山陽本線・山陰本線・赤穂線・伯備線[JR西日本・JR九州]

投稿者: | 2018-09-17

山陽鉄道と山陽本線

山陽本線は、神戸~門司間(神戸―兵庫―新長田―鷹取―須磨海浜公園―須磨―塩屋―垂水―舞子―朝霧―明石―西明石―大久保―魚住―土山―東加古川―加古川―宝殿―曽根―ひめじ別所―御着―東姫路―姫路―英賀保―はりま勝原―網干―竜野―相生―有年―上郡―三石―吉永―和気―熊山―万富―瀬戸―上道―東岡山―高島―西川原―岡山―北長瀬―庭瀬―中庄―倉敷―西阿知―新倉敷―金光―鴨方―里庄―笠岡―大門―東福山―福山―備後赤坂―松永―東尾道―尾道―糸崎―三原―本郷―河内―入野―白市―西高屋―西条―寺家―八本松―瀬野―中野東―安芸中野―海田市―向洋―天神川―広島―新白島―横川―西広島―新井口―五日市―廿日市―宮内串戸―阿品―宮島口―前空―大野浦―玖波―大竹―和木―岩国―南岩国―藤生―通津―由宇―神代―大畠―柳井港―田布施―岩田―島田―光―下松―櫛ケ浜―徳山―新南陽―福川―戸田―富海―防府―大道―四辻―新山口―嘉川―本由良―厚東―宇部―小野田―厚狭―埴生―小月―長府―新下関―幡生―下関―門司)を結ぶ534.4キロに渡る長い路線です。

神戸駅近くにあるD51-1072(2019年4月)

東海道本線大阪神戸間および山陽本線の神戸~姫路間については、1988年(昭和63年)より「JR神戸線」という愛称を付けています。神戸駅東海道本線と山陽本線の区切りとなる駅ですが、運行系統上はこの駅を始発駅および終着駅とする列車はほとんどなく、東海道本線と山陽本線において直通運転が行われています。山陽本線は、山陽鉄道が1888年(明治21年)に兵庫~明石間を開通させたことがそのはじまりとなります。その後すぐに、明石~姫路間を延伸開業し、1889年(明治22年)には兵庫~神戸間を開通させて東海道本線との接続が成りました。

京都鉄道博物館の展示(2019年1月)

さらに順次西へ延伸していき、1891年(明治24年)には岡山,1892年(明治25年)には三原(現在の糸崎駅),1894年(明治27年)には広島,1897年(明治30年)には徳山,1898年(明治31年)には三田尻(現在の防府駅),1900年(明治33年)には厚狭,1901年(明治34年)には馬関(後の下関駅)まで延伸されて山陽鉄道は全通となります。

山陽新幹線で「こだま」として運用される700系車両(2019年1月)

山陽鉄道の新しいサービスとしては、1898年(明治31年)からお座敷客車や食堂車、寝台車など新たな車両を次々と投入し、1902年(明治35年)にはステーションホテルの経営に着手しています。また、先に関西鉄道が導入していた手荷物運搬サービスについて、山陽鉄道がこれに本格的に取り組み「赤帽制度」として確立しています。その他にも、急行列車の運転をはじめたり、列車ボーイを導入したりしています。その積極的な経営手法は、数々の日本で初めての鉄道サービスを実現したといいます。明治時代に実現したこうした鉄道サービスは、現代の鉄道でも活かされています。その後、1906年(明治39年)に国有化されることになり、山陽鉄道から「山陽線」そして「山陽本線」へと名称を変更しています。

 

 


明石海峡大橋とその周辺の施設

明石海峡大橋は神戸市と淡路市を結ぶ「世界最長の吊り橋」であり、その長さは3,911メートルとなっています。

 

明石海峡大橋(2017年8月)

 

1998年(平成10年)にその営業を開始しています。

 

明石海峡大橋(2017年8月)

 

神戸市側にはその添加施設として舞子海上プロムナードが開設されています。舞子海上プロムナードとは明石海峡へと突出した総延長約317メートルとなる回遊式遊歩道です。

 

明石海峡大橋(2017年8月)

 

遊歩道の海面からの高さは約47メートルとなっています。

 

明石海峡大橋(2017年8月)

明石海峡大橋(2017年8月)

 

明石海峡大橋の神戸市側の袂には橋の科学館があります。

 

橋の科学館(2017年8月)

 

橋の科学館には、明石海峡ができるまでの様子や橋の保全技術、その他橋に関するさまざまな知識が展示されています。

 

橋の科学館入場券(2017年8月)

 

旧武藤山治(むとうさんじ)邸(旧鐘紡舞子倶楽部)は1907年(明治40年)、衆議院議員であった武藤山治が舞子海岸に建築した住宅です。武藤山治は「鐘紡の中興の祖」と称されますが、武藤山治の死後、この建築物は鐘淵紡績によってその従業員の厚生施設(鐘紡舞子倶楽部)として利用されてきました。

 

舞子公園に建つ旧武藤山治邸(2017年8月)

 

明石海峡大橋建設時には道路拡幅工事のため、1995年(平成7年)に和館が取り壊され、洋館は神戸市垂水区へと移築されました。その後、兵庫県は2007年(平成19年)、カネボウよりこの建築物および調度品など譲り受け、舞子公園へこれを移築・修復して復活させています。この建築物は2011年(平成23年)に国の登録有形文化財となっています。

 

舞子公園に建つ旧武藤山治邸(2017年8月)

 

移情閣は1915年(大正4年)に神戸の貿易商である呉錦堂が建築した別荘です。1984年(昭和59年)に孫中山記念館として一般公開されることになりますが、これはかつてこの地を訪れたことのある孫文に由来し、これに関する資料を展示しています。1993年(平成5年)には県指定重要文化財となり、2001年(平成13年)には国指定重要文化財となっています。

 

八角堂がそのシンボルとなる移情閣(2017年8月)


舞子駅と垂水駅

明石海峡大橋へのアクセスには、JR神戸線(山陽本線)舞子駅または山陽電気鉄道(山陽電車)の舞子公園駅が最寄りとなります。JRの舞子駅は1896年(明治29年)、山陽鉄道時代舞子公園仮停車場として誕生しています。当時は東隣りの垂水駅が「舞子駅」と称していました。当時の舞子駅は1888年(明治21年)に垂水駅として開業しますが、翌年に「舞子駅」と改称していました。

 

舞子公園から舞子駅ホームを見る(2017年8月)

 

その後、1899年(明治32年)には再度垂水駅に戻っていますが、同年に舞子公園仮停車場は「舞子仮停車場」と改称しています。1906年(明治39年)に山陽鉄道は国有化されますが、同時に舞子駅仮停車場は「舞子駅」に昇格しています。

 

舞子公園から舞子駅ホームを見る(2017年8月)

 

舞子駅と垂水駅の駅名変遷をまとめると、次のようになります。

〔舞子駅の歴史〕舞子公園仮停車場(明治29年)→舞子仮停車場(明治32年)→舞子駅(明治39年)
〔垂水駅の歴史〕垂水駅(明治21年)→舞子駅(明治22年)→垂水駅(明治32年)

 

舞子公園から舞子駅ホームを見る(2017年8月)

 

現在の舞子公園一帯は古くから「舞子の濱」とよばれ、白砂青松淡路島を望むことができる風光明媚な景色は多くの詩歌に詠まれ親しまれてきました。江戸時代には「東海道五十三次」を描いた安藤広重が、舞子浜の美しい海岸の風景を描いています。また、志賀直哉も『暗夜行路』の一節で舞子浜の様子を描写しています。

 

舞子公園の横を走る普通列車(2017年8月)

 

その後「須磨から明石は松原づたい」ともいわれた松林は、時代の流れとともに取り払われ、砂浜も削り取られてしまいました。今では舞子公園の松林が少しばかりのその面影を残すだけとなりました。

 

舞子公園に立つ松林の案内板(2017年8月)


 


明石市と明石駅

兵庫県明石市は瀬戸内海に面するまちであり、陸上交通においては阪神と播磨を結ぶ拠点となり、海上交通においては淡路島を経由して四国へ至る玄関口となってきました。現在では、淡路島との間の明石海峡には明石海峡大橋が架けられています。

 

明石海峡大橋(2017年8月)

 

瀬戸内海に面する明石市は豊かな漁場をもち、なかでも明石だこは全国的にもよく知られ、たこ焼きのルーツともいわれる玉子焼(明石焼)の専門店も数多くあります。また、明石市立天文科学館は東経135度日本標準時上にある科学館であり、国の登録有形文化財として明石市のシンボルとなっています。明石駅はその明石市の玄関口となる駅であり、山陽電気鉄道山陽明石駅とも隣接しています。1888年(明治21年)に山陽鉄道の兵庫~明石間が開通する際に開業しています。

 

明石城の坤櫓(2017年8月)

 

明石城跡を整備した明石駅前の兵庫県立明石公園には中部幾次郎(なかべいくじろう)翁銅像が立ちます。中部幾次郎は大洋漁業の創業者であり、明石の水産・公共・公益のために尽くしたその功績がたたえられ、明石市が銅像を立てたものです。

 

中部幾次郎翁銅像(2017年8月)

 

中部幾次郎は1866年(慶応2年)、明石市東魚町(現本町)に生まれました。幼少の頃から父の鮮魚運搬卸業を手伝い、地方の一個人商店にすぎなかった林兼商店を日本有数の水産会社に育てあげました。中部幾次郎は故郷を愛する気持ちが深く、明石中学校(現県立明石高校)の建設にあたり、経費の半額を寄付したり、市水産会長を務めるなど明石市の発展に尽くし、また、朝鮮の方魚津尋常高等小学校や明石女学校、農林水産講習所、釜山高等水産学校の建設にも尽力しました。1946年(昭和21年)には貴族院議員に勅選されましたが、同年81歳で没し、浜光明寺に葬られました。

 

(左)坤櫓と(右)巽櫓(2017年8月)

 

明石城は旧名を「鶴の城」といいますが、後に荻生徂徠の門人である片山兼山が「喜春城」と命名しています。現在では日本の百名城(日本城郭協会)の一つにも数えられます。1619年(元和5年)に初代明石藩主となる小笠原忠政(後の小笠原忠真)が、2代将軍の徳川秀忠に命じられて西国監視のために築城したものです。このとき、江戸幕府の援助と岳父となる姫路城主の本多美濃守忠政の協力を得て完成させています。明石城内に現存する2つの三重櫓となる坤櫓(ひつじさるやぐら)と巽櫓は国の重要文化財に指定されています。坤櫓は明石城において最大規模となる三重櫓であり、これは伏見城より移築されたと伝わります。1982年(昭和57年)の大改修では、その構造上から見ると他から移築されたものであることが明らかになっています。

 

坤櫓(2017年8月)

 

天守が築かれなかった明石城においては、この坤櫓が天守代用とされました。坤櫓の大きさは10.94メートル×9.15メートルであり、その高さは13.28メートルとなっています。

 

坤櫓(2017年8月)

 

天守台の大きさは約152坪の広さとなっており、熊本城天守と同規模になります。なぜ、天守が築かれなかったのかは不明です。

 

天守台(2017年8月)

 

巽櫓は坤櫓より一回り小さくなっていますが、本丸南東隅に築かれた三重櫓です。櫓の大きさは9.03メートル×7.88メートルであり、その高さは12.53メートルとなっています。

 

巽櫓(2017年8月)

 

巽櫓は船上城から移築されたといわれていますが、その天守であった可能性もあるそうです。しかしながら、当時の巽櫓は寛永年間に焼失したため、現存する櫓は後に再建されたものです。

 

巽櫓(2017年8月)

 

1585年(天正13年)に高山右近は豊臣秀吉に命じられて船上城および城下町を整備しました。明石川をはさんで明石城の西方向にある当時の船上城には、明石海峡を往来する船がその整備された港に入りました。また、船上城の北側には陸上交通の大動脈となる山陽道が走っていたため、水陸交通の要衝として重要視されていました。現在では、その城跡は船上西公園となっています。

 

艮櫓跡(2017年8月)

 

艮櫓(うしとらやぐら)跡となっている場所は本丸北東隅となりますが、かつて三重櫓が建っていました。その大きさは約9.1メートル四方の広さをもち、約11.4メートルの高さをもっていたといいます。明石城にははじめから天守がなく、本丸の四隅に三層の隅櫓が配置されていました。中でも北東の隅にあった艮櫓は、本丸の鬼門にあたるとして重要視されていました。しかし、明治時代に学校建築用材として解体されてしまいました。

 

艮櫓跡(2017年8月)

 

明石城主となる小笠原家に伝わる「清流話」というものには、初代城主である小笠原忠政(後の小笠原忠真)の命を受けた宮本武蔵が樹木屋敷を造ったという記録があります。

 

武蔵の庭園入口(2017年8月)

 

樹木屋敷は、御茶屋、鞠の懸り(まりのかかり)、築山、泉水、滝などを設けた城主の遊興所のことであり、それらの建物の総称です。現在の武蔵の庭園にある御茶屋は木造入母屋造、一部は寄棟造となっています。御茶屋は藩主が客を接待するための迎賓館のような役割を果たしていたと考えられています。

 

御茶屋(2017年8月)

姫路駅

姫路城(2017年8月)

黒田官兵衛は戦国時代の武将であり、軍事的な才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕え、さまざまな場面で活躍をしました。その黒田官兵衛が生まれ育ったのは播磨国です。黒田氏は黒田官兵衛の祖父の時代に播磨に移り住んできました。

姫路城(2017年8月)

そのころ、播磨国は赤松氏が衰退し、有力武将同士が争う様子となっていました。そうした中、黒田官兵衛の祖父・重隆と、黒田官兵衛の父・職隆(もとたか)はその才を認められ、姫路城を任されるようになります。そして、その姫路城で1546年(天文15年)に誕生したのが黒田官兵衛です。黒田官兵衛は通称であり、黒田孝高(よしたか)、黒田如水(じょすい)としても知られています。

姫路城に隣接する好古園(2017年8月)

織田信長が畿内をおさえた頃、播磨国では、中国地方を支配していた毛利氏か、勢いづく織田氏のいずれに与するかで揺れることになりますが、黒田官兵衛は重臣たちが毛利氏につくことを主張する中、織田氏につくことを決定させます。

姫路城に隣接する好古園(2017年8月)

黒田氏は毛利氏と対立するところとなり、黒田官兵衛は毛利氏の大軍に少数の兵で当たることになりますが、これを退けることに成功しています。

姫路城に隣接する好古園(2017年8月)

その後も戦功をあげた他、播磨・但馬の攻略をしていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に姫路城を譲り、ここを拠点として中国攻めをするように提案しています。

姫路城に隣接する好古園(2017年8月)

姫路城の歴史は1333年(元弘3年)、鎌倉幕府滅亡の年に、姫山の地に砦が築かれたことにはじまります。青空を背景としたその白い姿が、水面から飛び立つ白鷺に見えることから「白鷺城」ともよばれてきました。

姫路城:別名「白鷺城」(2017年8月)

姫路城は1993年(平成5年)、わが国で初めて世界文化遺産に登録されています。

世界文化遺産:国宝「姫路城」(2017年8月)

消火栓は消火活動のために必要な水を供給する設備です。赤色やアイボリー色の消火栓はよく見かけることがありますが、姫路城内の消火栓は少し渋めの感じです。

姫路城の消火栓(2017年8月)

姫新線(きしんせん)は姫路~津山~新見間を結ぶ路線であり、その路線距離は158.1キロになります。ただし、全線を直通する列車はありません。1989年(平成元年)に、急行「みささ」や「みまさか」などの優等列車が廃止されました。

姫路駅に到着する姫新線の列車(2017年8月)

1936年(昭和11年)に作備線および因美線を姫津線に編入し、姫路~新見間および津山~津山口(支線)が姫新線となりました。

キハ127系(2017年8月)

姫新線の到着する姫路駅北口を出て、左手に山陽百貨店の入る山陽姫路駅ビルを見ながら、大手前通りを北へ進みます。しばらくすると、左手に1949年(昭和24年)に誕生した「えきそば」のお店が見え、東西を走る西国街道にぶつかります。

「えきそば」(2017年8月)

大手前通りの西国街道は江戸時代には大名行列などが行き交うメインストリートでした。またこの場所には大名などが宿泊する国府寺家の本陣がありました。

旧山陽道「西国街道」(2017年8月)

3代将軍徳川家光公の時代、姫路城主だった本多忠政が中堀を浚渫(しゅんせつ)した泥土を、ここから西の坂元町に敷いたため旅人が難渋し、それから人々はここ先で左に折れ、俵町(現在は西二階町)から備前門に向かったといいます。さらに進むと姫路城の中堀跡があります。この土塁は姫路城の中堀で、その南にある国道2号線は中堀を埋め立てて敷設されたものです。この堀より南の小区画(外曲輪)には主に町屋が配され、ここより内側の小区画(内曲輪)には侍屋敷が配されていました。

姫路城の中堀跡(2017年8月)

さらに北へ進むと、いよいよ姫路城が大きく見えてきます。その目の前には飲食店や土産物店が立ち並んでいて、その建物は江戸時代を思わせるような佇まいとなっています。

姫路城前の店舗(2017年8月)

江戸時代、このあたりは家老クラスの居宅が並ぶ武家町で大名町と呼ばれました。その名の由来は、ここから東にある播磨国総社が総社大明神ともよばれたからとも、戦国時代の字名によるものともいわれています。

姫路城前の店舗(2017年8月)

明治時代になると、姫路城の中曲輪にある侍屋敷は取り払われて陸軍の軍用地となり、このあたりは城南練兵場となりました。その後、中曲輪の軍用地は本町に転入され、そのすべてが六十八番地となります。この番地は今でも皇居についで2番目に広い番地となっています。

姫路城前の店舗(2017年8月)

姫路駅からこの辺りまで町並みを楽しみながら歩いてきてもよいですが、バスを利用することもできます。

レトロ調の姫路城ループバス(2018年4月)

姫路城ループバスは姫路城周辺の観光スポットをめぐるバスであり、その外観はレトロな雰囲気を醸しだしています。

姫路城ループバスパンフレット(2017年8月)

姫路城ループバスの運行ルートは「姫路駅前(姫路駅北口バスターミナル6番のりば)→姫路城大手門前→姫路郵便局前→美術館前→博物館前→清水橋(文学館前)→好古園前→大手町通り→姫路駅前(姫路OSビル前)」となっています。

姫路城ループバスパンフレット(2017年8月)

バス運賃は1回乗車は大人100円(小人50円)となりますが、1日乗車券は大人300円(小人150円)となります。

姫路城前を走るループバス(2017年8月)

1日乗車券は1日乗り放題となる他、姫路城や好古園、市立美術館(常設展)、姫路文学館(常設展)などの施設利用料が2割引となる特典が付いています。姫路城ループバスの側面には「神姫バス」の文字が見えます。

車体側面の文字(2017年8月)

神姫バスは兵庫県を中心とするバス路線を運営するバス会社です。もともと、宇治川電気(現在の関西電力の前身会社)の資本を背景とした会社であり、1927年(昭和2年)に神姫自動車として設立され、加古川~尾上間にて運行を開始しました。

好古園と姫路城の共通入場券(2017年11月)

その後、次々といくつかの会社を合併して、1943年(昭和18年)に神姫合同自動車と称しました。同年、神戸有馬電気鉄道(現在の神戸電鉄)からバス事業を受け継いだ後もいくつかの買収・合併を実現し、1956年(昭和31年)には再び神姫自動車と商号を変更しています。そして、1972年(昭和47年)には神姫バスとなりました。

好古園(2017年8月)

姫路公園内の姫路城西隣には西御屋敷跡の遺構を生かした日本庭園「好古園」があります。

好古園(2017年8月)

その正式名称は「姫路城西御屋敷跡庭園好古園」といいますが、好古園の名称は現在の庭園付近に存在した藩校である「好古堂」に由来します。

好古堂跡の碑(2017年8月)

好古園は1992年(平成4年)、市制百周年を記念して建造された日本庭園であり、約1万坪の敷地面積を誇ります。

好古園看板(2017年8月)

好古園の整備計画に先立つ発掘調査では、1618年(元和4年)に本多忠政が造営した西御屋敷や武家屋敷などの遺構が発見されています。

好古園(2017年8月)

これは酒井家時代の「姫路侍屋敷図」に記されたものとほぼ一致しているといいます。

好古園の塀(2017年8月)

庭園内には築地塀・屋敷門・長屋門や渡り廊下で結んだ「活水軒」「潮音斎」の他、数寄屋建築の茶室「双樹庵」が配されています。

庭園内の様子(2017年8月)

庭園は、池や水の流れで結ばれた池泉回遊式庭園となっています。

庭園内の様子(2017年8月)

また、この庭園の最大の特徴は姫路城を借景としていることです。

庭園内の様子(2017年8月)


1.赤穂線 2.片上鉄道の歴史 3.忠臣蔵と播州赤穂駅

 

伊部駅を出発する赤穂線の車両(2018年4月)


赤穂線

赤穂線は相生(あいおい)~東岡山間を結ぶ路線であり、起点の相生駅、終点の東岡山駅の両駅で山陽本線に接続しています。

 

播州赤穂駅駅前広場(2018年4月)

 

姫路駅を出発して西へ向かう山陽本線は相生駅で二股に分かれます。山側を走る路線は山陽本線であり、上郡駅、東岡山駅を経由して岡山方面へとつながります。

 

赤穂線の黄色い車両と並ぶ神戸方面へと向かう車両(2018年4月)

 

一方、海側を走る路線は赤穂線であり、播州赤穂駅、日生駅、備前片上駅、伊部駅を経由して東岡山駅へとつながります。

 

播州赤穂駅駅名標(2018年4月)


片上鉄道の歴史

赤穂線の備前片上駅~伊部駅間に西片上駅がありますが、かつてこの西片上駅の近くに同和鉱業片上鉄道の起点となる片上駅がありました。片上鉄道線片上駅より北上し、岡山県の柵原(やなはら)町(現在の美咲町)までを結んでいました。

 

普通「姫路行き」223系(2018年4月)

 

柵原町は吉備高原に位置し、かつては同和鉱業の硫化鉄の鉱山である柵原鉱山で栄えました。片上鉄道はこの鉱山で産出される硫化鉄鉱を片上港へと輸送するために敷設されました。1923年(大正12年)には片上~和気間、和気~井ノ口間が相次いで開業し、1931年(昭和6年)になると井ノ口~柵原間が開業して全通となり、鉱石輸送に加えて地元の足としても利用されるようになりました。33.8キロの路線は吉井川沿いに敷設されており、その車窓からは美しい景色が見えたといいます。

 

赤穂線の車両(2018年4月)

 

しかしながら、柵原鉱山の産出量減にともない、その輸送は徐々にトラックでの輸送へと切り替えられていきました。また、旅客輸送についても、鉱山労働者の減少と沿線地域の過疎化のため乗客数は大きく減少してしまいました。そして、ついに1991年(平成3年)、全線が廃線となってしまいました。終点の柵原駅の一つ南にあった吉ヶ原(きちがはら)駅には、かつて操車場や貨物ホームがありました。現在、この敷地は柵原ふれあい鉱山公園として整備されて資料館がある他、旧吉ヶ原駅舎や当時の貨車や客車が保存されています。この車両は動態保存されており、わずか総延長300メートル、平均時速は10~15キロ程度ですが、吉ヶ原~黄福柵原(こうふくやなはら)間を月に1度だけ運行しています。吉ヶ原駅も黄福柵原駅も三角屋根を擁する木造駅舎であり、往時の雰囲気を味わうことができます。

 

赤穂線「備中高梁行き」(2018年4月)


忠臣蔵と播州赤穂駅

元禄時代、江戸城の廊下で吉良上野介(きらこうずけのすけ)が播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)に斬りつけられたとして、浅野内匠頭が切腹に処せられました。

 

播州赤穂駅構内に展示される「忠臣蔵」関連品(2018年4月)

 

その後、浅野内匠頭の家臣である大石内蔵助(おおいしくらのすけ)ら47人が、吉良邸に討ち入りし、吉良上野介らを討ったといいます。

 

播州赤穂駅構内に展示される「忠臣蔵」関連品(2018年4月)

 

この一連の事件は赤穂事件とよばれ、この赤穂事件をもとにした作品は「忠臣蔵」として語り継がれています。

 

播州赤穂駅構内に展示される「忠臣蔵」関連品(2018年4月)

 

この赤穂事件のゆかりの地となるのが、兵庫県南西部に位置する赤穂市であり、その中心駅となるのが播州赤穂駅です。播州赤穂駅は1951年(昭和26年)に赤穂線の当時の終点として開業されました。

 

播州赤穂駅から姫路方面へ続く線路(2018年4月)

 

現在ではJR神戸線、JR京都線、琵琶湖線を経由して米原方面へ向かう播州赤穂駅発の新快速も設定されています。

 

播州赤穂駅駅前広場(2018年4月)

 

塩味饅頭は「しおみまんじゅう」と読みます。

 

赤穂名物「塩味饅頭」(2018年4月)

 

塩味饅頭赤穂市の名産品であり、その発祥は江戸時代に遡るといわれています。シンプルな味でとても美味しいです。

 

赤穂名物「塩味饅頭」(2018年4月)

1.備前焼について 2.伊部駅その周辺の風景 3.備前焼のふるさと

 

伊部地区の町並み(2018年4月)


備前焼について

備前焼は岡山県備前市を中心とする地域をその産地とする焼き物であり、「伊部(いんべ)焼」との異名をとります。

 

伊部地区の町並み(2018年4月)

 

備前焼は良質の土で一点ずつ成形した後、これを乾燥させます。

 

伊部地区の町並み(2018年4月)

 

備前焼は絵付けをせず、釉薬(ゆうやく)を使用しないでそのまま焼きます。釉薬は「うわぐすり」ともいいます。素焼きした後、釉薬を塗った上で本焼きをすると釉薬が溶けて、陶磁器の表面がガラスの層で覆われます。釉薬は陶磁器をより丈夫にし、汚れを吸収しにくくします。また、さまざまな色やデザインを表現することができます。

 

町の中にある備前焼(2018年4月)

 

備前焼の他、信楽焼、越前焼、常滑焼、萬古焼などは釉薬を使用していません。


伊部駅とその周辺の風景

伊部(いんべ)駅は岡山県備前市にある駅であり、1958年(昭和33年)に赤穂線が日生駅から伊部駅まで延伸されたときに当時の終着駅として開業しています。

 

伊部駅駅名標(2018年4月)

 

現在の駅の構造は相対式2面2線をもつ地上駅となっており、上り線ホームと下り線ホームは跨線橋により結ばれています。

 

伊部駅ホーム(2018年4月)

 

開業当初の駅の構造は下りが島式ホームとなっており、2面3線をもつ地上駅でした。

 

伊部駅を出発する赤穂線の車両(2018年4月)

 

現在は、島式ホームとなっていた南側の1線が撤去され、南口が完成した際に自転車置き場および南口への連絡通路となりました。

 

岡山方面行きホームから見た伊部駅南口(2018年4月)

 

北側には備前焼伝統産業会館の建物がありますが、この建物の1階は駅のホームと接続されており、改札口を出るとカフェ、お土産品売り場、観光情報センターなどがあります。

 

伊部駅駅舎(2018年4月)

 

カフェでは備前焼のコーヒーカップでおいしいコーヒーを飲むことができました。

 

伊部地区の町並み(2018年4月)

 

2階には備前焼作家のギャラリーとなっていて、備前焼の作品が展示・販売されています。

 

伊部駅営業管理室(2018年4月)

 

備前市は岡山県南東部にある市であり、備前焼のふるさととなる伊部地区は旧伊部町だった地区です。

 

伊部地区の町並み(2018年4月)

 

伊部町は1951年(昭和26年)に片上町と合併して備前町となり、1971年(昭和46年)に備前町と三石町が合併して備前市となり、最終的に2005年(平成17年)に備前市が日生町、吉永町と合併して現在の備前市が誕生しました。

 

伊部地区の町並み(2018年4月)

 

備前市には山陽本線の三石(みついし)駅、吉永駅、赤穂線の寒河(そうご)駅、日生(ひなせ)駅、伊里(いり)駅、備前片上(びぜんかたかみ)駅、西片上駅、伊部駅、香登(かがと)駅があります。また、かつては同和鉱業が運行していた片上鉄道が片上~柵原(やなはら)間を結んでいたこともあります。

 

伊部駅駅名標(2018年4月)

 

伊部駅へのアクセスですが、大阪方面からはJR神戸線東海道本線)・山陽本線および赤穂線を経由する新快速播州赤穂行き」に乗ると便利です。

 

伊部地区の町並み(2018年4月)

 

新快速姫路駅、相生(あいおい)駅を経て播州赤穂駅に到着します。播州赤穂駅でレトロ感たっぷりの黄色い115系電車に乗り換えます。ここから30分ほどで伊部駅に到着します。

 

播州赤穂駅に停車する115系「備中高梁行き」(2018年4月)

 

伊部駅は備前焼伝統産業会館と接続している他、備前焼ミュージアムも駅に近接しています。

 

備前焼ミュージアム(2018年4月)

 

備前焼は日本六古窯(越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前)の一つであり、約1000年の歴史があります。

 

伊部地区の町並み(2018年4月)

 

2015年(平成27年)に岡山県備前陶芸美術館からリニューアルした備前焼ミュージアムでは、備前焼の歴史を伝える古備前や人間国宝の作品、現代作家の作品、また備前焼に関する資料などを展示しています。

 

伊部地区の町並み(2018年4月)


備前焼のふるさと

伊部駅から北へ歩いて行くと、備前市指定文化財となる天保窯があります。

 

天保窯の外観(2018年4月)

 

江戸時代の後期までは、南・北・西の三大窯で大量生産が行われていましたが、藩の保護の減少と燃料の関係により、大窯の融通窯として規模を縮小した3基の小窯が造られ、古備前写しの壷、茶器、花器、角徳利など小形の製品が作られるようになりました。天保窯はそうした窯の一つであり、1832年(天保3年)頃に造られました。

 

天保窯(2018年4月)

 

はじめは5室であったものが補修および改修されながら、1940年(昭和15年)頃まで使用されていたといいます。備前焼の古い窯のうち、こうした姿が残っているのはこの窯だけとなっています。構造としてはそれまでの窯より燃焼効率がよく、大窯の4分の1の十数日で焼き上げられるようになり、経費の節減や製品の回転を早めることができる画期的な窯となりました。

 

天保窯の外観(2018年4月)

 

履掛天神宮(くつかけてんじんぐう)は伊部駅より北西へ進み、不老川沿いにある神社です。

 

履掛天神宮(2018年4月)

 

創立年代は不詳ですが、菅原道真が大宰府へと西下する際にここにある大きな石で休憩したといいます。その大石(履掛石)が本殿の後ろにあり、現在でもこれを崇拝しています。また、本殿の屋根は備前焼の瓦となっています。

 

履掛天神宮(2018年4月)

 

 天津(あまつ)神社は1411年(応永18年)以前の創建であり、御神託により1579年(天正7年)に浦伊部より現在地に遷されました。

 

天津神社(2018年4月)

 

その本殿は1678年(延宝6年)の建築となり、堂々とした一間社(いっけんしゃ)建築は江戸時代の建築としては例のない優れたものです。

 

天津神社(2018年4月)

 

その境内には備前焼で葺いた門、現代作家の陶印入り陶板をはめ込んだ塀、備前焼陶板を敷きつめた参道などが配置されている他、参道脇には1861年(万延2年)の年号をもつ宮獅子が配置されています。

 

備前焼陶板を敷きつめた参道(2018年4月)

天津神社に見える備前焼(2018年4月)

2022年12月

山陰本線

山陰本線は、京都~幡生間を結ぶ路線であり、長門市~仙崎間を結ぶ仙崎支線をもっています。


観光列車「あめつち」

あめつち」はメタリック塗装で仕上げられたきれいな青色の列車です。この青色は「紺碧(こんぺき)色」とよばれ、山陰地方の美しい空や海を表現しています。車体の下部は銀色の塗装となっていますが、これは山陰地方の美しい山並みと、たたら製鉄にちなんで日本刀の刃文(はもん)を表現しているといいます。

観光列車「あめつち」(2019年3月)

列車の愛称となる「あめつち」の名は『古事記』の「天地(あめつち)の初発(はじめ)のとき」に由来し、『古事記』には山陰地方を舞台とする神話が数多く収録されていることからこの名が付けられました。「あめつち」は快速列車ですが、全席グリーン車指定席となっています。鳥取~出雲市間を結び、停車駅は鳥取,倉吉,米子,安来(やすぎ),松江,玉造温泉(鳥取方面行きのみ停車),出雲市となっています。


下関駅

山陽鉄道の終点となる馬関駅は後に「下関駅」を名乗ることになりますが、このときの「下関駅」は現在の下関駅の場所とは異なります。1901年(明治34年)に開業した馬関駅と、関門海峡を挟んで対岸にある九州鉄道の門司駅の間に、山陽鉄道は関門連絡線を就航させました。さらに、馬関駅前には日本最初のステーションホテルを開業させるなど馬関駅は大いに繁栄しました。ところが、1942年(昭和17年)になると関門海底トンネルを旅客列車が走ることになり、すでに「下関駅」と改称していた馬関駅は、現在の下関駅の場所に移転を余儀なくされました。