中央本線・中央線快速・青梅線・五日市線・南武線[JR東日本]

投稿者: | 2020-03-25

中央本線の呼称

中央本線は東京(路線としての起点は神田)~塩尻~名古屋を結ぶ路線です。

新宿駅に停車する中央線快速(2020年3月)

このうち、東京~塩尻間(神田—御茶ノ水—水道橋—飯田橋—市ケ谷—四ツ谷—信濃町—千駄ヶ谷—代々木/新宿—大久保—東中野—中野—高円寺—阿佐ヶ谷—荻窪—西荻窪—吉祥寺—三鷹—武蔵境—東小金井—武蔵小金井—国分寺—西国分寺—国立—立川—日野—豊田—八王子—西八王子—高尾—相模湖—藤野—上野原—四方津—梁川—鳥沢—猿橋—大月—初狩—笹子—甲斐大和—勝沼ぶどう郷—塩山—東山梨—山梨市—春日居町—石和温泉—酒折—甲府—竜王—塩崎—韮崎—新府—穴山—日野春—長坂—小淵沢—信濃境—富士見—すずらんの里—青柳—茅野—上諏訪—下諏訪—岡谷—みどり湖—塩尻)はJR東日本の管轄です。

新宿駅ホーム(2020年7月)

 また、塩尻~名古屋間(塩尻—洗馬—日出塩—贄川—木曽平沢—奈良井—藪原—宮ノ越—原野—木曽福島—上松—倉本—須原—大桑—野尻—十二兼—南木曽—田立—坂下—落合川—中津川—美乃坂本—恵那—武並—釜戸—瑞浪—土岐市—多治見—古虎渓—定光寺—高蔵寺—神領—春日井—勝川—新守山—大曽根—千種—鶴舞—金山—名古屋)はJR東海の管轄となっています。

甲武鉄道始点の地から線路跡を見る(2020年12月)

中央本線のうち、塩尻駅より東を「中央東線(ちゅうおうとうせん)」、塩尻駅より西を「中央西線(ちゅうおうさいせん)」と呼称することもあります。この名称は一時期、正式名称として使用されていたこともありますが、それは東西の両側から線路が延伸されてきたことに由来するものです。また、首都圏においては東京~高尾間を走るオレンジ色の列車を中央線快速、御茶ノ水~三鷹間を走る黄色の列車を中央・総武緩行線などと呼ぶこともあります。

八王子駅に到着する中央線快速(2021年2月)

当初の中央本線の構想では東京~名古屋間での直通運転を目指していましたが、現在では塩尻駅をまたいでJR東日本とJR東海の管轄を直通する列車はなく、当然ながら東京~名古屋間を走破する列車もありません。直通運転ができるように配線されていた塩尻駅ですが、今では東京から信州方面へ直通する中央東線、名古屋から信州方面へ直通する中央西線のような配線となり、行き交う列車はまるで別々の路線のように運行しています。


特急「あずさ」

中央東線および中央西線のうち、列車名のついた優等列車が先に走ったのは中央東線でした。新宿~長野間において1951年(昭和26年)に準急「アルプス」という列車が走ったのがその最初となります。現在の中央線快速は東京発着により運行されていますが、中央線を走る特急列車は一部の列車を除いて、東京駅が始終点となるのではなく、新宿駅がその始終点となっています。

新宿駅に停車する特急「あずさ」(2019年9月)

1955年(昭和30年)には「穂高」「白馬」が定期列車として運行されることになりました。1961年(昭和36年)になると、急行「アルプス」,急行「上高地」,急行「白馬」,準急「穂高」,準急「かいじ」,準急「白樺」などが運行され、急行列車・準急列車の黄金時代を迎えることになりました。1968年(昭和43年)、急行「穂高」,急行「アルプス」,急行「白馬」,急行「上高地」,急行「白樺」,急行「たてしな」,急行「赤石」は、列車名を「アルプス」「こまがね」に統合されました。

あずさ特急券(2019年10月)

 1966年(昭和41年)に中央東線(新宿~松本間)に特急「あずさ」が登場しました。これにより、中央東線の主役は急行「アルプス」から特急「あずさ」へと世代交代します。1986年(昭和61年)に急行「こまがね」を廃止し、急行「アルプス」は特急「あずさ」に置き換えられました。1988年(昭和63年)になると、東京・新宿~甲府間を結ぶ特急「かいじ」が登場しました。

立川駅に停車する特急「あずさ」(2020年3月)

2018年(平成30年)にはE353系が投入され、2019年(平成31年)以降はすべてE353系により運行されることになります。2019年(平成31年)には、2017年(平成29年)より運行をはじめた特急「スーパーあずさ」はすべて特急「あずさ」へと統合されました。


ホリデー快速ビューやまなし

「ホリデー(holiday)」とは休日を意味しますが、ホリデー快速は主に土曜日・休日に運行される臨時列車です。ホリデー快速は快速として運行されるので、自由席に乗車する場合には乗車券のみで乗車できる普通列車です。ホリデー快速にはホリデー快速ビューやまなしの他、ホリデー快速おくたま、ホリデー快速あきがわ、ホリデー快速鎌倉などが運行されています。

新宿駅に停車する「ホリデー快速ビューやまなし」(2020年3月)

ホリデー快速ビューやまなしは新宿~小淵沢間で運行される臨時快速列車であり、1993年(平成5年)に運行が開始されました。主に3月~11月の間の土曜日・休日に1往復のみ運転され、その運行には215系が使用されます。

「小淵沢行き」ホリデー快速ビューやまなし(2020年3月)


中央線快速

中央線快速はオレンジ色のラインが入った電車です。総武線の「黄色の電車」とこの「オレンジの電車」はいずれも中央線を走る電車でありながら、一部の駅では両色の電車を見ることができません。

中央線快速「東京行き」(2016年12月)

「オレンジの電車」は東京~高尾間においては、通勤電車として快速および中央特快を運行しています。東京~三鷹間は複々線となっており、この区間を快速として走る「オレンジの電車」は東京,神田,御茶ノ水,四ツ谷,新宿,中野と中野からの各駅に停車し、中央特快は東京,神田,御茶ノ水,四ツ谷,新宿,中野,三鷹,国分寺,立川と立川からの各駅に停車します。なお、快速の停車駅となっている中野以西の各駅のうち高円寺,阿佐ヶ谷,西荻窪については土曜および休日は停車しません。

中央線東京駅ホーム(2022年3月)


ホリデー快速おくたま号

「ホリデー快速おくたま号」は中央線・青梅線を経由して東京~奥多摩間を結ぶ特別快速列車です。同様の特別快速に「ホリデー快速あきがわ号」があり、これは中央線・五日市線を経由して東京~武蔵五日市間を結びます。

拝島駅の足元表示(2020年7月)

ただし、「ホリデー快速あきがわ号」は五日市線内(武蔵五日市~拝島間)は各駅停車であり、拝島駅で「ホリデー快速おくたま号」に併結して運転するため、拝島~東京間は特別快速「あきがわ」「おくたま」として運行されます。

青梅線の立川行き普通列車(2020年7月)


辰野支線

中央本線の総延長距離は辰野支線(塩尻~辰野~岡谷間)を含めて422.6キロにもなります。中央東線ではかつて、東京方面からやって来た列車は上諏訪駅,下諏訪駅と過ぎて岡谷駅を出発すると少し南下し、辰野駅へと向かいました。辰野駅からは北へ向かい、塩尻駅へと到着するルートになっていました。通称「大八(だいはち)廻り」とよばれるルート(辰野支線1983年(昭和58年)にみどり湖駅を経由する現在のルートに変更され、大幅な時間短縮となりました。

辰野支線路線図

大八廻り」の呼称は地元出身の政治家・伊藤大八に由来します。中央本線を敷設するにあたり、当時の鉄道局長となった伊藤大八は辰野経由のルートへの変更に成功したそうです。中央本線の首都圏および中京圏近郊では通勤客や通学客が多くなっていますが、その一方で観光客も多くなっています。たとえば、夏になると中央本線と篠ノ井線や大糸線、富士急行線を利用する登山客もかなり多くなります。かつてはこうした登山客のために夜行列車を運行していたこともあります。


甲武鉄道の歴史

1889年(明治22年)に甲武鉄道は新宿~立川間を開業させ、翌年には八王子駅まで延伸しています。1895年(明治28年)には、これを東へ延伸して新宿~飯田町(1999年廃止)間を完成させています。

飯田町駅跡地周辺地図(2020年12月)

さらに、飯田町(現在は廃止)~鍛冶町(現在の神田駅付近)間の延伸工事に着手しますが、すべてを完成することができずに、1904年(明治37年)に御茶ノ水駅までの区間のみの開業へと至りました。

御茶ノ水駅に到着する中央線快速(2020年8月)

この路線のうち、御茶ノ水~飯田町(現在は廃止)~中野間は1904年(明治37年)の時点ですでに電化されていましたが、これは路面電車以外では日本初となる電車運転ということになりました。その後、1906年(明治39年)には鉄道国有法の施行により甲武鉄道は国有化されてしまいます。

甲武鉄道始点の地に立つポスト(2020年12月)

甲武鉄道の「甲」は甲州(山梨)、「武」は武蔵(東京)を表しますが、まさに山梨と東京を結ぶために設立された鉄道会社です。当初は八王子駅から西へ線路を延ばして山梨県へ到達する予定でしたが、そこには険しい山があり線路の敷設は難しいと予想されたことに加えて、人口も少なく売上の面においても不透明な部分がありました。そこで、新宿からさらに都心部への延伸を目指して、1894年(明治27年)に牛込駅(現在は廃止)まで、翌年には飯田町駅(現在は廃止)まで線路を延ばすことに成功しました。

飯田町駅跡に残るレール(2020年12月)

その後、1912年(明治45年)には御茶ノ水駅から万世橋駅(現在は休止)まで線路が延伸されて、万世橋(現在は休止)~御茶ノ水~中野間で電車運転が開始されています。さらに、1919年(大正8年)になると、万世橋駅(現在は休止)から神田駅を経て東京駅へ至る高架線が完成し、東京駅に中央線の電車が乗り入れることになりました。


飯田町駅(廃止)と飯田橋駅

甲武鉄道の起点となった飯田町駅は1895年(明治28年)、現在の飯田橋駅の南側に設置された駅であり、当時は機関区や客車区が併設されていました。

甲武鉄道始点の地に掲示される当時の様子(2020年12月)

1894年(明治27年)当時、甲武鉄道は新宿~牛込間開通と同時に牛込駅を開業し、翌年には牛込駅から飯田町駅まで線路を延伸しています。

飯田橋駅ホーム(2020年12月)

1928年(昭和3年)になると、新宿~飯田町間において複々線化が実現しますが、これと同時に飯田町駅の近距離電車ホームと牛込駅を統合し、その中間に飯田橋駅が新設されました。

東西線/飯田橋駅駅名標(2020年6月)

現在の飯田橋駅は中央・総武緩行線の他、東西線,有楽町線,南北線,大江戸線が乗り入れています。

大江戸線/飯田橋駅駅名標(2020年6月)

JR飯田橋駅は2020年(平成2年)、ホームが約200メートルほど西側へ移設され、これと同時に西口駅舎がリニューアルオープンしました。

飯田橋駅西口駅舎(2020年12月)

これまでの飯田橋駅ホームは急カーブの上にあり、ホームに停車する電車とそのホームの隙間が大きくなっていて、きわめて危険なホームでした。これを解決するためのホーム移設となりました。

移設された飯田橋駅ホーム西端(2020年12月)

飯田橋駅は飯田町駅と牛込駅を統合して新設されたものですが、今回リニューアルされた西口駅舎付近にはかつての牛込駅があったことから、一部の人々の間では「牛込駅の復活」ともいわれています。

飯田駅西口駅舎付近の地図(2020年12月)

また、飯田橋駅西口を出てすぐの場所には、江戸城外郭門の一つであった牛込見附の一部となる遺構があります。

牛込門の遺構(2020年12月)

江戸城外郭門は外敵の侵入を発見し、それを防ぐために「見附」とよび、2つの門を直角に配した桝形門となっていました。

牛込門の遺構(2020年12月)

ここに残る石垣は外堀が完成した1636年(寛永13年)に建設されたものであり、石垣の一部にはこれを建設した蜂須賀忠英(阿波徳島藩主)を示す「松平阿波守」と刻まれたものが発見されています。1902年(明治35年)には石垣の大部分が撤去されてしまいますが、ここに残る石垣から当時の様子がうかがえます。

飯田橋駅ホーム(2020年12月)

大正時代に入ると周辺には冷蔵倉庫が建設されるようになり、飯田町駅は貨物ターミナルとして大きな役割を担うようになります。終戦後には荷物および貨物専用ヤードが設けられた他、1971年(昭和46年)には飯田町紙流通センターが完成し、飯田町駅は大いに栄えて、昭和時代から平成時代にかけての東京の印刷業・出版業を支えました。

甲武鉄道始点の地に立つポスト(2020年12月)

しかしながら、世の中の流れとともに物流はトラックへの移行していき、鉄道の貨物輸送の地位は低下して1999年(平成11年)に飯田町駅は廃止となってしまいました。その後、飯田町駅の跡地にはJR貨物の本社が置かれましたが、2011年(平成23年)には新宿へと移転してしまいました。現在では、貨物ターミナルの跡地は再開発されて商業施設が立ち並び、昼休みの時間帯には近隣で働く人々の多くがランチタイムを過ごしています。

飯田町駅跡地の現在の様子(2020年12月)

その光景からはかつて首都圏の流通を支えた貨物ターミナルの様子をうかがい知ることはできませんが、人々が休憩する歩道のベンチの足元には当時使用されていたレールが残されています。

飯田町駅跡に残るレール(2020年12月)


万世橋駅

万世橋駅は、江戸時代より繁栄していた万世橋界隈に設置された駅であり、現在の中央本線の神田駅と御茶ノ水駅の間にあった駅です。万世橋駅は1912年(明治45年)に開業し、1943年(昭和18年)に営業を休止しています。

神田川に架かる現在の万世橋(2019年10月)

江戸城三十六見附は、江戸城に置かれた見張り番所のうちの主な36か所をさします。一般的に、江戸城の堀に架けられた橋と一体になっています。赤坂見附などは現在でもその地名が残っていますが、筋違見附(筋違橋門)は現在の万世橋と昌平橋の間にありました。

万世橋を跨ぐ中央線(2019年10月)

筋違見附(筋違橋門)は1872年(明治5年)に取り壊されていますが、翌年その石材を再利用して「萬世橋(よろずばし)」と命名された石造りの橋が完成しました。その後、しだいに「まんせいばし」という名が一般的となり、1896年(明治29年)にはこの橋の東側に木橋を渡して、馬車鉄道が走るようになりました。

「万世橋架道橋」の文字が見える(2019年10月)

1903年(明治36年)になると、現在の万世橋のある位置に新しい万世橋が架けられました。筋違見附の場所にあった「元万世橋(萬世橋)」と名を代えていた眼鏡橋は後に撤去されました。新しい万世橋には路面電車が走り、東京の名所にもなりましたが、関東大震災で被災してダメージを受けたため、1930年(昭和5年)に架け直されました。

昌平橋から旧万世橋駅方向を見る(2019年10月)

甲武鉄道は1904年(明治37年)に飯田町(現在は廃止)~御茶ノ水間を開業した後、御茶ノ水~万世橋間の工事に着手しましたが、その途中の1906年(明治39年)に甲武鉄道は国有化されました。この工事は国有鉄道へと引き継がれることになりましたが、結果的に万世橋駅の完成までに約7年を要することになりました。

現在の中央線(2020年1月)

その間となる1908年(明治41年)に途上に仮駅として昌平橋駅を設けて中央本線の起点としました。その後、ついに1912年(明治45年)に万世橋駅までの延伸が完成し、このとき昌平橋駅は廃止されます。

昌平橋の上を跨ぐ中央線(2019年10月)

昌平橋が架けられたのは寛永年間(1624年~1644年)と伝えられており、「一口橋/芋洗橋(いもあらいばし)」「相生橋」などとよばれたこともあります。「一口橋」の名は、この橋の南側を西に向かって坂を登ったところに一口稲荷神社(現在の太田姫稲荷神社)があったことに由来します。元禄時代には「相生橋」とよばれていましたが、1961年(元禄4年)に徳川綱吉が湯島聖堂を建設した際、孔子誕生地の昌平郷にちなんで「昌平橋」とよばせることとなりました。

神田川に架かる現在の昌平橋(2019年10月)

明治時代になると、この橋は「相生橋」と改名されますが、1873年(明治6年)に大洪水で落橋し、1899年(明治32年)に再興されて「昌平橋」となりました。現在の昌平橋は1928年(昭和3年)に架けられたものです。

現在の昌平橋(2019年10月)

その後、万世橋駅は1943年(昭和18年)に休止となってしまいましたが、赤レンガの万世橋高架橋の中にはホームや階段などの施設の一部が残っています。

旧万世橋駅の遺構(2019年10月)

現在ではこうした遺構を保存・整備しており、これを「旧万世橋駅」としてリニューアルし、カフェなどのいくつかのショップが営業されています。

「旧万世橋駅」として整備された建物(2019年10月)


中野駅

中野駅は1889年(明治22年)、新宿~立川間の開通と同時に甲武鉄道の駅として開業しました。1906年(明治39年)には甲武鉄道の国有化によって官設鉄道の駅となりました。

中野駅駅名標(2020年6月)


高円寺駅

高円寺駅は1922年(大正11年)に鉄道省の駅として開業し、1949年(昭和24年)の国鉄発足により国鉄の駅となりました。

高円寺駅駅名標(2020年7月)


武蔵境駅

武蔵境駅は1889年(明治22年)、甲武鉄道が新宿~立川間を開通させた際、「境駅」として開業しました。1917年(大正6年)になると、多摩鉄道(現在の西武鉄道多摩川線)が開業して乗換駅となりました。

武蔵境駅(2020年12月)

1919年(大正8年)には、当時3つあった「境駅」(現在の武蔵境駅,境港駅,羽後境駅)という駅名の重複を避けるため「武蔵境駅」と改称しました。

武蔵境駅駅名標(2020年12月)


立川駅

立川駅は1889年(明治22年)、甲武鉄道の新宿~立川間が開通した際に開業しています。「立川」という地名は新しく、1881年(明治14年)より使用されるようになり、その由来はこの近くを流れる川の段丘面に館(たち)、すなわち小さな城があったからといいます。南武線の立川駅は1929年(昭和4年)、南武鉄道の屋敷分(現在の分倍河原)~立川間が開通した際に開業しています。

立川駅駅名標(2020年6月)


南武線

南武線は立川~川崎間(立川—西国立—矢川—谷保—西府—分倍河原—府中本町—南多摩—稲城長沼—矢野口—稲田堤—中野島—登戸—宿河原—久地—津田山—武蔵溝ノ口—武蔵新城—武蔵中原—武蔵小杉—向河原—平間—鹿島田—矢向—尻手—川崎)を結ぶ路線であり、多摩川と並行するような形で走ります。

西府駅(2020年7月)

また、南武線は尻手~浜川崎間(尻手—八丁畷—川崎新町—小田栄—浜川崎)を結ぶ支線(通称「浜川崎支線」)と尻手~鶴見間を結ぶ支線(通称「尻手短絡線」)をもちます。南武線は1921年(大正9年)に設立された南武鉄道により敷設された路線です。

車両の側面に「NAMBU LINE」と描かれている(2020年6月)

1919年(大正8年)に地元の資本を中心とした多摩川砂利鉄道が東京や横浜へ多摩川の砂利を運ぶことを目的として設立されましたが、その計画が中止となって、この鉄道会社は南武鉄道と社名を変更しています。1923年(大正12年)になると、GHQに十五大財閥として指定された財閥の一つである浅野財閥が南武鉄道の株を所得して、南武鉄道は浅野財閥グループの一員となりました。1927年(昭和2年)に最初の区間として川崎~登戸間を開業し、1929年(昭和4年)には現在の本線となる区間である川崎~立川間が全通しました。

南武線(2020年6月)

南武鉄道が開業して間もない時期には「砂利鉄道」と呼称されることもあり、セメントの材料となる多摩川の砂利や奥多摩より運ばれてきた石灰石などを積んでいたといいます。1930年(昭和5年)になると、貨物線として尻手~浜川崎間(通称「浜川崎支線」)が開業しました。この頃から南武鉄道は砂利の運搬から旅客輸送へと変わっていき、尻手~新浜川崎(後に浜川崎駅に統合)間でも旅客営業を開始します。

立川駅に停車する貨物列車(2020年6月)

1940年(昭和15年)には五日市鉄道(現在の五日市線)を合併するものの、1944年(昭和19年)に南武鉄道の鉄道路線は南武線および五日市線として国有化されてしまい、鉄道事業から撤退することになりました。


西府駅

西府村は1889年(明治22年)に周辺の3村が合併して発足した後、1954年(昭和29年)に府中町および多磨村と合併して府中市となりました。「西府」の名は府中の西側にある地に由来し、「府中」とは律令時代に武蔵国の国府が置かれた地をいいます。

西府駅前に掲示される地図(2020年7月)

南武鉄道は南武線の前身となる路線を敷設した鉄道会社です。1929年(昭和4年)、南武鉄道線の屋敷分(現在の分倍河原)~立川区間が開通した際に西府停留場を開設しました。

西府駅南口(2020年6月)

西府停留場の名は先の地名に由来しますが、西府停留場は現在の西府駅とは700メートルほど離れた位置にありました。その後、駅に変更されましたが、1944年(昭和19年)に南武鉄道が戦時買収され国有化された際に廃止となりました。

西府駅周辺の地図(2020年6月)

現在の西府駅は、このとき廃止となった旧西府停留場のまさに「再興」となります。かつての西府駅から少し所在地を変更した現在の西府駅は、2009年(平成21年)に開業した南武線の最も新しい駅となりました。

西府駅近くの市川緑道(2020年6月)

この付近にある熊野神社の本殿北側には、飛鳥時代(7世紀中頃)に築造されたという武蔵府中熊野神社古墳があります。

武蔵府中熊野神社古墳(2020年7月)

古墳は上円下方墳とよばれるものであり、四角いの墳丘の上に丸い墳丘が重なった形状をしています。古代の中国では、天はドームのような半球形であり、大地は四角いものであると信じられていたので、そうした宇宙観を背景として築造されたものと考えられています。

武蔵府中熊野神社古墳(2020年7月)

上円下方墳は古墳時代末期に築造されるようになりましたが、これは全国的に見てもきわめて珍しいものです。武蔵府中熊野神社古墳は石が葺かれている上円下方墳においては最古であり、最大規模の古墳です。

武蔵府中熊野神社古墳(2020年7月)

墳丘の1段目の一片の長さは約32メートル、2段目の正方形の一辺の長さは約23メートル、上円部の直径は約16メートルもあります。墳丘の高さは上円部の頂上で約6メートルの高さがあり、内部の石室は横穴式石室とよばれるものであり、三室構造となっています。

武蔵府中熊野神社古墳(2020年7月)

内部に収められた副葬品も質の高いものであり、古墳の大きさや珍しさから見ると埋葬された人物は東国の有力者と考えられますが、その人物名は判明していません。

武蔵府中熊野神社古墳(2020年7月)

古墳および熊野神社に隣接して古墳展示館があります。

古墳展示館(2020年7月)

古墳展示館に隣接して古墳石室復元展示室が設けられていて、発掘調査による成果から当時の状況が復元されています。

古墳石室復元展示室(2020年7月)

西府駅南口の前には府中市指定文化財となる御嶽塚(みたけづか)がありますが、これはもともと、古墳時代に築造された古墳でした。

西府駅前の古墳(2020年7月)

西府駅南口から少し歩いた場所に遊歩道が整備された市川緑道があります。市川緑道は南武線の南側に並行して所在します。

歩道橋下の市川緑道(2020年6月)

この市川緑道は、多摩川の水や沿線の湧水を集めて流れる市川沿いに設置された緑道です。

市川緑道沿いの植生(2020年6月)

市川緑道に沿って府中崖線があり、ニセアカシア,ケヤキ,シカラシ林などの貴重な自然林や府中崖線から湧き出る貴重な湧水が見られます。

市川緑道沿いの植生(2020年6月)

西府駅と市川緑道の高低差は大きく、駅からは歩道橋を渡って緑道へと下ります。

崖の上の先に西府駅がある(2020年6月)

歩道橋には、エレベーターも設置されています。

エレベーター(2020年6月)


拝島駅

明治時代には青梅鉄道が立川~青梅間をすでに開通していましたが、通称「五鉄(ごてつ)」とよばれた五日市鉄道は1925年(大正14年)に拝島~五日市(現在の武蔵五日市)間を開業し、蒸気機関車を走らせました。

拝島駅に停車する五日市線の列車(2020年7月)

その後すぐに武蔵五日市~武蔵岩井間も開業し、1929年(昭和4年)には南武鉄道が分倍河原~立川間を開業しています。

拝島駅に停車する五日市線の車両(2020年7月)

1930年(昭和5年)になると、その南武鉄道の立川駅と五日市鉄道の拝島駅が結ばれ、武蔵上ノ原,郷地(ごうち),武蔵福島,南中神(みなみなかがみ),宮沢,大神(おおがみ),武蔵田中,南拝島の8駅が設置されました。

拝島駅に停車する五日市線の車両(2020年7月)

ここでは、旅客用としてはガソリンカーが運行されましたが、1940年(昭和15年)には「五鉄」は南武鉄道と合併されることになりました。その後、1944年(昭和19年)に青梅線とともに国有化され、立川~拝島間は廃止されました。

拝島駅付近の廃線跡(2020年7月)

拝島駅には五日市鉄道をルーツにもつ五日市線,青梅線,八高線,川越線と、西武鉄道の拝島線が乗り入れています。

拝島駅に停車する川越線の車両(2020年7月)

拝島駅に停車する川越線の車両と西武線の車両(2020年7月)

西武拝島線の拝島駅駅名標(2020年11月)

その歴史を見ると、1894年(明治27年)には青梅鉄道(後の青梅電気鉄道)の立川~青梅間が開通し、このとき拝島駅が開業しています。

五日市線の拝島駅駅名標(2020年7月)

五日市線,、青梅線,西武鉄道の拝島線にとっては拝島駅がまさに重要な分岐点となっています。

拝島駅南口駅舎(2019年11月)

現在のまちの中心部は鉄道沿いにありますが、かつての中心部は南を流れる多摩川に沿って走る奥多摩街道沿いにありました。拝島駅からバスで10分ほど行った場所の奥多摩街道の近くに拝島大師があります。拝島大師は天台宗の仏教寺院であり、その正式名称は「本覚院」といいます。

道路の右側が拝島大師、左側が拝島公園(2020年8月)

この隣りには拝島公園があり、公園内には大日堂があります。

大日堂(2020年11月)

この大日堂は「拝島」という地名の由来となった寺院です。952年(天歴6年)に玉川花井の島より大日如来の尊像が出現し、これを村人が拝んだところから「拝島」の名が付いたといいます。大日堂は現在、東京都指定史跡となっています。また、公園内には1956年(昭和31年)に東京都の天然記念物に指定された「拝島のフジ」があります。

拝島のフジ(2020年11月)

このフジは室町時代末頃、この場所に建っていた明王院の境内に自生しており、樹齢は推定800年といわれています。江戸時代初期に明王院は廃寺となりましたが、フジだけが現在に残っています。春になると紫色のみごとな花を咲かせます。

都天然記念物「拝島のフジ」(2020年11月)


青梅線

青梅(おうめ)線は立川~奥多摩間を結ぶ路線であり、そのうち青梅~奥多摩間には「東京アドベンチャーライン」という愛称が付されています。

青梅鉄道公園(2020年10月)

1894年(明治27年)に青梅鉄道は立川~青梅間を開業しましたが、当時の軌間は762ミリのいわゆる「軽便鉄道」でした。このとき、拝島駅,福生(ふっさ)駅,羽村駅,小作(おざく)駅,青梅駅を開業しています。

福生駅(2020年11月)

翌年に青梅~日向和田(ひなたわだ)間を貨物線として延伸開業した後、1898年(明治31年)には旅客営業も開始しました。1908年(明治41年)になると、軌間を762ミリから1,067ミリへと変更し、中神駅も開業しています。さらに、1920年(大正9年)には日向和田~二俣尾間を延伸開業し、貨物支線となる立川~上古新田間を開業しました。

青梅駅駅名標(2020年10月)

昭和に入り、1927年(昭和2年)に貨物支線の福生~河岸積込所間を開業したが、1929年(昭和4年)には「青梅電気鉄道」と社名を変更して二俣尾~御嶽間を延伸開業しました。1931年(昭和6年)には西立川駅を開業し、南武鉄道の立川駅と西立川駅を結ぶ貨物連絡線を敷設しました。1935年(昭和10年)になると、立川~上古新田間が廃止され、西立川駅の旅客営業を開始しました。その後、1944年(昭和19年)に国有化されて「青梅線」となりました。


青梅駅

青梅駅は青梅線の駅であり、1894年(明治27年)に青梅鉄道が立川~青梅間を開業した際に設置されました。

青梅駅に停車する青梅線の車両(2020年10月)

1924年(大正13年)に青梅駅開業30周年を記念して駅舎が改築されました。

青梅駅駅舎(2020年10月)

その後の国鉄時代を経て、JR東日本の駅となっています。2005年(平成17年)には「レトロステーション青梅駅」としてオープンし、駅の地下道には昭和時代風の装飾がほどこされました。

青梅駅の地下道(2020年10月)

国鉄時代の1962年(昭和37年)、日本の鉄道敷設90周年を記念して青梅鉄道公園を設立しました。

青梅鉄道公園(2020年10月)

青梅鉄道公園の最寄り駅となるのは青梅駅ですが、駅から徒歩15分ほどとなります。

青梅駅ホームの待合室(2020年10月)

途上はかなりの急坂となりますが、バスなどの交通機関がないので、少しハードな道のりとなります。青梅駅から見て青梅鉄道公園は北東方向にありますが、青梅駅の出入口は南側にありますので、一度駅の南側に出ることになります。

青梅駅南側のロータリー(2020年10月)

駅を出ると左へ(線路に沿って東京方面へ)としばらく進むと、永山公園通りに出るのでこれを左折します。青梅線の線路を越える小さな橋を渡り、永山体育館を左手に見ながら道なりに右へと坂を上っていきます。

青梅線を越える小さな橋(2020年10月)

永山公園通りの坂を上っていく(2020年10月)

永山公園通りはほぼ直角に左へカーブを切りますが、これと分かれて歩行者のみが歩くことができる小径をゆっくりと登っていきます。

青梅鉄道公園へと続く小径(2020年10月)

これを登りきった場所に青梅鉄道公園があります。

青梅鉄道公園(2020年10月)

青梅鉄道公園の入り口すぐ左横に展示されるD51形蒸気機関車は、D50形蒸気機関車に取って代わる主要幹線貨物列車用として1936年(昭和11年)~1945年(昭和20年)にかけて1115両も製造された蒸気機関車です。

青梅鉄道公園に保存されるD51蒸気機関車(2020年10月)

国鉄の近代化SLとして初めてボックス動輪が採用され、日本で最も多く製造された蒸気機関車として、その愛称「デゴイチ」は多くの人々に知られています。

青梅鉄道公園に保存されるD51蒸気機関車(2020年10月)

ここに保存・展示されるD51-452は1940年(昭和15年)に製造されたものであり、1965年(昭和40年)まで東北本線(郡山~盛岡間)で活躍しました。その後、関西本線(亀山~天王寺間)へ転籍して1972年(昭和47年)までに213万キロを走破しました。

青梅鉄道公園に保存されるD51蒸気機関車(2020年10月)

クモハ40は国鉄時代、東京・大阪地区の通勤輸送用として1932年(昭和7年)より製造がはじめられました。ここに展示されるクモハ40-054は1935年(昭和10年)にモハ40-134として製造されたものです。総武線山手線で活躍した後、戦後は中央線を中心に走り、青梅線でも走ったことがあります。

青梅鉄道公園に保存されるクモハ40(2020年10月)

1962年(昭和37年)に日光線へと転じました。クモハ40は1978年(昭和53年)にすべての車両が引退しています。

青梅鉄道公園に保存されるクモハ40(2020年10月)


八王子駅

八王子町は1917年(大正6年)に八王子市となり、多摩地区では初めての、全国では66番目の市となりました。「八王子」の名は全国に数多くありますが、その名は午頭天王(ごずてんのう)と8人の王子を祀る信仰に由来します。この信仰が広がって八王子神社や八王子権現社が建立され、地名として定着していったとされます。

八王子駅とその周辺(2021年2月)

八王子市では八王子城にある八王子神社がその由来となります。また、八王子市はかつて養蚕業や絹織物の生産が盛んであり、桑の葉が蚕の主食であったことから「桑都(そうと)」との異名をもちます。昭和時代に作られた「八王子市歌」(作詞:北原白秋・作曲:山田耕筰)にも「桑の都」のフレーズがあります。

黎明 響高く
桑の都 風は光れり
八王子 旺んなり機業
新興の意気に起つべし
八王子(八王子)
古るき我が土 奮へ(いよよ)
多摩のますらを

八王子駅(2021年2月)

 さらに古くは、平安時代の歌人である西行法師は「浅川を渡りて見れば富士の根の 桑の都に青嵐ふく」と詠んでいます。

八王子駅(2020年10月)

現在の八王子駅には中央線(中央本線),横浜線,八高線が乗り入れる他、徒歩5分ほどの場所には京王八王子駅があります。

八王子駅(八高線)駅名標(2020年10月)

八王子駅はもともと、1889年(明治22年)に甲武鉄道の終着駅として開業し、東京都八王子合同庁舎付近にありました。当時は八王子~新宿間を約1時間15分ほどで運行していたといいます。

八王子駅に到着する特急「かいじ」(2020年10月)

その後、1901年(明治34年)に官設鉄道が上野原駅(山梨県)まで延伸された際、これとの接続をはかるために甲武鉄道の八王子駅は、現在の八王子駅の場所より西へ150メートルほどの場所へと移転し、官設鉄道と甲武鉄道の共同駅となりました。1906年(明治39年)になると、甲武鉄道は国有化されて中央線(中央本線)へと統合されました。

八王子駅に停車する中央線の車両(2020年10月)

さらに、1908年(明治41年)には横浜鉄道の八王子~東神奈川間(現在の横浜線)が開通し、八王子駅へと乗り入れることになりました。

八王子駅に停車する横浜線の車両(2020年10月)

1931年(昭和6年)には八高線の八王子~東飯能間が開通し、八高線も八王子駅へと乗り入れることになり、1937年(昭和12年)には現在地に移転することになりました。

八王子駅に停車する横浜線の車両(2020年10月)


西八王子駅

西八王子駅(2020年10月)