鉄道黎明期
1804年、リチャード・トレビシックは「蒸気機関のはずみ車を馬車の両輪にしてみる」というアイデアから世界で初めての蒸気機関車となる「ペニダーレン号」を製造し、鉄道の時代が開幕しました。1825年には、イギリスのストックトン~ダーリントン間(約19キロ)で世界初の鉄道が開通しています。
ストックトン=ダーリントン鉄道

1829年には、世界初の公共鉄道がイギリスのリバプール~マンチェスター間において開業するにあたり、これを走る蒸気機関車を決めるためにレインヒルにて、蒸気機関車の試走会が実施されました。試走会には3両の蒸気機関車が登場し、ジョージ・スティーブンソンの「ロケット号」が優勝しました。「ロケット号」は世界鉄道史上、最も有名な蒸気機関車です。
東京駅(2019年3月)

ジョージ・スティーブンソンはこれに先立って、1814年に初めての蒸気機関車「ブルヘル号」を製造した後、「ロコモーション号」「ランカシャー・ウィッチ号」などを製造しています。
東京駅(2019年3月)

後世、世界の人々はジョージ・スティーブンソンを「SLの父」とよび、その業績をたたえました。ただ「ロケット号」が客を乗せて走行したのは開業式だけであり、その後は石炭を載せた貨車を引いて走りました。
東京ステーションホテル(2019年3月)

一方、日本の鉄道を敷設しようという動きは幕末に来日した外国人から起こりました。日本における鉄道利権を手中にしたい各国のうち、1867年(慶応2年)にはフランス総領事であったペ・フロリ・ヘラルドが各国に先んじ、江戸幕府に対して鉄道および電信敷設の勧誘を行いました。翌年には横浜在住であったC・L・ウエストウッドが江戸幕府の外国奉行に対して江戸~横浜間の鉄道敷設請願書を提出しています。しかし、江戸幕府は両者ともに時期尚早として許可を与えませんでした。
東京駅(2019年3月)

ところが1868年(慶応3年)に、アメリカの外交官であったアントン・L・C・ポートマンは、江戸幕府老中の小笠原長行(ながみち)より江戸~横浜間の鉄道敷設許可を得ました。アントン・L・C・ポートマンはオランダ生まれのアメリカ合衆国の外交官でした。かつてペリー艦隊の一行として来日し、蒸気機関車模型の組み立て作業を行いました。当時この他にも、神戸駐在のアメリカ領事モリソンよりアメリカ資金による大阪~神戸間の鉄道敷設の勧誘があったり、兵庫在住のアメリカ領事ロビネットより大阪~兵庫間の鉄道敷設の勧誘があったりしましたが、いずれにも許可は与えられませんでした。
神戸駅近くに保存されるD51-1072(2019年4月)

1869年(明治2年)、江戸幕府より唯一鉄道敷設許可を与えられていたアントン・L・C・ポートマンに対して、明治新政府は江戸幕府の鉄道敷設許可承認日が新政府樹立後であるとして、これを無効としました。これはアメリカ資本による私鉄建設計画でしたが、日本が植民地化されるリスクもあったがために、明治新政府はこの鉄道敷設許可について王政復古後、江戸幕府より与えられた許可であるとして無効を主張し続けました。明治新政府は官設鉄道を敷設することを目標としたものの、当時の日本には民間資本の蓄積が十分ではなかったので、イギリス資本によりこれを達成することとしました。
青梅鉄道公園に保存される8620形蒸気機関車(2020年10月) 
日本初の鉄道誕生へ
明治新政府は、1869年(明治2年)には新橋~横浜間における鉄道を敷設することを決定していたものの、明治時代の人々にとって西洋の乗り物は恐怖でしかなく、政府による用地買収は難航しました。そのため、日本初の鉄道路線はその路線距離の3分の1が海上埋め立て地に敷設されることになりました。
旧新橋駅駅舎(2023年2月)

当初の鉄道建設計画をみると、東京~京阪神間を結ぶルートは中山道経由となっており、東海道経由となる新橋~横浜間の路線は幹線と考えられていませんでした。その理由の一つには国防上の問題、すなわち海岸線に近いと敵国の攻撃を受けやすいというものでした。
新橋駅近辺(2023年2月)

明治新政府内部においても反対派勢力は多く、その筆頭は弾正台(後の司法省)であり、1869年(明治2年)には鉄道建設反対の建議書を提出しました。兵部省(現在の防衛省)においても、兵部大輔であった前原一誠(まえばらいっせい)が鉄道用地よりも国防設備用地を優先するべきだとして、鉄道建設反対の建議書を個人名で提出しました。他にも開拓使次官であった黒田清隆や、鹿児島県大参事(現在の副知事)であった西郷隆盛らが国防上の問題として鉄道建設反対の立場にありました。
東海道本線の車両(2016年8月)

一般世論においても、鉄道は外敵の来襲に利用される、国の土地を抵当に入れて外債を募るというのは国を売るようなものだとして反対意見が多かった他、旅籠屋や飛脚、馬方などの職業の人々も稼ぎがなくなるとして大いに反対し、鉄道反対派が世の大勢を占めました。
東京タワー(2023年2月)

明治新政府の中でも、大隈重信や伊藤博文らの鉄道建設推進派は、鉄道敷設反対や時期尚早が声高に叫ばれる中、身の危険も感じるような状況が続きました。大隈重信の盟友であった渋沢栄一や井上馨らは鉄道建設の必要性は感じていたものの、世の情勢を鑑みて大隈重信に対して鉄道建設をあきらめるように進言しました。しかし、大隈重信はその友情を聞き入れることはなく、鉄道建設に邁進していきました。
京都鉄道博物館のSLスチーム号(2019年1月)

1872年(明治3年)になっても、明治新政府はどの路線を幹線とするかを決めあぐねており、同年には東海道、翌年には中山道の調査を行いますが、いずれを幹線とするかを決定することができませんでした。そのため、明治新政府は、イギリス人ブライトンがすでに述べていた「最初は短距離の模範鉄道を東京~横浜間に建設すべきだ」という意見や、外務省の建議による「鉄道の見本とする東京~横浜間の建設を先にすべきだ」という意見を参考として、東京~横浜間にまず鉄道を建設することを決定しました。
東京駅を発着するさまざまな列車(2019年3月)
官設鉄道(官鉄)は、明治時代の初めにできた明治新政府主体の組織であり、現在の東海道本線などの幹線を中心として日本に鉄道を敷設しました。開業当初は外国の鉄道技術に頼ることが多くありました。後に、鉄道技術者の養成所である工技生養成所を設立するなどして日本人の鉄道技術者の養成に注力しました。イギリスから導入された資本と鉄道技術者の指導により、日本初の鉄道となる新橋~横浜間において鉄道の建設に着手しました。その建設の中心となったのはエドモンド・モレルでした。
東京駅(2020年6月)
