上越新幹線と磐越西線の歴史

投稿者: | 2019-03-02

1.磐越西線の歴史と「あいづ」 2.鶴岡駅と羽越本線 3.只見線と上越新幹線 Θ上越新幹線Θ

 

719系(2016年12月)


磐越西線の歴史と「あいづ」

磐越西線(ばんえつさいせん)は郡山~会津若松~新津間を結ぶ路線であり、このうち会津若松~新津間には「森と水とロマンの鉄道」という愛称が付されています。日本鉄道の開通により郡山~新潟間を結ぶ鉄道敷設運動が起こり、これを建設するために岩越鉄道(がんえつてつどう)が設立されました。1898年(明治30年)に岩越鉄道が郡山~中山宿(仮)間を開業したのを皮切りとして順次、若松駅(現在の会津若松駅)、喜多方駅まで延伸されました。1906年(明治39年)の鉄道国有法により岩越鉄道は国有化され、郡山~喜多方間は岩越線となりました。その後、官設鉄道として山都(やまと)駅、野沢駅まで延伸されています。一方、新潟県側について見ると、1910年(明治43年)に信越線(現在の信越本線)支線として新津~馬下(まおろし)間、1913年(大正2年)に馬下~津川間が開業し、1914年(大正3年)には「信越本線」と改称されました。同年、野沢~津川間が開業し全通したことにともない、信越本線の新津~津川間を岩越線に編入しました。1917年(大正6年)に岩越線を「磐越西線」と改称しています。

 

あいづ」は1959年(昭和34年)、仙台~喜多方間を走る準急列車に初めて付けられた愛称であり、その後も磐越西線を運行する列車にたびたび使用されてきました。1968年(昭和43年)には上野~会津若松間の特急列車に使用され、1993年(平成5年)からは郡山~会津若松・喜多方間を運行する特急「ビバあいづ」となりました。2003年(平成15年)には快速列車に格下げとなり「あいづライナー」として運行されるようになりましたが、2015年(平成27年)には「あいづライナー」の名称が廃止されています。2020年(令和2年)より快速列車に指定席が設定されることになり、郡山~会津若松間において快速「あいづ」が1日3往復運行されています。指定席にはリクライニングシートが設置され、E721系が使用されています。

 

719系は1989年(平成元年)~1991年(平成3年)に製造された交流近郊型電車です。磐越西線の車両には赤と黒の帯が配され、「赤べこ」をベースとしたマスコットが描かれています。「赤べこ」は会津の郷土玩具であり、「べこ」は「牛」のことを意味します。また、蒸気機関車C57-180が「SLばんえつ物語」として定期運行しています。C57-180は1969年(昭和44年)以来、新津市の小学校に保存されていましたが、1999年(平成11年)より「SLばんえつ物語」として復活を遂げています。


鶴岡駅と羽越本線

鶴岡駅は1918年(大正7年)、陸羽西線の仮駅として開業し、翌年に現在地へと移転して正式に開業しました。1925年(大正14年)に支線となる赤谷線が開業したことにより羽越本線の駅となりました。

 

鶴岡駅(2016年12月)

 

羽越本線信越本線磐越西線に接続する新津(にいつ)駅と、奥羽本線に接続する秋田駅の間を結ぶ路線であり、総延長距離は271.7キロになります。


只見線と上越新幹線

『SLれっしゃだいさくせん』は、主人公の兄弟が休暇中に「SL会津只見号」に乗車し、小さな旅をする様子を描いた作品です。

 

書籍名:『SLれっしゃだいさくせん』
著者名:横溝英一/文・絵
出版社:小峰書店
発行日:2010年(平成22年)5月20日

 

作品では、主人公の兄弟が親戚のいる会津若松から「SL会津只見号」に乗車し、そこでの乗車体験が描かれています。只見駅で機関車が向きを変える様子も描かれており、鉄道ファンである兄弟はこの様子を興味深く観察します。

 

「きかんしゃって、こんなに かるいのかなあ」
「ターンテーブルが、かるく うごくように できているんだよ」

 

兄弟は、只見駅からはディーゼル列車に乗車して小出駅へ向かいます。小出駅からは上越線で浦佐駅へ向かい、浦佐駅からは上越新幹線で帰路へとつきます。

 

上越新幹線

北陸新幹線は2015年(平成27年)に高崎~金沢間が開業しましたが、大宮駅までは上越新幹線東京駅までは東北新幹線を経由して東京駅まで乗り入れています。

 

高崎駅(2019年12月)

 

上越新幹線は大宮~新潟間となりますが、こちらもすべての列車が東京駅まで乗り入れています。JR東日本は2017年(平成29年)、上越新幹線E4系について2020年度末までに廃車にすると発表しました。これにより新幹線車両からすべての2階建て車両が姿を消すことになりました。新幹線車両として初めて2階建て車両となったのは1985年(昭和60年)の100系です。その後、2階建て車両として登場したのは1994年(平成6年)のE1系、1997年(平成9年)のE4系でした。

2階建て車両は輸送力の増強に一定の効果をもたらしましたが、通常の車両に比べると車両が重いためにスピードアップが難しいという大きな欠点がありました。また、時代の流れにより通勤や通学において新幹線を利用する人が減少した他、車内販売も難しく、バリアフリーにも対応できませんでした。こうした理由から、これ以上2階建て車両が新たに製造されることはなく、投入されることはありませんでした。

 

「SL会津只見号」は会津若松~只見間を運行する臨時快速列車であり、蒸気機関車C11325号が客車を牽引しています。5月頃に「SL会津只見新緑号」、10月頃に「SL会津只見紅葉号」として運行されることが多いようです。初めて運行されたのは2001年(平成13年)であり、「SL&DL会津只見号」として運行されました。

 

只見線は会津若松~小出間を結ぶ路線であり、只見川沿いの豪雪地帯をゆっくりと走ります。その歴史は1926年(大正15年)、会津若松~会津坂下間が会津線として開業したことにはじまります。その後、順次延伸開業していくことになります。1956年(昭和31年)までに会津線は会津若松~会津川口まで開業していましたが、以後の只見線の開通には、戦後の産業振興のための電源開発が大きく後押しをしています。只見線の横を流れる只見川による水力発電では、只見駅近くの田子倉地区に巨大ダムを建設することになりますが、そのための専用線が1957年(昭和32年)に完成しています。その後、1963年(昭和38年)に国鉄がこの専用線を買収して、会津若松~只見間が全通します。

 

一方、1942年(昭和17年)に小出~大白川間が「只見線」として開業した後、1971年(昭和46年)に難工事を乗り越えて只見~大白川間を延伸開業します。このとき、会津若松~只見間を会津線から切り離し、只見線に統合して、只見線は会津若松~小出間となりました。只見線の起点となる会津若松駅は只見線の他、磐越西線と会津鉄道が乗り入れています。磐越西線は郡山~会津若松~新津間を結ぶ路線であり、会津鉄道は西若松~会津高原尾瀬口間を結び会津若松駅まで乗り入れています。