1.白みりん発祥の地と万上線 2.流山線の歴史 3.起点「馬橋駅」 4.小金城趾駅と小金城 5.鰭ヶ崎駅 6.平和台駅 7.終点「流山駅」
馬橋駅駅名標に記される流山線の路線図(2020年8月)
白みりん発祥の地と万上線
みりんは日本料理において使用される調味料ですが、アルコール飲料の一つであり14%程度のアルコール分を含んでいます。アルコール度数1%未満となる「みりん風調味料」と区別するため、「本みりん」と称されることもあります。
流山キッコーマンの工場(2020年8月)
歴史的に見ると、すでに江戸時代初期にはみりんは市販されており、甘みのある高級酒として飲用されていました。江戸時代中期になるとそばつゆなどに用いられはじめ、明治時代後半になるとさまざまな料理に用いられるようになりました。
流山キッコーマンの工場(2020年8月)
流山は江戸時代中期から江戸川の水運により商都として繁栄しました。この地において、2代目堀切紋次郎により「万上味淋」、5代目秋元三衛門により「天晴味淋」が誕生して白みりん発祥の地となりました。
流山キッコーマンの工場(2020年8月)
当時、酒造りを生業としていた堀切紋次郎は相模屋2代目当主として1814年(文化11年)、きれいに澄んだ白みりんの醸造に成功しました。白みりんが開発されるまでのみりんは色が濃い「赤みりん」でしたが、白みりんは甘くて飲みやすいことから女性にも愛飲されるようになり、その評判は江戸・京都・大阪へと広がっていきました。
流山駅に停車する車両の車内の様子(2020年8月)
宮中にみりんを献上する機会を得た堀切紋次郎は「関東の 誉れはこれぞ一力で 上なきみりん 醸すさがみや」と歌い、「一力」を「万」として「万上みりん」とし、その後も高い評価を得て「しょうゆは野田、みりんは流山」といわれる土壌となりました。
周辺の地図(2020年8月)
この地において、野田醤油流山工場(現在の流山キッコーマン)は相模屋の「万上みりん」を引き継いで、「マンジョウ」のブランドで昔ながらの醸造方法により本みりんを製造しています。
流山キッコーマンの工場(2020年8月)
野田醤油流山工場(現在の流山キッコーマン)の前には緩やかなカーブを描く道路がありますが、これは流鉄流山駅と工場を結ぶ貨物引込線(万上線)跡です。
廃線跡となる緩やかなカーブを描く道路(2020年8月)
万上線は1929年(昭和4年)に完成し、アルコールの原料となるサツマイモや石炭の移入、酒類の出荷に利用されました。トラック輸送の増加にともなってその需要は徐々に減少し、1969年(昭和44年)に廃線となってしまいました。
廃線跡に展示される昔の写真(2020年8月)
流山線の歴史
万上線の敷設に先立つ1913年(大正2年)、しょうゆやみりん輸送を目的とする鉄道を敷設するために、住民らの出資により流山軽便鉄道が設立されました。
5000形「流星」(2020年8月)
1916年(大正5年)には馬橋~流山間において営業を開始し、1922年(大正11年)には流山鉄道、1951年(昭和26年)には流山電気鉄道、1967年(昭和42年)には流山電鉄、1971年(昭和46年)には総武流山電鉄へと社名変更をしています。
5000形「さくら」(2020年8月)
このように100年ほどの間に何度も社名を変更していることになります。当初は流山軽便鉄道という名の通り、軌間762ミリの軽便鉄道として営業を開始しました。
5000形「あかぎ」(2020年8月)
1896年(明治29年)になると日本鉄道が田端~土浦間(土浦線)を開業し、将来これと乗り入れができるようにと軌間は1,067ミリに改軌され、社名は「流山鉄道」へと変更されました。
馬橋駅から常磐線の線路とJR馬橋駅が見える(2020年8月)
戦後に電化が実現し、社名も「流山電気鉄道」を経て「流山電鉄」となっています。
流山駅ホームにある「流星」を模した自販機(2020年8月)
その後すぐに平和相互銀行が経営に参画し、その創業家の中核企業であった社名の一部となる「総武」を冠として総武流山電鉄としました。
流山線の車両(2020年8月)
ところが大株主はバブル崩壊の影響を受け経営が破綻し、その子会社となっていた総武流山電鉄は2008年(平成20年)に「流鉄」へと社名変更しました。このとき路線名も流山線(旧称「総武流山線」)へと改称しています。
5000形「なの花」(2020年8月)
1973年(昭和48年)に武蔵野線が開業して以来、新規バス路線やつくばエクスプレスの開業などの影響により旅客を奪われた状況となっています。
鰭ヶ崎駅から約900メートルの場所にあるJR南流山駅(2020年8月)
鰭ヶ崎駅から約900メートルの場所にあるTX南流山駅(2020年8月)
ワンマン運転の実現や資産の売却により鉄道事業による損失を補い、地域の活性化とイベントの実施などにより利用者増を図っています。
5000形「若葉」(2020年8月)
流山線にはお得な「流山線一日フリー乗車券」があり、その名の通り発売当日は全駅乗り降り自由となっています。
レトロな雰囲気を醸し出す流山駅構内(2020年8月)
流山線は首都圏の私鉄でありながら自動改札機がありませんので、駅員の方に「流山線一日フリー乗車券」を見せて乗り降りすることになります。もちろん、SuicaなどのICカードを使用することもできません。
流鉄流山線一日フリー乗車券(2020年8月)
起点「馬橋駅」
流山線の起点となる馬橋駅は常磐線(緩行線)との乗換駅となっています。
1番線の向こう側に常磐線の列車が見える(2020年8月)
1898年(明治31年)に日本鉄道が馬橋駅を開業した後、1916年(大正5年)に流山線の馬橋駅が開業して乗換駅となりました。
改札口(2020年8月)
流山線のホームは1面2線の島式ホームとなっていて、普段は1番線のみの発着となっています。
写真左側が1番線、右側が2番線(2020年8月)
2番線を使用することはほとんどありません。
2番線の様子(2020年8月)
万満寺の最寄駅であり、徒歩5分ほどで到着します。万満寺は鎌倉時代に創建された臨済宗の寺であり、その金剛力士像は運慶作といわれています。
小金城趾駅と小金城
小金城趾駅は1953年(昭和28年)に開業しました。
小金城趾駅駅名標(2020年8月)
その後、1967年(昭和42年)に流山駅寄りに移設され、列車交換設備が新設されました。
小金城趾駅ホーム(2020年8月)
現在では1面2線をもつ島式ホームとなっており、流山線における列車交換可能な唯一の駅となっています。
レトロな雰囲気の小金城趾駅改札口(2020年8月)
小金城は当時の下総国北西部においては最大規模を誇る平山城であり、常磐線の北小金駅から小金城趾駅にかけて南北約600メートル、東西約800メートルにもおよぶ広大な敷地にありました。敷地内の大部分は現在、住宅地となっていますが、その一部は大谷口歴史公園として整備されています。小金城趾駅からは徒歩8分ほどで大谷口歴史公園に到着します。
階段を上って城跡へ(2020年8月)
小金城はその発掘調査により土塁、畝堀、障子堀などの遺構があります。堀の途中には高さ2メートルほどの間仕切り(障子)が造られていて、堀底を侵入してきた敵をその壁で防ぐことができるようになっています。こうした構造の堀を障子堀とよんでいます。
障子堀(2020年8月)
虎口(出入口)は大手口(東)、達磨口(北東)、金杉口(北)、大谷口(南)の4つがありました。
金杉口跡(2020年8月)
小金城は1537年(天文6年)に高城氏によって築かれ、高城氏3代の居城となりました。永禄年間においては、古河御所を追われた第5代古河公方の足利義氏の仮御所として、またこれに敵対する上杉謙信に備えて小金城は拡張されています。高城氏は戦国時代、現在の松戸市、市川市、船橋市、柏市、我孫子市周辺までを治めていたといいます。
頂上付近の平地になった場所の様子(2020年8月)
その後、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で落城しますが、徳川家康の五男・武田信吉(松平信吉)の居城となったときもありました。武田信吉(松平信吉)が佐倉城へ移った後、1593年(文禄2年)に廃城となりました。
障子堀へと続く階段(2020年8月)
また、大谷口歴史公園のすぐ近くにはかつての馬場跡となる大谷口馬屋敷緑地があり、木々が茂っていて暑い夏の日にはこの中を通り過ぎるだけでとても涼しく感じられます。
大谷口馬屋敷緑地(2020年8月)
鰭ヶ崎駅
鰭ヶ崎(ひれがさき)駅は1916年(大正5年)に流山線が営業を開始したのと同時に開業しています。
鰭ヶ崎駅駅名標(2020年8月)
鰭ヶ崎駅は1面1線の単式ホームをもつ地上駅であり、線路の西側に小さな駅舎が設置されています。
鰭ヶ崎駅駅舎(2020年8月)
鰭ヶ崎駅の近くには、空海が814年(弘仁4年)に開いたと伝えられる東福寺があります。東福寺に残る伝説によると、空海が突然現れた竜の捧げた木で薬師如来を刻んだとき、竜の鰭の先(崎)が少し残ったとあります。これが「鰭ヶ崎」の地名の由来になったとされています。この東福寺には千仏堂、二十一仏板碑、金剛力士像などがあります。
東福寺(2020年8月)
平和台駅
平和台駅は1933年(昭和8年)に開業していますが、開業当初は「赤城駅」という名称でした。1965年(昭和40年)に「赤城台駅」と改称した後、1974年(昭和49年)に「平和台駅」となりました。
平和台駅駅名標(2020年8月)
平和台駅から徒歩7分ほどの場所に赤城神社がありますが、これは赤城山(群馬県)にある赤城神社の末社であるといいます。ここの赤城神社は流山市内を流れる江戸川の東岸の小さな山の上にありますが、この小山は大昔の大洪水で赤城山(群馬県)の土砂が流れ着いてできたものだといわれています。「流山」の地名はこれに由来するともいわれます。
平和台駅駅前(2020年8月)
終点「流山駅」
流山駅は流山線が開通した1916年(大正5年)に開業した駅であり、1998年(平成10年)には東京近郊にありながらローカル色のある駅として、関東の駅百選に選定されています。
流山駅駅舎(2020年8月)
駅本屋は流山線開通当時の建築物であり、これに修理が加えられながら使用されてきました。
流山駅駅舎(2020年8月)
1937年(昭和12年)には大規模改修が実施され、1979年(昭和54年)にはホームと上屋の延長工事が行われました。
流山駅時刻表(2020年8月)
現在の駅は1面2線をもつ島式ホームがある地上駅であり、1番線は電車庫へと通じ、2番線には車止めがあり行き止まりとなっています。
流山駅ホーム(2020年8月)
この流山駅から歩いて5分ほどの場所に近藤勇陣屋跡があります。近藤勇は江戸時代の末期の武士であり、当時の京都で尊王攘夷運動の弾圧に活動した新選組の局長です。農家に生まれた近藤勇は、天然理心流の近藤周助の養子となってその道場を継ぎました。
流山駅前に立つ看板(2020年8月)
1863年(文久3年)になると、14代将軍・徳川家茂の上洛に際して、土方歳三、沖田総司らとともに、その護衛のために組織された浪士隊に参加しました。その浪士隊の一部はそのまま京都に居て、京都守護職・松平容保(かたもり)の下で新選組となり、京都の治安維持につとめました。その近藤勇が最後の陣営を敷いたのが流山であり、ここで捕縛され、後に処刑されました。流山の地にはその最後の陣となった近藤勇陣屋跡の碑が立ちます。
近藤勇陣屋跡(2020年8月)
1868年(慶応4年)、「甲陽鎮撫隊」となっていた新選組は永倉新八らが脱退して現在の足立区に集まった後、二百数十名をもって流山に転陣したといいます。丹後の渡しから流山に入り、醸造家の永岡三郎兵衛方を本陣としました。その情報を得た新政府軍は羽口の渡しよりこれを急襲し、甲陽鎮撫隊の本陣は包囲されました。
本陣跡に掲示される地図(2020年8月)
「大久保大和」と名を改めていた近藤勇は自害を決意していましたが、「内藤隼人」と改名していた土方歳三は改名したことが知られていないことを利用して説明することを勧めました。矢河原の渡しから流山を離れ、大久保大和(近藤勇)は新政府軍へ出頭しました。事情説明のために越谷宿(現在の埼玉県越谷市)に赴きましたが、新政府軍により板橋宿に連行され、大久保大和は近藤勇であると発覚してしまいました。内藤隼人(土方歳三)は近藤勇の救出工作を試みますが失敗し、近藤勇は板橋宿で処刑されました。
流山駅駅名標(2020年8月)