東海道本線[JR東日本・JR東海・JR西日本]

投稿者: | 2023-04-09

鉄道黎明期

1804年、リチャード・トレビシックは「蒸気機関のはずみ車を馬車の両輪にしてみる」というアイデアから世界で初めての蒸気機関車となる「ペニダーレン号」を製造し、鉄道の時代が開幕しました。1825年には、イギリスのストックトン~ダーリントン間(約19キロ)で世界初の鉄道が開通しています。

ストックトン=ダーリントン鉄道

 1829年には、世界初の公共鉄道がイギリスのリバプール~マンチェスター間において開業するにあたり、これを走る蒸気機関車を決めるためにレインヒルにて、蒸気機関車の試走会が実施されました。試走会には3両の蒸気機関車が登場し、ジョージ・スティーブンソンの「ロケット号」が優勝しました。「ロケット号」は世界鉄道史上、最も有名な蒸気機関車です。

東京駅(2019年3月)

ジョージ・スティーブンソンはこれに先立って、1814年に初めての蒸気機関車「ブルヘル号」を製造した後、「ロコモーション号」「ランカシャー・ウィッチ号」などを製造しています。

東京駅(2019年3月)

後世、世界の人々はジョージ・スティーブンソンを「SLの父」とよび、その業績をたたえました。ただ「ロケット号」が客を乗せて走行したのは開業式だけであり、その後は石炭を載せた貨車を引いて走りました。

東京ステーションホテル(2019年3月)

一方、日本の鉄道を敷設しようという動きは幕末に来日した外国人から起こりました。日本における鉄道利権を手中にしたい各国のうち、1867年(慶応2年)にはフランス総領事であったペ・フロリ・ヘラルドが各国に先んじ、江戸幕府に対して鉄道および電信敷設の勧誘を行いました。翌年には横浜在住であったC・L・ウエストウッドが江戸幕府の外国奉行に対して江戸~横浜間の鉄道敷設請願書を提出しています。しかし、江戸幕府は両者ともに時期尚早として許可を与えませんでした。

東京駅(2019年3月)

ところが1868年(慶応3年)に、アメリカの外交官であったアントン・L・C・ポートマンは、江戸幕府老中の小笠原長行(ながみち)より江戸~横浜間の鉄道敷設許可を得ました。アントン・L・C・ポートマンはオランダ生まれのアメリカ合衆国の外交官でした。かつてペリー艦隊の一行として来日し、蒸気機関車模型の組み立て作業を行いました。当時この他にも、神戸駐在のアメリカ領事モリソンよりアメリカ資金による大阪~神戸間の鉄道敷設の勧誘があったり、兵庫在住のアメリカ領事ロビネットより大阪~兵庫間の鉄道敷設の勧誘があったりしましたが、いずれにも許可は与えられませんでした。

神戸駅近くに保存されるD51-1072(2019年4月)

1869年(明治2年)、江戸幕府より唯一鉄道敷設許可を与えられていたアントン・L・C・ポートマンに対して、明治新政府は江戸幕府の鉄道敷設許可承認日が新政府樹立後であるとして、これを無効としました。これはアメリカ資本による私鉄建設計画でしたが、日本が植民地化されるリスクもあったがために、明治新政府はこの鉄道敷設許可について王政復古後、江戸幕府より与えられた許可であるとして無効を主張し続けました。明治新政府は官設鉄道を敷設することを目標としたものの、当時の日本には民間資本の蓄積が十分ではなかったので、イギリス資本によりこれを達成することとしました。

青梅鉄道公園に保存される8620形蒸気機関車(2020年10月)


日本初の鉄道誕生

明治新政府は、1869年(明治2年)には新橋~横浜間における鉄道を敷設することを決定していたものの、明治時代の人々にとって西洋の乗り物は恐怖でしかなく、政府による用地買収は難航しました。そのため、日本初の鉄道路線はその路線距離の3分の1が海上埋め立て地に敷設されることになりました。

旧新橋駅駅舎(2023年2月)

当初の鉄道建設計画をみると、東京~京阪神間を結ぶルートは中山道経由となっており、東海道経由となる新橋~横浜間の路線は幹線と考えられていませんでした。その理由の一つには国防上の問題、すなわち海岸線に近いと敵国の攻撃を受けやすいというものでした。

新橋駅近辺(2023年2月)

明治新政府内部においても反対派勢力は多く、その筆頭は弾正台(後の司法省)であり、1869年(明治2年)には鉄道建設反対の建議書を提出しました。兵部省(現在の防衛省)においても、兵部大輔であった前原一誠(まえばらいっせい)が鉄道用地よりも国防設備用地を優先するべきだとして、鉄道建設反対の建議書を個人名で提出しました。他にも開拓使次官であった黒田清隆や、鹿児島県大参事(現在の副知事)であった西郷隆盛らが国防上の問題として鉄道建設反対の立場にありました。

東海道本線の車両(2016年8月)

一般世論においても、鉄道は外敵の来襲に利用される、国の土地を抵当に入れて外債を募るというのは国を売るようなものだとして反対意見が多かった他、旅籠屋や飛脚、馬方などの職業の人々も稼ぎがなくなるとして大いに反対し、鉄道反対派が世の大勢を占めました。

東京タワー(2023年2月)

明治新政府の中でも、大隈重信や伊藤博文らの鉄道建設推進派は、鉄道敷設反対や時期尚早が声高に叫ばれる中、身の危険も感じるような状況が続きました。大隈重信の盟友であった渋沢栄一や井上馨らは鉄道建設の必要性は感じていたものの、世の情勢を鑑みて大隈重信に対して鉄道建設をあきらめるように進言しました。しかし、大隈重信はその友情を聞き入れることはなく、鉄道建設に邁進していきました。

京都鉄道博物館のSLスチーム号(2019年1月)

1872年(明治3年)になっても、明治新政府はどの路線を幹線とするかを決めあぐねており、同年には東海道、翌年には中山道の調査を行いますが、いずれを幹線とするかを決定することができませんでした。そのため、明治新政府は、イギリス人ブライトンがすでに述べていた「最初は短距離の模範鉄道を東京~横浜間に建設すべきだ」という意見や、外務省の建議による「鉄道の見本とする東京~横浜間の建設を先にすべきだ」という意見を参考として、東京~横浜間にまず鉄道を建設することを決定しました。

東京駅を発着するさまざまな列車(2019年3月)

官設鉄道(官鉄)は、明治時代の初めにできた明治新政府主体の組織であり、現在の東海道本線などの幹線を中心として日本に鉄道を敷設しました。開業当初は外国の鉄道技術に頼ることが多くありました。後に、鉄道技術者の養成所である工技生養成所を設立するなどして日本人の鉄道技術者の養成に注力しました。イギリスから導入された資本と鉄道技術者の指導により、日本初の鉄道となる新橋~横浜間において鉄道の建設に着手しました。その建設の中心となったのはエドモンド・モレルでした。

東京駅(2020年6月)


鉄道敷設

エドモンド・モレルはイギリスの技術者であり、明治時代初期にイギリス公使のハリー・S・パークスの推薦により来日しました。初代の鉄道・建築師長として京浜間の鉄道建設に従事し、軌間を1,067ミリに定めた他、国産の木材を枕木に使用することを決めています。

青梅鉄道公園に保存されるED16とC11(2020年10月)

1869年(明治2年)、右大臣三条実美の私邸において、ハリー・S・パークスと政府高官の岩倉具視,沢宣嘉(のぶよし),大隈重信,伊藤博文が会談し、日本における鉄道建設計画に関する下打ち合わせを行いました。そこで、岩倉具視は鉄道建設はイギリスに協力を依頼し、東京~京都間を幹線として位置づけ、幹線に接続する支線として東京~横浜間,京都~神戸間,長浜~敦賀間を計画していることを明らかにしました。

旧敦賀港駅舎/現・敦賀鉄道資料館(2019年7月)

ハリー・S・パークスは、日本の鉄道建設とその運営については明治新政府が自ら行うべきであると主張し、江戸幕府より鉄道建設の免許を与えられていたアメリカをおさえて、日本に国有鉄道を敷設する強い姿勢を示しました。イギリスのハリー・S・パークスの提案は、イギリス資本で明治新政府の手による鉄道建設ということを強く主張していたため、明治新政府はイギリス資本による鉄道敷設を目指すこととなります。アメリカの場合にはアメリカ主体の鉄道敷設となること、フランスの場合には江戸幕府と明治新政府の対立を利用するものであることが避けられる要因となりました。

青梅鉄道公園に保存される2120形式タンク式蒸気機関車(2020年10月)

エドモンド・モレルは、鉄道の技術教育を提唱するとともに鉄道建設を具体化し、日本鉄道史におけるその功績はきわめて大きかったが、在職わずか1年6か月で病死しました。その墓は横浜外人墓地にあり、1962年(昭和37年)に鉄道記念物に指定されています。

新梅田シティ滝見小路(2023年3月)


官設鉄道(官鉄)

鉄道事業を主管したのは、1870年(明治3年)に民部省・大蔵省に設置された鉄道掛です。その後、工部省が創設され、鉄道事業は工部省主管へと変更されました。

国有鉄道のマーク(2019年1月)

その後主管は以下のように変遷します。

1871年(明治4年)工部省鉄道寮
1877年(明治10年)工部省鉄道局
1885年(明治18年)内閣鉄道局
1889年(明治22年)内閣鉄道庁
1892年(明治25年)逓信省鉄道庁
1893年(明治26年)逓信省鉄道局
1897年(明治30年)逓信省鉄道局(行政事務担当)・逓信省鉄道作業局(鉄道作業事務担当)
1907年(明治40年)逓信省帝国鉄道庁
1908年(明治41年)内閣鉄道院(院電)
1920年(大正9年)鉄道省(省電)
1949年(昭和24年)日本国有鉄道(国電)
1987年(昭和62年)日本国有鉄道分割民営化(JR)


新橋~横浜間開業から東海道本線開通へ

世界初の鉄道が開通してから約50年後の1872年(明治5年)10月14日(旧暦:9月12日)、新橋~横浜間に日本初の鉄道が開業しました。

 旧新橋停車場(2023年2月)

この記念すべき明治5年9月12日、新暦でいうところの1872年10月14日は、1922年(大正11年)に当時の鉄道省によって「鉄道記念日」として制定されています。1994年(平成6年)に当時の運輸省によって「鉄道の日」と改められ、国鉄を継承したJRだけでなく、全鉄道会社にとっての記念日となりました。現在では「鉄道の日」には全国各地で各鉄道会社によってさまざまなイベントが開催されています。

青梅鉄道公園9600形蒸気機関車(2020年10月)

1874年(明治7年)に大阪~神戸間の仮営業を経て、1877年(明治10年)に京都~神戸間が正式に開業しました。特に大阪~京都への延伸については、一度に開通したわけではありません。

京都駅(2019年5月)

1876年(明治9年)7月に向日町まで、9月に大宮通(仮駅)まで、1877年(明治10年)2月に京都へと達しました。このときに、京都~神戸間に設けられた中間駅は向日町,山崎,高槻,茨木,吹田,大阪,西ノ宮(現在の西宮),三ノ宮でした。

吹田駅(2016年12月)

 その後、新橋~横浜間および神戸~大阪~京都間、この東海道本線両端の間の線路は徐々に敷設され、1889年(明治22年)に最後に残った区間である関ヶ原~馬場(現在の膳所)間が開通して全通となりました。1906年(明治39年)には、新橋~神戸間を走破する「最急行」と称する列車を設定しました。最急行は現在の特急にあたる列車種別であり、運賃に加えて急行料金が必要となる初めての列車となりました。この列車はその後、1912年(明治45年)に運転区間が下関まで延長されて、初めての特別急行列車とされています。

工事中の膳所駅(2018年1月)

東海道本線は1964年(昭和39年)に全線の電化を完了しました。1987年(昭和62年)4月1日には国鉄が分割民営化され、東海道本線のうち東京~熱海間はJR東日本、熱海~米原間はJR東海(熱海駅はJR東日本、米原駅はJR西日本)、米原~神戸間はJR西日本に分割されました。

京都駅に到着する東海道本線の車両(2019年1月)


鉄道連絡船

東海道本線が全通する以前は、大津~長浜間においては琵琶湖上を鉄道連絡船が結んでいました。その当時の大津駅(初代)は現在の大津駅(3代)の場所ではなく、琵琶湖岸に置かれていました。当時の大津駅(初代)は現在では京阪電気鉄道のびわ湖浜大津駅(浜大津駅より改称)となっています。

浜大津駅(現在の「びわ湖浜大津駅」)の駅舎(2018年1月)

この最後に残った区間である関ヶ原~馬場(現在の膳所)間が開通すると琵琶湖上の鉄道連絡船は廃止され、大津(初代)~馬場(現在の膳所)間は支線(大津線)となってしまいました。

浜大津駅(現在の「びわ湖浜大津駅」)の駅舎(2018年1月)

大津線は貨物線となり、大津駅(初代)は浜大津駅(現在のびわ湖浜大津駅)、馬場(ばば)駅は大津駅(2代)と改称されました。馬場駅は1880年(明治13年)に開業した滋賀県内における最古の駅です。所在地は大津市馬場(ばんば)ですが、駅名は「ばば」とされました。大津駅(2代)が馬場駅と改称され貨物駅となりますが、1934年(昭和9年)に膳所(ぜぜ)駅と改称され旅客営業を再開しています。

浜大津駅(現在の「びわ湖浜大津駅」)の柱(2018年3月)

現在のびわ湖浜大津駅下車徒歩3分の大津港からは琵琶湖汽船の運航する「ミシガン」「ビアンカ」などに乗船することができます。

大津港に停泊する「ビアンカ」(2018年1月)

琵琶湖上の船舶による輸送の歴史を見ると、1882年(明治15年)に琵琶湖上において長距離航路を運航する船会社が合同して太湖汽船(初代)を設立しています。

大津港に停泊する「ビアンカ」(2018年1月)

太湖汽船(初代)は、現在のびわ湖浜大津駅(当時の大津駅)から長浜駅の間に日本初の鉄道連絡船を就航させています。

浜大津駅(現在の「びわ湖浜大津駅」)の駅舎(2018年1月)

この鉄道連絡船は、1889年(明治22年)に東海道本線が全通するまでの間、東海道の重要な交通路となっていました。東海道本線が全通した後はその需要は減少し、遊覧船事業へと転換していくことになります。

びわ湖浜大津駅から見る大津港(2018年1月)

太湖汽船(初代)は1929年(昭和4年)、京阪電気鉄道と合併しました。そのうち船舶部門は湖南汽船へと譲渡されて、新たな太湖汽船(2代)となりました。その後、太湖汽船(2代)は琵琶湖汽船と社名を変更しています。

びわ湖浜大津駅から見る大津港(2018年1月)


東海道本線旧ルート

当時、鉄道連絡船からバトンを渡された鉄道路線は、琵琶湖岸に沿って進み、少し東へもどるような形となっていました。東進した列車は馬場駅(現在の膳所駅)に辿り着くと、西に向きを変えて逢坂山(おうさかやま)トンネル(東海道本線旧線)を抜けて山科盆地を通り、稲荷山の南側を迂回して稲荷駅から現在の奈良線のルートを通って京都駅へ入りました。これが東海道本線の旧ルート「馬場(現在の膳所)~大谷~山科~稲荷~京都」です。

稲荷駅ランプ小屋(2017年12月)

このルートの工事は1878年(明治11年)に着工していますが、当時においては山間部を通過する初めての鉄道であったため難工事となりました。さらに、それまでの鉄道工事は外国人に依存する形で実現されてきましたが、この工事は日本人の手により進められることとなりました。この工事は1880年(明治13年)に完了し全線開通を果たしています。

京都駅展望台から見た風景(2017年11月)

しかしながら、この旧線ルートは急曲線を抱える他、急勾配の連続であったため、1915年(大正4年)になると線路変更工事が開始されることになります。1921年(大正10年)に新逢坂山トンネルが開通すると、京都~大津(初代)間の東海道本線は新線(現在の東海道本線ルート)に切り替えられることになりました。新線途上に新しい大津駅(3代)が設置され、大津駅(2代)は馬場駅に戻され、貨物駅となりました。

工事中の膳所駅(2018年1月)

一方、関東でもルートが変更になっているところがあります。当時の東海道本線のうち、国府津(こうづ)~沼津間は現在の御殿場線(国府津~松田~駿河小山~御殿場~裾野~沼津)を経由して走行していましたが、1934年(昭和9年)に現在の東海道本線のルート(国府津~小田原~熱海~三島~沼津)に切り替えられています。

東海道本線の西大路~京都間(2019年1月)


日本初の蒸気機関車

日本で初めて蒸気機関車が登場したのは、日本初の鉄道となる新橋~横浜間の走行用としてのものであり、当時10両の蒸気機関車が日本へ輸入されました。このとき、ストックトン=ダーリントン鉄道が開業してから、すでにおよそ50年になろうとしていました。

青梅鉄道公園「C11」タンク式蒸気機関車(2020年10月)

10両のうちたまたま「1号機関車」に設定された機関車は、バルカン・ファウンドリー社(イギリス)製のタンク機関車であり、1871年(明治4年)に製造されたものです。その動輪の直径は1,295ミリとなる小さな機関車です。

京都鉄道博物館:旧二条駅舎前の動輪(2019年1月)

この機関車は最初は「A1」とよばれ、後に「150形」と命名されています。その後、島原鉄道へ転じ、1936年(昭和11年)より東京(万世橋)にあった交通博物館において静態保存されていました。交通博物館が閉館となった後は鉄道博物館(さいたま市)に展示されています。この1号機関車は1958年(昭和33年)には鉄道記念物に指定され、1997年(平成9年)には国の重要文化財に指定されています。

青梅鉄道公園展示/上:150形、中:弁慶号、下:860形

「3号機関車」とよばれた後の「110形」はヨークシャー・エンジン社(イギリス)製の機関車であり、1号機関車よりやや小ぶりの機関車です。1961年(昭和36年)には鉄道記念物に指定され、青梅鉄道公園に保存展示されていましたが、現在ではその展示を終了しています。

蒸気機関車59609号

10両のうちの4両はシャープ・スチュアート社製の「A6」「A7」といわれた蒸気機関車であり、後に「160形」と称されました。その外観および性能は1号機関車とほとんど同じです。現在では、これらと同形式の蒸気機関車が明治村(愛知県)に保存されています。また、他の4両はロバート・スティーブンソン社製の「A4」とよばれ、後に「120形」となりました。

青梅鉄道公園「D51-452」後ろ姿(2020年10月)

蒸気機関車にはタンク機関車とテンダー機関車(炭水車つき機関車)があります。タンク機関車は水および石炭を機関車本体に積載していますが、テンダー機関車は水および石炭を積載した燃料運搬車が接続された機関車となります。タンク機関車の型式番号は「C11」などのようにその数字が10~49、テンダー機関車は「C58」などのようにその数字が50~99となっています。また、アルファベットは動輪(動力を伝える車輪)の数を表し、たとえば「C」は動輪が3つ、「D」は動輪が4つとなります。

京都鉄道博物館「SLスチーム号」(2019年1月)

1877年(明治10年)になると、新橋~横浜間に次いで、京都~神戸間が開業しました。京都~神戸間は新橋~横浜間に比べると、その距離が長くなるため、テンダー機関車を使用することになりました。京都~神戸間に投入された機関車は当初「D1」とよばれ、後に「5000形」とよばれます。これはシャープ社(イギリス)製であり、その出力は新橋~横浜間を走る蒸気機関車より約30%大きいものであったといいます。

新橋駅前に保存されるタンク機関車C11形(2018年9月)

当初こうした蒸気機関車の機関士として活躍し、またその整備や保守を担当したのはイギリス人でした。日本人はその下働きとして鉄道に携わることになります。日本人として初めての機関士が登場したのは1879年(明治12年)のことであり、それから10年以内にはさまざまな職種が日本人だけで運営できるようになりました。

京都鉄道博物館「SLスチーム号」(2019年1月)

1889年(明治22年)に東海道本線が全通した後、高崎~直江津間,上野~青森間,神戸~下関間などが開通し、より多くの機関車が必要となります。機関車を製造する世界の国々からはさまざまな機関車の売り込みが増えるようになり、さまざまな国のさまざまな機関車が輸入されるようになりました。

京都鉄道博物館から京都駅方面をのぞむ(2019年1月)

その後、国内で蒸気機関車を製造しようとする動きが出てきたため、外国から鉄道技術者を多く招き入れ、日本人の鉄道技術者を育成することに注力することになります。そして、ついに1893年(明治26年)、日本初の国産蒸気機関車が誕生しました。この蒸気機関車は後に「860形」(タンク機関車)と名付けられています。

青梅鉄道公園「2120形式タンク式蒸気機関車」(2020年10月)

この日本初の国産蒸気機関車はイギリス人技師の指導の下、森彦三,服部勤らの手により神戸工場で製造されました。この国産1号機は京都~神戸間を走行した後、1918年(大正7年)に樺太鉄道に移籍し、1929年(昭和4年)に廃車となりました。

京都鉄道博物館:旧二条駅舎(2019年1月)

そして、国産2号機となったのは7150形(テンダー機関車)ですが、1895年(明治28年)に手宮工場(小樽市)にて日本人の手だけによって製造されたので、この蒸気機関車こそまさに「国産第1号」となります。その名は日清戦争に勝利した直後ということもあり「大勝(だいしょう)号」と名付けられました。

青梅鉄道公園:腕木式信号機と9600形式蒸気機関車(2020年10月)

1911年(明治44年)頃には日本の蒸気機関車は約3,000両近くにもなっていましたが、1906年(明治39年)には鉄道国有化法の施行によって、それぞれにばらばらに輸入されていた全国のさまざまな蒸気機関車をすべて国鉄にて保守・点検しなければならなくなっていました。それらに関連するコストを削減するため、すべての機関車を国産化するよう方針を転換し、1911年(明治44年)には蒸気機関車の輸入税率を引き上げることにより国産機関車の保護政策を実施します。

京都鉄道博物館:国産初量産型「230形233号機」(2019年1月)

1913年(大正2年)には9600形蒸気機関車、1914年(大正3年)には8620形蒸気機関車が製造され、前者は貨物用、後者は旅客用として大正時代の代表的蒸気機関車となりました。また、急行列車用としては1919年(大正8年)~1928年(昭和3年)にかけて18900形蒸気機関車(後のC51形蒸気機関車)が製造されています。

青梅鉄道公園「9600形式テンダー式蒸気機関車9608号」(2020年10月)

その後、昭和時代に入ってからもさまざまな蒸気機関車が製造されますが、やがて電車に取って代わられるようになっていきます。最終的に国鉄が蒸気機関車の営業を終了したのは1975年(昭和50年)のこととなります。しかしながら、蒸気機関車の人気は今でも衰えず、真岡鐵道のように復活して人気を博している蒸気機関車も数多くあります。

真岡鐡道C12-66号(2020年1月)

一方、日本で初めての電車が走ったのは蒸気機関車が初めて走ったのと同じ明治時代であり、1890年(明治23年)の上野公園でした。当時、上野公園では第3回内国勧業博覧会が行われており、この会場でアメリカから輸入された2両の電車が、公園内に敷設された400メートルの線路上を走りました。短い距離でしたが、乗客を乗せて走行し、人々の人気を博しました。

京都市電2000形電車(2019年1月)

その後、営業用として初めて走行した電車は京都の路面電車であり、それは1895年(明治28年)のことでした。この路面電車は京都~伏見間の7キロほどの距離を時速10キロで走りました。さらにその後、路面電車ではない「電車」が走ったのは1904年(明治37年)、甲武鉄道が敷設した飯田町~中野間でした。


宿駅について

古代の律令体制下においては、全国の行政区域を「五畿七道(ごきしちどう)」または「畿内七道(きないしちどう)」に分けています。これは山城,大和,摂津,河内,和泉の五国と東海道、東山道(とうさんどう/とうせんどう),北陸道,山陽道,山陰道,南海道,西海道の七道をさします。七道は地理的な行政区分でもあり、交通路をも意味します。

京都鉄道博物館にある昔の改札機(2019年1月)

主要街道には、30里(約16キロ)ごとに駅家(えきか/うまや)が設置され、ここに駅馬が常備され、駅の事務を執り行う駅長が常駐しました。これは官吏や通信使の宿泊や逓送(宿場から宿場へ順々に送ること)に役立てられました。

京都鉄道博物館内に復元された昔の時刻表(2019年1月)

東海道は伊賀,伊勢,志摩,尾張,三河,遠江,駿河,伊豆,甲斐,相模,武蔵,安房,下総,上総,常陸となり、東山道は近江,美濃,飛騨,信濃,上野,下野,武蔵,陸奥,出羽となります。古代においては渡河技術が発達しておらず、大きな川の河口に寸断される東海道は、山道が険しく気候も寒冷である東山道より優位な地位を占めることはできませんでした。

青梅鉄道公園に展示される0系新幹線(2020年10月)

しかしながら時代が進み、渡河技術がしだいに高まってくると、道路が平坦で気候も温暖である東海道は、東山道に対して徐々に優位な地位を占めるようになってきました。

SLやまぐち弁当

鎌倉時代に入ると、京都と鎌倉を結ぶ東海道は、鎌倉幕府と京都の朝廷を行き交う使者や通信手段としての飛脚、武士や行商人、神社を参拝する民衆などで盛んに賑わいました。これにより宿場町も栄え、宿駅制度も充実しました。鎌倉幕府が滅亡すると一時期、東海道の地位は低下しますが、室町時代には地方経済も栄えて宿駅制度はさらに発展していきます。

京都鉄道博物館内に復元された昔の出札口(2019年1月)

戦国時代には、東海道に位置する有力大名である北条氏,今川氏,徳川氏,織田氏,浅井氏らが領国経営に勤しんだため、地方経済はさらに栄えて城下町が発展しました。江戸幕府が開かれると、徳川家康は1601年(慶長6年)に東海道に宿駅伝馬制度を定めますが、伝馬とは幕府の公用のため宿駅で乗り継ぐための馬のことをさします。

車内に取り付けられた昔の扇風機(2019年1月)

この制度は、古代の駅伝制や戦国大名によって採用されてきたものですが、より本格的に整備したのが徳川家康です。宿駅伝馬制度の実施により、各宿場では伝馬朱印状をもつ公用文書や荷物を次の宿場へとつなげるために、宿場に人馬を用意しておかなければならなくなりました。江戸時代にはこれにより東海道をはじめとして中山道,甲州街道,日光街道,奥州街道(五街道)が整備され、宿場は大いに栄えるようになります。

紅葉の遊歩道(2020年11月)

それぞれの宿場には、本陣とよばれる大名など身分の高い人々に供せられる宿泊施設も立ち並ぶようになりました。人馬を用意するのはそれぞれの宿場の負担となりましたが、宿泊代や運送費を稼ぐことができる他、土地に課される税金を免除されることとなっていました。こうして東海道五十三次は完成し、五街道やその他の主要街道には一里塚も築かれるようになります。また、江戸時代にはじまる参勤交代では、その通路を江戸幕府から指定された大名がこうした街道を通り、大名らは本陣に宿泊しました。こうして発展してきた東海道に後の「東海道本線」が敷かれることになります。

JR東海313系「熱海行き」(2022年9月)

東海道とは、1716年(正徳6年)あたりまでは江戸(品川)~大坂(守口)間を指したものでしたが、1811(文化8年)頃になると、江戸(品川)~京(大津)間を指すようになり、京~大坂間は京街道とよばれるようになりました。東海道五十三次とは、品川,川崎,神奈川,程ヶ谷,戸塚,藤沢,平塚,大磯,小田原,箱根,三嶋,沼津,原,吉原,蒲原,由井,興津,江尻,府中,鞠子,岡部,藤枝,嶋田,金谷,新坂,掛川,袋井,見付,浜松,舞坂,新居,白須賀,二川,吉田,御油,赤坂,藤川,岡崎,池鯉鮒,鳴海,宮,桑名,四日市,石薬師,庄野,亀山,関,坂の下,土山,水口,石部,草津,大津となります。

東京駅(2019年3月)

日本における鉄道駅と鉄道駅との間の距離すなわち駅間は鉄道の黎明期以来、外国の鉄道に比べて短く設定されてきました。それは、こうした宿駅の設置以降「東海道五十三次」というように、その都市は人が歩くことができる間隔で発展したことに由来します。

東京駅(2019年3月)


駅の種類

現在の駅には鉄道駅,自動車駅,道の駅などがあります。このうち鉄道駅は列車を発着させ、旅客および貨物を乗せたり下ろしたりする施設です。鉄道駅は私たちが普段、乗降するために使用する最も一般的な旅客駅と、貨物列車などが運搬する貨物を取り扱う貨物駅に分類することができます。

東京駅(2019年3月)

また、駅はいつでも利用できると考えてしまうことが多いですがいつも利用できる一般駅と、特別の場合しか利用できない臨時駅という分類もあります。さらに、その営業形態によって分類することもできます。たとえば、その駅を運営している鉄道会社所属の駅員が常駐する直営駅、複数の鉄道会社路線が乗り入れをしている際に駅の業務をある1社が請け負っている業務委託駅、切符の販売や改札業務を駅構内に入っている商店や駅前の商店が請け負っている簡易委託駅、駅員がまったくいない無人駅といった具合です。

自動車駅・周山駅駅舎(2019年8月)

駅にはさまざまな人々が多く集まるため商業施設が建設されることが多く、一般的には活気のある場所となり、まちの中心として発展します。しかしながら、都市部でない地域になると、必ずしも駅がまちの中心となっていない場合も多く見受けられます。

東電鉄バス稲荷前バス停(となりのトトロ)

また、近年ではその駅の周辺に民家などがまったくなく、利用者が極端に少ない上、列車以外の手段で駅まで辿り着くことがきわめて困難な駅について「秘境駅」などとよばれ、逆に人がいないことを魅力として訪れる人たちもいます。

京都鉄道博物館内に復元された昔の改札口(2019年1月)


国鉄の鉄道線路名称

国鉄の線路名称は、1909年(明治42年)に公布された「国有鉄道線路名称(明治42年鉄道院告示第54号)」により定められました。ここでは、大区分となる「部」と小区分となる「線」を設定しています。

東京駅丸の内駅舎の天井(2019年3月)

たとえば、東海道本線についてみると、当初は東京~神戸間を「東海道本線」とよび、東海道本線に加えて山手線,鶴見線,御殿場線,福知山線などの支線を含めて「東海道線」としていました。

山手線(2020年7月)

すなわち、支線を含めた「東海道線」が大区分となる「部」であり、その中に東海道本線,山手線,鶴見線,御殿場線,福知山線などの小区分となる「線」があるというものです。

京都駅付近から滋賀方面を見る(2019年1月)

また、小区分の筆頭となる「線」については「東海道本線」のように「本線」と設定されます。

東京駅丸の内駅舎(2019年3月)

ただし、支線をもたない場合は「本線」となることができませんでした。

山崎駅を出発する普通列車(2017年4月)

その後、変更が実施されるなどして、国鉄分割民営化後はJR各社がそれぞれのその線路名称を引き継いだり、独自に名称を定めたりしながら現在に至ります。

東京駅(2019年3月)

東海道線についてみると、国鉄分割民営化の際に「東海道本線」のみを「東海道線」と定めたようですが、現在では「東海道本線」「東海道線」のいずれの名称も従来の「東海道本線」に対して用いられています。

大阪駅に停車する223系車両(2017年2月)

近年ではJR各社がそれぞれに愛称を定めている例も見受けられます。たとえば、JR西日本では、北陸本線の長浜~米原間および東海道本線の米原~京都間を「琵琶湖線」、東海道本線のうち京都大阪間を「JR京都線」、東海道本線の大阪~神戸間および山陽本線の神戸~姫路間を「JR神戸線」、京都~園部間(山陰本線)には「嵯峨野線」などと愛称を付し、駅においても愛称で案内などをしています。

山崎駅に到着する「京都行き」普通列車(2017年4月)

JR西日本が「JR京都線」および「琵琶湖線」の愛称を用いるようになったのは1988年(昭和63年)からです。JR京都線については、すでにこの時点で阪急京都線および近鉄京都線があったことから混同しないように「JR」と冠することになりました。

米原駅に停車する東海道本線の車両(2017年8月)

琵琶湖線については、地元などからの要望もありこの愛称としました。その後、1991年(平成3年)に田村~長浜間(北陸本線の一部)が交流電化から直流電化へと変更されたため、米原~田村~長浜間も琵琶湖線に加えられることになりました。なお、現在では、長浜~敦賀間も直流電化へと変更されていますが、この区間については琵琶湖線に加えられていません。


JR京都線

東海道本線のうち京都大阪間をJR京都線と呼称しています。JR京都線を走る普通列車には、321系207系が使用されています。207系は1991年(平成3年)より投入された車両ですが、その製造はすでに終了しています。順次321系へと置き換えられています。321系は2005年(平成17年)から製造開始・投入され、201系や205系のすべての置き換えを完了しています。

京都駅に停車する207系車両(2017年1月)

221系、223系や225系によって運行される普通列車は、JR京都線内では大阪~高槻間を快速運転、高槻以東は普通列車として運転されます。ただし、一部の列車においてはJR京都線内の全区間(大阪京都間)を快速運転する列車もあります。


サンライズエクスプレス

東海道本線は日本の鉄道史を象徴してきた路線です。現在でも、その営業距離は589.5キロ(支線を除く)にもおよび、駅数186駅を抱える日本の大動脈です。しかしながら、現在では全線走破する列車はほとんどありません。

東京駅(2019年3月)

現在では、寝台特急「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」(愛称「サンライズエクスプレス)のみが東海道本線全線を走ります。

サンライズエクスプレス(2022年12月)

「サンライズ瀬戸」の運行区間は高松~東京間、「サンライズ出雲」の運行区間は伯備線経由の出雲市~東京間です。2つの列車は岡山~東京間においては連結して運行されます。

サンライズエクスプレス(2022年12月)


特急「あさかぜ」

特急「あさかぜ」は東海道本線を走る特急としてデビューし、東京~博多間を一夜で結ぶ寝台特急として、1956年(昭和31年)~2005年(平成17年)の間活躍しました。

「あさかぜ」ヘッドマーク(2020年10月)

1958年(昭和33年)に青地に白ラインが入った20系客車を採用し、後の「ブルートレイン」の先駆けとなった戦後初の夜行特急列車です。夕方、東京および博多を出発し、昼には博多および東京に到着しました。2005年(平成17年)に廃止となっています。

寝台車(2019年1月)


特急「はやぶさ」

「はやぶさ」ヘッドマーク(2020年10月)


「びわこライナー」と「びわこエクスプレス」

琵琶湖線(京都~米原~長浜間)を走る列車には「びわこエクスプレス」という列車がありますが、この前身となるのが「びわこライナー」です。当初の「びわこライナー」は「ホームライナー」として1987年(昭和62年)にデビューしましたが、それは北陸本線の特急列車の間合い運用として大阪~米原間の通勤客を運んだのがそのはじまりとなります。

大阪駅に停車する草津行「びわこエクスプレス」(2017年8月)

ホームライナーは国鉄時代に必ず着席することをその目的として運行された列車であり、後に民営化後のJR各社や私鉄などにおいても同様の列車を通勤時間帯などに運行しています。こうした列車を総称して「通勤ライナー」などとよぶこともあります。また、間合い運用というのは、ある列車が本来の運用を終了した後、次の運用開始時刻までの間の時間を利用して別の運用にあてる方法のことをいいます。

大阪駅に停車する草津行「びわこエクスプレス」(2017年8月)

2003年(平成15年)のダイヤ改正により「びわこライナー」は特急列車へ格上げされ、特急「びわこエクスプレス」として運行されることになりました。これは北陸本線において新型車両が増備されることになり、「びわこライナー」についても車両が置き換えることになったためです。

大阪駅に停車する草津行「びわこエクスプレス」(2017年8月)

なお、2019年(平成31年)より特急「びわこエクスプレス」の列車名称は通勤特急「びわこエクスプレス」に変更されています。「びわこエクスプレス」は大阪~米原間において1往復運行されていましたが、2014年(平成26年)に草津行き1本が増発されることになりました。これにより、現在は1号が大阪行き、2号が草津行き、4号が米原行きとなっています。車両は、1号と4号は特急「サンダーバード」の間合い運用となるため683系、2号は特急「はまかぜ」の間合い運用となるためキハ189系が使用されています。


夜行急行「月光」

「月の光(ムーンライト)」より夜をイメージできることから、その名は夜行列車の愛称として使用されてきました。急行「月光」は、東京~大阪間の夜行急行として「銀河」「明星」「彗星」に次いで1953年(昭和28年)に登場しました。ところが、1964年(昭和39年)に東京~新大阪間に東海道新幹線が開業したことにより、東海道本線を昼間に走る特急はすべて廃止され、夜行急行は「月光」と「銀河」「明星」「金星」のみとなってしまいました。このとき「月光」は何とか生き残ることができましたが、東海道新幹線のダイヤ改正による増発のため1965年(昭和40年)に「月光」と「金星」は姿を消すことになりました。

京都鉄道博物館に展示される581系電車「月光」(2019年1月)
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それから僅か2年後の1967年(昭和42年)、「月光」という名の列車は「世界初の昼夜兼行車両による寝台電車」として復活します。車両本体に動力をもつ寝台電車の運行は1902年(明治35年)のアメリカに遡りますが、このときは大きな広がりを見せることはありませんでした。一方、「月光」に充てられた581系(交直両用車〔交流区間60ヘルツ対応〕)/583系(交直両用車〔交流区間50・60ヘルツ対応〕)は昼夜兼行車両、すなわち昼間は通常の座席形式、夜は座席を寝台に変更して寝台車として利用できる特殊な仕様であったため、酷使されることになります。寝台特急「月光」として新大阪~博多間を結ぶ581系/583系電車は、寝台特急として博多を出発して翌朝新大阪に到着すると、昼間は「みどり」として大分まで取って返し、夜になるとまた特急「月光」として博多に向かうという過酷な仕事をこなしました。

京都鉄道博物館に展示される581系電車「月光」(2019年1月)

このような合わせ技をもつことから581系/583系電車は、1972年(昭和47年)にかけて434両も製造され、八面六臂の活躍をすることになります。その後581系/583系電車はさまざまな特急列車に充てられるようになり、「月光形電車」と呼称されるようになりました。1972年(昭和47年)以降、寝台特急「月光」は岡山~博多・西鹿児島(現在の鹿児島中央)を結ぶようになり、1975年(昭和50年)になると二度目となる「月光」の名の消失となり、その後「月光」の名は復活していません。


ムーンライトながら

1967年(昭和42年)になると、東海道新幹線の開業や特急・急行列車の増発などにより、夜行普通列車は東京~大阪間の1往復のみと豊橋~東京間の上り列車1本のみとなりました。

185系「ムーンライトながら」(2017年8月)

廃止が決定していたこれらの夜行普通列車は利用者らによる要望により、これまで運行されていた臨時急行列車「ながら3号」を普通列車化して存続することになりました。

185系「ムーンライトながら」(2017年8月)

それ以来、東京~大垣間を結んできた通称「大垣夜行」を代替して、1996年(平成8年)に快速「ムーンライトながら」が登場しました。

「ムーンライトながら」行先標(2017年8月)

上の写真は快速「ムーンライトながら」の行先標です。鉄道やバスに表示される行き先などを示したものを行先標(行先札)などといいます。国鉄時代には、行先標(行先札)の略号を「サボ」としていたため「サボ」とよばれることもあります。これは「サインボード」などの略ともいわれます。

北陸線電化記念館に展示される行先札(2017年8月)

「ムーンライトながら」は空席が目立つようになってきた2009年(平成21年)以降は臨時列車として運行されてきましたが、2020年(令和2年)は新型コロナウイルス感染症の影響により夏・冬ともに運行されませんでした。2021年(令和3年)に廃止が発表され、2020年(令和2年)3月の運行が最後の運行となりました。これにより「月の光(ムーンライト)」を名乗る列車はすべて消失してしまいました。

快速「ムーンライトながら」(2017年8月)


ジョイフルトレイン「あすか」(2016年10月)
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ジョイフルトレイン「あすか」

「あすか」はJR西日本の保有するジョイフルトレインの一つであり、1987年(昭和62年)に7両が登場しました。ジョイフルトレインとは、団体専用列車、イベント列車、観光列車などとして使用するための車両のことをいいます。

 

吹田総合車両所に回送された「あすか」(2016年10月)
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車内には畳があったり、宴会ができたり、座席の配置が工夫してあり外の景色が見やすくなっていたりというような特徴をもちます。

 

吹田総合車両所に回送された「あすか」(2016年10月)

 

バブル期にはこうした列車が多く登場しましたが、最近では団体旅行などが減少し、ジョイフルトレインも少なくなっているます。

 

吹田総合車両所に回送された「あすか」(2016年10月)
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あすか」の車体には扇が描かれていますが、扇の配色にも伝統的な日本古来の色が使用されています。また、客室の多くは和風となっています。2016年(平成28年)中に7両のうち4両が廃車となっています。

 

吹田総合車両所に回送された「あすか」(2016年10月)
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1.新快速の源流となるモハ43系(急電) 2.急電の消滅と新快速の登場 3.153系から117系へ 4.近年の新快速車両

 

京都鉄道博物館に展示される新快速のヘッドマーク(2019年1月)


新快速の源流となるモハ43系(急電)

京阪神地区において、JR西日本が運行する新快速は快速列車の一種であり、特急・急行列車を除いて最も停車駅が少ない速達列車です。播州赤穂・上郡・網干・姫路大阪京都米原長浜・近江塩津・敦賀を結んでおり、中でも大阪京都間においては大阪駅新大阪駅、高槻駅、京都駅にのみしか停車しない速達列車となっています。

 

快速列車停車駅・桂川駅/2008年開業(2016年9月)
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この新快速の源流となるのは、1934年(昭和9年)に吹田~須磨間が電化されると同時に投入され、当時の京阪神地区における速達列車となったモハ43系です。モハ43系は2ドア・セミクロスシートをもち、急行として大阪神戸間を28分で結びました。当時の停車駅は大阪駅、三ノ宮駅、神戸駅でした。その後、1936年(昭和11年)には元町駅を停車駅として追加しています。

 

国鉄は当時、急行料金が必要な列車を「急行列車」とよび、急行料金が不要な列車を「急行電車」とよんでいました。先に述べたモハ43系は急行料金不要の急行電車であり、当時は「急電」とよばれました。これをを継いだのが、1936年(昭和11年)に登場したモハ52系です。

 

吹田総合車両所に展示されるモハ52系(2016年10月)
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モハ52系はまさに京阪神地区の急行電車として使用するために作られた車両であり、その車体形状としては流線形を取り入れ、編成全体を固定編成としました。また、車両床下にはスカートを採用し、車体塗装はクリーム色とマルーン色のツートンカラーとしました。

 

吹田総合車両所に展示されるモハ52系(2016年10月)
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モハ52系はその美しい流線形の姿から、後世の電車史にまさに「名車」として語り継がれることとなります。当時はこの名車を「流電」とよんでいました。


急電の消滅と新快速の登場

1937年(昭和12年)になると、急電(急行電車)の運転区間は京都神戸間に延長され、京都大阪間はノンストップ36分で結ばれるようになっていました。その後一時期、戦争が激化したことにより休止を余儀なくされますが、1949年(昭和24年)に急電(急行電車)は復活を果たしています。そして、1950年(昭和25年)になると、従来の流電(モハ52系)を彷彿させるクリーム色とマルーン色のツートンカラーを施した80系電車(モハ80系)が投入されるようになります。

 

この80系電車(モハ80系)は京阪神地区の急電(急行電車)として投入されるのに先立って、客車に類似したスタイルと車内設備をもつ本格的長距離用電車として東京~沼津間において営業運転を開始していました。このときの80系電車(モハ80系)はオレンジ色と緑色のツートンカラーが施されていました。後にこの80系電車(モハ80系)は「湘南形電車(湘南電車)」とよばれるようになり、この言葉は国鉄の長距離列車の総称として使用されるようになりました。また、オレンジ色と緑色のツートンカラーも「湘南色」とよばれるようになります。

 

80系電車(モハ80系)が京阪神地区の急電(急行電車)として投入される際、湘南色塗装は京阪神地区には馴染まないことから、往年の流電(モハ52系)を想起させるクリーム色とマルーン色のツートンカラーとしました。しかしながらその後、急電(急行電車)が増発されたことから80系電車(モハ80系)が不足するようになり、その他の車両が使用されることもありました。

 

1956年(昭和31年)に一部の急電(急行電車)米原まで運転区間が延長されるようになりますが、1957年(昭和32年)には「急行電車」の名称が「快速電車」と変更されることになりました。これにより、急電は事実上消滅してしまうことになります。その後、快速電車は高槻駅、芦屋駅を停車駅として追加し、1964年(昭和39年)には東海道新幹線が開通したことをきっかけとして新大阪駅を停車駅に加えました。さらに、1970年(昭和45年)の大阪万博開催をきっかけとして茨木駅も停車としました。

 

国鉄は「私鉄王国・関西」の牙城を崩すために大阪万博終了後の1970年(昭和45年)、京都~西明石間において新しい列車種別としての新快速を登場させました。新快速は特急料金などが不要であり、列車種別としては快速の一種ですが、現在の京阪神地区においてはその最上位列車となっています。初めて登場した新快速の車両は横須賀線色113系ですが、横須賀線色(スカ色)とはクリーム色と青色のツートンカラーをさします。この車両は大阪万博における観光客輸送に活躍した車両を転用したものですが、当初は1日6往復のみの運行でした。

 

新快速の運転区間となった京都~西明石間における停車駅は大阪駅、三ノ宮駅、明石駅のみであり、すでに東海道新幹線が開通していたにもかかわらず、すべての新幹線が停車する新大阪駅には新快速は停車しませんでした。その理由は東海道本線と並行して走る私鉄への対抗策でもありました。その後、1971年(昭和46年)には、運転区間を草津駅まで延長し、大津駅石山駅を停車駅として追加しています。


153系から117系へ

1972年(昭和47年)に山陽新幹線が開業すると山陽本線を走っていた急行が廃止されることとなり、ここで使用されていた153系を京阪神地区の新快速増発増強用として転用することになりました。その塗色も白い車体に青色のラインを帯びたものへと改められ、この色は「新快速色」とよばれるようになりました。1972年(昭和47年)から走りはじめたこの新快速は、京都大阪間をわずか29分で結び、「ブルーライナー」の愛称で親しまれるようになりました。

 

大阪の電車・列車シリーズ記念入場券
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停車駅について見ると、1972年(昭和47年)に運転区間が姫路駅まで延長されましたが、明石~姫路間の停車駅は加古川駅のみでした。そして、1978年(昭和53年)には神戸駅、1985年(昭和60年)には新大阪駅、1986年(昭和61年)には山科駅と停車駅がどんどん増えることになります。

 

京都鉄道博物館に展示される新快速の模型電車(2019年1月)

 

153系の老朽化が進むと、1980年(昭和55年)には117系が投入されるようになりました。117系は近郊形電車となりますが、前頭部形状を流線形、車体色はクリーム色を基調としてマルーン色のラインを帯びたものとしました。これはまさにかつての名車である流電(モハ52系)を意識した車両であり、その愛称を公募により「シティライナー」としました。車内は2ドア・転換クロスシートが採用されています。

 

京都鉄道博物館に展示されるシティライナーのポスター(2019年1月)

 

1986年(昭和61年)になると、新快速の運転区間は彦根駅まで延長され、停車駅は守山駅、野洲駅、近江八幡駅、能登川駅となりました。

 

守山駅(2017年7月)

 

さらに、1988年(昭和63年)には米原駅まで運転区間が延長され、1990年(平成2年)からは一部の新快速が高槻駅、芦屋駅にも停車するようになります。

 

米原駅に停車する新快速車両(2017年8月)


近年の新快速車両

1989年(平成元年)になると221系近郊形電車が投入されるようになりました。ベースカラーは白を用いてブラウンとブルーの帯を配し、明るいイメージを醸し出しています。そのコンセプトを「パノラマ通勤車」とし、通勤利用から観光利用まで対応できるように3扉転換クロスシートを採用しています。また、1991年(平成3年)からは時速120キロ運転を開始しています。

 

1995年(平成7年)に投入された223系(1000番台・2000番台)は近郊形電車として初めての最高時速130キロ運転機能を所持しています。その車体デザインは、阪和線・関西空港線で先にデビューしていた223系(0番台)とは少し変更されています。1999年(平成11年)以降に223系が大量投入され、2000年(平成12年)になると全車223系への置き換えが完了し、時速130キロ運転を実現しています。停車駅について見ると、1997年(平成9年)には尼崎駅が停車駅に追加され、高槻駅にすべての新快速が停車するようになります。また、2003年(平成15年)になると、芦屋駅にもすべての新快速が停車するようになります。2011年(平成23年)には加えて南草津駅が停車駅となり現在へと至ります。2011年(平成23年)に投入された225系は、JR西日本が今後の近郊形直流電車の標準車両と開発したものであり、グッドデザイン賞(日本産業デザイン振興会)を受賞しています。

 

快速列車停車駅・桂川駅/2008年開業(2016年9月)img_1304


新橋駅

1872年(明治5年)10月14日、日本初の鉄道「新橋~横浜」間が開通しました。ここにいう「新橋駅(初代)」は現存する「新橋駅(2代)」ではありません。すなわち、1872年(明治5年)に敷設された新橋~横浜間の起点となった新橋駅(初代)は「初代新橋駅」をさし、このときの新橋駅(初代)は後に「汐留駅」となっています。汐留駅は貨物駅となった後、1986年(昭和61年)に廃止されています。

品川駅に停車する上野東京ライン・常磐線直通列車(2018年8月)

開業当時の新橋駅(初代)駅舎は西洋建築の駅舎であり、リチャード・ブリジェンスにより設計されたものです。新橋駅(初代)は長らくの間、ターミナル駅として発展しましたが、1914年(大正3年)に東京駅が完成するとその機能は東京駅へと移っていくことになります。

新橋駅前に保存されるC11形(2018年9月)

一方、現在の新橋駅(2代)はもともと「烏森駅」として開業しています。烏森駅は1909年(明治42年)に旅客駅として仮本屋で営業を開始し、1914年(大正3年)に本屋が完成し、烏森駅が「新橋駅(2代)」と改称されました。新橋駅(2代)は東京都港区にあり、JR線,東京メトロ銀座線,都営地下鉄浅草線,ゆりかもめが乗り入れています。このうち、JR線について見ると、線路名称上は東海道本線1路線のみの乗り入れとなりますが、運転系統上では東海道線,京浜東北線,山手線,横須賀線が乗り入れていることになります。

秋葉原駅に到着する山手線の車両(2020年7月)

現在の新橋駅(2代)の西口広場はSL広場ともよばれますが、その名前の由来となるのが鉄道100年を記念して駅前に保存される蒸気機関車C11-292です。C11-292は1945年(昭和20年)に日本車輛により完成し、山陽本線へと配属され、播但線や姫新線などで活躍しました。したがって、C11-292は新橋駅(2代)前にありながらこの周辺では走っていなかったということになります。C11形はタンク式とよばれる小型の蒸気機関車であり、主に近距離路線や貨車の入れ替えなどに使用されていました。

蒸気機関車C11-292の前面(2018年9月)

もともと「新橋」という地名は外堀(後の汐留川)に架かっていた東海道の橋に由来する名称です。1710年(宝永7年)にこの地に芝口御門が造られたことにより、新橋は芝口御門橋と名称を変更されることになりました。しかし、1724年(享保9年)に芝口御門が消失してしまったものの再建されず、旧称の「新橋」に戻されています。

蒸気機関車C11-292の後ろ姿(2018年9月)


品川駅

1872年(明治5年)10月14日に新橋(後の汐留駅)~横浜(現在の桜木町駅)間の開通式が行われ、翌10月15日より正式に営業運転が開始されました。しかし、厳密にいうと日本最初の鉄道が走ったのはこのときではありません。なぜなら、これに先立って6月12日に品川~横浜(現在の桜木町駅)間が仮開業しています。

品川駅駅名標(2018年9月)

したがって、「鉄道開通の話」をするたびに取りあげられる新橋駅(後の汐留駅)よりも先に品川駅は開業していたことになるので、品川駅は「わが国最古の駅」ということになります。

品川駅駅名標(2018年11月)

鉄道の路線にはその起点からの距離を表す距離標が設置されていますが、これは「キロメートル」の単位によって表示されるため「キロポスト」と称されることもあります。キロポストの起点を表す標識は「ゼロキロポスト」とよばれます。品川駅には「ゼロキロポスト」がありますが、東海道本線のものではありません。日本初の鉄道の起点として「ゼロキロポスト」(当時はマイルで計測されたので「ゼロマイルポスト」)が設置されたのは新橋駅であり、これは1958年(昭和33年)に鉄道記念物に指定されています。

ホームにある安全記念碑(2018年8月)

さて、現在の品川駅にある「ゼロキロポスト」ですが、これは山手線のものであり、品川駅は山手線の起点であるということです。山手線は環状運転をしているので起点や終点といわれると不思議に感じますが、山手線の起点は品川駅、終点は田端駅となっています。すなわち、路線名称としては品川~新宿~田端間が山手線、田端~東京間が東北本線、東京~品川間が東海道本線となります。

山手線の車両E235系(2020年10月)

品川駅のホームには品川駅開業130周年安全祈念碑があり、品川駅開業130年の際に鉄道安全を祈願(品川駅開業130周年安全祈念碑)して設置されたものです。この安全祈念碑は古い電気機関車の動輪とレールからできています。また、祈念碑上部には鐘が取り付けられていますが、これは動輪よりあとの時代に取り付けられたものです。

安全祈念碑上部に取り付けられる鐘(2018年8月)


横浜駅

一方、新橋~横浜間の終点となった横浜駅(初代)は現在の横浜駅ではありません。横浜駅(初代)はリチャード・ブリジェンスにより新橋駅(初代)駅舎と同じデザインで建築されました。リチャード・ブリジェンスはバーミンガム(イギリス)生まれであり、1864年(元治元年)に来日し横浜で土木建築事務所を開いています。また、日本初の鉄道の開業に先立ち、高島嘉右衛門(たかしまかえもん)は1870年(明治3年)、大隈重信らに京浜間の鉄道敷設を進言しています。高島嘉右衛門は高島易断の開祖ですが、明治時代​に横浜の発展に寄与し「横浜の父」ともよばれています。ちなみに、横浜駅(初代)は、1915年(大正4年)に横浜駅(2代)が誕生した際に「桜木町駅」と改称されています。したがって、現在の新橋駅(初代)も横浜駅(初代)も、厳密にいうと新橋~横浜間が開業した当時の駅ではないということになります。


JR長岡京駅

長岡京桓武天皇により造営された都であり、それまで都のあった平城京より784年(延暦3年)に遷都されました。このときから10年間だけ、長岡京は当時のわが国の首都ということになります。

長岡宮跡碑が立つ周辺の様子(2018年11月)

当時の長岡京は現在における長岡京市,向日市,大山崎町,京都市まで及んでおり、南北5.3キロ,東西4.3キロにわたります。

現地案内板による長岡京全体像(2018年11月)

この広大な敷地面積は平城京よりも大きく、平安京に匹敵するほどの大きさということになります。現在ではその地下に長岡京の遺跡(長岡京跡)が長い眠りについています。

現地案内板による長岡京全体像(2018年11月)

長岡京という名は当時のこの辺りの長岡という地名に由来しますが、長岡の地は向日神社のある低い丘陵(通称「向日丘陵」)一帯を示し、当時の詔には「水陸の便有りて、都を長岡に建つ」とあります。

長岡宮跡碑が立つ周辺の様子(2018年11月)

長岡京は大きく宮域(きゅういき)と京域(きょういき)に分けられます。宮域は当時「長岡宮(ながおかきゅう)」とよばれ、長岡京の敷地における北部中央に位置する場所であり、現在でいうところの向日市あたりということになります。

現地に立つ長岡京の説明板(2018年11月)

ここには国家の中枢機関が置かれ、大極殿(だいごくでん)や朝堂院(ちょうどういん)、内裏(だいり)などがありました。大極殿は天皇が政治を司る場所、朝堂院は国儀大礼を行う場所、内裏は天皇の住まいということになります。当時の向日市のこの場所は、今でいうところの「霞が関」のような場所だったといえます。

現地に立つ長岡京の説明板(2018年11月)

大極殿という名は中国における宮殿の正殿「大極殿」に由来します。大極とは天空の中心となる北極星をさしますが、当時の天皇は中国の天文思想に習って世界を支配する中心としてこの名を採用しました。このことからも、大極殿は当時存在した多くの国の役所の中でも最も重要な施設の一つであるということがわかります。

現地案内板による長岡宮模型図(2018年11月)

模型に見られる大極殿は最も北の位置、朝堂院は最も南の位置に置かれています。これらは模型によると塀で囲まれていますが、この塀は、回廊とよばれる通路のある塀や築地(ついじ)とよばれる土塀となっていました。

長岡宮跡碑が立つ周辺の様子(2018年11月)

長岡京の大極殿跡が発掘されたのは1961年(昭和36年)のことですが、1964年(昭和39年)に「長岡宮跡」として国の史跡に指定されています。その後、この辺りで発見される重要遺跡は長岡宮跡の追加指定となっています。国が指定した史跡は一般的に重要文化財に相当します。

長岡宮跡碑が立つ周辺の様子(2018年11月)

一方の京域はこの宮域を取り囲む街区であり、中央には朱雀大路(すざくおおじ)が走ります。

現地案内板による長岡京条坊復元図(2018年11月)

これを中心として、縦横に大路と小路(こうじ)が碁盤の目のように配されています。この区画内には、貴族の邸宅や長岡宮に勤務する役人の住宅街がありました。

現地案内板による長岡京条坊復元図(2018年11月)

長岡京時代に経済の中心となったのは現在の長岡京市ですが、現在の長岡京市の中心となる駅はJR京都線(東海道本線)の長岡京駅となります。長岡京駅はもともと1931年(昭和6年)、東海道本線の向日町駅山崎駅の間に「神足(こうたり)駅」として開業しました。

山崎駅駅名標(2018年11月)

1972年(昭和47年)には神足駅(現在の長岡京駅)のある自治体名が長岡京市となりましたが、駅名はそのまま神足駅とされていました。その後、1995年(平成7年)に長岡京駅と改称されました。

「史跡長岡宮跡」碑(2018年11月)


JR山崎駅

当時の長岡京の玄関口となった港は現在の大山崎町と淀(京都市伏見区)付近にあったといいます。大山崎町は桂川,宇治川,木津川の合流地点であるため、古くから交通の要衝として栄えました。

山崎駅駅舎(2017年4月)

河川がある場所の行き交いを便利にするためには橋が必要となりますが、古くは725年(神亀2年)に行基がこの地に橋を架けて布教の拠点としています。そして、長岡京時代にも遷都にともない、橋が架けられています。大山崎町は京都府内における最も面積の小さい自治体ですが、町内にはJR京都線(東海道本線)の山崎駅と阪急電鉄大山崎駅があります。

山崎駅構内通路(2017年4月)

山崎駅は1876年(明治9年)に高槻駅と向日町駅の間に設置されました。

京都方面行きホームへの階段(2017年4月)

また、山崎駅はJR京都線内において最も大阪府よりにある京都府内の駅です。そのため、駅敷地の一部は大阪府内にあり、ホーム上には府境を示す看板を見ることができます。

大阪方面行きホーム上にある府境標(2018年11月)


神戸駅

D51形蒸気機関車の愛称「デゴイチ」は日本の蒸気機関車の代名詞となっています。その保存機のうちの1両となるD51-1072はJR神戸線(東海道本線内の大阪~神戸間および山陽本線内の神戸~姫路間の愛称)神戸駅近くの高架線脇にあります。

神戸駅近くにあるD51-1072(2019年4月)

蒸気機関車の前にある碑には「昭和19年から昭和50年まだ30余年の長いあいだ活躍した君を、神戸市民は東海道本線,山陽本線の起終点近く相生橋跡のこの地に迎える。近代の鉄道史に不滅の功績を残した君の雄姿は地域の象徴としていつまでも神戸市民に称賛され親しまれ続けることだろう」とあります。D51-1072が製造されたのは1944年(昭和19年)のことであり、引退したのは1975年(昭和50年)のことでした。その全長は19.73メートル,全巾2.93メートル,全高3.98メートル、全重量は87トンです。

神戸駅近くにあるD51-1072(2019年4月)

神戸駅は1874年(明治7年)、日本で2番目となる神戸~大阪間の鉄道の開通の際に開業しています。建設当時の神戸駅は現在の神戸駅の位置より少し東南寄りにありました。レンガ造りと木造を組み合わせたイギリス人技師の設計による駅舎でした。窓にはビードロが配され、平屋建ての豪華でモダンな駅舎でした。そのホームは1面2線を有する頭端式ホームとなっていました。また、設備としても、機関庫や客車庫などの車庫、車両を修理する工場などを併設した拠点駅として誕生しました。

神戸駅北口にある神戸駅の説明(2019年4月)

2代目駅舎は、旧湊川貨物駅(現在のハーバーランド一帯)を合わせた2階建てのレンガ造りの巨大な駅舎となりました。これは、山陽鉄道との接続を目的とする神戸以西の鉄道延長を目指したことによるものです。この2代目駅舎が完成したのは1889年(明治22年)のことであり、同年東海道本線が全通となっています。

神戸駅構内の柱上部(2019年4月)

これにより神戸駅は東海道本線の終点となりました。また、1906年(明治39年)には山陽鉄道が国有化されたことから、山陽本線の起点となっています。現在留置線となっている6番線の浜側には起点を示すゼロキロポストが設置されています。

現在の神戸駅北口(2019年4月)

3代目駅舎は1934年(昭和9年)、踏切解消のため国鉄最初の高架駅として完成しました。3代目駅舎の装飾は貴賓室(旧駅長室)に代表されるように華麗なものとなっています。この貴賓室は昭和天皇も使用されています。その後、この駅舎は2009年(平成21年)に近代化産業遺産に認定されています。

神戸夢見鶏(2019年4月)

神戸駅北口に設置される神戸夢見鶏は待ち合わせ場所になっています。神戸夢見鶏について、「風を待ち、進む方向を見つめ、旅立ちを夢見る風見鶏。神戸を象徴する六甲山や神戸港を光を受けて「緑」に輝く積層ガラスで表現しています」との説明があります。