箕面有馬電気軌道
阪急電鉄の歴史は1907年(明治40年)、創業者の小林一三(こばやしいちぞう)らが箕面有馬電気軌道を設立したことにはじまります。小林一三は1873年(明治6年)に山梨県で生まれました。若き頃の小林一三は小説家を志していましたが、19歳で慶應義塾を卒業すると、20歳のときに三井銀行に入社します。34歳のときに三井銀行を退職し、箕面有馬電気軌道の発起人の一人となり、この会社の専務取締役に就任します。
天神祭のヘッドマークを付けた車両(2018年7月)
鉄道事業者としては後発であり、また梅田から農村地帯を抜け、紅葉狩りや温泉を楽しむための観光客を運ぶ鉄道会社を経営することは難しいのではないかというような声を背に、自ら1908年(明治41年)に豊能郡池田町(現在の大阪府池田市)に移り住み、実質上の経営者として多くのアイデアを生み、さまざまな生活文化を創出することになります。鉄道事業をはじめとして、不動産開発,小売業,娯楽業なども展開し、私鉄のビジネスモデルを創始することになります。
梅田駅(現在の大阪梅田駅)に停車する車両(2018年7月)
1910年(明治43年)に梅田(現在の大阪梅田)~宝塚間(現在の宝塚本線)、石橋(現在の石橋阪大前)~箕面間(現在の箕面線)を開業した後、1913年(大正2年)に宝塚唱歌隊(後の宝塚歌劇団)を組織しました。これを宝塚少女歌劇養成会と改称して、1914年(大正3年)に初公演を実施しています。小林一三はその後、1927年(昭和2年)に阪神急行電鉄社長、1928年(昭和3年)に東京電燈副社長(1933年より社長)に就任します。さらに、1929年(昭和4年)には阪急百貨店を開業し、1932年(昭和7年)に東京宝塚劇場を創立しています。政界へも進出し、1940年(昭和15年)には商工大臣(第二次近衛文麿内閣)、1945年(昭和20年)には国務大臣(幣原喜重郎内閣)兼戦災復興院総裁となっています。1957年(昭和32年)に84歳で亡くなりました。
田園都市構想
小林一三のビジネスに対する考え方は田園都市構想に基づいているといわれます。都心から郊外へと鉄道を敷設し、その鉄道の沿線を開発していきます。人々は田畑の残る緑豊かな地域に住み、毎日電車に乗って都心の職場へと通勤します。こうした沿線開発の手法は後に関東の私鉄にも大きな影響を与えることになります。
ラッピング列車「古都(KOTO)」(2018年9月)
ロンドン出身のエベネザー・ハワードは1898年にその著書において田園都市構想を提唱しますが、その考えは理想主義的であるとの批判を浴びました。一方で、19世紀末のロンドンでは急速に工業化が進展し、都心部の人口も急増していました。都心部の住環境の悪化も懸念されるようになり、エベネザー・ハワードは1903年、田園都市構想に基づいた田園都市をロンドン郊外のレッチワースに建設し、その運営を成功させました。この成功により後に「近代都市計画の祖」とよばれるようになります。田園都市はその後、日本でも「ベッドタウン」という形となり導入されています。
阪神急行電鉄・京阪神急行電鉄
1918年(大正7年)になると、箕面有馬電気軌道は社名を阪神急行電鉄(略称「阪急」)と改称し、1920年(大正9年)には十三~神戸間(現在の神戸本線)を開業しています。この「電鉄」という名称を初めて正式な社名として取り入れたのは阪神急行電鉄であり、小林一三によるものでした。この鉄道会社が当初、箕面有馬電気軌道と称していたのは私設鉄道法による鉄道敷設ではなく、軌道条例によって鉄道敷設を果たしたことによるものです。
当時、大阪~神戸間の官鉄と並走する路線の新設については、私設鉄道法を管轄する逓信省が難色を示していました。なんとしても神戸線の建設を実現したかった小林一三は、神戸線についても私設鉄道法による建設ではなく、内務省が所轄する軌道条例によりこれを新設することを目指しました。軌道条例は緩やかな速度で1~2両編成にて運行する鉄道(路面電車のような鉄道)を想定した法律であったため、その規制は私設鉄道法より緩やかなものでした。しかしながら、社名として「鉄道」と称することはできませんでした。
将来的に神戸線における高速走行の実現を予定していた小林一三は、苦肉の策として「電気鉄道」の略称としての「電鉄」という名称を社名に用いることを思いつきました。さらに、これに先立ち、同じく軌道条例により阪神間を結ぶ鉄道を建設していた阪神電気鉄道よりも高速であるというイメージをつくるため「急行」という文字を加えて、新社名を阪神急行電鉄としたものです。現在では京成電鉄、京王電鉄、東京急行電鉄、京浜急行電鉄、小田急電鉄など「電鉄」と称した社名について私たちは違和感をおぼえることはありませんが、その社名の先駆けとなったのはまさに阪神急行電鉄ということになります。その後、1943年(昭和18年)になると、阪神急行電鉄は京阪電気鉄道と合併して京阪神急行電鉄(略称「京阪神」)が誕生しています。
京王線の車両(2020年6月)
阪急電鉄の誕生
1949年(昭和24年)になると、京阪神急行電鉄より京阪電気鉄道が分離したため、京阪線・宇治線・京津線・石山坂本線が「新しい京阪電気鉄道」の所属となりました。1959年(昭和34年)には社名を京阪神急行電鉄から阪急電鉄に改めています。
阪急電鉄の路線には神戸線、宝塚線、京都線があります。神戸線は神戸本線(大阪梅田~神戸三宮間)32.3キロ、神戸高速線(神戸三宮~新開地間)2.8キロ、伊丹線(塚口~伊丹間)3.1キロ、今津線(今津~宝塚間)9.3キロ、甲陽線(夙川~甲陽園間)2.2キロ、宝塚線は宝塚本線(大阪梅田~宝塚間)24.5キロ、箕面線(石橋~箕面間)4.0キロ、京都線は京都本線(大阪梅田~京都河原町間)47.7キロ、千里線(北千里~天神橋筋六丁目間)13.6キロ、嵐山線(嵐山~桂間)4.1キロから成ります。その起点となる大阪梅田駅はホーム10面・線路9線を有し、私鉄のターミナル駅としては最大規模を誇ります。1号線~3号線は京都線、4号線~6号線は宝塚線、7号線~9号線は神戸線の発着線となっています。
現在、大阪空港(伊丹空港)へ乗り入れしている路線は大阪モノレールだけですが、将来的に阪急電鉄は大阪空港への乗り入れる新線を計画しているといいます。宝塚線の曽根駅で線路を分岐し、大阪空港までの約3キロを地下鉄線で結ぶ計画です。実現すれば、大阪の中心・大阪梅田駅から乗り換えなしで大阪空港へアクセスできることになります。
大阪モノレールの車両(2019年1月)
阪急マルーン色
現在では経済的でないとわかっていながら、シルバー色の車体に塗装を施している鉄道会社もあります。たとえば、阪急電鉄の車両はアルミ製の車体にマルーン色とよばれる光沢のある塗装を施し、「阪急マルーン」の伝統を守ることを大切にしています。その塗色は箕面有馬電気軌道時代から変わっておらず、当時開業の際に登場した1形(木造車両)にはすでにこの色が採用されていたといいます。
阪急マルーン色の車両にラッピングされた車両(2018年9月)
1000系は2013年(平成25年)に登場した神戸線・宝塚線の車両であり、能勢電鉄への乗り入れにも対応しています。この車両は遮音性、安全性、省エネ、バリアフリーに優れていて、新型モーターを搭載するなど機能の向上が施されています。
1300系は2014年(平成26年)に登場した京都線の車両であり、地下鉄堺筋線への乗り入れにも対応しています。その車体の設計は1000系と同じですが、モーターの形式は1000系とは異なっています。
3000系は1964年(昭和39年)に登場した車両であり、当時架線電圧の引き上げに対応するために開発された車両でした。現在では今津線や伊丹線で運用されているものの、順次廃車となっています。3300系は1967年(昭和42年)に登場した京都線の車両であり、地下鉄堺筋線との相互直通運転を実現するために投入された車両です。その車体の大きさは地下鉄堺筋線に合わせたものとなっています。
5000系は1968年(昭和43年)に登場した神戸線の車両であり、山陽電鉄への乗り入れに対応した車両でした。現在ではリニューアル車両が神戸線や今津線で運用されています。5100系は1971年(昭和46年)に登場した車両であり、量産車として初めての冷房車となりました。各線での走行を可能にするため機器類の統一が図られた他、パンタグラフを軽量化しています。5300系は1972年(昭和47年)に登場した京都線の車両であり、初めて電気指令式ブレーキが採用されています。
6000系は1976年(昭和51年)に登場した車両であり、宝塚線・今津線・甲陽線で運用されています。1975年(昭和50年)に登場した京都線の特急車両であり、すべての座席が転換クロスシートとなっています。1976年(昭和51年)にはブルーリボン賞(鉄道友の会)を受賞しています。クロスシートとは多くの特急車両が採用している座席形式であり、車長方向(車両の長手方向)とクロスする形で座席が配されています。このうち、転換クロスシートは座席の背もたれを前後に移動することができるようになっていて、着席方向を変更することができるようになっています。嵐山線では、2009年(平成21年)より6300系をリニューアルした4両編成での運行を開始しました。2007年(平成19年)のダイヤ改正により特急の性格が変更され、6300系は京都線での特急車両としての役目を終えることとなりました。その後、リニューアルされ、嵐山線で活躍しています。
嵐山線を走る車両(2017年7月)
7000系は1980年(昭和55年)に登場した神戸線・宝塚線の車両であり、210両という多くの車両が製造されました。ブレーキシステムとして回生ブレーキシステムを初めて採用しています。7300系は1982年(昭和57年)に登場した京都線の車両であり、その車両の性能は7000系と同じです。
8000系は1989年(昭和64年)に登場した神戸線・宝塚線の車両であり、創立80周年を記念して製造された車両です。本格的に小型・軽量の交流モーターを積み、行先表示板や列車種別表示板、窓や前面のデザインが一新されています。8300系は1989年(平成元年)に登場した京都線の車両であり、地下鉄堺筋線への乗り入れに対応しています。その車両のデザインは8000系とほぼ同様となっています。
9000系は2006年(平成18年)に登場した神戸線・宝塚線の車両であり、8000系の後継車両として車体の軽量化および遮音性の向上が図られています。すべての座席がロングシートとなっており、車内の扉上部には液晶ディスプレイによる情報案内板が設置されています。9300系は2003年(平成15年)に登場した京都線の特急車両であり、1車両における扉数は片側3扉となっています。座席は転換クロスシートとロングシートの部分があります。車内の快適性を高めることと、混雑を緩和することを目的とした造りとなっています。
天神祭のヘッドマークを付けた車両(2018年7月)
ラッピング列車
阪急電鉄では沿線の活性化と旅客誘致を目的として、2019年10月までラッピング列車を運行しています。
ラッピング列車「古都(KOTO)」(2018年9月)
ラッピング列車には愛称をつけており、神戸線は「爽風(KAZE)」、宝塚線は「宝夢(YUME)」、京都線は「古都(KOTO)」としています。
ラッピング列車「古都(KOTO)」(2018年9月)
それぞれのデザインを担当しているのは、神戸線がイラストレーターの中村佑介氏、宝塚線が劇作家の池田理代子氏、京都線が絵本作家の永田萠氏となっています。
ラッピング列車「古都(KOTO)」(2018年9月)
御影駅
弓弦羽神社の手水舎(2019年2月)
弓弦羽神社の由来
神功皇后(じんぐうこうごう)による三韓征伐の帰途、忍熊(おしくま)王が兵を挙げたことを知って、この地で弓矢と甲冑を納めて戦勝を祈願しました。弓矢および甲冑を納めたことから、神社の背後にある山を弓弦羽岳または武庫山と呼称されるようになり、後に現在の六甲山の文字があてられたとされます。
弓弦羽(ゆづるは)神社は平安時代、桓武天皇の頃(790年頃)に現在の神社の場所となった弓弦羽の森を神領地と定めて、849年(嘉祥2年)に造営されたと伝えられます。熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に祀られる神である伊弉冉尊(那智大社)、事解之男命(本宮大社)、速玉之男命(速玉大社)を祀っており、平安時代の中期以降には熊野信仰の隆盛により崇敬を集めてきました。
フィギュアスケートの羽生結弦選手が、そのファンから自身の名前と似た弓弦羽神社の存在を知って参拝したこともあることから、現在では弓弦羽神社は羽生結弦選手を応援する人たちの「聖地」とよばれるようにもなっています。
弓弦羽神社(2019年2月)
弓弦羽神社の境内
鳥居をくぐるとすぐに神戸で最も大きいといわれるムクノキがそびえ立ちます。
樹齢370年のムクノキ(2019年2月)
ムクノキの樹齢は370年、胸高周囲4メートル30センチ、根まわり5メートル、樹高16メートル、枝張り17メートルとなっています。
樹齢370年のムクノキ(2019年2月)
このムクノキは神戸市の天然記念物に指定されており、現在では「努力がむくわれる」「想いや願いがむくわれる」として祈願する人もいます。
手水舎(2019年2月)
手水舎の隣りには愛犬専用の水飲み場もあります。
愛犬専用水飲み場(2019年2月)
社務所の隣りではマスコットのゆづ丸君が出迎えてくれます。
ゆづ丸君(2019年2月)
弓弦羽神社の最寄り駅
弓弦羽神社は阪急御影駅からは南東方向へ徒歩5分、JR住吉駅からは北西方向へ徒歩10分、阪神御影駅からは北方向へ徒歩15分ほどです。
御影駅を出発する阪神電車(2017年4月)
このうち最も近い「阪急御影駅」こと御影駅(阪急電鉄)は1920年(大正9年)に当時の阪神急行電鉄神戸線開通と同時に開業しています。駅近辺には豪邸が多く、神戸市内随一の高級住宅地となっています。
阪急御影駅駅舎(2019年2月)
「JR住吉駅」こと住吉駅(JR西日本)は1874年(明治7年)に官設鉄道の西ノ宮駅(現在の西宮駅)~三ノ宮駅間に設置されました。1895年(明治28年)に線路名称が制定されたため東海道線(現在の東海道本線)の所属となり、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化によりJR西日本の駅となっています。
阪急御影駅ホームの屋根の上に見える何かの小さな建物(2019年2月)
「阪神御影駅」こと御影駅(阪神電気鉄道)は同じ駅名でありながら、阪急御影駅とは1.2キロほど離れており、その移動には徒歩15分ほどかかるため乗換駅とはなりません。阪神御影駅は1905年(明治38年)の阪神本線開通と同時に開業しています。この駅から弓弦羽神社へアクセスする場合には、改札口を出て北上し、国道2号線(東灘警察署前)を越え、JR線の高架下をくぐります。兼安公園があり弓弦羽神社の文字が見えます。
兼安公園(2019年2月)
兼安公園の中の斜めの道を抜けていくと少し広い通りへと出ますが、通りの向こう側に弓弦羽神社の文字を見つけることができます。
まもなく弓弦羽神社(2019年2月)
しばらく歩くと弓弦羽神社の鳥居が見えます。
弓弦羽神社(2019年2月)
王子公園駅
王子動物園のジャイアントパンダ(2019年2月)
人気者「パンダ」
ジャイアントパンダ「旦旦(タンタン)」は王子動物園では不動の人気を誇ります。1995年生まれの旦旦(中国名「爽爽」)は2000年(平成12年)に中国からやって来ました。ジャイアントパンダは中国の四川省、甘粛省、陝西省において海抜2,000~3,000メートルの高地の湿潤な竹林に生息します。主食はタケ(葉・幹・タケノコ)ですが、その他の植物や小動物を食べることもあります。その体重はおよそ80~130キロ、体高はおよそ70~80センチであり、立ち上がると身長は130~170センチとなります。
ジャイアントパンダ(2019年2月)
神戸市と天津市(中国)が1973年(昭和48年)、日中間で初めて友好都市提携を結んだことから、2000年(平成12年)に神戸市にパンダがやって来ることになりました。当時、メスの旦旦とオスの興興(コウコウ/初代)がやって来ましたが、興興(初代)は2002年(平成14年)に中国へ返還されました。その後、興興(2代)が来日しますが2010年(平成22年)に亡くなってしまいました。
王子動物園
王子動物園の前身となる動物園は1928年(昭和3年)に諏訪山遊園地内で開園しています。
ようこそ王子動物園へ(2019年2月)
1950年(昭和25年)に開催された日本貿易産業博覧会の跡地となる現在地に、1951年(昭和26年)に移転して新たに開園しました。
レッサーパンダ(2019年2月)
ジャイアントパンダをはじめとして、シセンレッサーパンダ、コアラ、ホッキョクグマ、ライオン、ヨーロッパフラミンゴなど約130種類の動物を見ることができます。
園内の電話ボックスの上のコアラ像(2019年2月)
現在では日本で唯一ジャイアントパンダとコアラを同時に見ることができる動物園として全国に知られています。
レッサーパンダ(2019年2月)
園内には動物以外に動物科学資料館や遊園地が併設されている他、旧ハンター住宅、蒸気機関車D51が展示保存されています。
レッサーパンダ(2019年2月)
旧ハンター住宅は動物園の最も奥にある草食動物エリアの隣りにあります。この建造物は神戸市中央区北野町にありましたが、1963年(昭和38年)にこの場所に移築されてきました。
旧ハンター住宅(2019年2月)
1889年(明治22年)頃に、あるドイツ人がイギリス人の技師に依頼して建築したものといわれており、後にハンター氏がこれを改造して北野町に完成させたものです。
旧ハンター住宅(2019年2月)
旧ハンター住宅は現存する神戸の異人館の中では最大規模の一つであり、現在では重要文化財となっています。
旧ハンター住宅(2019年2月)
蒸気機関車D51
動物園内の動物とこどもの国エリアには蒸気機関車D51が展示保存されています。
動物とこどもの国エリア(2019年2月)
蒸気機関車D51-211は1938年(昭和13年)に当時の国鉄鷹取工場(神戸市須磨区)にて新製第1号機として誕生しました。
園内に保存されるD51-211(2019年2月)
西日本における主要幹線で活躍しましたが、その走行距離は180万キロにも及びます。
園内に保存されるD51-211(2019年2月)
客車(2019年2月)
蒸気機関車D51が保存展示される動物とこどもの国エリアに隣接して神戸文学館があります。
D51-211が保存される場所に設置される駅名標(2019年2月)
神戸文学館の建築物は1904年(明治37年)、関西学院のチャペルとして建てられたものです。1929年(昭和4年)に関西学院が移転した後もこのチャペルはそのまま残し、後に神戸市がこれを買収しました。1945年(昭和20年)には神戸大空襲により被災しますが、神戸博においては瀬戸内海観光館として再生されています。
赤レンガ造りの神戸文学館(2019年2月)
1967年(昭和42年)には神戸市立中央図書館王子分館(後に神戸市立王子図書館)として開館した後、1993年(平成5年)には神戸市立王子市民ギャラリーとして再オープンしています。そして、2006年(平成18年)に神戸文学館としてリニューアルオープンし、2008年(平成20年)には登録有形文化財に指定されています。
赤レンガ造りの神戸文学館(2019年2月)
王子公園駅
王子動物園の最寄り駅となるのは阪急電車の王子公園駅です。王子公園駅は1936年(昭和11年)に当時の阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)西灘駅として開業しました。
王子公園駅ホーム(2019年2月)
このとき同時に、神戸駅(2代/現在の神戸三宮駅)まで延伸開業を果たしていますが、従来の神戸線の終着駅となっていた神戸駅(初代)は上筒井駅と改称されて、西灘駅(現在の王子公園駅)~上筒井駅間は上筒井線(上筒井支線)と改められました。上筒井線は1940年(昭和15年)に廃止となっています。
神戸三宮駅駅名標(2019年2月)
1984年(昭和59年)になると、この駅から南へ500メートルほどの場所にある阪神電車の西灘駅と区別するため、駅名を西灘駅から王子公園駅と改称しました。
王子公園駅の西側(2019年2月)
王子公園駅の東側(2019年2月)
小説『阪急電車』に見える今津線
有川浩さんの小説『阪急電車』は、阪急電鉄の各線の中でも全国的にはあまり知られていない今津線を描いた小説です。今津線を利用する登場人物たちが、それぞれの人生の中で出会う小さな出来事について詳細に描かれていて、ホッとするような、甘酸っぱいような小説です。
書籍名:『阪急電車』
著者名:有川浩
出版社:幻冬舎
発行日:2008年(平成20年)1月25日
小説『阪急電車』の主役である今津線の起点は宝塚駅、終点は今津駅です。この起点となる宝塚駅について、小説の本文では、
清荒神駅から宝塚駅へ向かう電車の同じ先頭車両に彼女は乗ってきた。
……(略)……
終点の宝塚駅では選択肢が三つある。そのまま降りる、JRに乗り換え、同じ構内の『人』の字のもう片方の出発点である西宮北口駅(通称西北)行きに乗り換え。
と書かれています。
阪急電車オリジナルグッズ(2018年7月)
宝塚本線の起点は梅田駅、終点は宝塚駅ですが、本文中にある清荒神(きよしこうじん)駅は終点宝塚駅の一つ手前の駅です。したがって、本文中の「彼女」は終点の一つ手前の清荒神駅からその電車に乗り込んできたということになります。そして、終点の宝塚駅に着くと「選択肢が三つある」ということになります。「そのまま降りる」は別として、「JRに乗り換え」とは阪急宝塚駅はJR宝塚駅と接しているため、JR福知山線に乗り換えができるという意味になります。
神戸線から今津南線へ入る短絡線(2018年7月)
ただ、ここで一つの疑問が生まれます。「同じ構内の『人』の字のもう片方の出発点である西宮北口駅(通称西北)行きに乗り換え」についてですが、これは「今津線に乗り換える」ということを意味しています。今津線のもう一つの終端は今津駅であるにもかかわらず、小説では西宮北口駅をもう片方の出発点としています。小説の別の部分には、西宮北口駅について次のような記述があります。
今津線は乗りっぱなしでは全線を利用できず、西宮北口で分断された同路線を二階コンコースで渡って利用するというちょっと変わった形式になっている。西宮北口から向こう側は二駅で、圭一は利用したことがない。
また、別の部分には次のような記述も見られます。
西宮北口は阪急電車の中でもそれなりに大きなジャンクションである。
三宮(神戸)行きと梅田(大阪)行きのホームが東西に並び、今津線のシッポともいえる今津行きのホームが南。北側の宝塚行きのホームを加えると全部で四つのホームがあり、乗客たちは二階のコンコースに上がってそれぞれに目的のホームを選んで下り、また、この駅が目的地ならそのまま改札口を出ていく。
阪急電車オリジナルグッズ(2018年7月)
つまり、今津線は宝塚~今津間を結ぶ路線でありながら、たとえば宝塚駅から今津駅まで行こうとしても「乗りっぱなし」で行くことはできず、一度、途中の西宮北口駅で乗り換えなければならないということになります。したがって、小説には次のような記述も見られます。
「西北にも無印とかあるやん」
友達の一人が挙げたのは正式名称『西宮北口』、この電車の走っている今津線の取り敢えずの終着駅である。
宝塚からやって来ると「今津線の取り敢えずの終着駅」である「西北(にしきた)」こと西宮北口駅で乗り換え、終点の今津へ行くことになります。
「悪いとかじゃないんですよ。全然。私が親戚に下宿させてもらってる阪神国道なんかJR線も近くて便利だし、終点の今津まで行けば阪神にも乗り換え利くし。」
阪急電車オリジナルグッズ(2018年7月)
今津南線
西宮北口~阪神国道~今津を「今津南線」、西宮北口~宝塚間を「今津北線」とよぶこともあります。
神戸線から今津南線へ入る短絡線(2018年7月)
神戸線から今津南線へと続く短絡線の踏切には「球場前」「球場前踏切道」という名標が見られます。
西宮球場
以前、西宮北口駅前には「西宮球場」こと阪急西宮スタジアムがありました。2005年(平成17年)には球場の解体工事が完了しているものの、今でも踏切の名標にはその名残が見ることができます。2008年(平成20年)には球場跡地に大型商業施設「阪急西宮ガーデンズ」が開業しています。
神戸線から今津南線へ入る短絡線(2018年7月)
西宮球場といえば、阪急電鉄が所有していたプロ野球「阪急ブレーブス」の本拠地でした。1975年(昭和50年)には上田利治監督が日本シリーズで広島東洋カープを破り、初めての日本一を達成しています。阪急ブレーブスは数々の名選手を生み出していますが、この初めての日本一の年には、投手陣では山口高志と山田久志、野手陣では加藤秀司,福本豊,長池徳二,大橋穣,外国人ではマルカーノ,ウイリアムスらが活躍しました。
阪急電車オリジナルグッズ
西宮北口駅改札内(カリヨン広場付近)において2018年夏、阪急電車オリジナルグッズの販売が行われ、多くの人たちが訪れていました。
阪急電車オリジナルグッズ(2018年7月)