東海道本線[JR]

投稿者: | 2023-04-09

旧新橋駅駅舎(2023年2月)

1804年、リチャード・トレビシックは「蒸気機関のはずみ車を馬車の両輪にしてみる」というアイデアから世界で初めての蒸気機関車となる「ペニダーレン号」を製造し、鉄道の時代が開幕しました。1825年には、イギリスのストックトン~ダーリントン間(約19キロ)で世界初の鉄道が開通しています。

ストックトン=ダーリントン鉄道

 1829年には、世界初の公共鉄道がイギリスのリバプール~マンチェスター間において開業するにあたり、これを走る蒸気機関車を決めるためにレインヒルにて、蒸気機関車の試走会が実施されました。試走会には3両の蒸気機関車が登場し、ジョージ・スティーブンソンの「ロケット号」が優勝しました。「ロケット号」は世界鉄道史上、最も有名な蒸気機関車です。

東京駅(2019年3月)

ジョージ・スティーブンソンはこれに先立って、1814年に初めての蒸気機関車「ブルヘル号」を製造した後、「ロコモーション号」「ランカシャー・ウィッチ号」などを製造しています。後世、世界の人々はジョージ・スティーブンソンを「SLの父」とよび、その業績をたたえました。ただ「ロケット号」が客を乗せて走行したのは開業式だけであり、その後は石炭を載せた貨車を引いて走りました。

東京ステーションホテル(2019年3月)

一方、日本の鉄道を敷設しようという動きは幕末に来日した外国人から起こりました。日本における鉄道利権を手中にしたい各国のうち、1867年(慶応2年)にはフランス総領事であったペ・フロリ・ヘラルドが各国に先んじ、江戸幕府に対して鉄道および電信敷設の勧誘を行いました。翌年には横浜在住であったC・L・ウエストウッドが江戸幕府の外国奉行に対して江戸~横浜間の鉄道敷設請願書を提出しています。しかし、江戸幕府は両者ともに時期尚早として許可を与えませんでした。

東京駅(2019年3月)

ところが1868年(慶応3年)に、アメリカの外交官であったアントン・L・C・ポートマンは、江戸幕府老中の小笠原長行(ながみち)より江戸~横浜間の鉄道敷設許可を得ました。アントン・L・C・ポートマンはオランダ生まれのアメリカ合衆国の外交官でした。かつてペリー艦隊の一行として来日し、蒸気機関車模型の組み立て作業を行いました。当時この他にも、神戸駐在のアメリカ領事モリソンよりアメリカ資金による大阪神戸間の鉄道敷設の勧誘があったり、兵庫在住のアメリカ領事ロビネットより大阪~兵庫間の鉄道敷設の勧誘があったりしたが、いずれにも許可は与えられませんでした。

神戸駅近くに保存されるD51-1072(2019年4月)

1869年(明治2年)、江戸幕府より唯一鉄道敷設許可を与えられていたアントン・L・C・ポートマンに対して、明治新政府は江戸幕府の鉄道敷設許可承認日が新政府樹立後であるとして、これを無効としました。これはアメリカ資本による私鉄建設計画であったが、日本が植民地化されるリスクもあったがために、明治新政府はこの鉄道敷設許可について王政復古後、江戸幕府より与えられた許可であるとして無効を主張し続けました。明治新政府は官設鉄道を敷設することを目標としたものの、当時の日本には民間資本の蓄積が十分ではなかったので、イギリス資本によりこれを達成することとしました。

青梅鉄道公園に保存される8620形蒸気機関車(2020年10月)

明治新政府は、1869年(明治2年)には新橋~横浜間における鉄道を敷設することを決定していたものの、明治時代の人々にとって西洋の乗り物は恐怖でしかなく、政府による用地買収は難航しました。そのため、日本初の鉄道路線はその路線距離の3分の1が海上埋め立て地に敷設されることになりました。当初の鉄道建設計画をみると、東京~京阪神間を結ぶルートは中山道経由となっており、東海道経由となる新橋~横浜間の路線は幹線と考えられていませんでした。その理由の一つには国防上の問題、すなわち海岸線に近いと敵国の攻撃を受けやすいというものでした。

新橋駅近辺(2023年2月)

明治新政府内部においても反対派勢力は多く、その筆頭は弾正台(後の司法省)であり、1869年(明治2年)には鉄道建設反対の建議書を提出しました。兵部省(現在の防衛省)においても、兵部大輔であった前原一誠(まえばらいっせい)が鉄道用地よりも国防設備用地を優先するべきだとして、鉄道建設反対の建議書を個人名で提出しました。他にも開拓使次官であった黒田清隆や、鹿児島県大参事(現在の副知事)であった西郷隆盛らが国防上の問題として鉄道建設反対の立場にありました。一般世論においても、鉄道は外敵の来襲に利用される、国の土地を抵当に入れて外債を募るというのは国を売るようなものだとして反対意見が多かった他、旅籠屋や飛脚、馬方などの職業の人々も稼ぎがなくなるとして大いに反対し、鉄道反対派が世の大勢を占めました。

東京タワー(2023年2月)

明治新政府の中でも、大隈重信や伊藤博文らの鉄道建設推進派は、鉄道敷設反対や時期尚早が声高に叫ばれる中、身の危険も感じるような状況が続きました。大隈重信の盟友であった渋沢栄一や井上馨らは鉄道建設の必要性は感じていたものの、世の情勢を鑑みて大隈重信に対して鉄道建設をあきらめるように進言しました。しかし、大隈重信はその友情を聞き入れることはなく、鉄道建設に邁進していきました。

京都鉄道博物館のSLスチーム号(2019年1月)

1872年(明治3年)になっても、明治新政府はどの路線を幹線とするかを決めあぐねており、同年には東海道、翌年には中山道の調査を行うが、いずれを幹線とするかを決定することができませんでした。そのため、明治新政府は、イギリス人ブライトンがすでに述べていた「最初は短距離の模範鉄道を東京~横浜間に建設すべきだ」という意見や、外務省の建議による「鉄道の見本とする東京~横浜間の建設を先にすべきだ」という意見を参考として、東京~横浜間にまず鉄道を建設することを決定しました。

東京駅を発着するさまざまな列車(2019年3月)

官設鉄道(官鉄)は、明治時代の初めにできた明治新政府主体の組織であり、現在の東海道本線などの幹線を中心として日本に鉄道を敷設しました。

東京駅(2020年6月)

開業当初は外国の鉄道技術に頼ることが多くありました。後に、鉄道技術者の養成所である工技生養成所を設立するなどして日本人の鉄道技術者の養成に注力しました。イギリスから導入された資本と鉄道技術者の指導により、日本初の鉄道となる新橋~横浜間において鉄道の建設に着手しました。その建設の中心となったのはエドモンド・モレルでした。

青梅鉄道公園に保存されるED16とC11(2020年10月)

エドモンド・モレルはイギリスの技術者。▼明治時代初期にイギリス公使のハリー・S・パークスの推薦により来日する。▼初代の鉄道・建築師長として京浜間の鉄道建設に従事する。▼軌間を1,067ミリに定めた他、国産の木材を枕木に使用することを決める。

新梅田シティ滝見小路(2023年3月)

▼1869年(明治2年)、右大臣三条実美の私邸において、ハリー・S・パークスと政府高官の岩倉具視、沢宣嘉(のぶよし)、大隈重信、伊藤博文が会談した。▼日本における鉄道建設計画に関する下打ち合わせを行った。▼そこで、岩倉具視は鉄道建設はイギリスにバックアップしてほしいと伝える。▼東京京都間を幹線として位置づけ、幹線に接続する支線として東京~横浜間、京都神戸間、長浜敦賀間を計画してることを明らかする。

旧敦賀港駅舎/現・敦賀鉄道資料館(2019年7月)

▼ハリー・S・パークスは、日本の鉄道建設とその運営については明治新政府が自ら行うべきであると主張する。▼江戸幕府より鉄道建設の免許を与えられていたアメリカをおさえて、日本に国有鉄道を敷設する強い姿勢を示した。▼イギリスのハリー・S・パークスの提案は、イギリス資本で明治新政府の手による鉄道建設ということを強く主張していたため、明治新政府はイギリス資本による鉄道敷設を目指すこととなった。▼アメリカの場合にはアメリカ主体の鉄道敷設となること、フランスの場合には江戸幕府と明治新政府の対立を利用するものであることが避けられる要因となった。

青梅鉄道公園に保存される2120形式タンク式蒸気機関車(2020年10月)

▼エドモンド・モレルは、鉄道の技術教育を提唱するとともに鉄道建設を具体化し、日本鉄道史におけるその功績はきわめて大きかった。▼在職わずか1年6か月で病死し、その墓は横浜外人墓地にあり、1962年(昭和37年)に鉄道記念物に指定された。

この鉄道事業を主管したのは、1870年(明治3年)に民部省・大蔵省に設置された鉄道掛です。その後、工部省が創設され、鉄道事業は工部省主管へと変更されました。

国有鉄道のマーク(2019年1月)

▼主管:1871年(明治4年)工部省鉄道寮/1877年(明治10年)工部省鉄道局/1885年(明治18年)内閣鉄道局/1889年(明治22年)内閣鉄道庁/1892年(明治25年)逓信省鉄道庁/1893年(明治26年)逓信省鉄道局/1897年(明治30年)逓信省鉄道局=行政事務担当,逓信省鉄道作業局=鉄道作業事務担当/1907年(明治40年)逓信省帝国鉄道庁/1908年(明治41年)内閣鉄道院(院電)/1920年(大正9年)鉄道省(省電)/1949年(昭和24年)日本国有鉄道(国電)/1987年(昭和62年)日本国有鉄道分割民営化(JR)

世界初の鉄道が開通してから約50年後の1872年(明治5年)10月14日(旧暦:9月12日)、新橋~横浜間に日本初の鉄道が開業した。  旧新橋停車場(2023年2月) ▼この記念すべき明治5年9月12日、新暦でいうところの1872年10月14日は、1922年(大正11年)に当時の鉄道省によって「鉄道記念日」として制定された。▼1994年(平成6年)に当時の運輸省によって「鉄道の日」と改められ、国鉄を継承したJRだけでなく、全鉄道会社にとっての記念日となった。▼現在では「鉄道の日」には全国各地で各鉄道会社によってさまざまなイベントが開催されている。 青梅鉄道公園9600形蒸気機関車(2020年10月) ▼1874年(明治7年)に大阪神戸間の仮営業を経て、1877年(明治10年)に京都神戸間が正式に開業した。▼特に大阪京都への延伸については、一度に開通したわけではない。 京都駅(2019年5月) ▼1876年(明治9年)7月に向日町まで、9月に大宮通(仮駅)まで、1877年(明治10年)2月に京都へと達した。▼このときに、京都神戸間に設けられた中間駅は向日町、山崎、高槻、茨木、吹田、大阪、西ノ宮(現在の西宮)、三ノ宮だった。 吹田駅(2016年12月) ▼その後、新橋~横浜間および神戸大阪京都間、この東海道本線両端の間の線路は徐々に敷設され、1889年(明治22年)に最後に残った区間である関ヶ原~馬場(現在の膳所)間が開通して全通となる。 工事中の膳所駅(2018年1月) ▼東海道本線は1964年(昭和39年)に全線の電化を完了。▼1987年(昭和62年)4月1日には国鉄が分割民営化され、東海道本線のうち東京~熱海間はJR東日本、熱海~米原間はJR東海(熱海駅はJR東日本、米原駅はJR西日本)、米原~神戸間はJR西日本に分割された。 京都駅に到着する東海道本線の車両(2019年1月) ▼東海道本線は日本の鉄道史を象徴してきた路線である。▼現在でも、その営業距離は589.5キロ(支線を除く)にもおよび、駅数186駅を抱える日本の大動脈である。▼しかしながら、現在では全線走破する列車はほとんどない。 東京駅(2019年3月) ▼現在では、寝台特急「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」(愛称「サンライズエクスプレス)のみが東海道本線全線を走る。 サンライズエクスプレス(2022年12月) ▼「サンライズ瀬戸」の運行区間は高松~東京間、「サンライズ出雲」の運行区間は伯備線経由の出雲市~東京間である。▼2つの列車は岡山~東京間においては連結して運行される。 サンライズエクスプレス(2022年12月)