大阪鉄道・関西鉄道の歴史

投稿者: | 2019-02-17

1.関西鉄道の設立とその歴史 Θ大阪鉄道(初代)Θ 2.関西鉄道のターミナル「片町駅」 3.大阪鉄道の合併と網島駅廃止

 

京都鉄道博物館に保存される関西鉄道社章(2019年1月)


関西鉄道の設立とその歴史

関西(かんせい)鉄道は1888年(明治21年)に設立された鉄道会社であり、その本社は三重県四日市市に置かれました。旧東海道沿いの滋賀県および三重県の各都市を官鉄(当時の東海道線)と結ぶために設立された鉄道会社です。当時は、現在における関西本線、草津線、片町線、紀勢本線、桜井線、和歌山線、奈良線の他、大阪環状線の一部を運営していました。

 

京都鉄道博物館に展示される関西鉄道の説明(2019年1月)

 

次の写真は京都鉄道博物館に保存される関西鉄道の社章ですが、黒髪山トンネル(奈良市)の出入口に取り付けられていたものです。

 

京都鉄道博物館に保存される関西鉄道社章(2019年1月)

 

関西鉄道は1890年(明治23年)に現在の草津線(草津~柘植間)を開通させ、1895年(明治28年)にはこれを名古屋まで延伸して草津~名古屋間を全通します。さらに、大阪進出を企図する関西鉄道明治時代にすでに栄えていた大阪ミナミを目指しますが、湊町(現在のJR難波)には大阪鉄道が鎮座しており、別の作戦を講じることになります。

 

大阪鉄道(初代)

大阪環状線のうち、天王寺~玉造~京橋~梅田(現在の大阪)間は1895年(明治28年)に大阪鉄道(初代)が完成させています。大阪鉄道(初代)は1888年(明治21年)~1900年(明治33年)に存在した鉄道会社であり、関西本線(JR難波~奈良間)、和歌山線(王寺~高田間)、桜井線(高田~桜井間)を運営していました。

 

淀川橋梁を走る列車(2016年10月)

 

大阪鉄道(初代)大阪奈良を結ぶ鉄道として許可された路線でしたが、官鉄と接続することが敷設の条件となっていました。1892年(明治25年)に湊町(現在のJR難波)~天王寺奈良間を開業していましたが、これより官鉄に接続するためには湊町(現在のJR難波)より北上して梅田(現在の大阪)に至らなければならず、すでに住宅が密集した地域の用地買収を達成することは難しくなっていました。

 

大阪環状線の淀川橋梁(2019年2月)

 

そこで、梅田(現在の大阪へ至るためのルートを変更し、天王寺から農村地帯を北上し、大阪城の東側を通って梅田(現在の大阪)まで結ぶ計画としました。これにより1895年(明治28年)5月には天王寺~玉造間、10月には玉造~梅田(現在の大阪)間を開業して現在の大阪環状線の東側部分を完成し、当初これは「梅田線」とよばれました。梅田線は単線非電化であり、開業時に設置された途中駅は桃山(現在の桃谷)駅、玉造駅、京橋駅、天満駅の4駅のみでした。

 

天満駅(2017年1月)

 

大阪鉄道(初代)はその後、1900年(明治33年)に関西鉄道に合併されてしまい、1907年(明治40年)には国有化されています。

 

その標的となったのが浪速鉄道でした。浪速鉄道はかつて大阪にあった鉄道会社であり、1895年(明治28年)に片町(現在は廃止)~四条畷間を開業しています。浪速鉄道片町(現在は廃止)~四条畷間を開業した翌1896年(明治29年)、関西鉄道はこの浪速鉄道に買収を持ちかけ、1897年(明治30年)には買収を実現しています。さらに、四条畷~木津間の免許を保有していた城河鉄道を買収して大阪進出への足掛かりとしました。これにより、現在の片町線(愛称「学研都市線」)経由での大阪~名古屋間の鉄道敷設を達成し、1898年(明治31年)には、大阪ターミナルとしての片町駅を手中にしました。


関西鉄道のターミナル「片町駅」

当時関西鉄道のターミナルとなった片町駅は、1997年(平成9年)のJR東西線開業と同時に廃止となっており、正式名称「片町線」の由来となった「片町駅」は現在ではその形および名前ともに存在しません。片町駅と同じ場所ではありませんが、かつて片町駅があった近くにJR東西線の大阪城北詰駅が設置されています。大阪城北詰駅は地下に設置されていますが、下の写真はその地上付近からかつて片町駅があった辺りを撮影したものです。ちょうど、写真の中の黄色い看板がある辺りに片町駅がありました。

 

大阪城北詰駅地上から旧片町駅付近を見る(2019年6月)

 

大阪城北詰駅近くにある大阪シティバスのバス停には「片町」の名が現在でも残っています。

 

大阪シティバスのバス停「片町(西)」(2019年6月)

 

さて、関西鉄道にとって、かつて片町駅のあった場所は鯰江川(現在は埋め立て)と寝屋川にはさまれた狭小な土地であったため駅前も狭く、旅客ターミナル駅として機能するには難しい側面がありました。

 

かつて鯰江川だった道路(2019年2月)

 

下の写真で見ると、左手にイオン京橋店(現在は閉店)の駐車場が見えますが、その前の道路が鯰江川だった場所となります。左手に全面ガラス張りの背の高いビルが見えますが、そのすぐ右横に寝屋川が流れています。片町駅はイオン京橋店(現在は閉店)の駐車場のずっと奥の方、ガラス張りのビルの右横辺りにありました。

 

少し下がって同じ道路を撮影(2019年2月)

 

次の写真は同じ道路を180度振り返って撮影したものですが、右手がイオン京橋店(現在は閉店)の店舗となり、その奥が片町線(愛称「学研都市線」)の京橋駅となります。京橋駅から片町線はJR東西線となり、次の写真でいうと手前の方へ走っていくことになります。現在では、JR東西線は京橋駅を出発すると地下へともぐります。

 

鯰江川(2019年2月)

 

関西鉄道は片町駅のある場所が狭隘なためさらに拡大する余地がないとし、片町~四条畷間にある放出駅より線路を分岐して大阪鉄道の桜ノ宮駅へ至る路線(後の桜ノ宮線)を敷設する計画を立案します。

 

放出駅駅名標(2019年2月)

 

そして、1898年(明治31年)の大阪鉄道の桜ノ宮駅開業後、関西鉄道は放出駅より分岐した新線を建設し、桜ノ宮駅に至る途中の網島駅(現在は廃止)まで結んでいます。

 

網島駅があったとされる場所(2016年10月)
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これにより片町駅は貨物駅へと変更され、関西鉄道網島~放出~四条畷~加茂~名古屋の路線を重要路線と位置づけ、東海道本線に対抗して優等列車を走らせるようになりました。関西鉄道の路線は官鉄(東海道本線)と競合する路線であったため政府から税制優遇などの支援は得られず、独自のサービスによりこれと戦わなければなりませんでした。大阪~名古屋間において「早風(はやかぜ)」とよばれた急行列車を設定し、その列車速度においては官鉄とほぼ互角で争ったといいます。

 

西大路~京都間を走行する東海道本線の車両(2019年1月)


大阪鉄道の合併と網島駅廃止

その後、関西鉄道は1900年(明治33年)に大阪鉄道を合併しますが、1901年(明治34年)に桜ノ宮~網島間が開業し、桜ノ宮駅において梅田線(後の城東線/現在の大阪環状線の一部)との接続ができるようになりました。しかしながら、大阪鉄道を合併してしまったことにより、大阪鉄道が所有していた「関西本線ルート」(湊町/現在のJR難波~天王寺奈良~加茂~名古屋間)での大阪~名古屋間の直通運転が可能となり、必然的に桜ノ宮~網島~放出間の路線の地位は低下してしまうことになりました。この後、この路線は専ら四条畷方面へのローカル輸送に充てられることになりますが、網島駅についてもターミナル駅としての地位は低下することになります。

 

放出駅駅名標(2019年2月)

 

関西鉄道では官鉄との競争において、運賃値引をはじめとして、弁当サービス、客車内の電燈灯火サービスなどを実施します。官鉄でもこれに対抗するため乗客へのサービスを積極的に実施したため、激しい競争が繰り返されたといいます。そうした中、世は1904年(明治37年)、日露戦争へと突入して軍需輸送に重点が置かれるようになったため、サービス合戦には終止符が打たれました。その後、関西鉄道は1907年(明治40年)に国有化されています。

1912年(明治45年)、城東線(現在の大阪環状線の一部)の京橋駅への連絡用として片町駅に京橋口乗降場が新設されていましたが、1913年(大正2年)にこれを駅へと格上げして片町線京橋駅を開業しました。これにより、城東線(現在の大阪環状線の一部)の連絡は京橋駅が担うことになり、桜ノ宮駅での城東線(現在の大阪環状線の一部)への連絡はその役割を終えることになりました。また同年、網島駅の廃止とともに桜ノ宮線も廃止となり、わずか10年余りでその歴史を閉じることになりました。


淀川貨物線と淀川駅

関西鉄道が敷設した桜ノ宮線が廃止となった1913年(大正2年)、旧桜ノ宮線から放出駅へと合流する貨物線が開通しています。

 

現在はマンション群の中の空き地となる廃線跡(2018年4月)

 

そして、時が流れて1927年(昭和2年)に貨物駅として淀川駅が誕生します。これにより先の貨物線が撤去され、新たに淀川駅から放出駅および京橋駅へ至る貨物線が開通しました。

 

現在はマンション群の中の空き地となる廃線跡(2018年4月)

 

その後、城東貨物線が完成し、また貨物の取扱量も減少するなどして、淀川駅で扱っていた貨物は他の貨物駅で代替できるようになりました。そして、1982年(昭和57年)には淀川~放出間、淀川~吹田間は貨物線としては廃止となりました。