は新快速敦賀駅まで運行されるため、敦賀駅は事実上、北陸本線湖西線の乗換駅としての役割を果たしています。

 

敦賀駅の湖西線ホーム(2016年8月)
敦賀駅7番線


湖西線を走る車両

湖西線沿線の美しい風景を背景にして、とても古そうな緑色の列車が走っています。この緑色に塗装された車両は113系です。113系は1963年(昭和38年)に国鉄が開発した直流近郊形電車です。

 

安曇川駅に到着する113系(2017年3月)

 

国鉄からJRへの民営化に際して113系はJR東日本、JR東海、JR西日本へと引き継がれ、東海道本線山陽本線などの普通列車および快速列車として使用されてきました。しかし、老朽化が進み、JR東海では2007年(平成19年)、JR東日本では2011年(平成23年)にすべて後継車両へと置き換えが完了しました。

 

安曇川駅に到着する113系(2017年3月)

 

JR西日本ではなお現役であり、この湖西線でも雪の中を元気に走行しています。湖西線内は多雪地帯であるため、寒冷地向け仕様の車両が使用されています。

 

雪景色の安曇川駅を出発する113系(2018年1月)

 

113系の他に湖西線内では223系が走行しているのを見ることができます。223系は1993年(平成5年)~2008年(平成20年)に製造された車両であり、JR西日本が自社開発した近郊形電車です。

 

京都駅に到着する223系(2017年3月)

 

また、湖西線内には貨物駅はありませんが、旅客列車に混じってときどき貨物列車を見ることができます。

 

大津京駅に停車する貨物列車(2016年7月)

 

大津京駅

大津京駅湖西線が全線開通した1974年(昭和49年)に西大津駅として開業し、2008年(平成20年)に大津京駅と改称しています。

 

大津京駅駅舎(2019年7月)

 

大津京駅のすぐ近くを京阪石山坂本線が走っており、京阪大津京駅は乗換駅となっています。

 

大津京駅ホーム(2019年5月)

 

貨物駅がないので荷物の積み下ろしをすることはありませんが、貨物列車が駅に停車していることもあります。

 

安曇川駅に停車する貨物列車(2017年3月)

敦賀駅に掲示される北陸線・湖西線の大阪・米原方面時刻表(2017年5月)


おごと温泉駅

おごと温泉駅は湖西線が全線開通した1974年(昭和49年)に雄琴駅として開業しました。

 

おごと温泉駅ホームから見える琵琶湖の風景(2019年4月)

 

その後、2008年(平成20年)におごと温泉駅と改称しています。

 

おごと温泉駅ホームから見える琵琶湖の風景(2019年4月)


堅田駅と琵琶湖周辺の風景

琵琶湖の最狭部に架かる琵琶湖大橋を境として、琵琶湖は北湖と南湖に分けられます。

 

最狭部に架かる琵琶湖大橋(2019年9月)

 

堅田(かたた)のまちはその最狭部の西岸に位置し、古くから湖上交通の要衝となっていました。

 

堅田駅駅名標(2019年9月)

 

そのため、古くからまちは栄え、また琵琶湖の漁業の拠点ともなっていました。現在でも、当時の面影がその町並みに少しばかり残っています。

 

古くからの町並みが残る(2019年9月)

 

現在、堅田のまちの玄関口となるのは湖西線堅田駅です。

 

堅田駅ホーム(2019年9月)

 

堅田駅は1974年(昭和49年)、湖西線の山科~近江塩津間の開通と同時に開業しています。

 

京都駅に停車する湖西線の113系電車(2017年5月)

 

現在の堅田駅は1969年(昭和44年)に廃止となった堅田駅とは場所が異なります。

 

堅田駅ホームから見た風景(2019年9月)

 

かつて存在した堅田駅はすでに廃線となっている江若鉄道の駅であり、現在の江若交通バス本堅田停留所付近にありました。

 

堅田駅前バスターミナル(2017年3月)

 

旧堅田駅はもともと、1923年(大正12年)に江若鉄道の雄琴~堅田間が開通した際に開業したものです。

 

堅田駅前バスターミナル(2017年3月)

 

琵琶湖は言わずと知れた日本最大の面積をもつ湖であり、古くから京阪神の水源として利用されるとともに交通の要衝ともなっていました。わが国の鉄道黎明期には金ヶ崎(後の敦賀港駅)~長浜間が開業した際、日本初の鉄道連絡船が長浜~大津(現在のびわ湖浜大津)間に就航しました。その琵琶湖周辺には現在23個の内湖(ないこ)があり、堅田駅のある大津市内には2つの内湖(堅田内湖と近江舞子内湖)があります。

 

堅田内湖(2019年9月)

 

内湖とは、もともと琵琶湖の一部であった水面に、風や波の作用の他、川から運ばれた土砂が堆積することによりできた潟湖(せきこ/ラグーン)です。

 

堅田内湖(2019年9月)

 

このうち、堅田内湖に注ぐ河川は新川・浜川・堤川・新堀川の4川があり、内湖の水位が常に一定になるように、5つの水門が設置されています。堅田内湖は農業用水の水源と利用される他、淡水真珠の養殖にも利用されています。

 

堅田内湖近くにある月影広場(2019年9月)

 

内湖は水深が浅く、琵琶湖に比べると波が穏やかなので、多くの生物の生息地となっています。ゲンゴロウブナ、カイツブリ、イケチョウガイ、コイ、ギンブナなどが生息し、ヨシも生い茂ります。

 

堅田内湖周辺地図(2019年9月)

 

堅田内湖の月影広場から水門(地図③)を過ぎて北東方向へ歩いて行くと、別の水門(地図②)近くには泉福寺というお寺があります。

 

泉福寺(2019年9月)

 

さらに、泉福寺から琵琶湖最狭部となる今堅田の岬へ歩いて行くと、その突端には高さ8メートルの木造の灯台が立ちます。この灯台は出島の灯台とよばれますが、末広町バス停(江若交通バス)からは徒歩10分ほどの場所となります。

 

出島の灯台(2019年9月)

 

出島の灯台は高床式となっており、四隅にある4本の柱と中心にある支柱の計5本の柱により支えられています。灯台の光源としては、1918年(大正7年)まではランプを使用し、その後は電灯を使用するようになりました。

 

出島の灯台(2019年9月)

 

琵琶湖岸では古くから船の座礁および難破事故が多く、1875年(明治8年)に灯台が建てられました。1961年(昭和36年)の第二室戸台風により、出島の灯台は倒壊寸前の状態となりましたが、1973年(昭和48年)に地元の熱心な保存運動により灯台の修復が行われました。現在では、大津市指定文化財・有形民俗文化財となっています。

 

出島の灯台周辺地図(2019年9月)

 

出島の灯台から湖岸線に沿って南西方向にもどると、天然図画亭(てんねんずえてい)が見えてきます。

 

 

書院「天然図画亭」は居初氏庭園(いそめしていえん)と一体化した国指定名勝であり、滋賀県指定文化財です。居初氏庭園は江戸時代前期に千利休の孫・千宗旦の弟子である茶人・藤村庸軒が造ったとされる庭です。

 

 

堅田の地は近江八景の一つとなる「堅田落雁」(通称「堅田の浮御堂」)で知られています。通称「堅田の浮御堂」は琵琶湖畔にある臨済宗大徳寺派の寺院「海門山満月寺」の湖上に突き出た仏堂のことをいいます。

 

名所「堅田落雁」(2019年9月)

 

近江八景とは滋賀県に見られる優れた風景8つをさします。「堅田落雁」の他、石山秋月(石山寺)、勢多夕照(瀬田の唐橋)、粟津晴嵐(粟津原)、矢橋帰帆(矢橋)、三井晩鐘(三井寺)、唐崎夜雨(唐崎神社)、比良暮雪(比良山)の8つとなります。この浮御堂は平安時代に、恵心僧都が湖上の安全と衆生済度を祈願して建立されたといいます。現在の建築物は1937年(昭和12年)に再建されたものであり、境内の観音堂には重要文化財となる聖観音座像が安置されています。浮御堂へは堅田駅より徒歩約20分ほどです。また、バスの場合には、堅田駅より堅田町内循環バス(江若交通バス)に乗車し、堅田出町停留所で下車して徒歩5分ほどです。休日には浮御堂前停留所に停車するバスもあります。

 

堅田出町停留所(2019年9月)


中江藤樹と安曇川駅

安曇川(あどがわ)駅湖西線が全線開通した1974年(昭和49年)に開業しています。

 

安曇川駅西口(2017年3月)

 

安曇川駅駅前には「近江聖人」とよばれた中江藤樹像が立ちます。中江藤樹はそのふるさとである小川村(現在の滋賀県高島市)で私塾「藤樹書院」を開いています。

 

雪景色の安曇川駅(2018年1月)

 

藤樹書院は安曇川駅よりバスで約5分ほどのところにあります。

 

安曇川駅前中江藤樹像(2017年3月)

 

中江藤樹像の説明によると、中江藤樹は1608年(慶長13年)に当時のこの地「安曇川町上小川」で生まれました。

 

安曇川駅駅名標(2017年3月)

 

多くの門人たちを教えましたが、41歳の若さで亡くなりました。

 

安曇川駅前中江藤樹像(2017年3月)

 

中江藤樹の短い生涯における教えは孝を中心とした良知にしたがい、行ないを正しくするということにつとめました。

 

安曇川駅(2017年3月)

 

ただ学者というだけではなく、たいへん徳の高い人であり、「近江聖人」とたたえられました。

 

雪景色の安曇川駅(2018年1月)

 

藤樹書院には藤の木が今も良く茂り、今でも藤樹先生はみんなの人に敬われ親しまれています。

 

雪景色の安曇川駅(2018年1月)


雪景色の近江中庄駅

近江中庄(おうみなかしょう)駅は1974年(昭和49年)、湖西線の山科~近江塩津間開通と同時に開業しています。

 

雪景色の中の近江中庄駅(2018年2月)

 

現在では、堅田駅が管理する湖西線内唯一の完全無人駅となっています。

 

近江中庄駅周辺に広がる大自然(2018年2月)

 

また、駅には自動券売機が設置されておらず、切符を購入することができません。

 

近江中庄駅周辺に広がる大自然(2018年2月)

 

駅には車内で切符を買うようにとの注意書きが掲示されています。

 

近江中庄駅周辺に広がる大自然(2018年2月)


1.C58形蒸気機関車 2.敦賀駅小浜線ホーム 3.小浜線の歴史

 

敦賀駅に到着する小浜線の列車(2019年6月)


C58形蒸気機関車

敦賀駅近くにある本町第3公園(通称「機関車公園」)にはC58形蒸気機関車(C58-212)が保存されています。C58形蒸気機関車は1938年(昭和13年)~1947年(昭和22年)にかけて427両が製造されました。

 

C58-212蒸気機関車(2018年7月)

 

機関車公園で保存される蒸気機関車は1940年(昭和15年)に製造されたものであり、さまざまな路線で活躍した後、最後は小浜線でも活躍しました。

 

C58-212蒸気機関車(2018年7月)

 

小浜線の電化により、1971年(昭和46年)に現役を引退しましたが、その全走行距離は1,498,202.6キロになります。

 

C58-212蒸気機関車(2018年7月)

 

引退後、当時の国鉄より敦賀市に貸与され、子どもたちの生きた教材として余生を過ごしています。

 

C58-212蒸気機関車(2018年7月)


敦賀駅小浜線ホーム

小浜線敦賀駅を起点として美浜、小浜を経由して若狭湾に沿って走り、東舞鶴駅を終点とする全長84.3キロの路線です。

 

敦賀駅小浜線ホーム(2016年8月)
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計画段階では、敦賀の「敦」と舞鶴の「鶴」をとって「敦鶴(とんかく)線」とよばれたこともありました。起点の敦賀駅では北陸本線に接続し、終点の東舞鶴駅では舞鶴線に接続しています。敦賀駅においては、小浜線は1番線、2番線となっており、現在ではその利用客は地元の高校生が中心となっています。

 

敦賀駅小浜線ホーム(2016年8月)
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小浜線の歴史

1917年(大正6年)に敦賀~十村(とむら)間が開業したことによりその歴史ははじまりますが、その路線名は計画段階の「敦鶴線」から「小浜線」へと変更されました。その後、徐々に延伸していき、1922年(大正11年)には新舞鶴駅(現在の東舞鶴駅)までつながりました。

 

敦賀駅に展示される小浜線のパネル(2018年6月)

 

小浜線は若狭湾沿いのシーサイドラインを走行するため、その沿線には海水浴場や景勝地を数多く抱えています。そのため、1961年(昭和36年)には小浜線を走る初めての優等列車として準急「わかさ」金沢~西舞鶴間において運行を開始しました。

 

小浜線時刻表(2017年5月)

 

その後、1964年(昭和39年)には急行「あさしお」金沢~出雲市間)、1966年(昭和41年)には急行「大社」(名古屋~出雲市間)、1968年(昭和43年)には急行「エメラルド」(臨時列車)なども運行されています。しかし、1999年(平成11年)に急行「わかさ」の列車種別が快速へと変更されると、小浜線を走る定期優等列車は消滅してしまいました。現在では125系電車が地元の高校生の通学手段として活躍しています。

 

敦賀駅に停車する125系(2016年8月)
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【125系】

125系は西日本旅客鉄道(JR西日本)による車両であり、小浜線および加古川線の電化工事に合わせて投入されています。1両のみによる運用も多いことから、機器の二重系統化が図られており、故障などに対応できるようになっています。

 

敦賀駅に到着する125系(2018年6月)