高野線・汐見橋線[南海電気鉄道]

投稿者: | 2019-06-17

ローカル線の魅力

都心部の鉄道に対して、昔ながらの古い車両が走り、昔ながらの古い駅舎に到着するという風景を、令和になった今でもまだ見ることができます。こうした風景には郷愁を感じますが、少しずつそうした風景も消えつつあります。ローカル線の魅力の一つには、都心部ではない場所、たとえば人があまりいないところや緑豊かな日本の原風景の中を、乗客もあまり乗っていない1両編成の電車に揺られながら、のんびりと旅をするというようなところにあります。

汐見橋駅に停車する「汐見橋線」の車両(2019年8月)

ローカル線という言葉を使う場合には、都心部などに比べると輸送量の比較的少ない鉄道路線を表すように思いますが、「a local line」にイメージが近いように感じます。「local」という言葉は英和辞典によると「場所の」「土地の」や「(特定の)地方の」「地元の」などの意味があります。また、「a local line」は「地方鉄道」、「a local train」は「普通列車(各駅停車)」を表します。


汐見橋駅

ローカル線の魅力を有しながら、大阪の随一の繁華街なんばから西へ約15分ほどの始発駅から走り出す「汐見橋線」(汐見橋—芦原町—木津川—津守—西天下茶屋—岸里玉出)という路線があります。その始発駅は汐見橋駅といい、大阪市内の真ん中に小さな駅がひっそりと建っています。

汐見橋駅北側入口(2017年7月)

この駅舎だけ見ると、ここが大都会の中心部なのかと疑ってしまいます。

汐見橋駅東側入口(2019年8月)

汐見橋駅は1900年(明治33年)、高野鉄道が「道頓堀駅」として開業した歴史のある駅です。高野鉄道は1896年(明治29年)に設立された鉄道会社です。

汐見橋駅改札口(2017年7月)

汐見橋駅は現在1面2線をもつ小さな駅となっていますが、汐見橋線がかつて貨物輸送が盛んだった頃にはその西側に貨物ヤードもあったといいます。

汐見橋駅ホーム(2017年7月)

汐見橋駅を開業した高野鉄道が1898年(明治31年)、大小路(現在の堺東)~狭山間を開通した後、その路線は長野(現在の河内長野)まで南伸されました。

河内長野駅に停車する南海電車の車両(2016年10月)
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北への延伸については、高野鉄道は難波への延伸を企図していましたが、南海鉄道(現在の南海電気鉄道)との計画が重複したため許可が下りず、道頓堀駅(現在の汐見橋駅)までの延伸を実現し、1900年(明治33年)に現在の汐見橋駅は開業しています。

阪神桜川駅入口から見る汐見橋線の車両(2019年8月)

当時の汐見橋付近は交通の要衝であり、大阪鉄道の湊町駅(現在のJR難波駅)があった他、貨物駅としても大いに賑わったようです。

現在の汐見橋駅改札口(2017年7月)

その後、1907年(明治40年)になると、高野鉄道はその事業を高野登山鉄道に譲渡します。高野登山鉄道は1915年(大正4年)に汐見橋~橋本間を開通した後、その業績が向上したため資本金を増資して大阪高野鉄道と社名変更しました。

現在の汐見橋駅改札口(2017年7月)

汐見橋駅付近の地下には、地下鉄千日前線と阪神なんば線の駅がありますが、この駅は汐見橋駅ではなく「桜川駅」となります。

阪神桜川駅への入口(2017年7月)

桜川駅は1969年(昭和44年)、当時の大阪市営地下鉄5号線(現在の地下鉄千日前線)の野田阪神桜川駅間の開通と同時にその終着駅として開業しています。後に千日前線は延伸され、桜川駅は途中駅となりました。

地下鉄桜川駅駅名標(2017年7月)

2009年(平成21年)になると、当時の阪神西大阪線(現在の阪神なんば線)が西九条~大阪難波間へと延伸して近鉄難波線と接続して開業した際に、桜川駅は誕生しています。

汐見橋駅に隣接する阪神桜川駅(2019年8月)


南海鉄道

大阪高野鉄道と、橋本~高野山方面への工事に着手していた高野大師鉄道を合併したのが南海鉄道(現在の南海電気鉄道)です。南海鉄道は1925年(大正14年)に橋本~高野山(現在の高野下)を開通させています。

橋本駅駅名標(2016年10月)
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このとき、岸ノ里駅(後に隣接する玉出駅と合併し岸里玉出駅となる)に高野線南海本線の連絡橋が完成し、それまではすべての高野山方面への直通列車が汐見橋駅起点となっていましたが、難波を起点とする列車が運行されるようになりました。さらに、南海鉄道は高野山電気鉄道を設立し、1929年(昭和4年)に高野下~極楽橋間を開通させ、後の南海高野線を全通させています。

汐見橋駅駅舎(2019年8月)

C10001形蒸気機関車は1946年(昭和21年)、汐見橋~河内長野間における急行列車の牽引車として登場しました。当時のダイヤでは、夕方2列車が汐見橋駅を出発して河内長野駅に向かい、翌朝その2列車が河内長野駅を出発して汐見橋駅へと戻るというものでした。

河内長野駅に停車する南海電車の車両(2016年10月)

客車にはサハ3800形とよばれた木造車が2両連結され、その停車駅は汐見橋~住吉東までの各駅と堺東、三国ヶ丘、初芝、北野田でした。1949年(昭和24年)に蒸気機関車による急行列車が廃止されると貨物輸送に従事した後、片上鉄道へと譲渡されています。

天下茶屋駅に停車する「なんば行き」(2017年1月)


汐見橋線と高野線

現在でも高野線の起点は汐見橋駅であり、終点は極楽橋駅となっています。しかしながら、運行系統上では、高野線とは難波~極楽橋間(なんば—今宮戎—新今宮—萩ノ茶屋—天下茶屋—岸里玉出—帝塚山—住吉東—沢ノ町—我孫子前—浅香山—堺東—三国ヶ丘—百舌鳥八幡—中百舌鳥—白鷺—初芝—萩原天神—北野田—狭山—大阪狭山市—金剛—滝谷—千代田—河内長野—三日市町—美加の台—千早口—天見—紀見峠—林間田園都市—御幸辻—橋本—紀伊清水—学文路—九度山—高野下—下古沢—上古沢—紀伊細川—紀伊神谷—極楽橋を運行する系統の列車をさし、汐見橋~岸里玉出間の折り返し運転のみを行う区間を通称「汐見橋線」とよんでいます。

汐見橋駅に停車する折り返し運転の車両(2019年8月)

高野線は汐見橋~極楽橋間を結ぶ路線ですが、実際には汐見橋~岸里玉出間と岸里玉出~極楽橋間は線路が分断されています。そのため、運行系統上は難波駅(通称「なんば駅」)~岸里玉出間は南海本線岸里玉出~極楽橋間は高野線を走る直通運転となっています。

汐見橋線車両の車内(2019年8月)


岸里玉出駅

1900年(明治33年)に高野鉄道大小路(現在の堺東)~道頓堀(現在の汐見橋)間を延伸開業した際、勝間駅(後の岸ノ里駅)を設置しました。この駅は1903年(明治36年)に阿部野駅(後の岸ノ里駅)と改称されます。

汐見橋駅に停車する汐見橋線の車両(2019年8月)

1907年(明治40年)になると、南海鉄道(現在の南海電気鉄道)が天下茶屋~玉出駅間に岸ノ里駅を設置しました。その後、1922年(大正11年)に南海鉄道(現在の南海電気鉄道)が大阪高野鉄道を合併し、1925年(大正14年)には阿部野駅岸ノ里駅と改称しました。これに伴い、南海本線と高野線を結ぶ連絡線が開設されたため、高野線の列車が汐見橋駅だけではなく、難波駅への乗り入れを開始しています。

天下茶屋駅ホーム(2017年1月)

しかしながら、当時の岸ノ里駅では難波駅から高野線への直通列車用ホームは設置されなかったため、難波駅から高野線への直通列車は岸ノ里駅を通過していました。この連絡線は1926年(大正15年)に複線化され、これと同時に現在の汐見橋線と南海本線を結ぶ連絡線も複線で設けられました。この後、岸ノ里駅は近畿日本鉄道の駅を経て、1947年(昭和22年)には南海電気鉄道の駅となります。

天下茶屋駅に到着する各駅停車「なんば行き」(2016年10月)

1970年(昭和45年)になると、高野線難波駅直通列車用ホームが設置され、1985年(昭和60年)には、汐見橋線と高野線が分断されました。さらに、1993年(平成5年)に南海が高架化され、その駅間がたった400メートルしかなかった岸ノ里駅と玉出駅は統合され、岸里玉出駅が誕生しました。

岸里玉出駅駅名標(2019年8月)

その後、高野線も高架化され、現在に至ります。下の写真は、現在の南海本線と高野線の分岐の様子です。手前の列車が和歌山方面行きの南海本線を走る列車であり、その陰から写真右手へ向かっていく列車が高野線へと分岐していく列車です。

南海本線と高野線の分岐(2019年8月)

現在の岸里玉出駅は普通列車しか停車しない駅でありながら、高野線、南海本線,汐見橋線が乗り入れます。1番線・2番線となる高野線ホームは2面2線の相対式ホーム、3番線・4番線となる南海本線ホームは1面2線の島式ホーム、5番線は通過線のためホームはなく、6番線となる汐見橋線ホームは1面1線の単式ホームとなっています。

6番線汐見橋線ホーム(2019年8月)

下の写真で見ると、最も右の線路が6番線汐見橋線であり、奥(南側)に車止めが見えます。中央の線路が5番線の通過線であり、難波方面へ向かう特急列車などが通過します。その左の線路が4番線であり、南海本線の上り線となっています。

6番線南側の車止め(2019年8月)

次の写真の左側には、汐見橋から来た岸里玉出駅行きの列車が6番線ホームに入るのが見えますが、写真の右手の方には3番線を走る和歌山方面行きの列車の最後尾の車両が見えます。

岸里玉出駅6番線に到着する汐見橋線の車両(2019年8月)


 

特急「こうや」と特急「りんかん」

こうや」は難波~極楽橋間で運行される特急であり、高野山へのアクセス列車として30000系および31000系が使用されています。

特急「こうや」31000系(2017年1月)

30000系は1983年(昭和58年)に登場した車両であり、先代20000系の後継車両となりました。前面および側面の眺望がよく、先頭部がシャープな流線形となっているのが大きな特徴です。登場から30年以上経過しますが、引退の気配は今のところありません。

九度山駅に到着する各駅停車「橋本行き」(2016年10月)
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4代目「こうや」となる31000系は1999年(平成11年)に登場しています。他の特急列車との併結のため、車両前面に貫通扉が設置されています。30000系、31000系ともに車長は17メートルと短く、橋本駅から高野山へと向かう山岳路線区間の急カーブに対応できるようになっています。

各駅停車「なんば行き」の車両(2016年10月)
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また、難波~橋本間で運行される特急列車は「りんかん」と名付けられています。

特急「こうや」31000系(2017年1月)


河内長野駅

南海電気鉄道に乗ると、大阪市内から約30分ほどで河内長野市に入ります。河内長野市を中心とする大阪南東部は緑が豊かな地域となっていて「奥河内」ともよばれています。その玄関口となるのは河内長野駅であり、河内長野駅は1898年(明治31年)に開業しました。1902年(明治35年)になると、河南鉄道が開通して乗換駅となりました。

各駅停車「橋本行き」の車両(2016年10月)
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現在では近鉄河内長野駅と隣接しており、近鉄長野線の終着駅となっています。また、河内長野駅には特急「こうや」の他、すべての列車が停車します。

河内長野駅に停車する車両(2016年10月)
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愛称「こうや花鉄道」

河内長野駅からさらに南へ下ると、和歌山県に入り橋本駅に到着します。橋本駅は1898年(明治31年)当時、紀和鉄道の駅として開業していますが、このときはいわゆる「陸(おか)蒸気」が走り出した時代です。紀和鉄道は1896年(明治29年)に設立された鉄道会社であり、現在のJR和歌山線のうち五条~和歌山間を運行していました。当時の和歌山駅は現在では紀和駅となっています。紀和鉄道は他社に買収された後、国有化されています。また、陸蒸気とは蒸気機関車のことであり、明治時代にはそのようによばれました。当時蒸気船が「蒸気」とよばれたことに対する造語です。

入線を待つ急行「なんば行き」の車両(2016年10月)
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1915年(大正4年)になると、高野登山鉄道が三日市~橋本間を開通させて橋本駅に乗り入れ、これが後に南海鉄道の駅となります。それ以来、橋本駅は国鉄と南海鉄道(現在の南海電気鉄道)の共同使用駅となりました。

橋本駅に停車する車両(2016年10月)
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1922年(大正11年)に南海高野線となり、汐見橋~橋本間を「大運転」、汐見橋~三日市間を「中運転」、汐見橋~堺東間を「小運転」と称するようになりました。このころの「大運転」は1時間55分かかったといいます。

九度山駅に到着する「橋本行き」各停列車(2016年10月)
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現在の橋本駅駅名標には「こうや花鉄道」とあります。これは高野線のうち橋本~高野山間の愛称となっており、橋本駅はまさに高野山への玄関口となっています。

橋本駅駅名標(2016年10月)
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橋本駅の標高は92メートルであり、ここから極楽橋間は急カーブと最高で50パーミルとなる勾配区間が介在する山岳路線となります。極楽橋駅からはケーブルカーに接続しています。


九度山駅

九度山(くどやま)駅は1924年(大正13年)、当時の南海鉄道(現在の南海電気鉄道)が路線を延伸開業したことにより、当時の終着駅として開業しました。その後、路線は高野山駅(現在の高野下駅)まで延伸され、途中駅となりました。

九度山駅ホーム(2016年10月)
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九度山駅は高野山への代表的な入山道となる高野山町石道(ちょういしみち)への最寄り駅となります。

九度山駅ホーム(2016年10月)

真田幸村(真田信繁)が父(真田昌幸)とともに高野山蟄居を命じられた地の玄関口ともなっています。

真田父子が暮らした住居の跡地に建つ寺(2016年10月)
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2016年(平成28年)にNHK大河ドラマ「真田丸」の放送がきっかけとなり、この地は真田昌幸・真田幸村(信繁)父子ゆかりの地としての盛り上がりました。

九度山駅待合室に設置される真田父子のパネル(2016年10月)
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高野山麓にある和歌山県九度山町は人口5,000人足らずの町であり、美しい風景や歴史があります。大阪からは南海高野線に乗車し、河内長野・橋本を経由して九度山駅に到着します。

九度山駅(2016年10月)

真田幸村ゆかりの地へは九度山駅を出て、赤く塗られた九度山駅前バス停の横の階段を下りて右へ曲がります。

九度山駅前バス停(2016年10月)
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国道370号線を横切る歩道橋を渡ると「真田のみち」のゲートがあり「九度山まちなかエリア」へと入っていきます。

「真田のみち」入口(2016年10月)
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しばらく歩くと古民家を再利用した「まちなか休憩所」が見えてきます。休憩ができる他、おみやげも販売しています。

まちなか休憩所(2016年10月)
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長野県に生まれた真田幸村(信繁)が大坂と関係をもつのは、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭した後、父・真田昌幸がこれに服従することになったときのことです。真田幸村(信繁)は人質として大坂へ行くこととなり、秀吉の近くで馬廻衆を務め、秀吉の信頼を得るようになりました。

真田父子が蟄居した場所であった現在の「真田庵」(2016年10月)
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しかしながら、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の死後、石田三成らと結んだ真田昌幸は関ヶ原の戦いにて徳川家康に敗れます。本来なら死罪に相当するところ、関ヶ原の戦いで徳川方に従軍していた真田幸村(信繁)の兄である真田信幸(真田信之)と、その舅となる本田忠勝の執り成しにより、徳川家康より1600年(慶長5年)に高野山への蟄居を命じられます。

道の駅「柿の郷くどやま」(2016年10月)
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蟄居を命じられた真田父子は、はじめ高野山の蓮華定院(れんげじょういん)に身を寄せることになります。その後、妻子との生活が許されるようになったため、高野山麓の九度山へと移り住むことになりました。

九度山駅を出発し高野山方面へ向かう列車(2016年10月)
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真田父子が蟄居した場所の跡地にあるのが善名称院(ぜんみょうしょういん)です。「九度山まちなかエリア」の中心部にあります。現在では「真田庵」とよばれています。

真田庵(2016年10月)
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 父・真田昌幸は1611年(慶長16年)にこの地で生涯を閉じ、真田幸村(信繁)は1614年(慶長19年)に大坂より迎えが来るまで14年間この地で過ごすことになります。

真田庵(2016年10月)
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真田父子が暮らした住居の跡地に建てられた善名称院の境内には、真田昌幸が「真田地主大権現」として祀られています。

真田庵の守護神・真田地主大権現(2016年10月)
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さらに、真田を詠った松尾芭蕉の句碑、真田宝物資料館、真田幸村(信繁)が雷を封じたとされる「雷封じの井」などがあります。「雷封じの井」は大きな石を蓋として閉じられた井戸ですが、落雷を真田幸村(信繁)が井戸に封じ、人々を救ったとの伝説があります。

「雷封じの井」(2016年10月)
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まさに「真田」を感じられる寺ですが、1741年(寛保元年)に善名称院を建立したのは大安上人です。本尊として延命子安地蔵菩薩が祀られ、今では地元の人々が参る寺となっています。

真田父子四百回忌碑(2016年10月)
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境内にある善名称院土砂堂(他5棟)は九度山町指定文化財となっています。大安上人は盛んに土砂加持祈祷を行い、清浄な小石を納める土砂堂を創建しました。現在のお堂は江戸時代末期の建築となっています。

土砂堂(2016年10月)
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真田古墳はこの真田庵から東へ170メートルほどの場所にあります。真田古墳には伝説があり、この穴は大坂城につながっていて、当時の真田幸村(信繁)はこの穴を抜けて戦場の大坂へ出向いたというものです。

真田古墳(2016年10月)
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これは実際には地下式石室であり、その石室は南向きの横穴式で、割石積みの側壁と平石を用いた奥壁、そして天井により構成されたものとされています。すなわち、真田古墳は「抜け穴」ではなく、現在では古墳時代後期の横穴式石室をもつ円墳と判断されています。

真田古墳(2016年10月)
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九度山駅から徒歩10分、真田庵の近くには2016年(平成28年)にオープンした「九度山・真田ミュージアム」があります。

九度山・真田ミュージアム(2016年10月)
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ここでは、真田昌幸・真田幸村(信繁)父子と真田幸村(信繁)の子である大助の3代にわたる資料などを展示し、後世へとその業績を語り継ぐことを目的とした施設です。

九度山・真田ミュージアム(2016年10月)
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館内は、エントランス、上田時代,九度山時代,九度山異聞,大坂の陣,真田伝説,十勇士伝説,企画展示室の小部屋に区切られています。

南海電車「九度山きっぷ」の特典(2016年10月)
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九度山で暮らした当時のことだけではなく、それ以前・以後の真田家について知ることができます。

九度山・真田ミュージアム(2016年10月)
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真田古墳から東へ徒歩3分の場所にある「旧萱野家(大石順教尼の記念館)」は九度山町指定文化財です。ここはもともと「不動院」という寺であり、1703年(元禄16年)に建立されたものです。現在では民家となっており、全体的には江戸時代中期の建築となっています。

旧萱野家/大石順教尼の記念館(2016年10月)
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真田庵から徒歩3分ほどの場所にある「米金の金時像」は、明治時代から大正時代にかけての陶芸家である南紀荘平の作品であり、その高さは2メートルほどあります。このように大きな陶像はとても珍しいものであり、町の人々からも親しまれています。

米金の金時像(2016年10月)
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「九度山まちなかエリア」を抜けて丹生川を渡ると、道の駅「柿の郷くどやま」が見えてきます。

道の駅「柿の郷くどやま」(2016年10月)
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九度山駅からは徒歩約15分です。道の駅「柿の郷くどやま」には農産物直売所,カフェ,体験・研修施設,世界遺産情報センターなどがあります。道の駅「柿の郷くどやま」の隅には大きな栴檀(せんだん)の木があります。ここから先は「九度山世界遺産エリア」へと入り、世界遺産の慈尊院までは徒歩約10分です。

栴檀の木(2016年10月)
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道の駅「柿の郷くどやま」からしばらく歩くと小さな慈尊院橋があります。

慈尊院橋(2016年10月)
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これを渡ると慈尊院に到着します。

慈尊院(2016年10月)
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慈尊院は816年(弘仁7年)、弘法大師・空海は朝廷より高野山を賜り、高野山を開く際に高野山参詣のための要所となるこの地に伽藍を創建しました。

慈尊院(2016年10月)
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ここは高野山入山への表玄関となり、高野山の庶務を担当する事務所が置かれ、宿泊所や修行の場として利用されました。

慈尊院(2016年10月)
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835年(承和2年)、空海の母が亡くなった際に廟堂を建立して弥勒菩薩を安置し、これ以降に弥勒菩薩の別名となる「慈尊院」と称されるようになりました。慈尊院弥勒菩薩坐像は国宝に指定されており、慈尊院本堂(弥勒堂)は重要文化財に指定されています。

慈尊院本堂(2016年10月)
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境内には「高野山町石道参詣登山の方は出発点である当院の国宝である本尊弥勒菩薩さまへお参りされ道中安全・諸祈願をしてお登りください」と案内があります。

慈尊院本堂(2016年10月)
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大師堂は「四国堂」ともよばれ、弘法大師像と四国八十八箇所のそれぞれの札所の本尊を模した88像を祀ってあります。ここに参れば、四国にお参りしたのと同様のご利益が得られるということです。

大師堂(2016年10月)
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多宝塔の本尊は大日如来が安置されているため「大日塔」ともよばれています。

多宝塔(2016年10月)
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弘法大師・空海が創立したものですが、現存する多宝塔は寛永年間に再建されたものであり、和歌山県指定文化財となっています。

多宝塔(2016年10月)
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多宝塔の横の急な階段を上ると、世界遺産の丹生官省符(にうかんしょうふ)神社があります。

丹生官省符神社(2016年10月)
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空海が慈尊院を建立した際に、守り神として地元にゆかりのある神を祀った神社です。

丹生官省符神社拝殿(2016年10月)
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急な階段の途中には石造大鳥居(一の鳥居)がありますが、九度山町指定文化財となるこの大鳥居をくぐって119段の階段を上ると、赤い鳥居(二の鳥居)があります。

石造大鳥居/一の鳥居(2016年10月)
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二の鳥居をくぐると広場があり拝殿があります。

丹生官省符神社拝殿(2016年10月)
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もともと丹生官省符神社は紀ノ川河畔にありましたが、その後この地に移されて神々が合祀され「七社明神」とも称されるようになりました。

丹生官省符神社拝殿(2016年10月)
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拝殿は向かって右から第一殿、第二殿、第三殿とされますが、明治時代に入ってから三殿となったものです。第一殿、第二殿は1517年(永正14年)にこの地に移築されて再建されたものであり、第三殿は1541年(天文10年)に再建されたものです。

丹生官省符神社拝殿(2016年10月)
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高野山への表参道となる町石道は慈尊院から高野山へと続く約20キロの道ですが、当時木製と卒塔婆を立てて道標としました。

町石道(2016年10月)
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現在でも1町(約109メートル)ごとに石柱が残っています。

町石道(2016年10月)
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高野山壇上伽藍が起点となっていて、慈尊院に至る道に180基の石柱があります。

町石道(2016年10月)
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高野山の弘法大師信仰が広まるにつれて全国から多くの人が参拝するようになり、高野山への道が7つ開かれて「高野七口」ともよばれました。

町石道(2016年10月)
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町石道は主要参詣道として多くの人が利用しましたが、この他、高野街道京大坂道(きょうおおさかみち)、黒河道(くろこみち)、大峰道(おおみねみち)、熊野古道小辺路(くまのこどうこへち)、相ノ浦道(あいのうらみち)、有田・龍神道(ありだりゅうじんみち)が「高野七口」となります。

現地に掲示される周辺地図(2016年10月)
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丹生官省符神社のすぐ近くに勝利寺があります。勝利寺は慈尊院より前に創建されたともいわれており、弘法大師・空海が42歳の頃には厄除けのために十一面観音を奉納しました。

勝利寺(2016年10月)
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急な階段を上ったところに勝利寺仁王門があります。仁王門は1755年(宝暦5年)に上棟し、1773年(安永2年)に完成したと考えられています。

勝利寺仁王門(2016年10月)
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仁王門をくぐると本堂が見えます。本堂は1771年(明和8年)くらいに建立されたものではないかと思われます。

勝利寺本堂(2016年10月)
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勝利寺の北には紙遊苑があります。高野紙の伝統文化とその技術を伝える体験資料館となっています。

紙遊苑(2016年10月)
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ここでは、弘法大師・空海に教えてもらったとされる紙漉きを体験することができます。

紙遊苑(2016年10月)
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