大阪市電の廃止・大阪市バスの歴史と大阪市営地下鉄の誕生

投稿者: | 2018-07-18

1.日本初の公営市電の誕生 2.地下鉄の誕生と大阪市電の廃止 ΘへそライトΘ 3.大阪市バスの誕生 Θ「銀バス」と「青バス」Θ 4.トロリーバスの登場 5.市バスが走る大阪の風景 6.大阪市営地下鉄からOsaka Metro(オオサカ メトロ)へ 7.大阪市バスから大阪シティバスへ

 

36号系統「地下鉄門真南行き」(2017年1月)


日本初の公営市電の誕生

大阪市電は1903年(明治36年)、日本初の公営による市電として誕生しました。正式名称は大阪市営電気鉄道ですが「大阪市電」と略称でよばれます。大阪市電は大阪市が経営を行い、大阪市交通局が運行していました。

 

大阪市営交通創業70周年記念切符
(左)大阪市電開業当時の車両イラスト(右)1973年の大阪市電の車両
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最初に第一期線として開通したのは築港線であり、花園橋(現在の大阪市西区)~築港桟橋(現在の大阪市港区)間約5キロを結びました。当時の車両数は5両であり、そのうち1両は2階建ての車両だったといい、魚釣りをする人たちで車両は賑わいました。その起点となった花園橋停車場は現在の九条新道バス停付近であり、大阪市西区千代崎のその地には「大阪市電創業の地」の石碑が立っています。

 

大東町バス停近くに保存される古い車両(2018年2月)

 

その築港線の乗客は予想外に増加し、これに成功を見た大阪市は、第二期線として東西線と南北線を計画しました。築港線が開発途上の郊外地に敷設した路線であったのに対し、東西線と南北線は人々が密集した大阪の市街地に敷設される路線でした。計画路線上の住民は立ち退きを余儀なくされることから、計画に対する反対運動が起こりました。また、市街地への進出を目指す民鉄各社がこうした反対運動を支援したため、ますます混迷を深めていくことになりました。そうした中、大阪市は市電敷設を強く主張してこれが認められ、1908年(明治41年)に九条中通一丁目~末吉橋間(東西線)、梅田停車場前(後の大阪駅前)~湊町駅前~恵美須町間(南北線)、渡辺橋~大江橋間(南北線支線の一部)の開業に漕ぎ着けました。そして1910年(明治43年)、工事が遅れていた梅田停車場前(後の大阪駅前)~大江橋間が開通し、南北線が全通しました。

 

市電廃止記念切符1969年
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大阪の人口は更なる増加を続け、それに伴って市電の乗客数も右肩上がりで増加しました。第三期線は1909年(明治42年)の九条中之島線開通を皮切りに、1916年(大正5年)の西野田線・西野田福島線開通により完成します。

 

井高野営業所内にあるバス停「井高野車庫前」(2017年1月)

 

また、第四期線は1921年(大正10年)の霞町玉造線開通にはじまり、1932年(昭和7年)の天満橋善源寺町線開通により完成します。大正後期、大阪市はさらに市域を拡大した結果、大阪市の人口は約211万人となり、東京を抜いて日本一の大都市となっています。こうした中、それ以外の輸送需要に応じて補完されるとした期外線は1918年(大正7年)の野田線開通が最初となり、1936年(昭和11年)の土佐堀南岸線により期外線完成となりました。

 

京阪東口バス停(2017年10月)


地下鉄の誕生と大阪市電の廃止

大阪市電は全線開業を果たして全盛時代を迎えていましたが、こうした中、地下鉄御堂筋線梅田~心斎橋間が開業しました。1933年(昭和8年)のことでした。やがて時が流れ、1950年代後半になると日本経済は急成長を遂げ、自動車渋滞の波が押し寄せ、大阪市電の走行にも支障をきたすようになり、遅延が相次ぐようになりました。

 

大阪駅前バスターミナルに停車する車両(2016年10月)
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1960年(昭和35年)には大阪駅一帯では10時間にも及ぶ大規模な交通渋滞が起こったといいます。午前9時頃より中央卸売市場付近から渋滞がはじまり、大阪駅まで拡大し、道路には自動車が溢れかえりました。

 

大阪市中央卸売市場(2019年8月)

 

自動車はクラクションを鳴らし続け、緊急自動車も動けない状態となった他、市電も出発したまま戻ってこないという事態となりました。午後3時頃、渋滞は解消するかに見えましたが、夕方のラッシュがはじまり、結果的に午後7時頃まで混乱は続いたといいます。のんびりと市電に揺られながら暮らしていた時代が過ぎ去り、大阪市は地下鉄による交通体系の見直しを迫られるようになります。1969年(昭和44年)3月31日、大阪市電の歴史に終止符を打ったのは、阪急東口~守口間と今里車庫前~上本町六丁目~玉船橋間の市電でした。

 

大東町バス停近くに保存される古い車両(2018年2月)

 

へそライト

かつての路面電車の車両前面の中央下部にはただ1つだけのヘッドライトが設置されていましたが、このヘッドライトのことを「へそライト」とよんでいます。へそライトこそがまさに当時の路面電車の車両の大きな特徴の一つでした。

 

大阪市電の歴史1903.9.12~1969.3.31
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大阪市バスの誕生

大正時代大阪は郊外から都心部に流入する人口が急増し、市電のみではその交通需要量に対応できない状態になっていました。大阪市は、地下鉄導入の調査を進めるとともに、市バスの導入について1922年(大正11年)に計画を策定しています。

 

大阪市営交通創業60周年記念切符

 

この計画を受けた大阪府は交通保安上難点ありとする一方で、1923年(大正12年)に民間の大阪乗合自動車(青バス)に対してバス運転営業の許可を与えています。これを受けて1924年(大正14年)、大阪乗合自動車はバスの運転営業を開始しました。このバスはその車体の色から市民から「青バス」とよばれるようになりました。

 

大阪市営バス60周年記念乗車券

 

1924年(大正14年)、大阪市は第二次市域拡張を実施し、隣接各市町村との編入合意条件である交通機関の確保を実現するため、再度市バスの営業許可申請を行い、1927年(昭和2年)にその一部の営業許可を得ることができました。

 

大阪市交通局井高野営業所(2017年1月)

 

そして、1927年(昭和2年)2月26日、阿倍野橋~平野間4.8キロにおいて大阪市バス第1号を運行しています。しかしながら、大阪府は「一路線一営業」という方針を採用していましたので、すでに独占的に青バスが営業をしている状況において、市バスはその路線の拡大に苦戦していました。特に、採算が取りやすいと考えられる路線において許可が下りず、採算が取りにくいと考えられる路線しか走らすことができないというジレンマに陥っていました。

 

井高野営業所内にあるバス停「井高野車庫前」(2017年1月)

 

大阪市がこうした状況に対して陳情を繰り返した結果、1929年(昭和4年)にとうとう大阪府は市バスの市内優先を認可しました。先行していた青バスに対して、「銀バス」として親しまれるようになる大阪市バスが生まれた瞬間でした。

 

「銀バス」と「青バス」

市バス(銀バス)と青バスは激しい競争を繰り返し、そのサービスの向上や運賃の引き下げなどについて乗客は得るところが大きかったといえます。

 

なんばバスターミナル(2017年7月)

 

一方で、行政においては都市交通の発展という観点から考えると問題が生じていたため、市バスと青バスの統合へと舵を切らなければならないと考えられていました。しかし、青バスも日本でも有数のバス会社へと成長し、市バスが買収するといえども難しい問題となっていました。こうした中、行政の力添えを背景として、1939年(昭和14年)までに大阪市が大阪乗合自動車(青バス)の全株式を取得するに至り、銀バスと青バスの統合が実現しています。

 

大阪市営交通創業75周年記念切符
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トロリーバスの登場

戦争がはじまり、一元化を果たした大阪市バスも戦時下の輸送体制へと変化します。男性が戦争へと駆り出される中、女性は市バスや市電を利用して軍需工場へと出勤するようになります。市バスの乗務員として女性車掌が登場した他、市バスも燃料不足のため薪や木炭などの代用燃料を用いた車両を運行するようになります。

 

大阪市営交通創業70周年記念切符
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終戦後、大阪市バスでは可動車が不足し、米軍よりトラック200両を払い受け、これを改造して運行を支えたりしました。また、トロリーバスの検討も重ねています。トロリーバスとは無軌条電車線のことであり「レールのない電車」ともいえます。つまり、道路上空に設置された架線から電気を集電することにより走行するバスです。燃料不足と財政難の中で、コストがかからず大量輸送ができ、騒音が少ないなどの利点もあり、新しい交通機関として導入されることとなりました。

 

大阪市営交通創業75周年記念切符
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トロリーバスの導入については戦後の早い段階から検討を開始していたにもかかわらず、さまざまな検討課題があり、その導入に至るまで長い時間がかかることになってしまいました。トロリーバスの工事に着手し、その最初の路線が開業されるのは1953年(昭和28年)のことです。大阪駅前~神崎橋間において初めての路線が開通し、市電、市バス、地下鉄に次いで第4番目の交通機関として登場しています。

 

大阪市営交通創業70周年記念切符
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さらに、トロリーバスはその乗車の快適さも支持され、廃止された大阪市電の代替輸送機関としても活躍しました。しかし、市電と同じく交通混雑に悩まされた他、地下鉄工事に伴う運行休止なども重なり、乗客を減らすことになりました。

 

赤川1丁目(北)バス停(2018年2月)

 

その後、トロリーバス路線は順次廃止され、1970年(昭和45年)に最後の路線となった守口車庫前~杭全町間が廃止され、トロリーバスの歴史は終了しました。現在ではトロリーバスはほとんど見ることができなくなりました。トロリーバスは環境にやさしい乗り物ですが、架線工事に手間がかかることから、徐々に通常のバスへと取って代わられるようになりました。

 

大東町バス停近くに保存される古い車両(2018年2月)


市バスが走る大阪の風景

バス路線は大阪市の他、守口市、門真市、東大阪市、摂津市、堺市、松原市などにも張り巡らされています。

 

北江口(東)バス停(2017年1月)

 

地下鉄路線が拡大されていく一方で、バス路線は再編などにより縮小傾向にあります。また、多数あった営業所も廃止されている上、他社に委託されている営業所もあります。

 

大阪市交通局井高野営業所(2017年1月)

 

井高野営業所は現存する営業所の一つですが、南海バスにその管理が委託されています。

 

大阪市交通局井高野営業所の車両(2017年1月)

 

西日本随一となる大阪駅の北側には長距離バスが発着する高速バスターミナルもありますが、南側および東側には市バス(現在の大阪シティバス)のバスターミナルがあります。停留所名は「大阪駅前」としています。

 

大阪駅前バスターミナルに停車する車両(2016年10月)

 

のりばは1番~12番まであり、北へは榎木橋、加島駅前、井高野車庫前方面行き、南へは住吉車庫前、なんば、鶴町四丁目方面行き、東へは地下鉄門真南、守口車庫前、花博記念公園北口方面行き、西へは船津橋、天保山、福町、野田阪神前、北港ヨットハーバー方面行きなど大阪市内のさまざまな地区へバスは発車します。

 

41号系統「榎木橋行き」(2017年1月)

 

大阪市営交通110周年記念復刻ラッピングバスは2014年(平成26年)から運行を開始しているバスで、緑の車体に白い縞が6本と赤い縞が1本入っています。このバスは1959年(昭和34年)に採用されたデザインで、懐かしの車体です。車体の模様から「ゼブラバス」とよばれ、親しまれてきました。

 

43号系統「酉島車庫前行き」(2017年1月)


大阪市営地下鉄からOsaka Metro(オオサカ メトロ)へ

地下鉄とはその名の通り、地下空間を走る鉄道ということになりますが、東京メトロなどは地下鉄であると同時に都市高速鉄道に分類されます。ここでいう「高速」とは新幹線のような高速鉄道をイメージしているわけではありません。

 

新幹線N700A(2019年6月)

 

先に述べたように、大阪では大阪市電による交通網が発達していましたが、しだいに車社会が発達して、都心部では過度な交通集中による深刻な道路事情を招くようになりました。こうした中、低速な路面電車に取って代わる交通機関として都市高速鉄道が定義されるようになったものです。

 

大阪市営交通創業60周年記念切符

 

大阪市営地下鉄は1933年(昭和8年)に日本初の公営地下鉄として誕生しましたが、2017年(平成29年)に大阪市議会において大阪市営地下鉄および市バスの民営化議案が賛成多数で可決されました。その準備として「大阪市高速電気軌道」という新会社が発足し、2018年(平成30年)には公営地下鉄として日本初の民営化を実現しています。

 

地下鉄全線路線図(2019年1月)

 

「大阪市高速電気軌道」という新会社は従業員5,000人の規模となり、輸送人員においてもJR西日本を除く関西のすべての鉄道会社を凌ぎ、また営業収益においては近畿日本鉄道とほぼ同規模となると予想されます。大阪市高速電気軌道の愛称は「Osaka Metro(オオサカ メトロ)」とされ、車両などに記されているシンボルマークであるいわゆる「マルコマーク」は廃止されます。

 

ラッピング列車に見える「マルコマーク」(2016年8月)
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マルコマーク」は1933年(昭和8年)に大阪市営地下鉄建設当初に作られたシンボルマークであり、「〇」は大阪市の頭文字を表し、「コ」は高速鉄道を表すといいます。これは建築家の武田五一(たけだごいち)のデザインによるものです。武田五一は京都大学建築学科の初代教授であり「関西近代建築の父」とよばれ、京都大学時計台、京都市役所本館、旧京都電燈本社(現在の関西電力京都支店)などの設計を担当しています。このうち、京都大学時計台は1925年(大正14年)に完成した京都大学を代表する建築物であり、その外観は格調高い風格を備えた歴史的にも貴重な存在です。

 

京都大学時計台(2018年3月)

 

その武田五一による「マルコマーク」は順次「Osaka Metro」のマークへと変更されていきます。

 

「Osaka Metro」マーク(2018年4月)

 

大阪市交通局では民営化に先立ち、2012年(平成24年)より地下鉄駅構内のトイレのリニューアル工事を進めてきました。これまで大阪地下鉄のトイレは「汚い、臭い、暗い」などと多くの苦情が寄せられていました。これを払拭するため「明るい、清潔、快適、魅力的」なトイレの設置を目指しているといいます。

 

地下鉄駅のトイレ入り口(2019年2月)

 

トイレの入り口には「ようおこし」と書かれた斬新なピクトグラムが掲示され、遠くから見てもどこにトイレがあるのか一目瞭然でわかります。「ようおこし」とは、大阪周辺において「よくいらっしゃいました。歓迎します。」という意味で用いられる言葉です。

 

リニューアルされたトイレの入り口(2019年2月)

 

2015年(平成27年)には、新大阪駅構内のトイレが内閣官房すべての女性が輝く社会づくり推進室が主催する「日本トイレ大賞」において国土交通大臣賞を受賞しています。鉄道事業者による受賞はこれが唯一の受賞となります。

 

車体に新たに付された「Osaka Metro」マーク(2018年4月)


大阪市バスから大阪シティバスへ

大阪市バスは2018年(平成30年)、1927年(昭和2年)からはじまったその歴史に幕を閉じ、大阪市高速電気軌道が100%出資する大阪シティバスにその業務を引き継ぐことになりました。

 

大阪シティバスバス停(2018年4月)

 

大阪シティバスは1988年(昭和63年)に設立された大阪運輸振興がその前身であり、大阪市営バスの一部の運行を委託されていました。2014年(平成26年)にその社名を「大阪シティバス」と改めています。2018年(平成30年)の市バス民営化にともない、大阪市交通局のバス事業を引き継いでいます。