南海ホークスと大阪球場跡地
大阪といえば阪神タイガースを想起される人も多いですが、関西地方にはかつて、南海ホークスや阪急ブレーブス、近鉄バファローズという人気のある球団がありました。
背番号71/杉浦忠監督(2017年1月)
阪神タイガースの本拠地はもちろん甲子園球場なので実際には大阪府というよりも兵庫県ということになりますが、南海ホークスと近鉄バファローズの本拠地は大阪府にありました。南海ホークスの本拠地であった大阪球場は1998年(平成10年)に取り壊され、現在ではなんばパークスという複合施設に生まれ変わっています。
大阪球場ホームベース跡(2017年1月)
商業施設の合間の2階部分には、かつてのホームベースとピッチャーズプレートの跡が残されています。
大阪球場ピッチャーズプレート跡(2017年1月)
この大阪球場ができたころに祀られたのが、大阪球場のすぐ近く、すなわち南海難波駅付近の高架下にある葵稲荷神社です。江戸時代にはこの辺りに幕府の米蔵があったといいます。この辺りにあった米蔵は難波米蔵とよばれ、1732年(享保17年)に飢饉にあたって設置されました。東西126メートル,南北324メートルの敷地内に米蔵が8棟置かれており、災害時のための米貯蔵の役割を担っていました。1733年(享保18年)には米蔵への水運の向上をはかるため、道頓堀の湊町付近から難波新川が引かれています。しかし、この川は1958年(昭和33年)に埋められてしまいました。
葵稲荷神社(2017年1月)
また、葵稲荷神社のすぐそばには「なんばの福がえる」が設置されています。「なんばの福がえる」をさわると「福となす」といわれています。
「なんばの福がえる」(2017年1月)
大阪球場跡地となる「なんばパークス」には商業施設の他、「人,都市,自然がもっと一つになるために」というコンセプトのもと、多くの緑が配されています。その緑の合間には、大阪に関わった著名人の手形の碑が数多く設置されていますが、かつての南海ホークスの名選手の手形もあります。門田博光選手は1969年(昭和44年)にドラフト2位で入団し、1971年(昭和46年)には31本塁打を放ち、120打点で打点王となっています。本塁打王は3回、打点王は2回受賞しています。
門田博光選手(2017年1月)
岡本伊三美選手は1949年(昭和24年)にテスト生として入団し、1951年(昭和26年)のシーズン後半に二塁手として先発出場を果たしています。1952年(昭和27年)の中盤以降、二塁手としての定位置を獲得し、初のベストナインに選出されています。1953年(昭和28年)に首位打者を獲得し、ベストナインには5回選出されています。
岡本伊三美選手(2017年1月)
広瀬叔功選手は1955年(昭和30年)に投手として入団をしますが、怪我のため野手へと転向します。1956年(昭和31年)には初めての先発出場を果たし、4打数4安打を記録しています。1964年(昭和39年)には首位打者を獲得した他、盗塁王は5回受賞しています。
広瀬叔功選手(2017年1月)
また、南海ホークスに関係する記念グッズや写真なども展示されています。杉浦忠監督は現役時代投手として活躍し、1986年(昭和61年)~1988年(昭和63年)には南海ホークスの監督を務め、6位,4位,5位の結果でした。そのときの背番号は71でした。
背番号71/杉浦忠監督(2017年1月)
南海電気鉄道
なんばパークスからは大阪の街並みが一望できます。南海電気鉄道の線路はそのすぐ横にあり、難波駅を起点として大阪南部へと足を延ばしています。
なんばパークスから見た南海電気鉄道の線路(2017年1月)
難波駅から鉄道が走り出したのは1885年(明治18年)のことでした。そして、開業2年目を迎えた1887年(明治20年)には、官鉄の梅田駅(現在の大阪駅)の乗降客数を凌いだといいます。そのころの会社名は「南海電気鉄道」ではなく「阪堺鉄道」といいました。その時代には、日本の鉄道は官鉄による東京,京阪神,札幌および金沢~長浜間と、日本鉄道による上野~高崎間しか運行されていませんでした。
山手線上野駅(2022年10月)
創業当時の難波駅は「難波停車場(ステーション)」と命名され、それ以来「ミナミ」の玄関口として栄え、大阪南部から和歌山県へかけての鉄道網の起点であり続けてきました。現在、難波駅については駅構内および車内の案内表示は読み間違えのないように「なんば駅」としています。
阪堺鉄道
南海電気鉄道のはじまりは1884年(明治17年)、その前身である阪堺鉄道の設立が認可されたときに遡ります。現存する民鉄ではわが国最古の鉄道会社となります。「民鉄」とは「国鉄」に対立する用語であり、民間が運営する鉄道を意味します。現在では一般的に「私鉄」とよばれています。
南海電気鉄道の空港特急「ラピート」(2017年1月)
藤田伝三郎は現在の山口県萩市出身であり、豪商の子として生まれた後、藤田財閥,藤田組の創始者となりました。1882年(明治15年)には大阪堺間鉄道(後の阪堺鉄道)の発起人・創立委員となっています。その後、山陽鉄道,宇治川電気(後の関西電力),北浜銀行(後の三和銀行)などの創設に携わりました。
淀川(2023年3月)
南海電気鉄道の前身となる阪堺鉄道がその路線を初めて敷設したのは1885年(明治18年)ですが、会社として南海電気鉄道が設立されたのは1925年(大正14年)となります。したがって、わが国最古の鉄道会社というのは路線敷設を基準として考えたものです。一方、会社設立という面から見ると、1897年(明治30年)に創立された東武鉄道がわが国で最も古い鉄道会社であり、東武鉄道は創立以来その社名を変更していない鉄道会社のうちの一つです。
東武特急100系「雅」(2022年9月)
近江鉄道や島原鉄道も創立以来、その社名を変更していません。島原鉄道は1908年(明治41年)に設立された鉄道会社であり、現在では島原鉄道線(諫早~島原外港)を運行しています。新橋~横浜間において、日本で最初に走った「1号機関車」は1911年(明治44年)に島原鉄道へ払い下げられ、引退するまで島原鉄道で最後の活躍をしました。
近江鉄道彦根駅(2016年7月)
また、これらの鉄道会社に先立って、日本鉄道が1881年(明治14年)に設立されていますが、この鉄道会社は1906年(明治39年)に国有化され、すでに現存しません。日本鉄道は形式的には民鉄という形でしたが、実際の路線敷設には明治政府が大きく関与しており、事実上は官設鉄道といってもよいものです。したがって、純粋な民間企業による日本初の蒸気鉄道会社と考えると、この阪堺鉄道ということになります。ただし、ここで取り上げている阪堺鉄道は現在、大阪市および堺市において路面電車を運行している阪堺電気軌道とは異なります。
ここでいう阪堺鉄道ではない「阪堺電車」(2017年10月)
ここでいう阪堺鉄道は1885年(明治18年)に難波~大和川間を開通させ、初めて小型SLを運行します。小型というのはその軌間が変則的であり838ミリしかない軽便鉄道でした。その後、1888年(明治21年)には堺(吾妻橋)まで延伸しています。
南海鉄道
一方で、堺と和歌山を結ぶ鉄道として、1889年(明治22年)に紀泉鉄道が計画され、1891年(明治24年)には紀阪鉄道が設立されたので、2社は調整を受けて合併して紀摂鉄道なりました。その後、南陽鉄道となった後、1895年(明治28年)には南海鉄道となります。南海鉄道は1897年(明治30年)に堺~佐野(現在の泉佐野)間を開通させ、続けて佐野~尾崎間を延伸開業しています。
南海高野線九度山駅に到着する列車(2016年10月)
この南海鉄道は1898年(明治31年)に阪堺鉄道の事業譲渡を受けて、1903年(明治36年)に難波~和歌山市間を全通させました。1907年(明治40年)には、難波~浜寺公園間において電車運転を開始し、1911年(明治44年)には現在の南海本線全線を電化しています。
浜寺公園駅ホーム上の待合室(2018年12月)
また、高野山への鉄道については、1925年(大正14年)に高野山電気鉄道が設立され、その後、高野下~極楽橋間、ケーブル線の極楽橋~高野山間が全通し、1932年(昭和7年)に南海鉄道との相互乗り入れが行われるようになり、現在の高野線へとつながっていきます。
南海高野線橋本駅の保線作業車(2016年10月)
阪和電気鉄道
南海鉄道と高野山電気鉄道の相互乗り入れに先立って、1930年(昭和5年)に阪和電気鉄道(現在の阪和線)が開通しています。阪和電気鉄道は1926年(大正14年)に設立された鉄道会社であり、現在の阪和線(天王寺—美章園—南田辺—鶴ケ丘—長居—我孫子町—杉本町—浅香—堺市—三国ケ丘—百舌鳥—上野芝—津久野—鳳—富木—北信太—和泉府中—久米田—下松—東岸和田—東貝塚—和泉橋本—東佐野—熊取—日根野—長滝—新家—和泉砂川—和泉鳥取—山中渓—紀伊—六十谷—紀伊中ノ島—和歌山)を建設しています。
吹田総合車両所内の空港特急「はるか」(2016年10月)
1929年(昭和4年)に阪和天王寺(現在の天王寺)~和泉府中間および支線となる鳳~阪和浜寺(現在の東羽衣)間を開通し、翌1930年(昭和5年)には和泉府中~阪和東和歌山(現在の和歌山)間を開通させています。並行して走る南海鉄道に対して、阪和電気鉄道は1933年(昭和8年)に阪和天王寺~阪和東和歌山間を結ぶ特急の所要時間を48分から45分へと短縮し、ノンストップ特急の列車種別を「超特急」と名付けています。
阪和線内を走る紀州路快速(2019年7月)
これに対して、南海鉄道は1936年(昭和11年)、車両に冷房装置を取り付けるというリニューアル工事を行い、翌年までに8両の冷房車を投入しています。当時は冷房車を走らせている鉄道会社はなく、後に冷房車が一般的に普及するのが昭和40年代になってからであることを考えると、当時の冷房車がいかに先進的であったかということがわかります。阪和電気鉄道と南海鉄道との激しい競争において経営難となり、鉄道省などのすすめにより、1940年(昭和15年)に南海鉄道と合併することになります。
阪和線内を走る紀州路快速(2019年7月)
合併により、阪和電気鉄道の路線は「南海鉄道山手(やまのて)線」となります。その後、戦局の悪化などにより、国は民鉄に対して強制買収を決定し、阪和電気鉄道の路線であった南海鉄道山手線については1944年(昭和19年)に国有化を実施して「阪和線」としました。
新大阪駅から京都方面へ向かう特急「ハローキティはるか」(2019年6月)
南海電気鉄道
戦局がますます厳しくなる中、南海鉄道については、1944年(昭和19年)に関西急行鉄道と合併され、近畿日本鉄道が誕生しています。戦後1947年(昭和22年)になると、旧南海鉄道に所属していた路線について近畿日本鉄道からの分離が実施されます。
高野山の麓/道の駅「柿の郷くどやま」(2016年10月)
近畿日本鉄道を誕生させた際に、これへの合流を免れていた高野下~極楽橋~高野山間を有する高野山電気鉄道を「南海電気鉄道」と改称し、これを母体として南海の再起が図られることとなりました。現在の南海本線(なんば—新今宮—天下茶屋—粉浜—住吉大社—住ノ江—七道—堺—湊—石津川—諏訪ノ森—浜寺公園—羽衣—高石—北助松—松ノ浜—泉大津—忠岡—春木—和泉大宮—岸和田—蛸地蔵—貝塚—二色浜—鶴原—井原里—泉佐野—羽倉崎—吉見ノ里—岡田浦—樽井—尾崎—鳥取ノ荘—箱作—淡輪—みさき公園—孝子—和歌山大学前(ふじと台)—紀ノ川—和歌山市—和歌山港)や南海高野線などの旧南海鉄道に所属した路線を南海電気鉄道へと事業譲渡し、近畿日本鉄道からの「南海」の分離が実現しました。
南海高野線河内長野駅に到着する車両(2016年10月)
関西空港線
関西国際空港が1994年(平成6年)に開港していますが、それに先立って関西空港線として日根野~関西空港間(日根野—りんくうタウン—関西空港)が開業しています。
新大阪駅に停車する空港特急「ハローキティはるか」(2019年6月)
JR西日本の空港特急「はるか」は野洲・草津・京都~関西空港間を結びます。京都駅を出発した特急「はるか」は東海道本線に入って新大阪方面へ向かうのではなく、京都鉄道博物館前の京都貨物線に入って新大阪方面へと向かいます。
京都貨物駅(2019年1月)
桂川を渡る手前で東海道本線を乗り越えてから東海道本線へと入った後、東海道本線を南下し、高槻駅,茨木駅を過ぎて分岐線へと入り、東海道本線を再び乗り越えてから、梅田貨物線へと入ります。
新大阪駅から京都方面へ向かう特急「ハローキティはるか」(2019年6月)
新大阪駅に停車した後、新設された大阪駅(うめきたエリア)地下ホームに入り、大阪環状線,阪和線,関西空港線を経由して関西空港駅に到着します。
新大阪駅に到着する特急「はるか」(2019年3月)
関西国際空港では、世界中からやってくる多くの旅行者をハローキティが迎えてくれます。ハローキティがその車体に描かれた「ハローキティはるか」は、通常の特急である「はるか」の定期列車として運行されています。
車体に描かれるハローキティ(2019年6月)
「ハローキティはるか」の運転される時刻は日によって異なる他、運転のない日もあります。
「ハローキティはるか」の1号車(2019年6月)
特急「はるか」の車両には専用車両として281系直流特急形電車が用いられています。車体に描かれるロゴマークは、外国人を意識して五重塔と富士山が先頭車両と最後尾車両に描かれています。
新大阪駅に停車する「ハローキティはるか」(2019年7月)
その列車名である「はるか」の名は一般公募により決定しましたが、「はるか」という言葉が「海外アクセス」「大空」「日本らしさ」「明るさ」などを想起させるということから名付けられたといいます。
新大阪駅に停車する「ハローキティはるか」(2019年7月)
空港特急「ラピート」
「ラピート」はなんば~関西空港間を結ぶ南海電気鉄道の空港特急です。「ラピート」という名称は公募により採用された列車名ですが、「速い」という意味のドイツ語です。1994年(平成6年)より営業運転を開始しています。
空港特急「ラピート」(2017年1月)
速達型の「ラピートα」はなんば,新今宮,天下茶屋,泉佐野,りんくうタウン,関西空港に停車します。停車型の「ラピートβ」はなんば,新今宮,天下茶屋,堺,岸和田,泉佐野,りんくうタウン,関西空港に停車します。
「ラピートβ」の側面(2017年1月)
「レトロフューチャー」をそのデザインコンセプトとした「ラピート」の最大の特徴は外観フォルムにあり、先頭は特に斬新な形状をしています。また、側面の窓は航空機のイメージから生まれたという楕円型の窓になっています。
特急「サザン」
特急「サザン」は南海本線のなんば~和歌山市・和歌山港間を結ぶ特急列車です。停車駅はなんば,新今宮,天下茶屋,堺,岸和田,泉佐野,尾崎,みさき公園,和歌山大学前(ふじと台),和歌山市,和歌山港(一部の列車のみ)です。
特急「サザン」(2020年6月)
七道駅
七道(しちどう)駅はの南海本線の駅であり、1917年(大正6年)に南海鉄道の駅として住ノ江駅~堺駅間に設置されました。その後、近畿日本鉄道の駅となり、現在は南海電気鉄道の駅となっています。
大和川を渡る空港特急「ラピート」(2018年12月)
ホームは高架駅となっており、駅の目の前にあるイオンモール堺鉄砲町とは歩道橋で接続しています。
大和川に架かる南海本線と阪神高速堺線(2018年12月)
堺鉄砲町赤レンガ館は1908年(明治41年)に堺セルロイド(現在のダイセル)の工場創設の際に茂庄五郎(しげしょうごろう)の設計により建設されたものです。
堺鉄砲町赤レンガ館(2018年12月)
茂庄五郎は明治時代に関西で活躍した建築家であり、茂建築事務所を開設しています。当時「東洋のマンチェスター」とよばれた大阪のまちにおいて工場建築を多く手掛けたことで知られています。主な建築物としては、堺セルロイド会社工場の他、尼崎発電所(茂庄五郎の作品と推測される),尼崎紡績尼崎工場,日本紡績福島本社工場などがあります。
旧尼崎発電所(2019年2月)
セルロイドは象牙の代わりに用いられた化学素材の一つであり、世界で初めてのプラスチックです。ニトロセルロースと樟脳などから合成される合成樹脂です。加熱(90℃程度)により軟化し加工がしやすいことから、眼鏡のフレームやピンポン玉,人形,ペン軸などにも使用されました。堺セルロイドという会社はこのセルロイドの国産化に成功した会社です。
大和川を渡る空港特急「ラピート」(2018年12月)
堺鉄砲町赤レンガ館は日本の近代産業の歴史を伝える貴重な建造物ですが、ダイセル発祥の地となる堺工場が2008年(平成20年)に阪神高速大和川線の事業化により廃止となり、工場施設の解体・撤去が決定しました。
堺鉄砲町赤レンガ館(2018年12月)
しかしながら、地域住民や建築家の強い要望があり、セルロイドの国産化に奮闘した当時を偲ぶモニュメントとして保存することになりました。多くの赤レンガ工場群は整理されることになりましたが、現在ではイオンモール堺鉄砲町の敷地内に一棟のみ保存され、レストランとして営業しています。
堺鉄砲町赤レンガ館のレストラン(2018年12月)
浜寺公園駅
浜寺公園駅は1907年(明治40年)、「近代建築の元勲」こと東京帝国大学工科大学学長の辰野金吾・片岡安博士設計により建てられた洋風木造建築物です。
旧駅舎の前に設置される駅の説明(2018年12月)
屋根の正面に見えるドーマ窓(屋根窓)や、柱の骨組みを壁に埋めず装飾模様として活かすハーフチンバー様式(木骨真壁作り)、また、鹿鳴館の2階ベランダ部分に用いられた柱と似た玄関柱が特徴となっています。
浜寺公園駅旧駅舎(2018年12月)
私鉄最古の歴史ある明治時代の駅として、地元をはじめ多くの人々から親しまれ日本建築学会など学術的にも高く評価されています。この駅舎は1998年(平成10年)に国の登録有形文化財に登録されている他、2000年(平成12年)には近畿の駅百選に選定されています。
浜寺公園駅旧駅舎(2018年12月)
辰野金吾による駅舎となる前、1897年(明治30年)にこの駅は南海鉄道の浜寺駅として開業しています。そして1907年(明治40年)にこの歴史的な駅舎に建て替えられ、「浜寺公園駅」と改称しています。
駅舎前の懐かしいポスト(2018年12月)
1944年(昭和19年)には戦時統合により近畿日本鉄道の所属となった後、1947年(昭和22年)に南海電気鉄道の所属となりました。2016年(平成28年)になると高架化工事にともなって旧駅舎の使用を停止し、仮駅舎による運用となりました。
旧駅舎の隣りに設置される仮駅舎(2018年12月)
2017年(平成29年)には、現在の旧駅舎がある広場へ、旧駅舎を曳家により移設し、現在ではギャラリーやカフェとして地域交流拠点として試験活用されています。
カフェとして活用される旧駅舎(2018年12月)
旧駅舎がある広場は線路の西側ということになりますが、線路の東側にも小さな駅舎があります。
浜寺公園駅東側出入口(2018年12月)
改札口横の時刻表の上にある「浜寺公園駅」の文字も、なんともかわいらしいです。
東口を出て少し南へ下ると、なんとも古ぼけた小さな屋根だけがぽつんと立っています。
線路の東側から撮影(2018年12月)
駅のホームに目を移してみると、1・2番線となる和歌山方面行きのホーム上には、風情があり、レトロな洋風の待合室がひっそりと建ちます。
ホーム上の待合室(2018年12月)
この写真(なんば方面へ向いて写したもの)では、右側が1番線、左側が2番線となりますが、左にある向かいのホームとの間に線路が3本あります。ところが、次の写真(和歌山方面へ向いて写したもの)では、ホームとホームの間に線路が2本しかありません。
2番線(和歌山方面行きホーム)より和歌山方面をのぞむ(2018年12月)
2番線(和歌山方面行き)のホームは左端の信号(赤)の辺りで終わっているのに、写真右側の向かいのホームは、和歌山方面へさらに長く続いています。この長くなっている部分が3番線(なんば方面行き)のホームであり、なんば方面へ向かう線路は写真右のシルバーの設備箱辺りから分岐しています。
分岐するなんば方面行きの線路(2018年12月)
そして、さらに分岐する線路の横には切り欠かれた別のホームが出現します。これを3番線(なんば方面行き)のホームから撮影すると、次のように見えます。
分岐する線路からなんば方面をのぞむ(2018年12月)
この切り欠かれたホームは4番線となっていて、なんば方面行きのもう一つのホームとなります。つまり、和歌山方面から到着した列車のうち、4番線ホームに停車する列車は、3番線を通過した上で分岐した線路に入り、4番線に停車しなければならないということになります。浜寺公園駅は2面4線をもちますが、このように少し複雑な構造となっています。
4番線から発車する列車の時刻表(2018年12月)
蛸地蔵駅
岸和田城は南北朝時代に築かれたといわれますが、その頃、タコの背に乗った地蔵さまが浜辺に現れたといいます。岸和田城主は城内に御堂を建ててその地蔵さまを安置したものの、度重なる戦乱で消失することを心配して地蔵さまを濠に沈めました。
岸和田城の天守(2019年8月)
天正年間になってから、岸和田城が一揆に急襲されてまさかの落城と思われた際、一人の大法師と数千のタコが現れてこれを蹴散らしました。その後、タコが濠に出没するのを耳にした岸和田城主が濠を調査すると、地蔵さまを発見したといいます。岸和田城主はかの法師は地蔵さまであったとし、地蔵さまは城内に祀られることになりました。
岸和田城の御濠(2019年8月)
しばらくして、近隣の天性寺(てんしょうじ)の和尚の申し出により、地蔵さまは天性寺に安置されることになりました。
蛸地蔵駅付近を通過する特急「ラピート」(2019年8月)
現在、蛸地蔵駅の西側500メートルほどの場所に天性寺がありますが、この寺は通称「蛸地蔵」とよばれています。
蛸地蔵駅駅名標(2019年8月)
蛸地蔵駅は1914年(大正3年)に南海鉄道の駅として開業していますが、その駅舎は今でも大正時代を想起させます。
東駅舎の外観(2019年8月)
西駅舎は南欧風の西洋館であり、西駅舎内のステンドグラスには先の「蛸地蔵物語」が描かれています。
西駅舎内の様子(2019年8月)
蛸地蔵駅は2面2線を有する相対式ホームの地上駅であり、それぞれのホーム同士の往来はできません。
蛸地蔵駅ホーム(2019年8月)
なんば方面行きのホームは西駅舎、和歌山方面行きのホームは東駅舎より入場することができます。
蛸地蔵駅付近を通過する空港特急「ラピート」(2019年8月)
岸和田城は蛸地蔵駅から徒歩7分ほどの場所にあります。
岸和田城の城門(2019年8月)
羽柴秀吉の叔父であった小出秀政の時代に天守が建てられたものの、江戸時代末期に落雷により焼失してしまいました。
岸和田城の城門(2019年8月)
現存する三層の天守は1954年(昭和29年)に再建されたものであり、郷土資料館となっています。
岸和田城の天守(2019年8月)
二の丸跡に建つ二の丸多聞櫓はトイレになっています。
二の丸多聞櫓(2019年8月)
本丸跡には白砂を敷きつめた「八陣の庭」という前庭があり、これは重森三玲(しげもりみれい)によって作られたものです。
岸和田城の天守(2019年8月)
三国志に登場する蜀の丞相であった諸葛孔明の八陣法をもとに石組みを配置したといわれる斬新な庭となっています。
国指定名称岸和田城庭園「八陣の庭」(2019年8月)
岸和田城の濠端には五風荘が凛然と佇みますますが、その敷地は広大であり2,400坪にもおよびます。もともとは旧岸和田城主の岡部氏の新御茶屋跡でしたが、地元の財閥である寺田利吉が10年をかけて邸宅南木荘として作り上げました。「南木」というのは岸和田にゆかりのあった楠木氏の「楠」を由来としているといわれています。
五風荘(2019年9月)
建物の延床面積は300坪になりますが、木造2階建てとなる格調高い主屋の他に山亭・八窓席・残月席の三茶室があり、優美な庭園が見事な景観を創造しています。築90年となる主屋は1937年(昭和12年)より3年をかけて建築されました。
五風荘(2019年9月)
主屋は当時の日本建築技術の粋が集められた和風建築となっており、その木材は節のない最も上質な材料が使用される他、昭和前期ながら全室空調管理となっています。現在ここでは優雅な気分で本格的な和食を召し上がることができ、食後の庭園散策も格別な趣があります。
五風荘(2019年9月)
貝塚駅
南海鉄道(現在の南海電気鉄道)は1897年(明治30年)に堺~泉佐野間を開通し、これに合わせて貝塚駅も開業しました。「貝塚」という地名は当初「海塚」の文字を使用していたといいます。
南海貝塚駅の駅名標(2019年8月)
南海電気鉄道の貝塚駅と水間鉄道の貝塚駅は隣接して存在しているので、南海電気鉄道の貝塚駅で下車して東側へ出ると、水間鉄道の貝塚駅の改札口へとつながる廊下があります。
水間鉄道1番線ホームの車止め(2019年8月)
水間線はこの駅から水間寺のある水間観音駅までを結んでいます。
貝塚駅の改札口(2019年8月)
水間鉄道のホームから1番線越しに南海電気鉄道のホームが見えます。
南海電気鉄道のホームが見える(2019年8月)
加太線
加太は古い歴史をもつ港町であり、古くは「賀陀(賀太)」とよばれました。平安時代初期に編纂された『続日本紀』には、702年(大宝2年)に「紀伊国賀陀に駅家を置く」という記述があります。また、江戸時代には淡路島や四国、九州などへ向かう港町として栄えたといいます。加太線は紀ノ川~加太間(紀ノ川—東松江—中松江—八幡前—西ノ庄—二里ヶ浜—磯ノ浦—加太)を結ぶ路線であり、その起点は紀ノ川駅となっていますが、運行系統上はすべての加太線の列車が紀ノ川駅を経由して和歌山市駅に乗り入れをしています。
加太から紀淡海峡を望む(2016年12月)
1912年(明治45年)に加太軽便鉄道が和歌山口~加太間の運行を開始しました。加太軽便鉄道は1930年(昭和5年)に「加太電気鉄道(加太電鉄)」と社名変更した後、1942年(昭和17年)に南海鉄道加太線となります。1944年(昭和19年)に南海鉄道と関西急行鉄道が合併し近畿日本鉄道となったことから、加太線も近畿日本鉄道の所属路線となります。近畿日本鉄道時代には、紀ノ川~東松江間を松江線として貨物線を開業しています。松江線では1984年(昭和54年)に貨物営業が廃止されましたが、それ以前には東松江駅では電気機関車が牽引する貨物列車の姿を見ることができました。住友金属工業の荷物を載せて、東松江駅から紀ノ川駅を経由して和歌山市駅まで運んでいました。
加太から紀淡海峡を望む(2016年12月)
1947年(昭和22年)には、近畿日本鉄道から南海電気鉄道に旧南海鉄道所属の路線が分離譲渡されることになったため、加太線も南海電気鉄道の路線となります。1950年(昭和25年)になると、貨物線であった松江線の旅客営業を開始し、加太線の運行についても紀ノ川駅経由に変更されます。その後、台風の影響などにより和歌山市~北島間が休止となり、紀ノ川~加太間を「加太支線」、北島~東松江間を「北島支線」と改称します。1966年(昭和41年)には北島支線は廃線、1984年(昭和59年)には加太支線の貨物営業を廃止して、現在の和歌山市となりました。