京都市営地下鉄開業記念乗車券
京都市営地下鉄の開業
京都市の「京都観光総合調査」によると、1年間に京都市を訪れる観光客は5,500万人を超えるといいます。長らくこの観光都市の「足」となっていたのはバスでしたが、1981年(昭和56年)に地下鉄が開業し、観光客輸送の一役を担うことになります。
京都市交通局横大路車庫(2017年10月)
1日における輸送客数をみると、2017年度(平成29年度)においては地下鉄が38万7千人、市バスが36万8千人となっており、地下鉄が市バスを上回っています。
京都市交通局横大路車庫(2017年10月)
地下鉄烏丸線
京都市営地下鉄は京都市交通局が運営する地下鉄であり、現在では烏丸線と東西線の2路線を運行しています。京都市営地下鉄のうち、まず1981年(昭和56年)に烏丸線の北大路~京都間が開業しました。
京都市営地下鉄開業記念乗車券
北大路駅
北大路駅は1981年(昭和56年)の烏丸線開業と同時に起点駅として設置されました。1990年(平成2年)に北山駅まで烏丸線が延伸された際に北大路駅は途中駅となりました。
北大路橋から南側を見た風景(2016年9月)
北大路駅には北大路バスターミナルが併設されています。北大路バスターミナルには多くのバス路線が乗り入れ、金閣寺や銀閣寺、清水寺、三十三間堂、上賀茂神社、下鴨神社、詩仙堂、大徳寺などの有名寺社、京都駅および三条京阪や四条河原町などのターミナルへも移動することができます。
北大路橋(2016年9月)
この北大路駅から北大路通を西へ行くと、鴨川を渡る北大路橋に到着します。北大路橋の上からは鴨川の流れとともに、北山や比叡山などの雄姿を望むことができます。
北大路橋から北側を見た風景(2016年9月)
北大路橋を渡り北大路橋東詰から北へ上ると、京都府立植物園、京都コンサートホールがあります。
京都コンサートホール(2016年9月)
その後、1988年(昭和63年)に京都~竹田間を延伸開業し、新田辺駅まで近鉄京都線との相互直通運転を開始しています。
北大路・新田辺間直通運転記念乗車券
1990年(平成2年)になると北大路~北山間、1997年(平成9年)には北山~国際会館間が開業し、烏丸線はさらに北へ延伸されました。
五条駅に到着する近鉄電車の車両(2018年4月)
国際会館駅
国際会館駅は1997年(平成9年)、北山~国際会館間が延伸された際に開業しました。
国際会館駅駅名標(2019年9月)
それ以来烏丸線の起点駅となっており、近畿の駅百選にも選定されています。
国際会館駅(2019年9月)
小野小町と東西線小野駅
小野小町(おののこまち)は平安時代前期に活躍したとされる女流作家です。六歌仙の一人であり、僧正遍昭(そうじょうへんじょう)、在原業平(ありわらのなりひら)、文屋康秀(ふんやのやすひで)、喜撰法師(きせんほうし)、大伴黒主(おおとものくろぬし)と並んで『古今和歌集』の代表的歌人です。
花の色は 移りにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに
は、小倉百人一首に収録された小野小町の作品の一つです。「いつの間にか花の色もすっかり色褪せてしまいました。そして、私の美しさも花と同じようにこんなにも色褪せてしまいました。降る長雨を眺めているうちに…」という恋心をうたっています。小野小町は歴史上の人物の中でも最も有名な人物の一人ですが、その詳細は明らかにはなっていません。その生誕地でさえも、秋田、福島、熊本など全国各地にその伝承があるといいます。
随心院の小野小町歌碑(2019年9月)
烏丸線の北山~国際会館間が開業した1997年(平成9年)、東西線の醍醐~二条駅間も開通しています。これにより、烏丸線と東西線は烏丸御池駅で乗り換えることができるようになりました。烏丸御池駅は開業当初は御池駅という駅名でしたが、1997年(平成9年)に烏丸御池駅と改称しています。
地下鉄東西線小野駅ホーム(2018年4月)
二条城前駅
その烏丸御池駅のすぐ隣は二条城前駅です。
二条城前駅ホームにある東西線路線図(2016年9月)
駅名の通り二条城前駅で下車すると二条城はすぐ目の前です。
二条城(2016年9月)
地下鉄の通路を出て、階段を上がるとすぐに二条城の敷地が見えてきます。
二条城(2016年9月)
二条城のすぐ南にある神泉苑(しんせんえん)は東寺真言宗の寺院です。神泉苑の庭は平安最古の庭園といわれています。
二条城南側の神泉苑(2016年9月)
二条城西側の平安宮式部省跡表示板(2016年9月)
この年に小野駅も開業していますが、「小野」という地名は小野小町に由来するといいます。
小野駅ホーム(2018年4月)
小野駅から徒歩5分ほどの場所には随心院(ずいしんいん)という小野小町の伝説が残る寺があります。随心院は真言宗善通寺派の大本山であり、992年(正暦2年)に弘法大師の8代目の弟子となる仁海僧正(にんかいそうじょう)が創建しました。
随心院総門(2019年9月)
当時は牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひざんまんだらじ)とよばれましたが、その名は仁海僧正が亡き母が牛に生まれ変わった夢を見て、その牛を誠心誠意世話をしたものの死んでしまい、その牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描いて本尊としたことに由来します。
随心院総門(2019年9月)
その後、第5世増俊(ぞうしゅん)が牛皮山曼荼羅寺の塔頭(たっちゅう)として随心院を建立しました。
史跡随心院境内の碑(2019年9月)
第7世親厳のときには後堀河天皇より門跡(もんぜき)の宣旨を受けて門跡寺院となりました。
境内へと続く道(2019年9月)
門跡寺院とは一般の寺院とは異なり、皇族や貴族がその住職を務める格式高い寺院のことです。
境内へと続く道(2019年9月)
平安時代中期に編纂された辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』によると、この辺りの地は「宇治郡小野郷」にあたります。
庭園・殿舎拝観入口(2019年9月)
「小野」は小野一族が栄えた地であり、醍醐天皇陵東には小野寺とよばれる小野一族の氏寺の遺跡が発掘されています。
薬医門(2019年9月)
『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』によると、小野小町は小野篁(おののたかむら)の孫にあたり、出羽の国司を勤めた良実の娘とされています。
薬医門(2019年9月)
また、当時の書家であった小野道風(おののとうふう)はいとこにあたるといいます。
長屋門(2019年9月)
随心院は小野小町の邸宅跡と伝えられています。
庫裡長屋門(2019年9月)
境内には、美しい小野小町に寄せられた多くの恋文を埋めたとされる文塚や、化粧の井戸などが残されています。
境内の化粧の井戸の案内(2019年9月)
化粧の井戸はこの邸宅跡に残る井戸ですが、江戸時代後期に刊行された京都地誌『都名所図絵(みやこめいしょずえ)』によると「小野随心院、勧修寺の東なり、曼荼羅寺と号す、又、小町水、門内南の藪の中にあり、此の所は出羽郡領小野良実の宅地にて、女小野小町つねに此の水を愛して艶顔を粧ひし」とあります。
化粧の井戸(2019年9月)
小野小町は仁明天皇が崩御すると、30歳を過ぎて宮仕えを辞し、朝夕にこの水で化粧をこらしたといいます。
化粧の井戸(2019年9月)
また、随心院は今では梅が美しい寺としても有名です。その梅が美しい3月末には、当時の小野小町を慕う深草少将の悲恋伝説をテーマとした「はねず踊り」が披露されます。
化粧の井戸(2019年9月)
「はねず」とは薄紅色のことであり、梅の花の色にちなみます。
化粧の井戸(2019年9月)
謡曲「通小町」の前段には、深草少将が小野小町のもとに百夜通ったという伝説が残ります。当時、小野小町は先の化粧の井戸の近くに住んでいました。小野小町に募る思いを伝えたく訪ねてきた深草少将に対して、小野小町は冷たかったといいます。
随心院の前の通りにある化粧橋の案内(2019年9月)
深草少将は「あなたの心が解けるまで幾夜でも参ります。今日は第一夜です」とし、その証に門前に榧(かや)の実を出しました。その後、随心院に通いつめて九十九日目の雪の夜、疲れ果てて門前に辿り着いた深草少将は、99個目の榧の実を手にしたまま倒れこんでしまったということです。
化粧橋(2019年9月)
ホームドア
現在においてはバリアフリーやホームドアは必須ですが、京都市営地下鉄は開業当時から主要駅にエレベーターを設置したり、フルスクリーンタイプのホームドアを設置したりと先進的な地下鉄であったといえます。
フルスクリーンタイプホームドア(2016年9月)
京都市営地下鉄フルスクリーンタイプホームドア(2016年9月)
1.竹田駅 2.四神と城南宮 3.院政と鳥羽離宮(城南離宮) 4.城南宮へのアクセス 5.城南宮と曲水の宴 6.鳥羽伏見の戦い
城南宮/室町の庭(2019年4月)
竹田駅
竹田駅は京都線および京都市営地下鉄の駅です。竹田駅はもともと、1928年(昭和3年)に奈良電気鉄道(奈良電)が京都~桃山御陵前間を開通した際に城南宮前(じょうなんぐうまえ)駅として設置されました。
竹田駅(2017年12月)
その後、1940年(昭和15年)に竹田駅と改称されています。旧駅名が城南宮前駅であることからわかるように、竹田駅は城南宮の最寄り駅となります。
竹田駅(2017年12月)
城南宮は竹田駅より徒歩15分ほどの場所にあり、現在では「方除(ほうよけ)の大社」として全国的に知られています。
城南宮(2019年4月)
方除は引っ越しや工事、家相などの心配を取り除くことですが、古くから住まいを清めるための御砂や方角の災いを方除御札を城南宮で授かるという習慣もあります。また、現在では家庭円満や厄除、安全祈願および車の御祓いのため全国から多くの人々が訪れます。
城南宮(2019年4月)
四神と城南宮
城南宮の歴史は平安京に都を遷した794年(延暦13年)にまで遡りますが、このとき平安京の守護神として創建したと伝えられます。城南宮は国常立尊(くにのとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)、息長帯日売尊(おきながたらしひめのみこと)を合祀した平安京(平安城)の南に位置する宮です。
城南宮(2019年4月)
四神(しじん)は東西南北四方位の守護神のことですが、京においては東の青龍(蒼龍)、西の白虎、南の朱雀、北の玄武を示します。京の四方(東:八坂神社、西:松尾大社、南:城南宮、北:上賀茂神社)と中央(平安神宮)に位置する五社が守護する平安京は四神相応の都として造営されました。
城南宮東側の鳥居(2019年4月)
院政と鳥羽離宮(城南離宮)
院政とは天皇が譲位し上皇(太上天皇)となった後も、天皇に代わって政治を行うことであり、平安時代末期から鎌倉時代初期までに見られた政治形態です。1086年(応徳3年)に白河天皇は堀河天皇に譲位して上皇となった後も政務を担当し、これが院政のはじまりといわれています。
城南宮/平安の庭(2019年4月)
白河上皇は堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇の時代、鳥羽上皇は崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の時代、後白河上皇は二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇の時代、後鳥羽上皇は土御門天皇、順徳天皇、仲恭天皇の時代にそれぞれ院政を行いました。院政は後鳥羽上皇が承久の乱によりその実権を失うまで続きました。
城南宮にて再現される曲水の宴(2019年4月)
鳥羽離宮(城南離宮)は院政が行われた広大な離宮であり、その広さは東西1.5キロメートル、南北1キロメートルにもおよびます。平安京の朱雀大路からまっすぐ南に下った場所にあり、その造営は院政のはじまりとされる1086年(応徳3年)に開始されました。白河上皇の時代に続き、鳥羽上皇の時代にも造営は続きました。
城南宮/城南離宮の庭(2019年4月)
北殿、南殿、泉殿、馬場殿が大きな池の近くに造られましたが、それぞれの殿舎の往来には船が使われました。鳥羽上皇の時代になると、東殿、田中殿が造営されました。
現地に掲示される鳥羽離宮の様子(2019年4月)
城南宮へのアクセス
近畿日本鉄道・地下鉄烏丸線の竹田駅西口をしばらく南下すると右手には森があります。
森(2019年4月)
この辺りは鳥羽離宮の東殿のあった場所であり、三重塔3基、多宝塔1基が築かれるなどして他の殿とは異なる様相を呈していたといいます。こうした塔は白河天皇(成菩提院陵)、鳥羽天皇(安楽寿院陵)、近衛天皇(安楽寿院南陵/再建多宝塔が現存)の御陵となっています。
近衛天皇安楽寿院南陵(2019年4月)
森の中にある安楽寿院は真言宗智山派の寺院であり、鳥羽離宮の東に鳥羽上皇が造営した仏堂をその起源とします。その境内の近くには鳥羽天皇と近衛天皇の御陵があります。
安楽寿院(2019年4月)
このように東殿周辺は死後の世界に関わる領域となっています。
史跡安楽寿院境内(2019年4月)
この辺りの森を右手に見ながら、さらに南下すると大きな通り新城南宮道があります。これを西へ入るか、さらに南側には城南宮道がありますのでこれを西へ入ることもできます。新城南宮道または城南宮道を西へ進むと、高速道路(阪神高速8号京都線)の走る大きな通り(油小路通)があり、これを越えます。新城南宮道と油小路通の交差点の北東には北向山(きたむかいざん)不動院があります。
北向山不動院前より新城南宮道の東を見る(2019年4月)
北向山不動院は天台宗の寺院であり、1130年(大治5年)に鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮内に創建されたものです。開祖となった興教(こうきょう)大師が不動明王を王城鎮護のために北向きに安置したことにより、鳥羽上皇より「北向山不動院」の名を賜ったとされます。
北向山不動院(2019年4月)
現在本堂となるのは1712年(正徳2年)に東山天皇の旧殿を移設したものです。
北向山不動院(2019年4月)
城南宮道と油小路通の交差点の北西角には城南離宮道標を見つけることができます。
城南離宮道標(2019年4月)
さらに西へ歩いて行くと城南宮の東側の鳥居に到着します。この鳥居は1861年(文久元年)に兵庫津の北風家により寄進されたものです。兵庫津は現在の神戸港の前身であり、北風家はその兵庫の廻船問屋でした。城南宮の氏子であった長谷川家より貞忠がその養子となって北風家を継いでいます。
城南宮東側の鳥居(2019年4月)
城南宮と曲水の宴
城南宮東側鳥居の扁額の文字は有栖川宮幟仁(ありすがわのみやたかひと)親王によるものです。歌道と書道をその家学とする有栖川宮家において、有栖川宮幟仁親王は書道有栖川流を大成して確立しています。
鳥居の扁額(2019年4月)
鳥羽離宮(城南離宮)で院政が行われるようになると、城南宮はより一層崇められるようになり、平安時代後期には古来の弓馬術である流鏑馬(やぶさめ)や馬を走らせて勝負する競馬(くらべうま)などの行事が行われて賑わうようになりました。
城南宮(2019年4月)
城南宮の庭園「楽水苑」には花の庭、平安の庭、室町の庭、桃山の庭、城南離宮の庭というように趣向が凝らされた庭があり、ここでは毎年春と秋に「曲水の宴」とよばれる優雅な行事が行われます。
曲水の宴(2019年4月)
曲水の宴は、奈良時代から平安時代にかけて宮中で催された歌会を再現した行事です。平安の庭を模した緑の中をゆるやかな一筋の遣水(やりみず)が流れていて、そのほとりで雅やかな曲水の宴は催されます。
曲水の宴(2019年4月)
境内には小さな社がいくつかありますが、これらは摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)などとよばれます。いずれも本社に附属する神社ですが、特に本社と関係が深い神社は摂社とよばれるそうです。三照宮社(さんしょうぐうしゃ)、芹川天満宮(唐渡天満宮)、真幡寸神社(まはたきじんじゃ)、飛鳥田神社などがあります。
三照宮社(2019年4月)
芹川天満宮(唐渡天満宮)には菅原道真が祀られますが、1111年(天永2年)に城南宮の南となる芹川の地に勧請されたと伝えられます。大正時代の初めに現在地に遷されています。
芹川天満宮(2019年4月)
鳥羽伏見の戦い
王政復古の大号令により江戸幕府が廃された後、最後の将軍・徳川慶喜は二条城から大坂へと移り住みました。
城南宮西側の鳥居(2019年4月)
そして、徳川家の領地返納を決定した薩摩藩・長州藩などに対して不満を抱えた幕臣(会津藩・桑名藩など)は1868年(明治元年)正月一日に挙兵し、大坂から京へ攻め入りました。新政府軍(薩摩藩・長州藩など)は城南宮に布陣してこれを迎え撃ち、鳥羽伏見の戦いが勃発しました。
鳥羽伏見の戦い跡の碑(2019年4月)
この一戦がきっかけとなり、これから2年に渡る戊辰戦争がはじまりました。