日本一の巨大ターミナル・東京駅の誕生ものがたり

投稿者: | 2018-09-22

東京駅駅名標(2017年8月)


日本初の鉄道開通と馬車鉄道の建設

1872年(明治5年)に新橋(後の国鉄汐留駅)~横浜(現在の桜木町駅)間に日本初の鉄道が開通しました。当時の始発駅は東京駅ではなく新橋駅であり、この新橋駅は日本の黎明期となるしばらくの間「東京の玄関口」となっていました。1882年(明治15年)には新橋から日本橋、上野を経て浅草へ至る東京馬車鉄道が開通しています。

馬車鉄道とはその名の通り、動力をもたない客車を馬が移動させる鉄道です。「馬車」ではなく「馬車鉄道」とよぶのは、車輪の付いた客車がレールの上を走るからです。客車がレールの上を走るため、馬車に比べると速く走ることができ、乗り心地も快適だったといいます。馬車鉄道19世紀初め頃、イギリスにおいて世界で初めて誕生しました。

さて、東京馬車鉄道1880年(明治13年)に許可を受けて設立され、1881年(明治14年)には谷元道之が社長に就任しました。谷元道之(1845年/弘化2年~1910年/明治43年)は元薩摩藩士であり、外務省に勤務後、1880年(明治13年)に​東京馬車鉄道​の発起人となり、翌年社長に就任しています。その際、副社長には銀行家の種田誠一が就任しています。谷元道之はその後、東京株式取引所頭取、衆議院議員、東京府議などを歴任しました。

東京馬車鉄道はニューヨークの馬車鉄道にならってその軌間を1,372ミリとし、2頭立ての馬車としました。当時の市民はこれを「鉄道馬車と呼称したといいます。​1882年(明治15年)には新橋~日本橋間(銀座通り)を結び、同年すぐに日本橋~上野~浅草~日本橋のP字型環状線も完成させています。全線が複線で構成されていましたが、浅草橋~本町(日本橋)間は道路幅が狭かったため、上下線が別の道路に分離され敷設されていました。

馬車鉄道が登場するまでの交通機関としては馬車の他にも人力車がありました。人力車は文字通り、人力により人を運搬するために製作された車のことです。​明治時代​の初め頃から​大正時代​・​昭和時代​にかけて移動手段として用いられていました。人力車は日本人による発明だとされており、最初にその営業許可を受けたのは泉要助とされています。

東京馬車鉄道は都市交通機関として営業的にも成功をおさめますが、人力車や馬車の営業活動にも少なからず支障が出ることになりました。また、当然ながら交通事故や脱線事故も起きた他、全国で電車が登場するようになると、糞尿の処理や給餌に手間を取られる馬車鉄道はやがて時代遅れの交通機関と見られるようになりました。

品川乗合馬車鉄道は1889年(明治22年)に新橋品川八ツ山間において無軌道式の乗合馬車の営業を開始しています。1897年(明治30年)には無軌道式の乗合馬車を軌道式へと改め、品川馬車鉄道と改称しました。その後、1899年(明治32年)に東京馬車鉄道により吸収されました。

東京馬車鉄道品川馬車鉄道を買収した当時、2社の軌間(東京馬車鉄道の軌間は1,372ミリ品川馬車鉄道の軌間は737ミリ)が異なっていたため、乗客は新橋での乗り継ぎを余儀なくされていました。しかし、1903年(明治36年)に品川馬車鉄道の路線(新橋~品川)が電化されるにあたって、これを1,372ミリへと改軌しています。このとき、東京馬車鉄道東京電車鉄道となり、後の東京都電へと継承され長く「市民の足」として活躍することになります。

馬車鉄道路線図


中央停車場の建築計画と東京駅の誕生

歴史に名を遺すわが国初めての民鉄はこの東京馬車鉄道ということになりますが、本格的な蒸気機関車による事実上の日本初の民鉄日本鉄道となります。1883年(明治16年)、日本初の民鉄である日本鉄道上野~熊谷間を開業しました。このとき、王子、浦和、上尾、鴻巣の各駅が設置されています。

この路線の開通により、新橋上野間を結ぶ必要性が取り上げられるようになり、東京市の中央に中央停車場を設けることについて調査がはじまります。それまでの間は、先の東京馬車鉄道が新橋上野間を連絡する鉄道ということになりました。日本鉄道は1890年(明治23年)に上野~秋葉原間に貨物線を開通させていますが、これを延伸して中央停車場を経由させて新橋へ至る路線が現実化していくことになります。

そしてこの年、皇居前の広大な敷地に中央停車場建設の命が下されました。後に東京駅が開業するこの地は当時、「三菱ヶ原」とよばれていました。明治維新後、江戸時代に武家屋敷などが置かれていた三菱ヶ原は武家屋敷が取り壊されて官有地となり、荒地となっていました。

当時の鉄道作業局の案によると、桃山様式の御殿造となる予定であったそうです。東京駅の設計を最初に依頼されたのはドイツ人の設計者であるフランツ・バルツァーでした。フランツ・バルツァーは1898年(明治31年)に来日し、日本政府鉄道部門の技術顧問に就任しています。日本の伝統文化を愛していたため、その屋根のデザインとして唐破風(からはふ)や千鳥破風(ちどりはふ)を取り入れて純日本風としますが、当時は西洋文化を重んじる時代でもあり、彼のデザインは採用されることはありませんでした。

そうした中、1903年(明治36年)に駅舎設計担当者として辰野金吾が指名されました。その設計の頑丈さは有名であり「辰野堅固」とも異名をとります。現在では重要文化財となっている日本銀行本店、日本銀行京都支店、岩手銀行本店本館、​大阪市中央公会堂​など数多くの作品があります。鉄道関係では東京駅の他、浜寺公園駅(大阪府堺市)、万世橋駅舎などの設計を担当しています。この辰野金吾の設計により建坪3,000坪にも及ぶ駅舎の建築に取り掛かることになりました。

当時「中央停車場」とよばれた東京駅工事は1908年(明治41年)にはじまりました。延べ73万人にも及ぶ作業員、当時としては巨額の280万円という資金を投入し、6年半の歳月をかけて1914年(大正3年)12月18日に完成しました。盛大な開業式が開催され、当時の首相であった大隈重信もこれに参列しています。そして、この開業時より中央停車場東京駅と名付けられることになりました。

東京駅はルネサンス様式3階建の駅舎となりました。中央に三角屋根があり、南北には八角形のドームを擁し、全体は赤レンガと白い花崗岩を使用した首都にふさわしい印象的な駅舎でした。中央に皇室専用出入口を設置し、当初は南側ドームは一般用入口、北側ドームは一般用出口として使用していました。

東京駅で購入した東京駅が描かれた定期入れ(2019年9月)


東京駅へ乗り入れる電車

東京駅の完成に先立って1906年(明治39年)、後に中央本線の一部となる御茶ノ水~八王子間を運行していた甲武鉄道が、鉄道国有法により国有化されました。

この路線のうち、御茶ノ水~飯田町~中野間は1904年(明治37年)にすでに電化されていましたが、1912年(明治45年)には御茶ノ水から万世橋まで線路が延伸されて、万世橋~御茶ノ水~中野間で電車運転が開始されています。

1919年(大正8年)になると、万世橋から神田を経て東京駅へ至る高架線が完成し、東京駅に中央本線の電車が乗り入れることになりました。さらに1925年(大正14年)には、上野~東京間の高架線が完成し、東北本線の乗り入れと山手線の環状運転が実施されるようになります。

鉄道開業114周年記念切符


東京駅駅舎復元

1923年(大正12年)に関東大震災が発生しますが、駅舎はほとんど傷を受けることなく、辰野金吾の設計による東京駅はその堅牢さを実証しました。しかし、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)には、空襲により駅舎の3階部分のほとんどを失ってしまいます。戦後、修復工事が進められましたが、3階部分のない状態の2階建てとして、また南北ドームもない状態での修復となってしまい、その後、長い間そのまま使用されることとなりました。

その後、何度か駅舎をもとの状態にもどす復原計画が立てられてきましたが実現しませんでした。2003年(平成15年)に国の重要文化財の指定を受けて、ついに2007年(平成19年)に復原工事の起工式を迎え、丸の内駅舎の復原工事に着工します。そして、ついに2012年(平成24年)、復原工事の完成を迎えて創建時の姿となり、現在の東京駅となりました。

東京駅(2016年12月)


東京駅開業100周年記念suica

2014年(平成26年)に東京駅開業100周年を迎えています。JR東日本ではこれを記念して東京駅開業100周年記念suicaを発売しました。

東京駅開業100周年記念suica

東京駅開業100周年記念suica

東京駅開業100周年記念suica

当初は東京駅のみでの限定発売の予定でしたが、混乱をまねいたため、結果的に、希望者全員にインターネットでの販売となりました。


誕生当時の東京駅ホーム

現在の山手線品川方面行き)・京浜東北線(大船方面行き)の発着する5番線・6番線ホームは、東京駅第二降車場として東京駅開業と同時に設置されたものです。その屋根は鋳鉄製柱で支えられていましたが、戦災により屋根の大部分は失われてしまったといいます。しかし、鋳鉄製柱14本を含むホームの一部分は、2015年(平成27年)まで開業当時そのままで使用されていました。

開業当時のプラットホーム(5番線・6番線ホームの案内)

開業100周年を迎えて、そのほとんどは老朽化がはげしく、新たな屋根を建築することになりました。長い間、東京駅の屋根を支えてきた鋳鉄製柱はその功績をたたえられ、現在もホームに2本が保存されています。

ホームに保存される柱(2018年1月)

東京駅創建当時の市松模様床タイル(2018年1月)


国内最大ターミナルとしての東京駅

東京駅は現在においても国内最大のターミナルであり、JR線や地下鉄の各路線が数多く乗り入れています。

東京駅を発着する列車(2019年3月)

JR線は路線名称上の在来線では東海道本線東北本線、総武本線、京葉線の4路線が乗り入れており、運転系統上でいうと東海道線/宇都宮線・高崎線/常磐線/上野東京ライン、京浜東北線、山手線、中央線、横須賀線・総武快速線、京葉線が乗り入れています。地下鉄では丸ノ内線が東京駅に乗り入れています。

東京駅に到着する上野東京ラインの列車(2019年3月)

東京駅に停車する京浜東北線の列車(2019年3月)

深谷駅〔埼玉県〕

深谷駅と東京駅

高崎線深谷駅は1996年(平成8年)に橋上駅舎として改築されています。橋上駅舎とは線路やホームの上を跨いだ形で建設された駅舎のことをいいます。橋上駅舎は全国に数多く存在しますが、深谷駅はそうした橋上駅舎の中でもきわめて興味深い存在となっています。それは深谷駅の駅舎が東京駅とそっくりに建設されているからです。

渋沢栄一は1840年(天保11年)に現在の深谷駅のある深谷市で生まれました。24歳の時に一橋(徳川)慶喜に仕え、27歳の時にはその弟・徳川昭武に随行してフランスへ渡ります。明治維新となり帰国すると、29歳の時に日本初の合本組織(株式会社)を静岡に設立することになります。その後も富岡製糸場の設立、第一国立銀行の開業にも携わり近代日本経済の父」とよばれました。

江戸時代に外国と締結した不平等条約の改正を目指していた明治政府は、近代的建築による官庁街を建設することにより外国と対等な関係を築こうとしていました。当時、その担当であった井上馨官庁街建設のためには大量のレンガが必要であるとのことから、渋沢栄一に大量生産をするための方法を相談しました。

渋沢栄一は地元の深谷市にレンガを製造する工場を作ることを発案し、1888年(明治21年)に日本煉瓦製造が創業しました。ここで生産されたレンガは明治時代の代表的建造物に使用されます。当初、このレンガは水運を利用して消費地であった東京へと運搬されましたが、1895年(明治28年)になると日本煉瓦製造工場から深谷駅までの専用鉄道の敷設工事が開始されています。また、この工場で製造されたレンガは東京駅の赤レンガとしても使用されています。

そして現在、東京駅深谷の地のレンガが使用されたということから、深谷駅東京駅とそっくりの駅舎として生まれ変わったということになります。深谷駅はもともと、1883年(明治16年)日本鉄道の駅として開業しています。日本煉瓦製造の専用鉄道が敷設されたのが1895年(明治28年)ですが、この専用線は1975年(昭和50年)に廃止されています。1996年(平成8年)に橋上駅舎が改築され、1999年(平成11年)には関東の駅百選の一つとなっています。