京都駅烏丸中央口(2017年1月)
京都駅の歴史
「古都京都の玄関口」となる京都駅には東海道本線、山陰本線(愛称「嵯峨野線」)、奈良線、東海道新幹線の他、近鉄京都線、地下鉄烏丸線が乗り入れています。
京都駅展望台から見る新幹線ホーム(2017年11月)
JR西日本では、このうち東海道本線に愛称を設定しており、京都駅から大阪方面へはJR京都線、京都駅から米原方面へは琵琶湖線としています。
京都駅の東海道本線ホーム(2019年2月)
また、京都駅の東隣りの山科駅から分岐する湖西線についても、すべての列車が京都駅まで乗り入れています。
湖西線113系とJR京都線321系(2018年4月)
湖西線113系(2018年2月)
山陰本線にも愛称が設定されており、京都~園部間は嵯峨野線としています。駅や車内などでは「嵯峨野線」「嵯峨野山陰線」などと案内されます。
京都駅展望台から見た風景(2017年11月)
この京都駅の初代駅舎は中央に時計台をもつ2階建レンガ造りでした。この駅舎は現在の駅の位置よりやや北側にありましたが、当時の京都の中心地となっていた祇園や四条河原町からは遠く離れた場所に設置されました。
祇園・八坂神社(2019年7月)
こうした場所に京都駅が設置されたのは、明治時代に蒸気機関車が「火を噴く車」として毛嫌いされたこともありますが、大津方面への接続を考えてのこととなります。
現在の京都駅駅舎は4代目であり、1997年(平成9年)に完成しています。烏丸中央口側にある京都駅ビルは地上16階・地下3階建であり、高さは60メートルにおさえられているものの東西470メートル、南北80メートルもあります。
京都駅展望台から見る新幹線ホーム(2017年11月)
駅としての機能以外に、ホテルや商業施設、文化施設などを備えた巨大な複合施設となっています。
京都駅構内から見た京都タワー(2017年11月)
京都駅の謎
京都駅はわが国最大数字となる34番のりばをもちます。しかし、1番のりばから34番のりばすべてが実際に存在するわけではなく、1番のりばと15~39のりばは欠番となっています。また、1番のりばはありませんが、0番のりばが存在しています。すなわち、0番のりばおよび2~7番のりばが東海道本線、8~10番のりばが奈良線、11~14番のりばが新幹線、30番のりばが特急「はるか」、31~34番のりばは嵯峨野線となっています。
31番のりばに停車する特急「はしだて」(2018年4月)
0番のりばは東海道本線用であり、米原方面行きの新快速や、金沢方面行きのサンダーバード、トワイライトエクスプレス瑞風などが停車します。
0番のりば(2018年4月)
ところで、京都駅には1番のりばはなく、0番のりばの向かい側は2番のりばとなっています。これは、駅ビル工事が実施されている最中、かつて最も北側にあった旧1番線の線路を廃止したことに由来します。旧1番線を廃止して、旧1番のりばを拡張したため線路の番号を改定しました。このとき、すでに東海道新幹線の番号が11~14番となっていたので、在来線の11本の線路を10番以内におさめるため、旧2番を新0番、旧3番を新1番……のように変更しました。すなわち、新0番に入線する列車に乗るためのホームは拡張されたホームですが、この時点においては拡張ホームは名称は「1番のりば」でした。
ところが、線路の番号とホームの名称が異なるため混乱が生じたことから、2002年(平成14年)に「1番のりば」の名称を「0番のりば」に変更し、現在のように1番のりばのない状態ができあがりました。ちなみに、0番線と2番線の間を走る1番線(旧3番線)の線路は貨物線などに利用されています。
京都駅ののりば名称と線路の番号
特急「はるか」は米原・草津・京都~関西空港間を結ぶ特急ですが、このうち京都駅を発着する特急「はるか」は京都駅30番のりばより発着しています。30番のりばは0番のりばとつながっており、西側を欠いた形になっています。0番のりばのホームの長さは323メートル、30番のりばのホームの長さは235メートルですが、これを合わせると558メートルとなり、日本一長いホームとして知られています。
0番のりばと30~34番のりば
京都タワーから東本願寺へ
京都駅烏丸口のすぐ前には京都のランドマークとなる京都タワーが佇んでいます。1964年(昭和39年)に完成した京都タワーの高さは131メートル、京都市街では最も高い建築物となっています。地上100メートルの場所にある展望室からは古都・京都の市街地を見渡すことができます。
京都タワー(2018年4月)
この京都タワーからさらに北へ5分ほど歩いて行くと東本願寺が見えてきます。
東本願寺(2019年1月)
東本願寺は真宗大谷派の本山であり、真宗本廟といいます。一般には西本願寺と区別して東本願寺とよばれています。本願寺はもともと1272年(文永9年)、宗祖親鸞の娘である覚信尼(かくしんに)が東山大谷の地に仏堂を建築し、親鸞の御影を安置したことにはじまります。
東本願寺(2019年1月)
時は流れて室町時代、第8代蓮如の頃に教団は飛躍的に発展し、戦国時代になると勢力を拡大しつつあった織田信長にも対抗するようになります。後の豊臣秀吉は六条堀川の地に本願寺を再興し、さらに徳川家康は1602年(慶長7年)にこの地を寄進し、第12代教如が堂舎を建築して東本願寺ははじまったといいます。
東本願寺(2019年1月)
東本願寺の堂舎はたびたび焼失し、現存する建築物はいずれも明治時代に再建されたものです。
東本願寺(2019年1月)