ディズニーリゾートライン[舞浜リゾートライン]

京葉線地下ホームの照明(2018年1月)

日本最大の観光地となった東京ディズニーリゾートは、京葉線の舞浜駅が最寄りとなります。東京駅から東京ディズニーリゾートへ出かける人たちのために、京葉線地下ホームの照明はディズニーのキャラクターたちの影絵となっています。

東京駅(2019年3月)

東京駅の京葉線地下ホームは、東京駅の中でも南の端の地下深くにあり、他の路線から京葉線に乗り換えをするには相当に不便だと感じます。東京駅の京葉線地下ホームはそもそも、1974年(昭和49年)に東京駅~成田空港間を結ぶ成田新幹線の駅として着工しました。将来的に、成田新幹線は新宿方面への延伸も考えられていたため、本来は八重洲口側に建設する予定でした。

東京駅(2019年8月)

しかし、延伸する際に皇居の下を通ることになってしまうため、警備上の問題により建設不可となり現在の位置に建設されることになりました。その後、成田新幹線用地買収に失敗して工事が中断されてしまいます。

東京駅の足元表示案内(2018年3月)

その一方で、1986年(昭和61年)に西船橋~千葉港(現在の千葉みなと)間、1988年(昭和63年)に新木場~南船橋間、市川塩浜~西船橋間が開業しました。この路線の終点が新木場駅では不便だということになり、先の成田新幹線東京駅がその終点とされることになりました。1990年(平成2年)に東京~新木場間が開業し、現在の京葉線となっています。

東京駅に停車する成田エクスプレス(2018年3月)

その京葉線に乗車して、舞浜駅に到着すると東京ディズニーリゾートです。ディズニーリゾートラインは舞浜リゾートラインが運営するモノレール路線であり、2001年(平成13年)に開業しました。

ディズニーリゾートライン(2021年4月)

ディズニーリゾートラインは東京ディズニーリゾート内を環状走行しています。京葉線の舞浜駅と接続するリゾートゲートウェイ・ステーションを起点とし、東京ディズニーランド・ステーション、ベイサイド・ステーション、東京ディズニーシー・ステーションの順に停車し、リゾートゲートウェイ・ステーションへと戻ります。

ディズニーリゾートライン(2021年4月)

ディズニーリゾートラインの列車は、環状線の単線を反時計回りに自動運転しています。

ディズニーリゾートライン(2021年4月)

日本三名園「偕楽園」

偕楽園の最寄り駅となるのは常磐線の偕楽園駅ですが、偕楽園駅は臨時駅なのでイベント「水戸梅まつり」の期間中のみの停車となります。

品川駅に停車する特急「ときわ」(2019年1月)

普通列車だけではなく、常磐線特急「ひたち」「ときわ」も停車しますが、下り方面行きしかホームがありませんので、東京方面への上り方面行き列車は停車することができません。偕楽園駅を出れば、偕楽園は目の前にあります。

偕楽園駅駅名標(2021年2月)

お隣りの水戸駅からは、茨城交通(水戸駅北口4番バスのりば)や関東鉄道(水戸駅北口6番バスのりば)の路線バスが運行されています。茨城交通のバス停は常磐神社の近く、関東鉄道のバス停は偕楽園駅の近くとなります。いずれも「水戸梅まつり」の期間中は増便されます。

ライトアップされた園内から見上げる月(2022年2月)


偕楽園駅(2022年2月)

偕楽園の歴史

「偕楽園(かいらくえん)」の名には、「民ととも(偕)に楽しむ場所」という徳川斉昭(なりあき)の思いが込められているといいます。徳川斉昭は第9代水戸藩主であり、「日本三名園」の一つとなる「偕楽園」を造園した人物です。同じく徳川斉昭が創設した水戸藩の藩校「弘道館」が修業の場であるのに対して、偕楽園は修業の合間に心身を休める場として作られ、相互に補完し合う一対の教育施設となっています。

好文亭(2022年2月)

「日本三名園」のうち、兼六園(金沢)はその前身となる「蓮池庭」が1676年(延宝4年)が作られ、後楽園(岡山)は1700年(元禄13年)に「御後園」として完成し、水戸の偕楽園は1842年(天保13年)に造園されました。

ライトアップされる園内の木々(2022年2月)

ライトアップされる園内の木々(2022年2月)

偕楽園は明治時代に入った後、1873年(明治6年)に「常磐公園」と称され、茨城県が管理することになりました。1874年(明治7年)には園内に常磐神社が建立されます。1932年(昭和7年)になると「偕楽園」に名称を変更しますが、1948年(昭和23年)に「偕楽園公園」となり、1957年(昭和32年)に三度「偕楽園」と称することになりました。

ライトアップされる園内の木々(2022年2月)

2015年(平成27年)には「近世日本の教育遺産群―学ぶ心・礼節の本源―」として日本遺産に認定されました。そして、2022年(令和4年)には開園から数えて180周年を迎えることになりました。

ライトアップされる園内の小径(2022年2月)


偕楽園の魅力

偕楽園では毎年「水戸梅まつり」が開催されます。2022年(令和4年)の梅まつりは「第126回」となり、その歴史は120年を越えるイベントとなっています。庭園内には約100品種、3000本の梅が植えられていて、全国的にも梅の名所として知られています。また、園内には好文亭とよばれる建物がありますが、「好文」は梅の異名となります。好文亭は1945年(昭和20年)に空襲により全焼してしまい、現存する建物は昭和30年代前半に復元されたものです。

好文亭(2022年2月)

2022年(令和4年)には、偕楽園開園180年を記念してチームラボによる「偕楽園光の祭」が開催されました。

チームラボによる演出される幻想的な空間(2022年2月)

チームラボはデジタルテクノロジーを用いて、自然を壊すことなくアート空間をつくるというアートプロジェクトを行っています。昼間の偕楽園とは異なる幻想的な偕楽園が演出されています。

チームラボによる演出される幻想的な空間(2022年2月)

松尾芭蕉『奥の細道』の出発地「千住」

1.北千住駅に乗り入れる路線 2.千住宿と松尾芭蕉 3.北千住駅の歴史 4.北千住駅大改装とクレヨンしんちゃん 5.南千住駅

 

JR北千住駅行先表示板(2017年8月)


北千住駅に乗り入れる路線

北千住駅は東京都足立区にあり、今では常磐線(快速線)、東京メトロ千代田線・日比谷線、東武スカイツリーライン、つくばエクスプレス線の4社5路線が乗り入れるターミナルとなっています。

 

つくばエクスプレス線北千住駅(2022年6月)

 

このうち、千代田線は常磐線(各駅停車)と小田急線との直通運転、東武スカイツリーラインは日比谷線に加えて半蔵門線、東急田園都市線との直通運転を実施しています。

 

北千住駅を出発する東武線「特急リバティ」(2022年6月)

 

さまざまな路線が交差する北千住駅の1日あたりの乗降客数は2018年度(平成30年度)において約160万人にものぼり、乗降客数の世界ランキングでは東京駅を抜いて第6位となっているそうで、世界有数のターミナル駅といえます。

 

東京駅(2019年3月)


千住宿と松尾芭蕉

2代将軍・徳川秀忠により久能山(静岡県)に神葬されていた徳川家康は1617年(元和3年)、日光に移され祀られました。その後、3代将軍・徳川家光により現在のおもな社殿が建て替えられ、1645年(正保2年)に宮号を賜って「東照宮」と称されるようになりました。

 

千代田線・常磐線(各駅停車)北千住駅駅名標(2022年6月)

 

千住宿(せんじゅしゅく)はかつて奥州街道および日光街道の最初の宿駅でしたが、東照宮の社殿が建立されて以来、人馬の中継駅として、また大名たちによる日光参詣への道の宿場町として繁栄してきました。その江戸時代、1689年(元禄2年)に松尾芭蕉はこの地から「奥の細道」へと旅立っていきました。

 

東武線ホーム2階にある「松尾芭蕉旅立ちの地」の看板(2022年1月)

 

松尾芭蕉の『奥の細道』の序文は「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」の冒頭文ではじまりますが、次の旅立ちの場面には「千じゅといふ所にて舟をあがれば、前途三千里の思い胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ」とあり、「千じゅ」(千住)の文字が見えます。


北千住駅の歴史

明治時代になると、千住は隅田川に架かる千住大橋を境として、北と南に分かれるようになりました。千住大橋の北側に北千住駅ができたのは1896年(明治29年)のことでした。それは現在の常磐線(快速線)の前身となる日本鉄道土浦線の駅として誕生したものです。

 

常磐線(快速線)北千住駅(2022年5月)

 

その3年後の1899年(明治32年)には、東武鉄道伊勢崎線の北千住~久喜間が開通し、北千住駅は乗換駅となりました。1906年(明治39年)になると日本鉄道土浦線は国有化され、1909年(明治42年)に「常磐線」となりました。その後、1962年(昭和37年)には日比谷線の駅、1969年(昭和44年)には千代田線の駅が開業します。


北千住駅大改装とクレヨンしんちゃん

2019年(平成31年)に公開された映画『クレヨンしんちゃん新婚旅行ハリケーン~失われたひろし~」の主題歌となる「ハルノヒ」(あいみょん)では「北千住駅のプラットホーム 銀色の改札」とうたわれます。北千住駅は、後にしんちゃんの父となる「ひろし」が「みさえ」にプロポーズした場所だそうです。

 

東武北千住駅2階ホーム(2022年9月)

 

ひろしがみさえにプロポーズをしたと思われる昭和時代の終わりの頃の北千住駅は、平成時代に入ってから行われる大改装を体験しておらず、プロポーズをしたのはかつての北千住駅だったと想像できます。

 

北千住駅3階ホーム駅名標(2021年6月)

 

1990年(平成2年)の伊勢崎線と地下鉄日比谷線ホームを拡幅工事を皮切りとして大改装がはじまり、1997年(平成9年)に駅改良工事が完了し、現在のような駅構造となりました。1階は東武スカイツリーライン専用で1番線~4番線と特急専用ホームが設けられており、3階は地下鉄日比谷線および日比谷線から直通する東武スカイツリーラインの各駅停車用で5番線~7番線が設けられています。

 

東武線1階ホーム北千住駅(2022年3月)

 

2階には改札口とショッピングゾーンがあり、常磐線(快速線)と2005年(平成17年)に開業したつくばエクスプレス線への乗換口となっています。

 

つくばエクスプレス線北千住駅(2022年11月)


南千住駅

一方、千住大橋の南側の南千住駅が開業したのも、北千住駅と同じ1896年(明治29年)のことでした。

 

つくばエクスプレス線北千住駅(2022年3月)

 

これも日本鉄道土浦線の駅として開業しました。1961年(昭和36年)には日比谷線、2005年(平成17年)にはつくばエクスプレス線が開業しました。

 

つくばエクスプレス線南千住駅(2019年1月)

南千住駅に到着するつくばエクスプレスの車両(2019年1月)

 

この南千住駅付近と先の北千住駅付近をまとめて「千住宿」となりますが、千住宿は江戸四宿(ししゅく)の1つとして栄えました。

 

つくばエクスプレス線南千住駅(2019年1月)

 

江戸四宿とは、五街道のそれぞれにおいて日本橋に最も近い宿場町のことをさし、千住宿の他、板橋宿(中山道)、内藤新宿(甲州街道)、品川宿(東海道)がこれになります。

 

つくばエクスプレス線南千住駅(2019年1月)

 

 

 

宿駅の設置と駅の種類

1.宿駅について 3.駅の種類

京都鉄道博物館にある昔の改札機(2019年1月)


宿駅について

古代の律令体制下においては、全国の行政区域を「五畿七道(ごきしちどう)」または「畿内七道(きないしちどう)」に分けています。これは山城、大和、摂津、河内、和泉の五国と東海道、東山道(とうさんどう/とうせんどう)、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道をさします。七道は地理的な行政区分でもあり、交通路をも意味します。

叡山電鉄木野駅(2019年4月)

主要街道には、30里(約16キロ)ごとに駅家(えきか/うまや)が設置され、ここに駅馬が常備され、駅の事務を執り行う駅長が常駐しました。これは官吏や通信使の宿泊や逓送(宿場から宿場へ順々に送ること)に役立てられました。

京都鉄道博物館内に復元された昔の時刻表(2019年1月)

東海道は伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、下総、上総、常陸となり、東山道は近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、武蔵、陸奥、出羽となります。古代においては渡河技術が発達しておらず、大きな川の河口に寸断される東海道は、山道が険しく気候も寒冷である東山道より優位な地位を占めることはできませんでした。

青梅鉄道公園に展示される0系新幹線(2020年10月)

しかしながら時代が進み、渡河技術がしだいに高まってくると、道路が平坦で気候も温暖である東海道は、東山道に対して徐々に優位な地位を占めるようになってきました。

SLやまぐち弁当

鎌倉時代に入ると、京都と鎌倉を結ぶ東海道は、鎌倉幕府と京都の朝廷を行き交う使者や通信手段としての飛脚、武士や行商人、神社を参拝する民衆などで盛んに賑わいました。これにより宿場町も栄え、宿駅制度も充実しました。鎌倉幕府が滅亡すると一時期、東海道の地位は低下しますが、室町時代には地方経済も栄えて宿駅制度はさらに発展していきます。

京都鉄道博物館内に復元された昔の出札口(2019年1月)

戦国時代には、東海道に位置する有力大名である北条氏、今川氏、徳川氏、織田氏、浅井氏らが領国経営に勤しんだため、地方経済はさらに栄えて城下町が発展しました。江戸幕府が開かれると、徳川家康は1601年(慶長6年)に東海道に宿駅伝馬制度を定めますが、伝馬とは幕府の公用のため宿駅で乗り継ぐための馬のことをさします。

車内に取り付けられた昔の扇風機(2019年1月)

この制度は、古代の駅伝制や戦国大名によって採用されてきたものですが、より本格的に整備したのが徳川家康です。宿駅伝馬制度の実施により、各宿場では伝馬朱印状をもつ公用文書や荷物を次の宿場へとつなげるために、宿場に人馬を用意しておかなければならなくなりました。江戸時代にはこれにより東海道をはじめとして中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道(五街道)が整備され、宿場は大いに栄えるようになります。

紅葉の遊歩道(2020年11月)

それぞれの宿場には、本陣とよばれる大名など身分の高い人々に供せられる宿泊施設も立ち並ぶようになりました。人馬を用意するのはそれぞれの宿場の負担となりましたが、宿泊代や運送費を稼ぐことができる他、土地に課される税金を免除されることとなっていました。こうして東海道五十三次は完成し、五街道やその他の主要街道には一里塚も築かれるようになります。また、江戸時代にはじまる参勤交代では、その通路を江戸幕府から指定された大名がこうした街道を通り、大名らは本陣に宿泊しました。こうして発展してきた東海道に後の「東海道本線」が敷かれることになります。

JR東海313系「熱海行き」(2022年9月)

東海道とは、1716年(正徳6年)あたりまでは江戸(品川)~大坂(守口)間を指したものでしたが、1811(文化8年)頃になると、江戸(品川)~京(大津)間を指すようになり、京~大坂間は京街道とよばれるようになりました。東海道五十三次とは、品川、川崎、神奈川、程ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原、箱根、三嶋、沼津、原、吉原、蒲原、由井、興津、江尻、府中、鞠子、岡部、藤枝、嶋田、金谷、新坂、掛川、袋井、見付、浜松、舞坂、新居、白須賀、二川、吉田、御油、赤坂、藤川、岡崎、池鯉鮒、鳴海、宮、桑名、四日市、石薬師、庄野、亀山、関、坂の下、土山、水口、石部、草津、大津となります。

東京駅(2019年3月)

日本における鉄道駅と鉄道駅との間の距離すなわち駅間は鉄道の黎明期以来、外国の鉄道に比べて短く設定されてきました。それは、こうした宿駅の設置以降「東海道五十三次」というように、その都市は人が歩くことができる間隔で発展したことに由来します。

東京駅(2019年3月)


駅の種類

現在の駅には鉄道駅、自動車駅道の駅などがあります。このうち鉄道駅は列車を発着させ、旅客および貨物を乗せたり下ろしたりする施設です。鉄道駅は私たちが普段、乗降するために使用する最も一般的な旅客駅と、貨物列車などが運搬する貨物を取り扱う貨物駅に分類することができます。

東京駅(2019年3月)

また、駅はいつでも利用できると考えてしまうことが多いですがいつも利用できる一般駅と、特別の場合しか利用できない臨時駅という分類もあります。さらに、その営業形態によって分類することもできます。たとえば、その駅を運営している鉄道会社所属の駅員が常駐する直営駅、複数の鉄道会社路線が乗り入れをしている際に駅の業務をある1社が請け負っている業務委託駅、切符の販売や改札業務を駅構内に入っている商店や駅前の商店が請け負っている簡易委託駅、駅員がまったくいない無人駅といった具合です。

自動車駅・周山駅駅舎(2019年8月)

駅にはさまざまな人々が多く集まるため商業施設が建設されることが多く、一般的には活気のある場所となり、まちの中心として発展します。しかしながら、都市部でない地域になると、必ずしも駅がまちの中心となっていない場合も多く見受けられます。

東電鉄バス稲荷前バス停(となりのトトロ)

また、近年ではその駅の周辺に民家などがまったくなく、利用者が極端に少ない上、列車以外の手段で駅まで辿り着くことがきわめて困難な駅について「秘境駅」などとよばれ、逆に人がいないことを魅力として訪れる人たちもいます。

京都鉄道博物館内に復元された昔の改札口(2019年1月)

西武ドームへのアクセス線「狭山線」

1.狭山線 2.狭山線の歴史

 

狭山線の車両(2021年3月)


狭山線

狭山線は西所沢~西武球場前を結ぶ西武鉄道の路線です。駅数は3駅しかなく、その路線距離もたった4.2キロととても短い路線です。

 

狭山線の路線図

 

1978年(昭和53年)には、当時の終点となっていた狭山湖駅(現在の西武球場前駅)の近くにあった西武園球場が完全リニューアルされて、西武ライオンズの本拠地球場となりました。

 

西武球場前駅(2021年3月)

 

2022年(令和4年)以降はネイミングライツにより「ベルーナドーム」となっています。

 

西武球場前駅(2021年3月)


狭山線の歴史

狭山線は1929年(昭和4年)、武蔵野鉄道により西所沢~村山公園(現在の西武球場前)間が山口線として開業しました。

 

狭山線の車両(2021年3月)

 

戦時中は不要不急路線として一時休止しますが、1951年(昭和26年)に「狭山線」と改称し、運転を再開しています。

 

西武球場前駅(2021年3月)

 

終点の駅名は当初「村山公園駅」として開業しましたが、その後、村山貯水池際駅→村山駅→狭山湖駅という名称を経て、1979年(昭和54年)に「西武球場前駅」となりました。

 

西武球場前駅(2021年3月)

 

西武球場前駅では山口線に乗り換えることができます。

 

西武球場前駅(2021年3月)

花と光の楽園「あしかがフラワーパーク」

1.あしかがフラワーパークへのアクセス方法 2.奇蹟の大藤 3.イルミネーション「光の花の庭」

 

あしかがフラワーパークイルミネーション(2020年10月)


あしかがフラワーパークへのアクセス方法

あしかがフラワーパークは栃木県足利市にある花のテーマパークです。

 

あしかがフラワーパークイルミネーション(2020年10月)

 

花の種類が少なくなる晩秋から冬にかけては、夜にイルミネーションイベントが開催されます。

 

あしかがフラワーパークイルミネーション(2020年10月)

 

あしかがフラワーパークへの最寄り駅は、JR両毛線のあしかがフラワーパーク駅となります。

 

あしかがフラワーパーク駅(2020年10月)

 

駅から徒歩3分ほどであしかがフラワーパークに到着します。

 

あしかがフラワーパーク正面入口(2020年10月)

 

あしかがフラワーパーク駅は2018年(平成30年)に開業した駅であり、栃木県内では35年ぶりにJR新駅の開業となりました。

 

あしかがフラワーパーク駅(2020年10月)

 

また、駐車料金無料の大型駐車場もあります。

 

あしかがフラワーパークイルミネーション(2020年10月)


奇蹟の大藤

足利市にはかつて樹齢130年といわれる、その幹回り3メートル60センチ、棚面積60平米もある藤棚がありました。この藤はもともと1968年(昭和43年)に開園した早川農園で「250畳の大藤」として知られていたものです。

 

奇蹟の大藤(2020年10月)

 

1991年(平成3年)になると、その藤があった当時の町の再開発のため移植せざるを得なくなってしまいました。ところが、幹が1メートル以上の藤の移植例はこれまでありませんでした。その後、移植のための研究が行われ、1994年(平成6年)になってようやく大藤の移植の準備がはじまりました。

 

ライトアップされる大藤(2020年10月)

 

藤の幹はやわらかく、もろいため、移植の作業は極めて困難な作業でしたが、のべ2千人が協力したことにより、1996年(平成8年)に移植が成功しました。そして、この藤のある場所が1997年(平成9年)にあしかがフラワーパークとして開業しました。

 

あしかがフラワーパーク正面入口(2020年10月)

 

開業時には、庭木仕立ての藤25本が左右に植えられて造作されました。それ以来、この藤はこの場所で「奇跡の大藤」として人気を博しています。現在ではトンネル仕様としては世界唯一の藤棚として知られています。

 

ライトアップされる大藤(2020年10月)


イルミネーション「光の花の庭」

冬季に行われるイルミネーションのイベントは「光の花の庭」として毎年開催されています。

 

あしかがフラワーパークイルミネーション(2020年10月)

常陸小田駅と小田城の歴史

1.小田城の歴史 2.小田城跡の様子 3.常陸小田駅

 

常陸小田駅のプラットホーム跡(2020年6月)


小田城の歴史

筑波山の南麓は古代から中世にかけて常陸国南部の中心地であり、八幡塚古墳や平沢官衙(ひらさわかんが)遺跡、日向廃寺跡などがあります。

 

筑波山梅林から見た風景(2022年3月)

 

小田城跡は筑波山地南裾に位置しており、北西から南にかけて桜川が流れ、北には筑波山地、南に湿地をのぞむ場所にあります。小田城は小田氏の居城ですが、小田氏は鎌倉時代から戦国時代にかけて常陸南部において最大の勢力を誇った一族です。

 

現地に立つ小田城跡の説明が書かれた石碑(2020年6月)

 

小田氏は藤原北家の流れをくむ家であり、八田知家(はったともいえ)を祖として15代・小田氏治まで350年以上も小田の地を本拠として栄えました。八田知家(1142年~1218年)は小田氏の祖として小田氏繁栄の基礎をつくった人物であり、初めての常陸守護職に任じられています。

 

鎌倉の地における八田知家邸(2020年6月)

 

八田知家のきょうだいが源頼朝の乳母となったこともあり、源頼朝からの信頼が厚く、常陸支配の要として用いられました。政治の中心となった鎌倉の地ではその屋敷を鎌倉幕府の正面に構え、常陸においては源頼朝勢力の安定に尽力し、源頼朝没後は宿老として13人の合議制の一人として選任されています。

 

筑波山に咲くタンポポ(2022年6月)

 

鎌倉時代の後半になると小田氏は北条氏の進出によりその所領を減少させ、鎌倉時代の末期になると常陸守護職を失っています。南北朝時代には、南朝方の重臣である北畠親房を小田城に迎えて、南朝方の関東の拠点の役割を果たします。日本史の教科書にも記載される北畠親房が著した『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』は、この小田城で執筆されたものです。

 

小田城跡近くにある「神皇正統記寄稿之地」の石碑(2020年6月)

 

室町時代になると、小田氏は関東で最も格式の高い名家を示す「八屋形(はちやかた)」の1つとして数えられるようになりました。戦国時代になっても常陸南部では最大の勢力を誇りましたが、16世紀中頃になると、その所領を後北条氏(相模)、上杉氏(越後)、佐竹氏(常陸北部)らに囲まれて小田城は戦場となることがたびたびありました。

 

筑波山に咲くオオイヌノフグリ(2022年6月)

 

手這坂(てばいざか)の合戦において1569年(永禄12年)に城を奪われ、それ以降小田城は佐竹氏の城館となりました。そして、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めに際して、小田氏は事実上滅亡してしまいました。関が原合戦後の1602年(慶長7年)、佐竹氏が秋田へと移封となり、小田城も廃城となりました。

 

小田城本丸跡へと続く筑波線廃線跡(2020年6月)


小田城跡の様子

小田城跡の歴史的重要性は高く、また遺存状況が良好な平城跡です。1935年(昭和10年)に国の史跡指定を受けていますが、その史跡範囲はきわめて広大であり、南北550メートル、東西450メートルにもおよび、その面積は約21万7千平方メートルとなります。

 

サイクリングロードとなっている筑波線廃線跡(2020年6月)

 

1998年(平成10年)より実施した発掘調査により、小田城跡は最終期の姿が確認され、また鎌倉時代から戦国時代まで継続的に使用されてきたことが判明しました。また、つくば市による2009年(平成21年)からはじまった発掘調査をもとに、小田城跡中央の本丸跡とその周辺について中世の小田城を体感できる歴史ひろばとして復元されています。

 

小田城跡歴史ひろば案内所となる茶色の建物(2020年6月)

 

小田城跡の整備工事は、発掘調査により確認された戦国時代最後の地面を1メートルほど盛土し、確認された建物や池などの遺構をその場所に再現しています。埋まっていた堀は掘り起こし、土塁は本丸の地面より2メートルの高さとしています。

 

東虎口跡に立つ小田城跡の石碑(2020年6月)

 

虎口(こぐち)とは城の出入口のことをいいますが、北虎口跡は本丸跡にあった3つの虎口のうちの1つであり、幅3.3メートル、門跡は明確には確認されていません。

 

北虎口跡に掲示される城跡位置図(2020年6月)

 

しかし、柱穴や礎石の跡となる掘り込みが2つ発見されており、その周辺は小さな礫や土器片で舗装されていました。北虎口跡とその対岸となる北曲輪(きたくるわ)の間は、堀を埋めて造られた上幅3メートルほどの土橋(北橋)となっていました。

 

北虎口跡から北曲輪へ渡す北橋(2020年6月)

 

北堀は昭和50年代初めに埋められましたが、これを堀り直しました。当時の堀はこの復元よりも2メートルほど深く、堀底は凹凸になっている障子堀とよばれるものでした。

 

復元された北堀(2020年6月)

 

本丸跡にあった3つの虎口のうちの1つである東虎口跡は幅4メートルあり、門の礎石が1つ確認されており、その表面には方形の柱跡が残っていました。東虎口跡からその対岸となる東曲輪跡へは木橋(東橋)が架けられ、東堀を埋めて造られた土橋へとつながっていました。

 

東曲輪跡へと続く橋(2020年6月)

 

この東虎口跡は小田氏時代には、小田城の正面となる大手口と考えられています。

 

敷地内中央から東虎口跡方向を見る(2020年6月)

 

東池は小田氏時代の庭園の池であり、池底には石を敷いて州浜(すはま)や築山の存在も想定されています。東池の大きさは南北約32メートル、東西約13メートルあり、その深さは30~80センチとなります。

 

現地に展示される東池の様子(2020年6月)

 

その近くには発見された建物跡の柱位置などをもとにして四阿(あずまや)を復元しています。こうした庭園をのぞみながら、宴会や連歌、茶の湯、花香寄合などが開催され、客の接待や家臣との懇親の場として使用されています。

 

休憩施設として利用される四阿(2020年6月)

 

東池跡からは大量の高級陶磁器が出土されており、小田氏の栄華の痕跡が見られます。また、東池の南側の通称「涼台」の名で親しまれる場所から、小田城跡南側の景色を一望できます。

 

城跡南側の景色(2020年6月)

 

南西虎口跡の周辺には部分的に石垣が築かれていましたが、その状況をレプリカで復元しています。また、南西虎口門は櫓門であったと考えられています。

 

レプリカによる石垣(2020年6月)

 

馬出(うまだし)は攻撃の際に軍勢を集めるための曲輪ですが、南西馬出曲輪は南西虎口と橋でつながっています。

 

南西馬出曲輪(2020年6月)

 

南西虎口跡近くにある西池は、南北約14メートル、東西約17メートルの広さがあり、深さが約1メートルありました。

 

西池跡(2020年6月)

 

西池跡の北側一帯は城主の屋敷などがあった建物域であり、確認された建物の位置と大きさが示されています。

 

建物域(2020年6月)

 

現地に展示された本丸跡の空中写真を見ると、左上(北西)から右下(南東)にかけてきれいな直線が走っています。これが筑波線廃線跡であり、現在はサイクリングロードとして整備されています。サイクリングロードは敷地内のみ廃線上ではなく、迂回するように設置されています。

 

現地に展示される本丸跡発掘調査合成写真(2020年6月)

 

写真の左上(北西角)付近は遺構展示室となっていて、土塁と堀が外側に広がっていく様子を壁の土塁土層断面と床の堀の位置で示しています。

 

遺構展示室の様子(2020年6月)


常陸小田駅

ここを抜けてサイクリングロードをしばらく進むと、筑波線常陸小田駅のあった場所に到着します。常陸小田駅は1918年(大正7年)に筑波線の開通とともに開業し、1987年(昭和62年)に筑波線の廃止とともに廃駅となりました。

 

踏切跡らしき場所(2020年6月)

 

2面2線の相対式ホームの地上駅であり、駅本屋は下りホーム側にありました。

 

常陸小田駅配線図

西武鉄道山口線「レオライナー」

1.愛称「レオライナー」 2.西武鉄道「山口線」

 

山口線(西武鉄道)路線図


愛称「レオライナー」

西武ライオンズのマスコットの名は「レオ」です。レオは1978年(昭和53年)に手塚治虫さんの手により誕生したキャラクターです。その名の付いた路線が「レオライナー」です。「レオライナー」はとても小振りな電車で、まるでおもちゃのような感じです。

 

レオライナーの車両(2021年3月)


西武鉄道「山口線」

愛称「レオライナー」の正式名称は山口線といいます。山口線はもともと、1950年(昭和25年)に多摩湖ホテル前~ユネスコ村間を結ぶ「おとぎ線」とよばれた路線であり、そこを走る「おとぎ電車」という子ども用の遊戯施設でした。その遊戯施設を1952年(昭和27年)に地方鉄道法に基づく地方鉄道に転換して「山口線」と改称しました。

 

西武球場前駅に停車するレオライナー(2021年3月)

 

山口線は西武鉄道において自動案内軌条式旅客輸送システム(AGT)による唯一の路線となります。多摩湖~西武球場前間のわずか2.8キロをゴムタイヤを履いた車両で走ります。全線が単線となっていますが、途中の信号場にて列車交換を行うこともできます。

 

山口線の西武球場前駅(2021年3月)

 

1972年(昭和47年)以降は小型蒸気機関車が活躍した時代もありましたが、1984年(昭和59年)になると大改修工事を行い「おとぎ電車」としての役割を終えました。自動案内軌条式旅客輸送システム(AGT)として再開業を果たし、真に「西武鉄道」の一員となりました。

 

西武鉄道「レオライナー」(2020年3月)

 

現在の「レオライナー」は1両わずか8メートルの小型車体の4両編成に、通勤通学客および西武球場への野球観戦客、西武園ゆうえんちに訪れるレジャー客を運んでいます。

 

山口線西武球場前駅の車止め(2021年3月)

雨引山楽法寺(雨引観音)とクジャク

1.雨引駅 2.雨引観音へのアクセス方法 3.雨引山楽法寺(雨引観音)

 

雨引山に放し飼いにされるクジャク(2020年2月)


雨引駅

雨引(あまびき)駅は1918年(大正7年)、筑波線の真壁~岩瀬間が延伸開業した際に設置されました。駅は2面2線をもつ相対式ホームとなっていて、上り(真壁・土浦方面行き)ホーム上に駅本屋がありました。1987年(昭和62年)の筑波線廃止と同時に廃駅となっています。

 

雨引駅廃線図


雨引観音へのアクセス方法

雨引山楽法寺(あまびきさんらくほうじ)は「雨引観音(あまびきかんのん)」とよばれ、安産・子育て・厄除け祈願でよく知られています。坂東二十四番札所であり、春は桜、初夏は紫陽花(あじさい)、秋は紅葉を楽しむことができます。

 

雨引観音の本堂/観音堂(2020年2月)

 

雨引観音は旧雨引駅からは車で5分ほどの場所にありますが、現在は桜川市バス「ヤマザクラGO」でのアクセスとなります。「ヤマザクラGO」は筑波山口~旧酒寄駅跡~桜川市役所真壁庁舎~真壁城跡~雨引観音~桜川市役所大和庁舎~大和駅入口~岩瀬駅~桜川市役所岩瀬庁舎を結ぶルートを走りますが、雨引観音へは休日のみの運行となります。


雨引山楽法寺(雨引観音)

雨引観音は雨引山の中腹にありますが、梁(中国)の人である法輪独守居士が587年(用明天皇2年)、そこに延命観世音菩薩を祀って開山しました。推古天皇が病に伏したときには、はるか遠く雨引観音の観世音菩薩に病気平癒を祈らせて回復したと伝えられます。延命観世音菩薩立像は国指定重要文化財となっています。

 

境内の様子(2020年2月)

 

聖武天皇の730年(天平2年)には、光明皇后が自らの安産を祈願したところ母子ともに無事であったことから、雨引山は安産・子育ての霊場と定められました。このとき三重塔が建てられ、現在ではここに光明皇后の紺紙金泥の法華経が大切に保存されています。1683年(天和3年)、この三重塔を再建するべく第二重目まで建設したが果たせず、後にこれを完成させ、1853年(寛永6年)には三重塔を改めて多宝塔として現在に至ります。

 

多宝塔(2020年2月)

 

雨引山」の名の由来は嵯峨天皇の821年(弘仁12年)の夏のことに遡ります。日照り続きにより大飢饉に見舞われた際、嵯峨天皇は写経してこれを雨引観音に納めて本尊に降雨祈願をしたといいます。その後、ほどなく雨が降り出して七日七夜降り続いたことから、「天彦山」と称されていたのを勅命により「雨引山」としました。

 

仁王門(2020年2月)

 

駐車場から境内へと続く145段の石段(磴道)は1821年(文政4年)より1年2か月の歳月を費やして完成されたものです。

 

駐車場から磴道へ(2020年2月)

 

この大石段は厄除けの石段」ともよばれ、一段一段「南無観世音菩薩」と唱えて登れば厄が落ちるといわれています。

 

駐車場から磴道へ(2020年2月)

 

石段の途中にある仁王門は1254年(建長6年)に宗尊親王が建立した門であり、鎌倉時代の仏師である康慶の彫刻した仁王尊を祠っています。

 

145段の大石段(2020年2月)

 

仁王尊は二躯であり、一つは「阿」の字、もう一つは「吽」の字を表すといいます。門の周囲の彫刻は1704年(宝永元年)に無関堂円哲が彫刻したものです。現在の建造物は1628年(天和2年)に再建されたものであり、茨城県指定文化財となっています。

 

仁王門(2020年2月)

 

石段を登りきると本堂(観音堂)があります。創建当初の本堂は1254年(建長6年)、宗尊親王が本堂が朽壊しているのを嘆き、当時の執権・北条時頼を諭してこれを再建したといわれています。現在の本堂は1474年(文明6年)に当時の真壁城主がこれを完成させ、その後1526年(大永6年)にはこれが改築されました。さらに、1682年(天和2年)には大本堂が建立されています。

 

本堂/観音堂(2020年2月)

 

大正時代に建立された阿弥陀堂では、シロアリ被害などによる老朽化にともない再建工事が行われています。合わせてバリアフリー化の工事も行われています。

 

バリアフリー化の工事について(2020年2月)

 

茨城県指定文化財となる東照山王権現社殿は、高さ5.53メートルある入母屋造りの建物です。その社殿からは徳川家康神像(本像)と徳川将軍歴代の位牌や東照大権現宮と山王大権現宮の棟札が発見されました。東照大権現と山王大権現は別々に祀られていましたが、1727年(享保12年)に合祀再建されました。

 

東照山王権現社殿(2020年2月)

 

雨引山では1996年(平成8年)頃より数羽のクジャクを放し飼いにするようになりましたが、今では多くのクジャクを境内で見ることができるようになり、観光客を喜ばせています。

 

雨引山に放し飼いにされるクジャク(2020年2月)

植物多様性を守る筑波実験植物園

1.筑波実験植物園へのアクセス方法 2.筑波実験植物園の魅力

 

園内の池に架かる「つくばね橋」(2021年12月)


筑波実験植物園へのアクセス方法

筑波実験植物園は、国立科学博物館が植物の研究のために設置しました。7000種以上の植物が育てられていて、3000種の植物を見ることができます。

 

園内になる植物の実(2021年12月)

 

筑波実験植物園へは、つくばセンター(つくばエクスプレス「つくば駅」)より路線バスでアクセスすることができます。

 

Tsukuba Botanical Garden(2021年12月)

 

つくバス「北部シャトル」(つくばセンター3番のりば)に乗車して「天久保(筑波実験植物園)」下車徒歩約3分、関東鉄道バス「筑波大学循環左回りコース」(つくばセンター6番のりば)に乗車して「天久保2丁目」下車徒歩約8分、関東鉄道バス「テクノパーク大穂」行き(つくばセンター5番のりば)に乗車して「筑波実験植物園前」下車徒歩3分となります。「テクノパーク大穂」行きは1日に数本しか便がなく、休日の運行はありません。その他は1時間に1本~3本程度の運行となっています。

 

園内に入って正面入口を振り返る(2021年12月)

 

つくば駅から歩いて行く場合には、筑波実験植物園までの距離が2キロ以上ありますので、30分ほどかかってしまいます。

 

紅葉する木々(2021年12月)


筑波実験植物園の魅力

園内の広さは約14万平方キロメートルと巨大な敷地があり、屋外には主に中部日本の植物が植えられています。また、世界の熱帯や乾燥地、熱帯雨林などの植物などを植栽する施設もあります。

 

フジツツジ(2021年12月)

 

標本庫には150万点以上の標本を収蔵しますが、こちらは一般には非公開となっています。

 

国立科学博物館「自然史標本棟」(2021年12月)

 

さまざまな植物が見ることができるにもかかわらず、入場料はたったの320円(高校生は無料)です。リピーターズパスというものがあり、これは年会費1,500円で1年間に何度でも入館することできるというものです。

 

正面入口にある教育棟(2021年12月)

 

教育棟の建物は植物園のエントランスとなっていて、ミュージアムショップなどがあります。

 

正面入口にある教育棟(2021年12月)

 

ここではガイドブックや絵葉書、植物に関する書籍やグッズなどを販売しています。

 

教育棟横プロムナード(2021年12月)

 

園内に入ると、教育棟に近い区画は「生命を支える多様性区」となっていて、衣食住、鑑賞などの生活に欠かせない植物を見ることができます。

 

ツワブキ(2021年12月)

 

温帯資源植物、筑波山の植物、シダ植物、絶滅危惧植物などが見られる他、クレマチス園もあります。その奥にある池には水生植物が見られ、池には「つくばね橋」という橋が架けられ、あずまやも設けられています。

 

つくばね橋と(左奥)あずまや(2021年12月)

 

さらに、奥の区画へ進むと「世界の生態区」となっていて、標本庫などの建物がある区画には水生植物温室、熱帯雨林温室、サバンナ温室、熱帯資源植物温室などがあります。

 

熱帯資源植物温室(2021年12月)

アマゾンユリ(2021年12月)

温室内の植物たち(2021年12月)

 

屋外には日本の暖温帯~冷温帯の植物を見ることができます。常緑広葉樹林、温帯性針葉樹林、暖温帯落葉広葉樹林、令温帯落葉広葉樹林、低木林(高地性/低地性)、砂礫地植物(山地性/海岸性)、山地草原(高地性/低地性)、岩礫地植物(山地性/海岸性)などのように細かく区分けされています。

 

パンパスグラス(2021年12月)

茨城県自然博物館へのアクセス方法

1.ミュージアムパーク茨城県自然博物館へのアクセス 2.茨城県自然博物館の魅力

 

茨城県自然博物館正面口(2021年10月)


ミュージアムパーク茨城県自然博物館へのアクセス

茨城県自然博物館は日本最大級の自然博物館です。その本館建物内ではさまざまな展示を見られる他、その野外に広がる実際の自然とのふれあいを通じて、人と自然との関わりや共生の大切さを学ぶことができる施設です。その敷地は15.8ヘクタールにも及び、東京ドーム約3.4個分となります。茨城県自然博物館は坂東市に所在しますが、守谷駅つくばエクスプレス関東鉄道)または愛宕駅(東武アーバンパークライン)よりアクセスすることができます。

 

つくばエクスプレス守谷駅(2020年7月)

 

守谷駅からは関東鉄道バス「岩井バスターミナル行き」にて自然博物館入口下車(バス所要時間約30分)徒歩約10分となります。バスは1日に3~4本しかありませんが、関東鉄道バスでは1DAYパス(大人500円・小人250円でバス往復と博物館団体料金で入館)を販売しています。愛宕駅からは茨城急行バス「岩井車庫行き」にて自然博物館入口下車(バス所要時間約15分)徒歩約15分となります(バスは1時間に1本程度)。

 

茨城県自然博物館特別展「苔ワールド」(2021年10月)


茨城県自然博物館の魅力

2021年(令和3年)、茨城県坂東市にある「ミュージアムパーク茨城県自然博物館」では東京2020オリンピック聖火リレーが実施されました。聖火ランナーとともに坂東市内の中学生20人が坂東市内を走り、東京2020オリンピックの機運を盛り上げました。茨城県自然博物館にはこの内容を記述した碑が立てられています。

 

東京2020オリンピック聖火リレー(2021年10月)

 

茨城県自然博物館は菅生沼の西に建てられた本館と野外施設より成ります。菅生沼は茨城県坂東市と常総市の境界にあり、その広さは南北約5000メートル、東西約200~500メートルの細長い形をした沼です。菅生沼には江川、飯沼川、東仁連川(ひがしにれかわ)という3つの川が流れ込んでおり、菅生沼を経て利根川へと注ぎます。

 

茨城県自然博物館の敷地内案内図(2021年10月)

 

反町堤を境として、北側を上沼、南側を下沼とよばれます。菅生沼に生息する生物の種はきわめて豊富ですが、特に鳥類はコハクチョウやカモ、カワセミ、ウグイス、ツグミなどの豊富な種が飛来します。

 

茨城県自然博物館特別展「苔ワールド」(2021年10月)

下館駅[水戸線/関東鉄道/真岡鐡道]

下館駅南口改札口(2020年1月)

平安時代、藤原秀郷は平将門による反乱鎮圧のために上館・中館・下館の三館を築きましたが、これが「下館」の名のはじまりとされます。室町時代には、水谷勝氏が結城氏から下館領を与えられて下館城を築城し、その城郭は1869年(明治2年)に廃城となるまで残りました。江戸時代には下館藩の城下町として栄え、水谷氏に代わった徳川光圀の兄・松平頼重が水戸城下にならった町割りを行いました。その後、結城紬(ゆうきつむぎ)をはじめとする商業のまちとして発展して「関東の大阪」ともよばれるようになります。

下館駅に停車する関東鉄道の車両(2020年1月)

1889年(明治22年)には下館町が成立し、その後順次、水戸鉄道(現在の水戸線)、真岡軽便線(現在の真岡鐡道)、常総鉄道(現在の常総線)の駅が開業しました。

水戸線のホームから見た常総線のホーム(2023年8月)

1954年(昭和29年)には周辺の自治体を編入して下館市となりますが、2005年(平成17年)のいわゆる「平成の大合併」により下館市は関城町・明野町・協和町と合併して筑西市となりました。

母子島遊水地から見た筑波山(2022年1月)

これにより、平安時代より1000年の歴史をもつ「下館」の名は姿を消すことになりました。新たに誕生した筑西市の代表駅となる下館駅には水戸線真岡鐡道常総線が乗り入れます。

関東鉄道下館駅の運賃表(2020年1月)

水戸線の前身となる水戸鉄道が小山~水戸間開通の際、1889年(明治22年)に下館駅を開業し、下館駅の歴史ははじまります。その後、水戸線は1892年(明治25年)に日本鉄道に譲渡されて下館駅は日本鉄道の駅となりますが、1906年(明治39年)には鉄道国有法により水戸線も国有化され、国鉄の駅となりました。

下館シネマズシアター(2023年8月)

1912年(明治45年)には、真岡鐡道の前身となる真岡軽便線(下館~真岡間)が開通し、下館駅に乗り入れます。さらに、1913年(大正2年)には常総鉄道(現在の常総線)が取手~下館間を開通し、3路線が乗り入れることになりました。

下館駅北口広場(2023年8月)

1937年(昭和12年)に現在の北口駅舎が開業し、1976年(昭和51年)には南口を開設します。2006年(平成18年)になると、南口の改札業務はJRより関東鉄道に変更されています。

下館駅南口改札(2020年1月)

現在の下館駅は3面6線をもつ地上駅であり、一部は橋上駅となっています。6線のうち、切り欠きホームをもつ1番線は真岡鉄道線、単式ホームの2番線と島式ホームの3番線・4番線は水戸線、島式ホームの5番線・6番線は常総線が使用しています。

下館駅南口駅舎(2023年8月)

南口駅舎は常総線の5番線・6番線の上にあります。

下館駅南口駅舎(2020年1月)

水海道駅と水海道の町並み

1.水海道の歴史 2.水海道駅 3.常総市の古い建造物

水海道駅駅名標(2020年12月)


水海道の歴史

水海道(みつかいどう)市は2006年(平成18年)、石下(いしげ)町を編入して常総市となりました。水海道は江戸時代、鬼怒川の水運により栄えた町であり、商業を中心に発達しました。

 

水海道の町並み(2020年12月)

 

鬼怒川を下る舟は守谷まで行くと、鬼怒川と合流する利根川を関宿まで遡り、そこで分岐する江戸川を下るという航路をとっていました。昭和時代になると、その舟が運行する姿も見られなくなってしまいました。

 

水海道駅駅舎(2020年12月)


水海道駅

常総市の中心駅となる水海道駅は1913年(大正2年)、常総線の開通と同時に開業しています。

 

水海道駅改札(2020年12月)

 

取手~水海道間は1984年(昭和59年)に複線化が完了していますが、水海道駅~下館駅間は現在も単線のままです。

 

取手~水海道間複線完成記念乗車券
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この複線区間(取手~水海道間)と単線区間(水海道~下館間)を直通して「(取手発)下館行き」や「(下館発)取手行き」という列車ももちろんありますが、「水海道乗換下館行き」や「水海道乗換取手行き」に遭遇することがあります。

 

水海道駅改札(2020年12月)

 

「水海道乗換…」の列車に乗車した場合には、水海道駅に着くと一度ホームに降りて、目の前に停車する「下館行き」あるいは「取手行き」の列車に乗り換えなければなりません。

 

水海道駅ホーム(2020年12月)

 

たとえば、取手駅15時台(平日下り)の時刻表を見ると、以下のようになっています。15時09分発「下館行き」は直通運転ですが、15時47分発「下館行き」は「水海道乗換下館行き」となっています。

 

取手駅時刻表(抜粋)


常総市の古い建造物

常総市には古い建造物が数多く残っています。

 

水海道の町並み(2020年12月)

 

旧報徳銀行水海道支店は水海道駅から北へ徒歩6分ほどの場所にあります。

 

水海道駅(2020年12月)

 

当時の報徳銀行は東京に本店を構え、全国に22の支店をもつ全国規模の大銀行でした。大正時代の水海道には報徳銀行と水海道銀行(現在の常陽銀行)の2行がありました。

 

旧報徳銀行水海道支店(2020年6月)

 

報徳銀行水海道支店は1912年(大正元年)に現在の水海道諏訪町に建てられ、1923年(大正12年)頃に現在地(水海道宝町)に新築されたものです。報徳銀行は昭和時代の金融恐慌で破綻しましたが、この建物はその後、いくつかの銀行の建物として2004年(平成16年)まで使用されていました。

 

旧報徳銀行水海道支店(2020年6月)

 

徳川綱吉の時代に藤屋伊右衛門が江戸屋薬舗を開業し、安政前期頃まで現在の水海道元町や水海道宝町で薬種や染料を商いました。明治時代の初期になると、藤屋伊右衛門を五木田伊右衛門に改名し、屋号「江戸屋薬舗」を継承しました。

 

表札「五木田伊右衛門」(2020年6月)

 

時代を先取りした大形立体文字の看板は掲げ、水海道・守谷・石下などの医者・薬屋へ漢方薬などを調合して卸売りしました。

 

看板「江戸屋薬舗」(2020年6月)

 

現在に残る建造物は1859年(安政6年)に第14代が建てたものであり、水海道商家の代表的建築となっています。

 

江戸屋薬舗(2020年6月)

鹿島鉄道線(旧鉾田線)の歴史

1.鹿島鉄道線の廃線 2.鹿島鉄道線の歴史

 

玉造・虹の塔(2022年2月)


鹿島鉄道線の廃線

鹿島鉄道が運営していた鹿島鉄道線は石岡~鉾田間を結ぶ鉄道路線でしたが、2007年(平成19年)に廃止となっています。

 

鹿島鉄道線廃線時の路線図

 

廃線の少し前には列車はほぼ1時間に1本程度運行されていて、石岡駅から終点の鉾田駅までの所要時間は1時間半弱程度で結んでいました。

 

鉾田駅跡(2022年2月)

 

廃線後、関鉄グリーンバスはほぼこの路線に沿った形式での路線バス(愛称「かしてつバス」)の運行を開始しました。

 

鉾田駅バスターミナル(2022年2月)

 

2010年(平成22年)になると、石岡~常陸小川(現在は「小川駅」)間の廃線跡はバス専用道となり、バスはこの道路を走って運行されるようになりました。また、茨城空港への連絡バス(石岡ルート)も石岡駅~小川駅間のバス専用道を経由して、茨城空港へと向かいます。

 

鹿島鉄道線廃線跡/新高浜駅付近(2022年2月)

 

鉄道の終点となっていた鉾田駅前にはバスターミナルがありましたが、廃駅後もそのまま使用されており、停留所名は「鉾田駅」となっています。

 

鉾田駅バスターミナル(2022年2月)

 

鉾田駅は「関東の駅百選」にも認定された駅でしたが、現在ではその駅があったのと同じ場所にホーム跡だけが残っています。そのプラットホームの崩れた姿がとても寂しく感じられます。

 

鉾田駅跡(2022年2月)


鹿島鉄道線の歴史

鹿島鉄道線を運行していた鹿島鉄道は1979年(昭和54年)に設立された鉄道会社でした。その前身は1922年(大正11年)に発足した鹿島参宮鉄道です。「鹿島参宮鉄道」はその名に示す通り、鹿島神宮への参拝客を輸送することを目的として設立されました。

 

鹿島神宮(2020年1月)

 

1924年(大正13年)に石岡~常陸小川間を開業した後、1926年(大正15年)に常陸小川~浜間、1928年(昭和3年)に浜~玉造町間、1929年(昭和4年)に玉造町~鉾田間が開通し、石岡~鉾田間が全通しました。

 

鉾田駅跡(2022年2月)

 

全通に先立ち、1927年(昭和2年)には浜駅から汽船により麻生、牛堀、潮来を経由して鹿島神宮までを結びました。浜駅から徒歩20分ほどの場所には、現在「道の駅たまつくり」があります。

 

「道の駅たまつくり」(2022年2月)

 

「道の駅たまつくり」は2001年(平成13年)に開業し、これには1992年(平成4年)に開園した霞ヶ浦ふれあいランド・水の科学館(2020年/令和2年閉館)が隣接します。

 

霞ヶ浦ふれあいランド・水の科学館[閉館](2022年2月)

 

さて、鹿島参宮鉄道は鉄道路線による「鹿島参宮鉄道」としての目的を達成することはできませんでしたが、汽船によりその目的を達成することになります。さらに、汽船事業としては1929年(昭和4年)に新たに佐原航路も開きました。しかしながら、汽船の利用客があまり増加せず、1931年(昭和6年)に鹿島鉄道船舶部の汽船事業は水郷観光汽船(現在のラクスマリーナ)に併合されてしまいます。

 

「道の駅たまつくり」からのぞむ霞ヶ浦の風景(2022年2月)

 

1965年(昭和40年)になると、鹿島参宮鉄道と常総筑波鉄道が合併して関東鉄道となりました。これにより鹿島参宮鉄道の石岡~鉾田間の路線は「関東鉄道鉾田線」となりますが、乗客数は振るわず、1979年(昭和54年)に鉾田線を関東鉄道より分離し、関東鉄道の完全子会社となる新設「鹿島鉄道」の「鹿島鉄道線」としました。しかしながら、その後も経営改善せず、2007年(平成19年)に廃止となりました。

 

霞ヶ浦大橋(2022年2月)

両国橋駅の誕生と総武線の歴史

1.両国駅の歴史と総武線の誕生 2.中央・総武緩行線と横須賀・総武快速線

 

総武線路線図


両国駅の歴史と総武線の誕生

両国橋は千住大橋に次いで2番目に隅田川に架橋されました。当初は「大橋」という名でしたが、西側の武蔵国と東側の下総国を結ぶ橋ということから「両国橋」として親しまれました。1693年(元禄6年)に新しい橋が架けられたときに「両国橋」が正式名称となりました。新しい橋が架けられる少し前の1686年(貞享3年)、両国橋の東側の地域も武蔵国に編入されましたが、この辺りには「両国」という名前が残りました。

 

両国駅周辺(2019年10月)

 

この辺りには国技館をはじめとして江戸東京博物館、旧安田庭園などがありますが、その中心となるのが両国駅です。両国駅は現在はJRの駅ですが、もともとは1904年(明治37年)に総武鉄道が「両国橋駅」として開業したものです。当時は総武鉄道のターミナルとして開業し、東武鉄道もこの駅に乗り入れました。

 

秋葉原駅を出発する総武線(2020年9月)

 

1907年(明治40年)に総武鉄道は国有化され、1910年(明治43年)には東武鉄道が乗り入れを廃止しました。1931年(昭和6年)に「両国駅」とされ、1932年(昭和7年)には御茶ノ水駅まで開通し、現在の総武線となりました。

 

両国駅(2019年10月)


中央・総武緩行線と横須賀・総武快速線

現在両国駅を走るのは黄色のラインが入った電車ですが、これは中央・総武緩行線(各駅停車)の車両です。中央・総武緩行線(各駅停車)は千葉駅から総武本線の一部となる線路を走って御茶ノ水駅まで行き、ここから中央本線の一部となる線路に入り三鷹駅まで乗り入れるという路線です。

 

両国駅に停車する中央・総武緩行線(2019年10月)

 

この総武線には快速線があり、千葉方面からやって来た列車は錦糸町駅で、両国駅へ向かう黄色の電車が走る中央・総武緩行線(各駅停車)と馬喰町駅へ向かう総武快速線に分かれます。総武快速線を走る列車は黄色の電車ではなく、横須賀線を走る電車です。総武快速線は錦糸町駅から分岐した後、東海道本線を経由して横須賀線へと入ります。

 

横須賀・総武線快速E217系(2017年8月)

 

横須賀線は大船~久里浜間を結ぶ路線であり、1889年(明治22年)に開業しています。運行系統上では、国鉄時代の1980年(昭和55年)以来、横須賀線(大船~久里浜)、東海道線東京~大船)および総武線東京~千葉)においては相互直通運転を実施し、一部の列車は千葉より先、内房線や外房線成田線へも乗り入れしています。

 

錦糸町駅(2022年7月)

八高線の歴史とその沿線の風景

1.八高線の歴史

 

八高線路線図


八高線の歴史

明治時代の中頃、八王子~高崎間における鉄道敷設計画が立てられましたが、許可が下りずに頓挫してしまいました。1922年(大正11年)には改正鉄道敷設法が公布され、国が建設すべき鉄道路線が示されたことに加えて、1923年(大正12年)の関東大震災により鉄道路線が大きな被害を受け、再び八王子~高崎間の鉄道敷設計画が浮上し、後に「八高線」とよばれるようになる路線の建設がはじまりました。

 

八王子駅(2021年2月)

 

八高線は、上越地方の物資を東海道方面へと運搬するにあたり、東京都心部を経由せずにこの路線を経由して東海道本線へと向かうことができるようになる路線といえます。その敷設工事は「八高南線」と「八高北線」に分けて進められることになりました。八高南線は1931年(昭和6年)に八王子~東飯能間が開通し、小宮駅、拝島駅、東福生駅、箱根ケ崎駅、金子駅、東飯能駅が設置されました。1933年(昭和8年)には東飯能~越生間、1934年(昭和9年)には越生~小川町間が延伸開業しました。一方の八高北線は1931年(昭和6年)に倉賀野~児玉間が開通し、1933年(昭和8年)には児玉~寄居間が延伸開業しました。さらに、1934年(昭和9年)には小川町~寄居間が延伸開業して全通となり、八王子~倉賀野間が「八高線」となりました。

 

八高線/八王子駅駅名標(2020年10月)


東福生駅

東福生駅(2020年11月)


金子駅

金子駅(2020年9月)


東飯能駅

東飯能駅(2020年9月)

京浜東北線の歴史

1914年(大正3年)に新しいターミナル駅となる東京駅が完成しました。東京駅には島式ホーム4面8線が設けられ、1番線・2番線には電車線(山手線)、3番線・4番線には電車線(京浜線)、5番線・6番線には東海道本線長距離列車到着線(非電化線)、7番線・8番線には東海道本線長距離列車出発線(非電化線)が発着するようになりました。3番線・4番線の発着となる京浜線(通称「京浜電車」)は東海道本線の電車線(支線扱い)であり、東京駅開業日より東京~高島町(現在の横浜駅~桜木町駅間)間を結ぶことになりました。

 

秋葉原駅に到着する京浜東北線の車両(2020年7月)

 

1915年(大正4年)には横浜駅(現在の桜木町駅)が移転することになり、京浜線(通称「京浜電車」)の終点となっていた高島町駅は横浜駅(2代)に統合されて廃止となりました。これにより京浜線(通称「京浜電車」)は東京横浜(2代)間となりましたが、その後すぐに桜木町駅(横浜駅初代)まで延伸されました。1925年(大正14年)になると、東北本線東京~秋葉原間の電車線が完成したため、京浜線(通称「京浜電車」)の運転区間は田端駅まで延伸されました。さらに、1928年(昭和3年)には東北本線の田端~赤羽間の電車線が完成して赤羽駅まで延伸となり、1932年(昭和7年)には赤羽~大宮間が直流電化されたため大宮~横浜間がつながり全通となります。これにより、京浜線(通称「京浜電車」)と東北本線が結ばれることになり「京浜東北線」の成立となりました。

 

京浜東北線の車両(2020年7月)

多摩湖鉄道の歴史

1.多摩湖と狭山湖 2.多摩湖鉄道から西武鉄道へ 3.多摩湖駅の歴史 4.萩山駅と多摩湖線の全通 5.国分寺駅から青梅街道駅へ 6.八坂駅と東村山中央公園

 

多摩湖線(西武鉄道)路線図


多摩湖と狭山湖

村山貯水池は1927年(昭和2年)、当時の東京市の人口増加に対応した水源確保を目的として完成した人造湖であり、通称「多摩湖」とよばれます。村山貯水池(通称「多摩湖」)は、その隣りにある山口貯水池(通称「狭山湖」)と連絡管で結ばれていて一体的な運用がなされています。

 

多摩湖駅駅名標(2021年3月)

 

この多摩湖・狭山湖一帯には、現在の西武鉄道の路線である多摩湖線・狭山線・山口線・西武園線が複雑に絡み合います。

 

西武球場前駅に停車する狭山線の車両(2021年3月)

 

多摩湖へは多摩湖駅(多摩湖線山口線)や西武球場前駅(狭山線と山口線)、西武園駅(西武園線)、武蔵大和駅(多摩湖線)からアクセスできます。

 

西武球場前駅に停車する山口線「レオライナー」の車両(2021年3月)


多摩湖鉄道から西武鉄道へ

堤康次郎は滋賀県選出の衆議院議員であり、西武グループの創業者です。その西武グループの前身となるのは堤康次郎が1920年(大正9年)に設立した箱根土地(後のコクド)です。

 

西武101系電車の車内(2021年3月)

 

箱根土地(後のコクド)は別荘地などを販売する土地会社として箱根や軽井沢の土地開発に乗り出した後、東京郊外の開発にも力を入れるようになりました。1924年(大正13年)には大泉学園の開発をはじめ、そこに東大泉駅(現在の大泉学園駅)を建設してこれを武蔵野鉄道に寄贈します。

 

西武球場前駅に停車する山口線「レオライナー」の車両(2021年3月)

 

また、1928年(昭和3年)には多摩湖や小平周辺を開発するために多摩湖鉄道(現在の多摩湖線)を設立し、国分寺萩山間を開業しました。1937年(昭和7年)、箱根土地堤康次郎は経営難となっていた武蔵野鉄道の株式を買収し、武蔵野鉄道の経営権を掌握してその再建に乗り出しました。1940年(昭和15年)には武蔵野鉄道は多摩湖鉄道を吸収合併しています。これが現在の多摩湖線の成立となります。

 

萩山駅に停車する多摩湖線の車両(2020年10月)


多摩湖駅の歴史

多摩湖駅は1936年(昭和11年)に開業していますが、開業当初は「村山貯水池駅」という駅名でした。戦時中には貯水池が攻撃目標となるのを避けるために、その駅名を「狭山公園前駅」と改称しました。戦争が終わると1951年(昭和26年)に「多摩湖駅」となり、1979年(昭和54年)には「西武遊園地駅」となっています。

 

国分寺駅に停車する「西武遊園地行き」(2020年6月)

 

西武園ゆうえんちは2021年(令和3年)、昭和レトロをテーマとして商店街やアトラクションなどが新設されてリニューアルオープンしました。その際、山口線の「遊園地西駅」はリニューアルオープンした西武園ゆうえんちのメインエントランス前となったため、「西武園ゆうえんち駅」と改称しました。

 

西武鉄道路線図(2021年3月)

 

また、1979年(昭和54年)に「西武遊園地駅」となっていた多摩湖線山口線の乗換駅は「多摩湖駅」と称することになり、42年ぶりに「多摩湖駅」の名称を復活しています。

 

多摩湖駅駅名標(2021年3月)


萩山駅と多摩湖線の全通

萩山駅には多摩湖線と拝島線が乗り入れています。萩山駅が開業したのは1928年(昭和3年)のことですが、その当時は多摩湖線の前身となる多摩湖鉄道の終着駅となっていました。

 

萩山駅駅名標(2020年6月)

 

多摩湖線は1928年(昭和3年)に本小平駅(現在は小平駅に統合)まで延伸され、1930年(昭和5年)には萩山駅で線路を分岐し、萩山駅~村山貯水池仮駅(現在の武蔵大和駅)間を開通しました。

 

萩山駅ホーム(2020年10月)

 

1936年(昭和11年)には武蔵大和駅(村山貯水池仮駅より改称)~村山貯水池駅(現在の多摩湖駅)を延伸開業し、多摩湖線の全通となります。その後、萩山駅は1958年(昭和33年)、現在と同じ場所に移されています。

 

萩山駅に停車する多摩湖線の車両(2020年7月)


国分寺駅から青梅街道駅へ

多摩湖線の列車は国分寺駅のホームを出発すると、一橋学園駅、青梅街道駅の順に停車しますが、一橋学園駅までの間にはかつて東国分寺駅、桜堤駅、一橋大学駅(商大予科前駅として開業)がありました。

 

青梅街道駅駅名標(2021年1月)

 

東国分寺駅は1933年(昭和8年)に開業しましたが、戦時中に一時休止となった後、1954年(昭和29年)に正式に廃止となりました。また、桜堤(さくらづつみ)駅は玉川上水沿いの桜を見るための観光客が利用する駅でしたが、東国分寺駅と同様に1928年(昭和3年)に開業して1953年(昭和28年)に廃止となっています。一橋大学駅(商大予科前駅として開業)は現在の一橋学園駅より数10メートルだけ国分寺駅寄りに存在した駅ですが、1966年(昭和41年)に一橋学園駅が開業してこれに統合されました。

 

青梅街道駅駅舎(2021年1月)

 

一橋学園駅を出発すると青梅街道駅へ向かいますが、この間にもかつて小平学園駅、厚生村駅がありました。小平学園駅は一橋大学駅(商大予科前駅として開業)と300メートルほどしか離れていない場所にあり、箱根土地が開発した小平学園都市に設置されたものです。小平学園駅も一橋学園駅が開業した際、一橋大学駅(商大予科前駅として開業)と同様に統合されています。厚生村駅は小平学園駅より200メートルほど青梅街道駅寄りに行った場所にありましたが、これも1953年(昭和28年)に廃止となっています。

 

青梅街道駅駅舎(2021年1月)

 

青梅街道駅は多摩湖線が青梅街道と交差する場所にあり、1928年(昭和3年)に開業しています。駅舎は1995年(平成7年)に改修工事を完了していますが、昭和時代を彷彿させるレトロな小さな駅舎となっています。しかしながら、青梅街道駅の周辺には、小平市役所をはじめとして小平警察署、小平市中央公民館、小平市立中央図書館などが集まっており、小平市の中心部ともいえる場所となっています。

 

青梅街道駅駅舎(2021年1月)


八坂駅と東村山中央公園

八坂駅多摩湖線の駅であり、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)に開業しました。当時陸軍の施設がこの近くに建設されることになったため、軍部からの要望により設置されたものです。八坂駅は1面1線の単式ホームであり、上下線とも同じホームより乗降します。

 

八坂駅(2020年6月)

 

東村山中央公園は八坂駅近くにある都立公園であり、約12.1ヘクタールの敷地面積を誇ります。1986年(昭和61年)に通産省工業技術院機械技術研究所の跡地に開園しました。

 

東村山中央公園(2020年9月)

 

公園内にはさまざまな樹木があり、コナラ、アカマツ、クヌギ、サクラ、ケヤキ、ツバキ、クスノキ、クルミ、ハナミズキ、チューリップ、ポピー、ヒマワリ、コスモス、キクなどが見られます。多摩湖線東村山中央公園の北側を走ります。

 

東村山中央公園の北側を走る多摩湖線(2020年9月)

智頭線と特急「スーパーはくと」

1.智頭線 2.特急「スーパーはくと」

 

京都駅に到着する「スーパーはくと」(2019年1月)


智頭線

智頭(ちず)線については1950年(明治25年)に鉄道建設運動が持ち上がりますが、実際に着工されたのは1966年(昭和41年)のことです

 

京都駅を出発して大阪方面へ向かう「スーパーはくと」(2019年1月)

 

その工事は順調に進んでいたかに見えましたが、国鉄経営再建の中で工事の中止を余儀なくされます。その後、近隣自治体を主体として智頭鉄道が設立され、1994年(平成6年)に工事が完了しました。その際、社名を「智頭急行」と変更しています。

 

京都駅に停車する「スーパーはくと」(2018年11月)


特急「スーパーはくと」

その智頭急行とJR西日本が運行する特急列車が「スーパーはくと」であり、特急「スーパーはくと」京都~(JR京都線)~新大阪大阪~(JR神戸線)~(山陽本線)~姫路~上郡~(智頭急行線)~智頭~(因美線)~鳥取・倉吉間を結んでいます。

 

京都駅に停車する「スーパーはくと」(2017年1月)

 

1994年(平成6年)に智頭線が開業したことによりその運行を開始し、2008年(平成20年)にグッドデザイン賞を受賞しています。

「月の光」という名の夜行列車

1.夜行急行「月光」の登場 2.「大垣夜行」から「ムーンライトながら」へ

 

185系「ムーンライトながら」(2017年8月)


夜行急行「月光」の登場

「月の光(ムーンライト)」より夜をイメージできることから、その名は夜行列車の愛称として使用されてきました。急行「月光」は、東京大阪間の夜行急行として「銀河」「明星」「彗星」に次いで1953年(昭和28年)に登場しました。ところが、1964年(昭和39年)に東京新大阪間に東海道新幹線が開業したことにより、東海道本線を昼間に走る特急はすべて廃止され、夜行急行は「月光」と「銀河」「明星」「金星」のみとなってしまいました。このとき「月光」は何とか生き残ることができましたが、東海道新幹線のダイヤ改正による増発のため1965年(昭和40年)に「月光」と「金星」は姿を消すことになりました。

 

京都鉄道博物館に展示される581系電車「月光」(2019年1月)
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それから僅か2年後の1967年(昭和42年)、「月光」という名の列車は「世界初の昼夜兼行車両による寝台電車」として復活します。車両本体に動力をもつ寝台電車の運行は1902年(明治35年)のアメリカに遡りますが、このときは大きな広がりを見せることはありませんでした。一方、「月光」に充てられた581系(交直両用車〔交流区間60ヘルツ対応〕)/583系(交直両用車〔交流区間50・60ヘルツ対応〕)は昼夜兼行車両、すなわち昼間は通常の座席形式、夜は座席を寝台に変更して寝台車として利用できる特殊な仕様であったため、酷使されることになります。寝台特急「月光」として新大阪~博多間を結ぶ581系/583系電車は、寝台特急として博多を出発して翌朝新大阪に到着すると、昼間は「みどり」として大分まで取って返し、夜になるとまた特急「月光」として博多に向かうという過酷な仕事をこなしました。

 

京都鉄道博物館に展示される581系電車「月光」(2019年1月)

 

このような合わせ技をもつことから581系/583系電車は、1972年(昭和47年)にかけて434両も製造され、八面六臂の活躍をすることになります。その後581系/583系電車はさまざまな特急列車に充てられるようになり、「月光形電車」と呼称されるようになりました。1972年(昭和47年)以降、寝台特急「月光」は岡山~博多・西鹿児島(現在の鹿児島中央)を結ぶようになり、1975年(昭和50年)になると二度目となる「月光」の名の消失となり、その後「月光」の名は復活していません。


「大垣夜行」から「ムーンライトながら」へ

1967年(昭和42年)になると、東海道新幹線の開業や特急・急行列車の増発などにより、夜行普通列車は東京大阪間の1往復のみと豊橋~東京間の上り列車1本のみとなりました。廃止が決定していたこれらの夜行普通列車は利用者らによる要望により、これまで運行されていた臨時急行列車「ながら3号」を普通列車化して存続することになりました。

 

185系「ムーンライトながら」(2017年8月)

 

それ以来、東京~大垣間を結んできた通称「大垣夜行」を代替して、1996年(平成8年)に快速「ムーンライトながら」が登場しました。

 

「ムーンライトながら」行先標(2017年8月)

 

上野写真は快速「ムーンライトながら」の行先標です。鉄道やバスに表示される行き先などを示したものを行先標(行先札)などといいます。国鉄時代には、行先標(行先札)の略号を「サボ」としていたため「サボ」とよばれることもあります。これは「サインボード」などの略ともいわれます。

 

北陸線電化記念館に展示される行先札(2017年8月)

 

「ムーンライトながら」は空席が目立つようになってきた2009年(平成21年)以降は臨時列車として運行されてきましたが、2020年(令和2年)は新型コロナウイルス感染症の影響により夏・冬ともに運行されませんでした。2021年(令和3年)に廃止が発表され、2020年(令和2年)3月の運行が最後の運行となりました。これにより「月の光(ムーンライト)」を名乗る列車はすべて消失してしまいました。

 

快速「ムーンライトながら」(2017年8月)

本当の「日本最古の駅」

1.新橋駅 2.横浜駅 3.日本最古の駅「品川駅」

 

品川駅駅名標(2018年9月)


新橋駅

1872年(明治5年)10月14日、日本初の鉄道「新橋~横浜」間が開通しました。ここにいう「新橋駅(初代)」は現存する「新橋駅(2代)」ではありません。すなわち、1872年(明治5年)に敷設された新橋~横浜間の起点となった新橋駅(初代)は「初代新橋駅」をさし、このときの新橋駅(初代)は後に「汐留駅」となっています。汐留駅は貨物駅となった後、1986年(昭和61年)に廃止されています。

品川駅に停車する上野東京ライン・常磐線直通列車(2018年8月)

開業当時の新橋駅(初代)駅舎は西洋建築の駅舎であり、リチャード・ブリジェンスにより設計されたものです。新橋駅(初代)は長らくの間、ターミナル駅として発展しましたが、1914年(大正3年)に東京駅が完成するとその機能は東京駅へと移っていくことになります。

 

新橋駅前に保存されるC11形(2018年9月)

 

一方、現在の新橋駅(2代)はもともと「烏森駅」として開業しています。烏森駅は1909年(明治42年)に旅客駅として仮本屋で営業を開始し、1914年(大正3年)に本屋が完成し、烏森駅が「新橋駅(2代)」と改称されました。新橋駅(2代)は東京都港区にあり、JR線、東京メトロ銀座線、都営地下鉄浅草線、ゆりかもめが乗り入れています。このうち、JR線について見ると、線路名称上は東海道本線1路線のみの乗り入れとなりますが、運転系統上では東海道線京浜東北線山手線、横須賀線が乗り入れていることになります。

 

現在の新橋駅(2代)の西口広場はSL広場ともよばれますが、その名前の由来となるのが鉄道100年を記念して駅前に保存される蒸気機関車C11-292です。C11-292は1945年(昭和20年)に日本車輛により完成し、山陽本線へと配属され、播但線や姫新線などで活躍しました。したがって、C11-292は新橋駅(2代)前にありながらこの周辺では走っていなかったということになります。C11形はタンク式とよばれる小型の蒸気機関車であり、主に近距離路線や貨車の入れ替えなどに使用されていました。

 

蒸気機関車C11-292の前面(2018年9月)

 

もともと「新橋」という地名は外堀(後の汐留川)に架かっていた東海道の橋に由来する名称です。1710年(宝永7年)にこの地に芝口御門が造られたことにより、新橋は芝口御門橋と名称を変更されることになりました。しかし、1724年(享保9年)に芝口御門が消失してしまったものの再建されず、旧称の「新橋」に戻されています。

 

蒸気機関車C11-292の後ろ姿(2018年9月)


横浜駅

一方、新橋~横浜間の終点となった横浜駅(初代)は現在の横浜駅ではありません。横浜駅(初代)はリチャード・ブリジェンスにより新橋駅(初代)駅舎と同じデザインで建築されました。リチャード・ブリジェンスはバーミンガム(イギリス)生まれであり、1864年(元治元年)に来日し横浜で土木建築事務所を開いています。また、日本初の鉄道の開業に先立ち、高島嘉右衛門(たかしまかえもん)は1870年(明治3年)、大隈重信らに京浜間の鉄道敷設を進言しています。高島嘉右衛門は高島易断の開祖ですが、明治時代​に横浜の発展に寄与し「横浜の父」ともよばれています。

 

ちなみに、横浜駅(初代)は、1915年(大正4年)に横浜駅(2代)が誕生した際に「桜木町駅」と改称されています。したがって、現在の新橋駅(初代)も横浜駅(初代)も、厳密にいうと新橋~横浜間が開業した当時の駅ではないということになります。


日本最古の駅「品川駅」

1872年(明治5年)10月14日に新橋(後の汐留駅)~横浜(現在の桜木町駅)間の開通式が行われ、翌10月15日より正式に営業運転が開始されました。しかし、厳密にいうと日本最初の鉄道が走ったのはこのときではありません。なぜなら、これに先立って6月12日に品川~横浜(現在の桜木町駅)間が仮開業しています。したがって、「鉄道開通の話」をするたびに取りあげられる新橋駅(後の汐留駅)よりも先に品川駅は開業していたことになるので、品川駅は「わが国最古の駅」ということになります。

 

品川駅駅名標(2018年11月)

 

鉄道の路線にはその起点からの距離を表す距離標が設置されていますが、これは「キロメートル」の単位によって表示されるため「キロポスト」と称されることもあります。キロポストの起点を表す標識は「ゼロキロポスト」とよばれます。品川駅には「ゼロキロポスト」がありますが、東海道本線のものではありません。日本初の鉄道の起点として「ゼロキロポスト」(当時はマイルで計測されたので「ゼロマイルポスト」)が設置されたのは新橋駅であり、これは1958年(昭和33年)に鉄道記念物に指定されています。

 

さて、現在の品川駅にある「ゼロキロポスト」ですが、これは山手線のものであり、品川駅は山手線の起点であるということです。山手線は環状運転をしているので起点や終点といわれると不思議に感じますが、山手線の起点は品川駅、終点は田端駅となっています。すなわち、路線名称としては品川~新宿~田端間が山手線、田端~東京間が東北本線東京~品川間が東海道本線となります。

 

山手線の車両E235系(2020年10月)

 

品川駅のホームには品川駅開業130周年安全祈念碑があり、品川駅開業130年の際に鉄道安全を祈願(品川駅開業130周年安全祈念碑)して設置されたものです。この安全祈念碑は古い電気機関車の動輪とレールからできています。また、祈念碑上部には鐘が取り付けられていますが、これは動輪よりあとの時代に取り付けられたものです。

 

ホームにある安全記念碑(2018年8月)

安全祈念碑上部に取り付けられる鐘(2018年8月)

世界で初めての切符

1.切符の誕生 2.日本のきっぷ

 

ICOCAのぬいぐるみ(2019年6月)


切符の誕生

世界で初めての鉄道が走ったのは1825年のイギリス、すなわちストックトン=ダーリントン鉄道ですが、初めての乗車券が誕生したのもイギリスでした。このときの乗車券は紙製であり、そこに発着駅が印刷されており、発売年月日、発車時刻、発行者のサインは手書きであったといいます。その後、再利用できる金属製円形乗車券が登場したこともありましたが普及することなく、印刷と手書きによる紙製乗車券が使用され続けました。

 

そうした中、ニューカッスル・アンド・カーライル鉄道のミルトン駅長であったトーマス・エドモンソンは1836年、新しいタイプ乗車券のアイデアを考案することになります。その小さな駅では当時、乗車券を発行しておらず、駅長は毎日の売り上げをチェックするのに苦戦していました。そこで、トーマス・エドモンソンは紙に発着駅名と運賃を木版印刷し、そこに通し番号を手書きしました。しばらくすると、日付押印機や乗車券棚、印刷機なども製作し、すべてを印刷するようになりました。ここに、エドモンソン式乗車券が誕生しました。このときの乗車券の大きさが縦3センチ×横5.75センチ、すなわち現在の日本でも使用されている切符のサイズです。

 

縦3センチ×横5.75センチの切符(2017年9月)


日本のきっぷ

一方、日本の切符について見ると、近距離切符は小さいサイズであるのに対し、長距離切符や指定券、特急券などは大きいサイズとなっています。

 

自由席特急券(赤)

 

こうした切符のサイズは縦5.75センチ×縦8.5センチであり、磁気定期券や磁気カードによるプリペイドカードなども同じ大きさです。磁気カードの一つであるオレンジカードはかつて、​JR​各社が発売していたプリペイドカードであり、国鉄時代の1985年(昭和60年)に発売が開始されています。2013年(平成25年)をもって販売を終了しています。ラガールカードは阪急電鉄が1989年(平成元年)に発売を開始したプリペイドカードであり、発売当初は自動改札機自体がこれに非対応のため自動券売機でしか使用できませんでした。1992年(平成4年)以降は自動改札機を通すことができるようになったものの、2017年(平成29年)をもって発売を終了しています。スルっとKANSAIは​、ラガールカード​をベースとして​阪神電気鉄道大阪市交通局北大阪急行電鉄​が拡張対応する形で作られた自動改札機対応カードであり、1996年(平成8年)よりスルっとKANSAIの統一名称としました。2017年(平成29年)にすべての販売を終了しています。

 

磁気定期券(大阪市営地下鉄)

 

また、人気の青春18きっぷのサイズは縦5.75センチ×横12センチとなっています。不思議なことに、長距離切符や指定券、特急券などの縦5.75センチ、青春18きっぷの縦5.75センチという長さは、エドモンソン式乗車券の横5.75センチと同じ長さになっています。青春18きっぷは、JR線の普通列車(快速列車を含む)を1日乗り放題として使用できる5枚綴りの切符であり、春休み・夏休み・冬休みの期間中に発売されています。

 

青春18きっぷの説明文(2017年11月)

 

これらの乗車券は同じ自動券売機から発券されますが、自動券売機の中に幅5.75センチの長いロール紙が収納されており、小さな切符も大きな切符もこれを元に印刷されているため、どの切符も一辺が同じサイズになっています。すなわち、すべて1種類のロール紙で対応できる節約方式となります。駅員の方がみどりの窓口で切符を発券してくれる端末をマルスといいますが、こうしたマルスシステムより発券されるマルス券も同じ大きさになります。

 

自由席特急券(青)

 

私鉄の特急券なども同じ大きさになっています。

 

近鉄特急券

 

近年では、交通系ICカードの普及により電車に乗るために切符を購入したことがない若者も多いといいます。交通系ICカードの大きさはSuica、PASMO、ICOCAなどすべて同じであり、縦5.398センチ×横8.56センチとなっています。manaca(マナカ)はエムアイシーと名古屋交通開発機構が発行するICカードであり、名古屋鉄道、名鉄バス、名古屋市交通局、名古屋臨海高速鉄道、豊橋鉄道、愛知高速交通、名古屋ガイドウェイバスで使用することができます。

 

無記名式manaca(2018年3月)

 

交通系ICカードは長距離切符や指定券、特急券などと同じ大きさのように感じますが、若干異なります。交通系ICカードは身分証明書カードの国際規格の一つに基づいているといいます。

さくら交通公園とD51形蒸気機関車

1.さくら交通公園とアムステルダム駅舎 2.D51形蒸気機関車 3.国鉄東名ハイウェイ・バス(ドリーム号)

 

公園内にあるホームの駅名表示板(2018年8月)


さくら交通公園とアムステルダム駅舎

つくばエクスプレスの終点となるつくば駅から東へ徒歩15分ほどの場所には、交通をテーマとしたさくら交通公園があります。園内には、蒸気機関車D51やオランダ・アムステルダム駅舎をアレンジした煉瓦造りの駅舎、1969年式の国鉄ハイウェイ・バス、貸し自転車やゴーカートなどがあります。

 

さくら交通公園駐車場入り口(2018年8月)

 

さくら交通公園には駐車場が併設されていますので車でアクセスすることもできますが、車で行く場合には、駐車場の入り口が大きな通り(土浦学園線)に面していないので注意が必要です。

 

少し古くなった入口の案内図(2018年8月)

 

駐車場の入り口から入ると、オランダ・アムステルダム駅舎をアレンジした煉瓦造りのクラシカルな建物が迎えてくれます。

 

公園内にある煉瓦造りの駅舎(2018年8月)

 

この駅舎風の建物は公園の管理事務所となっています。この建物のモデルとなったアムステルダム中央駅は、当時のオランダの著名な建築家であるP.J.H.カイペルスとA.L.ファン・ゲントによって設計されたものです。P.J.H.カイペルスはアムステルダム国立美術館も設計しています。

 

公園内にある煉瓦造りの駅舎(2018年8月)

 

辰野金吾の設計による東京駅丸の内駅舎は、このアムステルダム中央駅駅舎を模したという説もあります。2006年(平成18年)には東京駅とアムステルダム中央駅は姉妹駅となっています。

 

公園内にある煉瓦造りの駅舎(2018年8月)

 

園内には自転車、三輪車やゴーカートがあり、この煉瓦造りの建物内にはそれらを貸し出すための受付が設けられています。

 

自転車置き場(2018年8月)

 

園内には信号や道路標識、横断歩道などがあるので、これらの乗り物を利用して園内を走行することにより、交通ルールが覚えることができるようになっています。

 

ゴーカート置き場(2018年8月)


D51形蒸気機関車

公園内のアムステルダム駅舎のすぐ横には、蒸気機関車D51が保存されています。園内に保存される蒸気機関車D51は「D51-70号」ですが、これは日立製作所で製造された蒸気機関車であり、1937年(昭和12年)に完成したものです。

 

園内に保存されるD51-70号(2018年8月)

駅舎の横にD51の後ろ姿が見える(2018年8月)

 

当初D51-70号」は岡山機関区に配属されて、山陽本線姫路と広島の間を走っていましたが、1950年(昭和25年)に北海道に転籍し、五稜郭、小樽築港、追分などの機関区で1975年(昭和50年)まで活躍していました。その間に走った距離は287万8164キロにもなりますが、地球から月までの距離が約38万キロなので、月まで3往復してまた月まで行くことができるという途方もない距離を走ったことになります。

 

園内に保存されるD51-70号(2018年8月)

 

かつて戦争により貨物輸送の需要が増えたため、D51形蒸気機関車のようなD型機関車が数多く製造されました。第二次世界大戦が終了すると、貨物輸送の需要が減少したためD型機関車の多くは運行されずに待機することになってしまいました。

 

園内に保存されるD51-70号(2018年8月)

 

一方で貨物輸送に対して旅客輸送は増大することになり、旅客用蒸気機関車の不足を補うためにD51形蒸気機関車のボイラーにC57形蒸気機関車の走行装置を取り付けて、新たにC61形蒸気機関車を製造しています。C61形蒸気機関車は1947年(昭和22年)~1949年(昭和24年)にかけて33両製造されたものであり、「D–C改造」の最初の機種となりました。これに次いで、D62形蒸気機関車はC62形蒸気機関車へと「D–C改造」されました。

 

蒸気機関車の進行方向にある踏切(2018年8月)


国鉄東名ハイウェイ・バス(ドリーム号)

園内には蒸気機関車の他に古いバスも保存されています。駐車場からもそのバスの姿を見ることができます。

 

駐車場から見える国鉄東名ハイウェイ・バス(2018年8月)

 

このバスは国鉄東名ハイウェイ・バス(ドリーム号/747・9901号車)です。

 

国鉄東名ハイウェイ・バスの案内板(2018年8月)

 

このバスは国鉄が東名高速道路用として設計し、第1号車として日野自動車が製造したものです。

 

園内に保存される国鉄東名ハイウェイ・バス(2018年8月)

 

1969年(昭和44年)に完成し、1977年(昭和52年)まで東名高速道路と名神高速道路を走っていました。

 

園内に保存される国鉄東名ハイウェイ・バス(2018年8月)

 

その間に走った距離は137万4021キロになります。この距離は、地球を1周するとおよそ4万キロになりますから、34回位回ったことになります。

 

国鉄の文字が見える(2018年8月)

多摩モノレールとモノレール延伸計画

1.多摩都市モノレールが運営する路線 2.立川北駅と立川南駅 3.万願寺駅 4.多摩都市モノレール延伸計画

 

万願寺駅付近を走る多摩モノレール線の車両(2020年11月)


多摩都市モノレールが運営する路線

多摩都市モノレール線(通称「多摩モノレール」)は上北台(かみきただい)~多摩センター間を結ぶモノレール路線です。上北台~立川北間が1998年(平成10年)に先行開業し、2000年(平成12年)に立川北~多摩センター間が開業しました。

 

多摩センター駅(2020年6月)


立川北駅と立川南駅

JR立川駅の北側には多摩都市モノレール線の立川北駅、南側には立川南駅が設置されています。

 

JR南武線の立川駅駅名標(2022年11月)

 

立川北駅は1998年(平成10年)、上北台~立川北間が開通した際に開業しました。また、立川南駅は2000年(平成12年)、立川北~多摩センター間が開通した際に開業しています。

 

立川南駅駅名標(2020年11月)

 

立川北駅と立川南駅の間は400メートルしか離れていません。

 

立川南駅ホーム(2020年11月)


万願寺駅

万願寺駅は2000年(平成12年)、立川北~多摩センター間が開通した際に開業しています。駅名の「万願寺」はこの辺りの地名より名付けられたものですが、「万願寺」という寺院は存在しません。

 

万願寺駅駅名標(2020年11月)

 

万願寺の駅名標には「土方歳三生誕の地」とありますが、駅の近くには土方歳三の墓所となる愛宕山地蔵院石田寺(せきでんじ)がある他、土方歳三の生家もあります。

 

万願寺駅付近を走る多摩モノレール線の車両(2020年11月)

 

土方歳三は江戸時代末期、新選組の副長として局長の近藤勇を支え、戊辰戦争においては旧幕府軍の指揮官として各地を転戦した後、函館五稜郭にて戦死しました。


多摩都市モノレール延伸計画

多摩都市モノレール線の最北端にある上北台駅は東京都東大和市にありますが、この上北台駅から八高線の箱根ケ崎駅(東京都瑞穂町)への多摩都市モノレール延伸について、東京都は2030年代半ばの開業を目指すとしています。

 

多摩都市モノレール延伸計画

東大和市内には上北台駅の他にもう1駅、瑞穂町内には箱根ケ崎駅の他にもう1駅を設置予定です。また、東大和市と瑞穂町に挟まれた武蔵村山市内には4駅の設置を予定しています。武蔵村山市は東京都内で唯一、鉄道駅のない自治体であり、このモノレール延伸計画が実現すれば武蔵村山市初の鉄道駅となります。

 

万願寺駅付近を走る多摩モノレール線の車両(2020年11月)

京浜急行電鉄の歴史

1.京急の運行路線 2.京浜急行電鉄の歴史

 

平和島駅駅名標(2021年8月)


京急の運行路線

大手私鉄のうちの一つ京浜急行電鉄は、京急本線(泉岳寺~浦賀間)、空港線(京急蒲田~羽田空港第1・第2ターミナル間)、大師線(京急川崎~小島新田間)、逗子線(金沢八景~逗子・葉山間)、久里浜線(堀ノ内~三崎口間)の5路線を運行しています。


京浜急行電鉄の歴史

1899年(明治32年)に大師電気鉄道(現在の大師線の一部)は、川崎(後の六郷橋/現在は廃止)~大師(現在の川崎大師)間を開通しました。大師電気鉄道はすぐに「京浜電気鉄道」と改名し、これが京浜急行電鉄のはじまりとなります。京浜電気鉄道は1933年(昭和8年)に品川駅に乗り入れを開始し、品川~浦賀間で直通運転を開始しました。

 

その後、1941年(昭和16年)に京浜電気鉄道は湘南電気鉄道を合併します。湘南電気鉄道は1917年(大正6年)、三崎半島を一周する鉄道を敷設することを目的として設立されました。湘南電気鉄道は1930年(昭和5年)に黄金町~浦賀間、金沢八景~湘南逗子(現在の逗子・葉山)間を開通し、横浜~浦賀間の直通運転を開始しました。1942年(昭和17年)になると、京浜電気鉄道は小田急電鉄と合わせて東京横浜電鉄に吸収されて「東京急行電鉄」(大東急)が成立しました。さらに、1948年(昭和23年)には東京急行電鉄は、京浜急行電鉄、東京急行電鉄、小田急電鉄、京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)に分離され、現在の京浜急行電鉄が成立します。1968年(昭和43年)には品川~泉岳寺間が延伸開業し、都営浅草線との相互直通運転を実現しています。

東急田園都市線と大井町線

1.田園都市線と大井町線 2.桜新町駅 3.等々力駅と兎々呂城跡

 

二子玉川駅に停車する東急の車両(2019年12月)


田園都市線と大井町線

田園都市線は渋谷~中央林間間、大井町(おおいまち)線は大井町~溝ノ口(現在の溝の口)間を結ぶ東急電鉄が運行する路線です。田園都市線のうち二子玉川~溝の口間は1927年(昭和2年)、玉川電気鉄道の「溝ノ口線」として開業しました。

 

大井町駅駅名標(2020年9月)

 

大井町線は1927年(昭和2年)に目黒蒲田電鉄が大井町~大岡山間(大井町線)を開業したのがはじまりとなります。1929年(昭和4年)には自由ケ丘(現在の自由が丘)~二子玉川間を「二子玉川線」として開通し、同年に大岡山~自由ケ丘(現在の自由が丘)間も開通しています。

 

自由が丘駅駅名標(2020年9月)

 

大岡山~自由ケ丘(現在の自由が丘)間の開通により二子玉川線を大井町線(大井町~大岡山間)に統合し、大井町~二子玉川間の直通運転を開始しました。1943年(昭和18年)になると、二子玉川~溝ノ口(現在の溝の口)間も大井町線に編入されています。

 

京浜東北線大井町駅駅名標(2020年9月)


桜新町駅

田園都市線の桜新町駅から徒歩15分の場所に深沢の杜緑地があります。

 

深沢の杜緑地正門(2019年11月)

 

これはもともと民家の庭であって、大きなタブノキやエノキなどのたくさんの樹木や湧水があり、とても自然豊かな場所でした。

 

深沢の杜緑地内(2019年11月)

 

こうした貴重な自然を残して整備し、深沢の杜緑地として人々が散策や休息できるような場所となりました。

 

深沢の杜緑地(2019年11月)

 

この町が開発された当時、深沢の杜緑地の正門前の通りの両側には4~5メートル間隔で桜が千数百本植えられました。その桜並木は年々成長して美しい桜の花を咲かせるようになり、「桜新町」の名前の由来となりました。

 

桜並木(2019年11月)

 

この桜並木は現在では「旧・新町住宅地の桜並木」として世田谷風景づくり条例に基づく「地域風景資産」に選定されています。

 

深沢の杜緑地(2019年11月)


等々力駅と兎々呂城跡

大井町線の等々力駅は「とどろき」と読みますが、1929年(昭和4年)に開業しました。

 

等々力駅駅名標(2020年9月)

 

等々力駅から徒歩15分ほどの場所に園芸高校がありますが、ここに兎々呂(とどろ)城の碑があります。「兎々呂城」(とどろき)が「等々力」の名の由来となったとも言われています。

 

兎々呂城の碑(2020年9月)

北総鉄道北総線とその歴史

1.北総鉄道北総線とその歴史

 

秋山駅駅名標(2021年10月)


北総鉄道北総線とその歴史

北総線は、京成高砂駅を起点として印旛日本医大駅まで(京成高砂~東松戸~新鎌ヶ谷~小室~印旛日本医大)を結ぶ北総鉄道が運営する路線です。

 

京成高砂駅(2021年10月)

 

この路線のうち、小室~印旛日本医大間は千葉ニュータウン鉄道が第三種鉄道事業者としてその線路を保有しており、これを第二種鉄道事業者として北総鉄道が列車を運行しています。1979年(昭和54年)に北初富~小室間が開通し、このとき新京成線との相互直通運転を開始しました。1984年(昭和59年)に小室~千葉ニュータウン中央間が開通し、1991年(平成3年)には京成高砂~新鎌ヶ谷間が開業し、京成線との相互直通運転を開始しました。これにより京成高砂駅、青砥駅を経由して京成押上線(青砥~押上間)へとつながります。

 

青砥駅(2021年10月)

 

1992年(平成4年)に新京成線の新鎌ヶ谷駅が完成すると、新京成線との相互直通運転を廃止するとともに、北初富~新鎌ヶ谷間を廃止しました。1995年(平成7年)に千葉ニュータウン中央~印西牧の原間、2000年(平成12年)には印西牧の原~印旛日本医大間を開通しています。

東葉高速線[東葉高速鉄道]

西船橋駅駅名標(2021年11月)

東葉高速線は西船橋~東葉勝田台間を結ぶ東葉高速鉄道の路線です。起点となる西船橋駅は船橋市、終点となる東葉勝田台駅は八千代市にあります。東葉高速鉄道は1981年(昭和56年)に設立され、西船橋~勝田台間の鉄道敷設免許を取得しました。本社は千葉県八千代市に置かれています。1996年(平成7年)に東葉高速線(西船橋~勝田台間)が開通し、地下鉄東西線との相互直通運転を開始しました。設置駅は西船橋、東海神(ひがしかいじん)、飯山満(はさま)、北習志野、船橋日大前、八千代緑が丘、八千代中央、村上、東葉勝田台の9駅となります。

船橋の梨を使った「船橋なしサワー」(2020年6月)

西船橋駅のある船橋市は千葉県においては千葉市に次いで人口の多い自治体であり、梨の生産地としても知られています。千葉県は梨の収穫量や産出額において全国第1位ですが、船橋市はその出荷額が千葉県内第4位となっています。船橋市非公認マスコットキャラクターの「ふなっしー」も船橋市名産となる梨をモチーフとしてつくられたもので、「梨の妖精」という設定だそうです。西船橋駅が開業したのは1958年(昭和33年)であり、比較的新しい駅です。

西船橋駅(武蔵野線/京葉線)駅名標(2021年2月)

1968年(昭和43年)に西船橋駅は総武線の複々線工事により各駅停車(総武緩行線)の駅となり、1978年(昭和53年)には武蔵野線が開業して乗換駅となります。1979年(昭和54年)に北総開発鉄道(現在の北総鉄道)が小室~北初富間を開通させ、1986年(昭和61年)には京葉線の西船橋~千葉みなと間が開通しました。さらに、1996年(平成8年)になると、東葉高速鉄道が西船橋~東葉勝田台間を開通しています。

九州鉄道の設立と解散

▼九州鉄道は1887年(明治20年)に設立された鉄道会社。▼九州で初めて鉄道路線を敷設した。▼九州鉄道記念館(福岡県北九州市)の本館は九州鉄道本社であった建築物であり、2007年(平成19年)に近代化産業遺産、2014年(平成26年)には国の登録有形文化財に登録された。

九州鉄道の社章(2019年1月)

▼九州鉄道は1889年(明治22年)、博多~千歳川停車場(仮駅)間に九州最初の路線を敷設し、この路線は後の鹿児島本線の一部となった。

JR九州813系(2019年10月)

▼1891年(明治24年)、東は門司駅(現在の門司港駅)、南は熊本駅まで延伸し、鳥栖~佐賀間(現在の長崎本線の一部)を開通。▼1896年(明治29年)、熊本駅からさらに南下して八代駅まで延伸。▼1897年(明治30年)に筑豊鉄道を吸収。▼1898年(明治31年)、佐賀~早岐(現在の佐世保線)~諫早(現在の大村線)~長崎間を開通し、鳥栖~長崎間が全通となる。▼さらに伊万里鉄道を吸収。▼1899年(明治32年)、宇土~三角(みすみ)間(現在の三角線/愛称「あまくさみすみ線」)開通。▼1901年(明治34年)に豊州(ほうしゅう)鉄道、1902年(明治35年)に唐津鉄道を吸収。▼九州鉄道は1907年(明治40年)、国有化され、解散する。

JR九州817系(2019年10月)

東金線の歴史と大網駅・東金駅

1.東金線の歴史 2.東金駅

 

東金駅ホーム(2021年4月)


東金線の歴史

東金(とうがね)線は大網(おおあみ)~成東(なるとう)間を結ぶ路線であり、大網、福俵(ふくたわら)、東金、求名(ぐみょう)、成東の5駅のみとなります。その歴史は1900年(明治33年)に房総鉄道が大網~東金間を開業したことにはじまります。1907年(明治40年)に国有化され、1909年(明治42年)に「東金線」と呼称されるようになりました。1911年(明治44年)になると、東金~成東間が延伸開業して全通となります。

 

大網駅に停車する209系車両(2021年4月)

 

大網駅は大網白里市にありますが、大網白里市は2013年(平成25年)より町から市へとなっています。大網駅には現在、外房線と東金線が乗り入れますが、その乗り換えにはホームが離れているため少し時間を要します。

 

外房線の大網駅(2021年4月)


東金駅

東金駅は1900年(明治33年)に房総鉄道が開業しました。1926年(大正15年)になると、九十九里軌道(後の九十九里鉄道)が東金~片貝(後の上総片貝)間を開通させて接続駅となりますが、この路線は1961年(昭和36年)に廃線となっています。

 

東金駅ホーム(2021年4月)

 

道の駅「みのりの郷東金」は東金駅と求名駅の間、求名駅から徒歩15分ほどの場所にあります。東金市の農産物や特産品を販売しており、花木の種類も豊富にあります。

 

道の駅みのりの郷東金(2021年6月)

阿武隈急行線と福島交通飯坂線

1.阿武隈急行線 2.福島交通飯坂線

 

阿武隈急行線と福島交通飯坂線(2020年1月)


阿武隈急行線

「阿武急」と称される阿武隈急行は1984年(昭和59年)に設立された鉄道会社であり、1968年(昭和43年)に開業した国鉄丸森線(槻木~丸森間)を1986年(昭和61年)に継承して「阿武隈急行線」としました。


福島交通飯坂線

福島交通飯坂(いいざか)線は福島~飯坂温泉館を結ぶ路線であり、「飯坂電車」「いい電」とよばれています。

都電荒川線から東京さくらトラムへ

1.都電荒川線(愛称「東京さくらトラム」) 2.向原停留場と8500形・8800形電車

 

都電荒川線の車両(2020年7月)


都電荒川線(愛称「東京さくらトラム」)

都電の全盛期には40路線が運行されていましたが、現在では都電荒川線が東京都に残る唯一の都電となってしまいました。

 

大塚駅前停留場に掲示される荒川線の路線図(2020年7月)

 

都電荒川線は三ノ輪橋~早稲田間を結んでいますが、その停留場は三ノ輪橋、荒川一中前、荒川区役所前、荒川二丁目、荒川七丁目、町屋駅前、町屋二丁目、東尾久三丁目、熊野前、宮ノ前、小台、荒川遊園地前、荒川車庫前、梶原、栄町、王子駅前、飛鳥山、滝野川一丁目、西ヶ原四丁目、新庚申塚、庚申塚、巣鴨新田、大塚駅前、向原、東池袋四丁目、都電雑司ヶ谷、鬼子母神前、学習院下、面影橋、早稲田の30停留場となっています。東京都交通局は2017年(平成29年)、この路線の愛称を「東京さくらトラム」と設定しました。

 

三ノ輪橋駅(2021年6月)


大塚駅前駅

大塚駅前駅(2020年7月)


小台駅

小台駅(2021年6月)


向原駅と8500形・8800形電車

向原(むこうはら)駅は1925年(大正14年)に開業しました。

 

向原停留場(2020年12月)

 

向原の次の停留場は大塚駅前停留場となります。大塚駅前停留場へ向かう軌道はゆっくり右へカーブを切りながら、坂を下っていきます。その坂をローズレッド色を配した8800形電車が下っていきます。

 

8800形電車/ローズレッド(2020年12月)

 

8800形電車は2009年(平成21年)に投入された車両であり、「荒川線の未来を開く、先進性と快適性」をコンセプトとして、丸みのあるスタイルで優しさと親しみやすさをイメージしたデザインとしています。従来の車両と比べて約2割の省エネを実現しており、環境に配慮した車両となっています。車体カラーはバラをイメージしたローズレッドの他、バイオレット、オレンジ、イエローを配した車体があります。

 

8500形電車(2020年12月)

 

8500形電車は1990年(平成2年)に登場した車両であり、都電としては7500形電車以来28年ぶりとなる新型車両です。スマートな外観と快適な乗り心地を実現した車両です。


東池袋四丁目駅

東池袋四丁目駅(2020年7月)

古都を走る地下鉄烏丸線と東西線

1.京都市営地下鉄の開業 2.地下鉄烏丸線 Θ北大路駅Θ Θ国際会館駅Θ 3.小野小町と東西線小野駅 Θ二条城前駅Θ 4.ホームドア

 

京都市営地下鉄開業記念乗車券
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京都市営地下鉄の開業

京都市の「京都観光総合調査」によると、1年間に京都市を訪れる観光客は5,500万人を超えるといいます。長らくこの観光都市の「足」となっていたのはバスでしたが、1981年(昭和56年)に地下鉄が開業し、観光客輸送の一役を担うことになります。

 

京都市交通局横大路車庫(2017年10月)

 

1日における輸送客数をみると、2017年度(平成29年度)においては地下鉄が38万7千人、市バスが36万8千人となっており、地下鉄が市バスを上回っています。

 

京都市交通局横大路車庫(2017年10月)


地下鉄烏丸線

京都市営地下鉄は京都市交通局が運営する地下鉄であり、現在では烏丸線と東西線の2路線を運行しています。京都市営地下鉄のうち、まず1981年(昭和56年)に烏丸線北大路~京都が開業しました。

 

京都市営地下鉄開業記念乗車券
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北大路駅

北大路駅は1981年(昭和56年)の烏丸線開業と同時に起点駅として設置されました。1990年(平成2年)に北山駅まで烏丸線が延伸された際に北大路駅途中駅となりました。

 

北大路橋から南側を見た風景(2016年9月)
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北大路駅には北大路バスターミナルが併設されています。北大路バスターミナルには多くのバス路線が乗り入れ、金閣寺や銀閣寺、清水寺、三十三間堂、上賀茂神社、下鴨神社、詩仙堂、大徳寺などの有名寺社、京都駅および三条京阪や四条河原町などのターミナルへも移動することができます。

 

北大路橋(2016年9月)
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この北大路駅から北大路通を西へ行くと、鴨川を渡る北大路橋に到着します。北大路橋の上からは鴨川の流れとともに、北山や比叡山などの雄姿を望むことができます。

 

北大路橋から北側を見た風景(2016年9月)
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北大路橋を渡り北大路橋東詰から北へ上ると、京都府立植物園、京都コンサートホールがあります。

 

京都コンサートホール(2016年9月)
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その後、1988年(昭和63年)に京都~竹田間を延伸開業し、新田辺駅まで近鉄京都線との相互直通運転を開始しています。

 

北大路・新田辺間直通運転記念乗車券
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1990年(平成2年)になると北大路~北山間、1997年(平成9年)には北山~国際会館間が開業し、烏丸線はさらに北へ延伸されました。

 

五条駅に到着する近鉄電車の車両(2018年4月)

 

国際会館駅

国際会館駅は1997年(平成9年)、北山~国際会館間が延伸された際に開業しました。

 

国際会館駅駅名標(2019年9月)

 

それ以来烏丸線の起点駅となっており、近畿の駅百選にも選定されています。

 

国際会館駅(2019年9月)

 


小野小町と東西線小野駅

小野小町(おののこまち)は平安時代前期に活躍したとされる女流作家です。六歌仙の一人であり、僧正遍昭(そうじょうへんじょう)、在原業平(ありわらのなりひら)、文屋康秀(ふんやのやすひで)、喜撰法師(きせんほうし)、大伴黒主(おおとものくろぬし)と並んで『古今和歌集』の代表的歌人です。

 

花の色は 移りにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに

 

は、小倉百人一首に収録された小野小町の作品の一つです。「いつの間にか花の色もすっかり色褪せてしまいました。そして、私の美しさも花と同じようにこんなにも色褪せてしまいました。降る長雨を眺めているうちに…」という恋心をうたっています。小野小町は歴史上の人物の中でも最も有名な人物の一人ですが、その詳細は明らかにはなっていません。その生誕地でさえも、秋田、福島、熊本など全国各地にその伝承があるといいます。

 

随心院の小野小町歌碑(2019年9月)

 

烏丸線の北山~国際会館間が開業した1997年(平成9年)、東西線の醍醐~二条駅間も開通しています。これにより、烏丸線と東西線は烏丸御池駅で乗り換えることができるようになりました。烏丸御池駅は開業当初は御池駅という駅名でしたが、1997年(平成9年)に烏丸御池駅と改称しています。

 

地下鉄東西線小野駅ホーム(2018年4月)

 

二条城前駅

その烏丸御池駅のすぐ隣は二条城前駅です。

 

二条城前駅ホームにある東西線路線図(2016年9月)
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駅名の通り二条城前駅で下車すると二条城はすぐ目の前です。

 

二条城(2016年9月)
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地下鉄の通路を出て、階段を上がるとすぐに二条城の敷地が見えてきます。

 

二条城(2016年9月)
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二条城のすぐ南にある神泉苑(しんせんえん)は東寺真言宗の寺院です。神泉苑の庭は平安最古の庭園といわれています。

 

二条城南側の神泉苑(2016年9月)
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二条城西側の平安宮式部省跡表示板(2016年9月)
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この年に小野駅も開業していますが、小野」という地名は小野小町に由来するといいます。

 

小野駅ホーム(2018年4月)

 

小野駅から徒歩5分ほどの場所には随心院(ずいしんいん)という小野小町の伝説が残る寺があります。随心院は真言宗善通寺派の大本山であり、992年(正暦2年)に弘法大師の8代目の弟子となる仁海僧正(にんかいそうじょう)が創建しました。

 

 

随心院総門(2019年9月)

 

当時は牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひざんまんだらじ)とよばれましたが、その名は仁海僧正が亡き母が牛に生まれ変わった夢を見て、その牛を誠心誠意世話をしたものの死んでしまい、その牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描いて本尊としたことに由来します。

 

随心院総門(2019年9月)

 

その後、第5世増俊(ぞうしゅん)が牛皮山曼荼羅寺の塔頭(たっちゅう)として随心院を建立しました。

 

史跡随心院境内の碑(2019年9月)

 

第7世親厳のときには後堀河天皇より門跡(もんぜき)の宣旨を受けて門跡寺院となりました。

 

境内へと続く道(2019年9月)

 

門跡寺院とは一般の寺院とは異なり、皇族や貴族がその住職を務める格式高い寺院のことです。

 

境内へと続く道(2019年9月)

 

平安時代中期に編纂された辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』によると、この辺りの地は「宇治郡小野郷」にあたります。

 

庭園・殿舎拝観入口(2019年9月)

 

「小野」は小野一族が栄えた地であり、醍醐天皇陵東には小野寺とよばれる小野一族の氏寺の遺跡が発掘されています。

 

薬医門(2019年9月)

 

『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』によると、小野小町は小野篁(おののたかむら)の孫にあたり、出羽の国司を勤めた良実の娘とされています。

 

薬医門(2019年9月)

 

また、当時の書家であった小野道風(おののとうふう)はいとこにあたるといいます。

 

長屋門(2019年9月)

 

随心院は小野小町の邸宅跡と伝えられています。

 

庫裡長屋門(2019年9月)

 

境内には、美しい小野小町に寄せられた多くの恋文を埋めたとされる文塚や、化粧の井戸などが残されています。

 

境内の化粧の井戸の案内(2019年9月)

 

化粧の井戸はこの邸宅跡に残る井戸ですが、江戸時代後期に刊行された京都地誌『都名所図絵(みやこめいしょずえ)』によると「小野随心院、勧修寺の東なり、曼荼羅寺と号す、又、小町水、門内南の藪の中にあり、此の所は出羽郡領小野良実の宅地にて、女小野小町つねに此の水を愛して艶顔を粧ひし」とあります。

 

化粧の井戸(2019年9月)

 

小野小町は仁明天皇が崩御すると、30歳を過ぎて宮仕えを辞し、朝夕にこの水で化粧をこらしたといいます。

 

化粧の井戸(2019年9月)

 

また、随心院は今では梅が美しい寺としても有名です。その梅が美しい3月末には、当時の小野小町を慕う深草少将の悲恋伝説をテーマとした「はねず踊り」が披露されます。

 

化粧の井戸(2019年9月)

 

はねず」とは薄紅色のことであり、梅の花の色にちなみます。

 

化粧の井戸(2019年9月)

 

謡曲「通小町」の前段には、深草少将が小野小町のもとに百夜通ったという伝説が残ります。当時、小野小町は先の化粧の井戸の近くに住んでいました。小野小町に募る思いを伝えたく訪ねてきた深草少将に対して、小野小町は冷たかったといいます。

 

随心院の前の通りにある化粧橋の案内(2019年9月)

 

深草少将は「あなたの心が解けるまで幾夜でも参ります。今日は第一夜です」とし、その証に門前に榧(かや)の実を出しました。その後、随心院に通いつめて九十九日目の雪の夜、疲れ果てて門前に辿り着いた深草少将は、99個目の榧の実を手にしたまま倒れこんでしまったということです。

 

化粧橋(2019年9月)


ホームドア

現在においてはバリアフリーやホームドアは必須ですが、京都市営地下鉄は開業当時から主要駅にエレベーターを設置したり、フルスクリーンタイプのホームドアを設置したりと先進的な地下鉄であったといえます。

 

フルスクリーンタイプホームドア(2016年9月)
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京都市営地下鉄フルスクリーンタイプホームドア(2016年9月)

武蔵野線の歴史と武蔵野線の各駅

1.武蔵野線 2.府中本町駅 3.西国分寺駅 4.新秋津駅 5.新座駅 6.北朝霞駅

 

府中本町駅に停車する武蔵野線の車両(2020年7月)


武蔵野線

「山手貨物線」は山手線の品川~新宿~田端間と並行して走る線路の通称であって、現在では埼京線や湘南新宿ラインの電車が走る線路となっています。

 

埼京線・湘南新宿ラインの新宿駅駅名標(2020年7月)

 

武蔵野線は、その山手貨物線を補完するための路線として計画されたものであり、1973年(昭和48年)に府中本町~新松戸間が開業しました。開業当初より貨物列車・旅客列車の両方の営業をはじめ、1978年(昭和53年)には新松戸~西船橋間が延伸開業しました。その後、1988年(昭和63年)に京葉線の市川塩浜~西船橋間が開業すると、武蔵野線はこれへの乗り入れを開始し、また1990年(平成2年)に京葉線の東京~新木場間が開業すると、府中本町~新松戸~西船橋~東京間において旅客列車の直通運転が開始されました。

 

新秋津駅に到着する武蔵野線の車両(2020年3月)

 

したがって、旅客列車が走る武蔵野線の区間は府中本町~西船橋間ということになりますが、「武蔵野南線」とよばれる鶴見~新鶴見信号場~府中本町間も武蔵野線の一部であり、ほぼ貨物列車のみが走ります。この鶴見~府中本町間28.8キロのうち17.6キロが地下線となっています。

 

新秋津駅に停車する武蔵野線の車両(2020年3月

 

また、武蔵野線には国立支線(新小平~国立間)、大宮支線(西浦和~与野間)、西浦和支線(西浦和~別所信号場間)、北小金支線(南流山~北小金間)、馬橋支線(南流山~馬橋間)があり、これらの支線から中央本線、東北本線、常磐線へ連絡しています。

 

府中本町駅に停車する武蔵野線の車両(2020年7月)


府中本町駅

府中本町駅は南武線の所属駅となっていますが、武蔵野線旅客列車の起点駅となっています。この駅より南は通称「武蔵野南線」ともよばれていて、貨物線(鶴見~府中本町間)となっています。

 

府中本町駅に停車する武蔵野線の窓から見える南武線の車両(2020年7月)

 

南武鉄道が1928年(昭和3年)に大丸(現在の南多摩)~屋敷分(現在の分倍河原)間が開通した際に、府中本町駅は開業しています。

 

南武線の府中本町駅駅名標(2020年7月)

 

1973年(昭和48年)には武蔵野線の府中本町~新松戸駅が開通し、2路線の乗り入れ駅となりました。

 

府中本町駅の南武線・武蔵野線の乗り換え通路(2020年7月)


西国分寺駅

西国分寺駅中央本線の所属駅となっていますが、1973年(昭和48年)の武蔵野線開通と同時に国鉄の駅として開業しました。

 

西国分寺駅駅名標(2020年8月)


新小平駅

新小平駅(2021年1月)


新秋津駅

新秋津駅は1973年(昭和48年)、国鉄の駅として開業しました。この新秋津駅からは西武鉄道の所沢方面への連絡線が敷設されています。

 

新秋津駅駅名標(2020年3月)


新座駅

新座駅は1973年(昭和48年)、国鉄の駅として開業しました。

新座駅(2020年8月)


北朝霞駅

北朝霞駅は1973年(昭和48年)、国鉄の駅として開業しました。1974年(昭和49年)には東武東上線の朝霞台駅が開業し、乗換駅となっています。

北朝霞駅駅名標(2020年8月)


吉川美南駅

吉川南駅(2022年7月)


松戸駅

東松戸駅(2021年10月)

つくば駅[TX]/筑波駅[筑波鉄道]

つくば駅駅名標(2018年8月)

つくば市は茨城県南部に位置する市であり、1960年代から筑波研究学園都市として開発されてきましたが、それ以前は筑波のまちは田畑が広がる見渡す限りの田園地帯でした。

遊食伊太利庵「藤右エ門」(2020年9月)

首都・東京の過密が問題となり首都機能の一部を筑波山麓へと移転させるというプロジェクトが1963年(昭和38年)よりスタートしました。当初の移転先候補地は筑波山麓、那須高原、富士山麓の3か所でしたが、最終的に筑波山麓に決定しました。

コート・ダジュールのお菓子(2022年4月)

 新たに開発された研究学園都市を広く知らしめる狙いとして、1985年(昭和60年)に国際科学技術博覧会(通称「科学万博」「つくば万博」など)が開催され、世界に「科学のまち、世界のTUKUBA」がアピールされました。

つくば饅頭(2018年8月)

当然ながら当時は、つくばエクスプレスは開業しておらず、「つくば万博」の窓口となったのは常磐線の牛久駅~荒川沖駅間に臨時駅として設置された万博中央駅でした。

牛久大仏(2021年11月)

万博終了後、万博中央駅は廃止となりましたが、その跡地に1998年(平成10年)、「ひたち野うしく駅」として復活を果たしています。

筑波実験植物園/クレマチス(2023年5月)

つくば市は1987年(昭和62年)、谷田部町・大穂町・豊里町・桜村の3町1村が合併してつくば市が誕生しました。その後、筑波町、茎崎町を編入して現在の市域となっています。その中心地は2005年(平成17年)につくばエクスプレスが開業して以来つくば駅となっています。つくば駅茨城県内で初めての、そして茨城県内唯一の地下駅となっています。

つくば駅への入口(2018年8月)

つくば駅開業に先立ち、1985年(昭和60年)には現在のつくば駅の場所に周辺の路線バスの発着地となる「つくばセンター」が交通の拠点として設置されています。つくば駅開業後も路線バスの停留所名は「つくばセンター」と称されています。

筑波山口バスターミナルに掲示されるバス運行路線図(2017年8月)

つくば駅の駅ビル的な存在が「つくばクレオスクエア」でしたが、運営会社が変わり2021年(令和3年)に「トナリエつくばスクエア」としてリニューアルオープンしました。

トナリエつくばスクエア(2021年6月)

この「駅ビル」の中核店舗となっていた西武百貨店とイオンはすでに閉店しており、現在の「つくばクレオスクエア」はCREO(クレオ)、MOG(モグ)、Q’t(キュート)の3部分からなっています。

正面:CREO/右:MOG/左:Q’t(2021年6月)

つくば駅のA2出口を出ると、つくば中央公園があります。園内には緑が多くあり、休日をのんびり過ごすにはとても素敵な公園です。広場では、さまざまなイベントが行われることもあります。

つくば中央公園(2019年11月)

公園には、さくら民家園、水の広場、市民ギャラリー、図書館、美術館、つくばエクスポセンターが隣接します。さくら民家園には、旧桜村にあった伝統的古民家を移築し、納屋などが一般公開されています。

さくら民家園(2020年2月)

水の広場は噴水を中心として、深さ約10センチの水遊び場があります。レストハウスの一角は市民ギャラリーとなっていて、文化・芸術活動に利用されます。

ライトアップされるエクスポセンター(2019年12月)

文化会館アルスは、講演会や映画会・コンサートなどに利用される多目的ホール「アルスホール」やつくば市立中央図書館、茨城県つくば美術館、ミュージアムショップ、カフェからなります。

つくばエクスポセンター(2019年11月)

つくばエキスポセンターは1985年(昭和60年)に開催された国際科学技術博覧会(科学万博―つくば’85)を記念する恒久施設として建設されたものです。博覧会終了後、科学館としてオープンし、プラネタリウムがある他、屋外施設としてH-Ⅱロケット実物大模型が展示されています。

H-Ⅱロケット実物大模型(2019年11月)

つくば駅A1出口より、つくば中央公園を抜けて、徒歩15分ほどの場所に松見公園があります。松見公園内には栓抜きのような形をした展望塔があります。展望塔は高さ45メートルあり、筑波山やつくばの町並みなど360度のパノラマが楽しめます。

松見公園(2022年4月)

松見公園は1976年(昭和51年)に開園した公園であり、日本庭園の美しさをもつ回遊式庭園があります。池を泳ぐ多数の鯉には園内で販売しているエサをあげることもできます。

松見公園の池(2022年4月)

松見公園内には桜の木もあり、春には花見を楽しむこともできます。

園内の枝垂れ桜(2022年4月)

つくば市内の駅としてはかつて「筑波駅」がありましたが、その筑波駅つくばエクスプレスつくば駅の所在地は大きく離れています。筑波駅は筑波山の麓にあった筑波鉄道の駅であり、1987年(昭和62年)に廃止となっています。

筑波駅跡(2017年8月)

筑波駅は、つくば駅が開業する前の時代にはこの辺りの主要駅であり、筑波山への玄関口として多くの観光客が乗降しました。

旧筑波駅ホーム(2017年8月)

筑波駅つくば駅から20キロほど離れた場所にあり、車で30分ほど走らなければなりません。つくば駅からは筑波山口行きのバスに乗って、終点で下車すれば筑波駅があった場所に到着します。

筑波山シャトルバス路線図

筑波駅があった場所には「つくばりんりんロード」の休憩所が置かれていて、ホームの一部が活用されています。

旧筑波駅付近の廃線跡「つくばりんりんロード」(2017年8月)

旧筑波駅駅舎は現在、関東鉄道つくば北営業所として利用されています。

旧筑波駅駅舎で営業を続ける関東鉄道つくば北営業所(2017年8月)

また、関東鉄道つくば北営業所前の筑波山口バスターミナルは現在も営業を続けており、複数の路線バスが発着します。

筑波山口バスターミナル(2017年8月)

「東洋唯一の地下鉄道」だった銀座線

東京の玄関口となる東京駅(2019年3月)

1.鉄道車両の個性
2.浅草寺

▼銀座線(浅草~渋谷間)

浅草
∇田原町
∇稲荷町
上野
∇上野広小路
∇末広町
∇神田
∇三越前
∇日本橋
∇京橋
∇銀座
新橋
∇虎ノ門
∇溜池山王
∇赤坂見附
∇青山一丁目
∇外苑前
∇表参道
∇渋谷


鉄道車両の個性

鉄道の世界における科学技術の進展は目覚ましく、より速く安全に目的地へと私たちを運んでくれるようになりました。また、サービスが向上した他、列車も洗練されたデザインへと進化を遂げています。しかしながら、日本各地どこへ行っても同じ車両が走り、駅舎も近代的な建物へと変わりつつあり、鉄道が画一化されていくという一面もあります。

新宿駅に停車する京王線の車両(2020年6月)

特に都心部の電車においては、かつてはさまざまな色に塗装されてカラフルだった車両が、シルバー色の車体にラインテープを貼っただけというような車両がきわめて多くなっています。それぞれの路線の車両に個性がなくなってしまったといえばそれまでですが、こうした車両の多くはステンレス製やアルミ製であり、錆びにくいという特徴をもっています。

東京メトロ副都心線・有楽町線の車両(2020年6月)

一方、従来の鋼鉄製の車両は錆びやすいという特徴があるため、塗装をして錆びを防ぐという目的があったため、個性的でカラフルだったということもできます。また、鋼鉄製の車両は錆びることを想定して鉄板を厚くしているため、それなりに重量があり、走行させるためのエネルギーもそれなりに必要ということになります。こうした理由から、塗装された鋼鉄製の車両からステンレス製やアルミ製の車両へと置き換えが進み、結果的に車両が画一化されてしまったともいえます。

東京駅に到着する上野東京ラインの車両(2019年3月)

その一方で、車両の個性を復活させようとする動きもあります。たとえば、東京メトロ1000系は、すでに車体の塗装設備を廃止していた東京メトロが2012年(平成24年)に車両の色付けを復活させた車両です。この車両は塗装によるものではなく、カラーフィルムをラッピングすることによるものです。鮮やかな黄色を基調とした東京メトロ1000系が銀座線に投入され、この車両は2013年(平成25年)に地下鉄車両として初めてのブルーリボン賞を受賞しています。


東京メトロ銀座線

1927年(昭和2年)の開業当時「東洋唯一の地下鉄道」のキャッチコピーが用いられた銀座線は、日本で最初の本格的な地下鉄路線です。浅草上野間が最初に開通しました。


浅草寺

銀座線の起点となる浅草駅の最寄りには、東京の最もメジャーな観光地となる浅草寺があります。浅草寺は東京都内最古の寺であり、推古天皇の時代に仏像を安置したことにはじまります。そのアクセスには銀座線の他、東武スカイツリーライン浅草駅、つくばエクスプレス浅草駅、都営浅草線浅草駅などが便利です。

雷門(2019年10月)

浅草のシンボルでもある「雷門」はその浅草寺の総門であり、正式名称を「風雷神門(ふうらいじんもん)」といいます。雷門を抜けると「小舟町」の大きな提灯が見えますが、この提灯が架かっているのは宝蔵門です。

小舟町の提灯が見える(2019年10月)

この門ははじめ、仁王門とよばれていましたが、浅草寺の宝物収蔵庫となっていたため宝蔵門とよばれるようになりました。さらに進んで「志ん橋」の大きな提灯が掛かるのは浅草寺の本堂です。

浅草寺本堂(2019年10月)

「志ん橋」は「しんばし」と読みますが、これは「新橋」を意味します。浅草からは距離が離れている「新橋」の提灯が飾られるのは、江戸時代に新橋の人々が浅草寺に提灯を奉納したからです。

浅草のまちの風景(2019年10月)

江戸時代の新橋の人々は当時、遊興地として栄えていた浅草には数多くの人が訪れていたため、「新橋」の名の提灯が掛けられれば宣伝効果が大きいと考えました。

浅草のまちの風景(2019年10月)

浅草のまちは浅草寺のような寺社の他、古くから受け継がれてきた伝統的な文化や、そうした文化を大切に守ってきた老舗が数多くあり、外国人だけではなく日本人にも人気と観光地となっています。

浅草のまちの風景(2019年10月)

片町線の歴史とJR東西線の誕生

1.片町線(愛称「学研都市線」)とJR東西線 2.鴫野駅 3.京田辺駅とC11形タンク機関車 4.下狛駅

 

京田辺駅前のC11形タンク機関車動輪(2019年5月)


片町線(愛称「学研都市線」)とJR東西線

片町線は木津~京橋間を結ぶ路線であり、1988年(昭和63年)にはその愛称を「学研都市線と設定しています。1997年(平成9年)に尼崎~京橋間を結ぶJR東西線が開業し、片町線(愛称「学研都市線」)JR東西線福知山線JR神戸線東海道本線山陽本線)との直通運転を実施しています。正式名称である「片町線という名は廃止となっていませんが、現在では駅などにおいて「片町線と案内されることはほとんどありません。

新しい鴫野駅改札口(2019年2月)

JR東西線はその路線名に唯一「JR」を冠する路線です。法人登記においてはアルファベットを付することはできませんが、鉄道の線路名称についてはこのような決まりはありません。たとえば、「西日本ジェイアールバス」「ジェイアールバス関東」は法人登記の制約を受けており、カタカナによる社名となっています。

JR東西線はJR西日本が第二種鉄道事業者となってその運行をしています。第二種鉄道事業者とは自らが敷設した以外の鉄道施設を使用し、旅客または貨物運送を行う事業者のことです。すなわち、JR東西線の鉄道施設はJR西日本の所有物ではなく、第三セクターである関西高速鉄道ものということになります。たとえば、関西高速鉄道がビルのオーナーだとすると、JR西日本がそのテナントということになります。このような形式を上下分離方式といいます。この形式を採用するメリットとしては、本来ならば鉄道施設を建設するにあたっては莫大な資金が必要となりますが、公的資金を投入することができるようになるため借金をしなくてよいということがあげられます。

JR東西線を保有する関西高速鉄道は1988年(昭和63年)に設立された鉄道会社であり、大阪府​・​大阪市​・JR西日本・​兵庫県​など143社が出資する第三種​鉄道事業者​です。なお、関西高速鉄道なにわ筋線建設計画においても事業主体となることが予定されており、総事業費3,300億円(想定)のうち2割(660億円)がその出資金となります。このうち、地方出資分50%は大阪府(25%)・大阪市(25%)で負担し、民間出資分50%はJR西日本(22%)・南海電気鉄道(28%)で負担することになります。


鴫野駅

鴫野駅は1932年(昭和7年)、国鉄時代に片町線(愛称「学研都市線」)鴫野信号場として開設し、1933年(昭和8年)に鴫野駅となっています。

おおさか東線乗り入れ1か月前となり工事が進む鴫野駅(2019年2月)

1962年(昭和37年)に高架駅となりますが、片町線(愛称「学研都市線」)では初めて高架化された駅となりました。

おおさか東線乗り入れ1か月前となり工事が進む鴫野駅(2019年2月)

2006年(平成18年)には地下鉄今里筋線が開通して鴫野駅が設置され、乗換駅となりました。

鴫野駅周辺の様子(2019年2月)

2011年(平成23年)よりおおさか東線乗り入れのための工事が開始され、2019年(平成31年)におおさか東線乗り入れが開始されました。

鴫野駅周辺の様子(2019年2月)


京田辺駅とC11形タンク機関車

1894年(明治27年)に四条畷~木津間が城河鉄道として認可された後、浪速鉄道がこれを買収して片町~四条畷間を開通しました。さらに、1898年(明治31年)には関西鉄道が片町~新木津(現在は廃止)を開通しています。京田辺駅付近の当時の様子は野原でしたが、1898年(明治31年)に駅前に新しい道を設置して田辺駅(現在の京田辺駅)として開業し、鉄道開通大祝賀会が催されました。同年、関西鉄道は新木津(現在は廃止)~木津間を開通して片町線(愛称「学研都市線」)が全通となり、木津駅は関西鉄道と奈良鉄道の接続駅となりました。

 

京田辺駅ホーム(2019年4月)

 

その当時使用された機関車はイギリス製のタンク機関車でしたが、C11形タンク機関車は1932年(昭和7年)~1946年(昭和21年)にかけて381両も製造された国産の代表的タンク機関車です。これはC10形を改良したものであり、近郊線および支線、短距離列車の運行用機関車として重用されました。C11形タンク機関車は1943年(昭和18年)頃には11両が製造されていましたが、この11両は片町~木津間の貨物列車および四条畷~木津間の客車列車として活躍しました。

 

京田辺駅前のC11形タンク機関車動輪(2019年5月)

 

1951年(昭和26年)に客車列車はディーゼルカーに取って代わられることになりますが、C11形タンク機関車は1972年(昭和47年)まで貨物列車を牽いて活躍しました。田辺駅(現在の京田辺駅)は1997年(平成9年)に京田辺駅と改称されましたが、現在では前にこの機関車の動輪と番号札が保存展示されています。


下狛駅

近鉄京都線狛田駅の改札口は駅の西側にありますが、これを出て徒歩5分とかからずJRの下狛に到着します。

下狛駅入口(2018年10月)

下狛駅は1952年(昭和27年)に祝園(ほうその)駅~田辺駅(現在の京田辺駅)間に新設開業しています。

下狛駅ホーム(2017年4月)

下狛駅は無人駅となっています。

下狛駅ホーム(2017年4月)

筑波山の麓をめぐる筑波線の廃線跡

1.筑波線 Θ軽便鉄道Θ

 

筑波線(筑波鉄道)路線図〔廃線時〕


筑波線

筑波線筑波山の麓を走る路線であり、かつて土浦~筑波~岩瀬間を結んでいました。

 

筑波山麓(旧上大島駅付近)の町並み(2017年8月)

筑波駅跡(2017年8月)

 

筑波線を開業した筑波鉄道は1914年(大正3年)に設立されましたが、それに先立ち1911年(明治44年)に土浦~岩瀬間を結ぶ軽便鉄道の免許を取得しています。

 

旧筑波駅付近の廃線跡「つくばりんりんロード」(2017年8月)

 

軽便鉄道

一般的な鉄道よりも線路の幅が狭く、小型の車両を使用するような鉄道を軽便鉄道といいます。かつてはわが国にも、主要駅と小さな集落を結ぶ軽便鉄道が数多く存在しました。大正時代には100路線ほど、昭和30年代にも60路線ほど存在しましたが、昭和50年代までにはそのほとんどが廃線となりました。

 

旧筑波駅ホーム(2017年8月)

 

 

筑波山口バスターミナル(2017年8月)

 

軽便鉄道は自動車の普及していなかった時代に荷物の運搬用などとして設置されたものです。普通の鉄道に比べるとレール軌間が狭く、簡易的な鉄道といえます。工事用軌道、森林鉄道、炭鉱鉄道などがその一例となります。

 

筑波山麓(旧上大島駅付近)の町並み(2017年8月)

 

軌間とは、2本のレールにおいて1本のレールともう1本のレールの間のことをさし、レールゲージともいいます。世界的には標準軌間は1,435ミリとなっており、これより広い場合を広軌、狭い場合を狭軌としています。日本の場合は明治時代に1,067ミリが標準軌間とされましたので、これより狭い場合を狭軌とよんでいます。

 

筑波鉄道の旧筑波駅ホーム(2017年8月)

 

当初の計画では真壁を経由して下館へ至る計画でしたが、岩瀬へ至る路線へと変更され、1918年(大正7年)に土浦~筑波真壁岩瀬間が開業しました。

 

旧筑波駅ホーム(2017年8月)

 

筑波鉄道は1945年(昭和20年)、現在の常総線となる路線をかつて運行していた常総鉄道と合併して常総筑波鉄道となります。さらに、1965年(昭和40年)には常総筑波鉄道が鹿島参宮鉄道と合併して関東鉄道となっています。また、関東鉄道は1979年(昭和54年)に筑波鉄道を設立し、筑波線をこれに譲渡しました。

 

そして、1987年(昭和62年)4月1日、国鉄が分割民営化された同日に筑波線全線が廃止となりましたが、この廃止当時の駅数は18駅でした。その18駅は、土浦、新土浦、虫掛、坂田、常陸藤沢、田土部、常陸小田常陸北条筑波、上大島、酒寄、紫尾、常陸桃山、真壁、樺穂、東飯田、雨引岩瀬です。現在では筑波線の廃線跡は自転車道「つくばりんりんロード」として整備されています。

 

筑波休憩所(旧筑波駅)に立つ案内板(2017年8月)

 

さらに、この「つくばりんりんロード」(40キロ)に加えて、霞ヶ浦を周回する湖岸道路140キロ(霞ヶ浦湖岸道路)を合わせて「つくば霞ヶ浦りんりんロード」とよんでいます。

 

筑波駅石碑に記される「つくばりんりんロード」の文字(2017年8月)

旧筑波駅ホーム(2017年8月)

つくばエクスプレス[首都圏新都市鉄道]

北千住駅から出発するつくばエクスプレス「秋葉原行き」(2022年3月)

首都圏新都市鉄道は、建設以前には「常磐新線」とよばれたつくばエクスプレスを運行する鉄道会社です。正式路線名は建設以前の名称である「常磐新線」となっていますが、ホームや車内などの列車案内上ではまったく使用されておらず、「つくばエクスプレス」と呼称されています。

TX-3000系(2020年3月)

1991年(平成3年)に首都圏新都市鉄道が設立され、2005年(平成17年)に秋葉原~つくば間58.3キロを開業しています。全区間の内訳を見ると、東京都13.2キロ(千代田区・台東区・荒川区・足立区)、埼玉県7.4キロ(八潮市・三郷市)、千葉県13.5キロ(流山市・柏市)、茨城県24.2キロ(守谷市・つくばみらい市・つくば市)となっています。

霞ヶ浦より遠くに見える筑波山(2022年2月)

全区間において時速130キロの高速運転を実現し、最速列車はこれを45分で結びます。東京都心とつくばを直線でつないでいる他、全区間が高架線または地下鉄線(全区間58.3キロのうち地下区間は16.3キロ)となっていて踏切がないことが大きな理由となっています。

秋葉原駅に停車する区間快速「つくば行き」(2019年4月)

つくばエクスプレスの始点となる秋葉原駅ホームは地下深い場所にあります。たとえば、JR線からつくばエクスプレスに乗る場合、何度となくエスカレーターの乗り換えを余儀なくされ、本当にホームに着くのだろうかと感じるくらい地下深くへともぐっていかなければなりません。

秋葉原駅駅名標(2019年4月)

鉄道のレール幅のことを軌間とよんでいますが、日本の場合にはその幅1,435ミリの標準軌と1,067ミリの狭軌が主流となっています。つくばエクスプレスの場合には狭軌を採用しており、JRの在来線や地下鉄の多くの路線、首都圏の多くの私鉄と同じ軌間となっています。標準軌を採用しているのは、新幹線、東京メトロ銀座線、東京メトロ丸ノ内線、都営大江戸線、都営浅草線、京浜急行電鉄、京成電鉄などとなっています。

TX&関鉄自由帳(非売品)

1923年(大正12年)に東京の有力者たちのグループが東京と茨城を結ぶ鉄道敷設の許可を申請しますが、翌年に却下されてしまいます。しかし、その後再度申請をして1928年(昭和3年)に日暮里~筑波山間を結ぶ鉄道敷設免許を取得しました。

母子島遊水地から見る筑波山(2022年1月)

これを受けて筑波高速度電気鉄道(筑波高速)を設立し、1929年(昭和4年)には上野~日暮里間の鉄道敷設免許も取得しました。この路線は現在のつくばエクスプレスのルートと類似していますが、上野、日暮里、八幡、彦成、早稲田、流山、田中、守谷、小張、谷田部、葛城、大穂、新北条、筑波山14駅の設置を予定しており、1時間30分でこれを結び、1日24往復の運行を想定していたといいます。

つくば駅の地上(2018年8月)

さらには、梅島(東京都足立区)付近から分岐して松戸へと延びる支線も計画しており、1929年(昭和4年)に松戸支線の鉄道敷設免許も取得しています。

東京スカイツリーライン梅島駅(2022年6月)

当時の鉄道省の調査においてもこうした路線の敷設における効果が高く評価されていました。しかしながら、新設路線の近くを走る筑波鉄道および流山鉄道(現在の流鉄)への影響が懸念されるということから、その免許取得には両社から合併や買収が求められた際には拒否することができないとの条件が付されました。

流鉄流山線の車両(2020年8月)

当時の筑波高速度電気鉄道(筑波高速)は全線を電化して高速列車を運行する予定にしていましたが、地磁気観測所(茨城県石岡市)の存在が鉄道敷設にあたっての障害となります。令和時代を迎えた現在においても、石岡市の気象庁地磁気観測所は地球磁気・地球電気に関する観測を実施しています。直流電気を流すと磁場が発生するため、磁気を測定する場所の付近ではその観測に悪影響を及ぼします。

つくば駅に停車するつくばエクスプレスの車両(2019年10月)

そこで、実験上の制約により人為的な電流を流すことを避けなければならないとの立場から、当時の逓信省は電気事業経営に関する申請を行った筑波高速度電気鉄道(筑波高速)に対して、谷田部以北での免許を認めませんでした。これにより、流山筑波山間の路線敷設が暗礁に乗り上げてしまうことになります。

つくば駅に停車する「秋葉原行き」(2018年8月)

この問題については、筑波高速度電気鉄道(筑波高速)のみの問題ではなく、土浦~谷田部間の路線敷設を予定していた常南電気鉄道や、水戸~石岡間の路線敷設を予定していた水戸電気鉄道についても大きくのしかかってくることになります。

車両に描かれるTXのシンボルマーク(2018年8月)

結果的に問題の解決には至らず、筑波高速度電気鉄道(筑波高速)は京成電気軌道(現在の京成電鉄)に吸収されることになります。現在の京成電鉄のターミナル駅となる京成上野駅は筑波高速度電気鉄道(筑波高速)の遺産ともいえます。後に京成電鉄はこの免許を使用して1931年(昭和6年)に青砥~日暮里間、1933年(昭和8年)に日暮里~上野間を開通させています。一方、茨城方面への免許は失効しています。

京成日暮里駅ホーム(2022年5月)

後に国鉄は常磐線の電化工事に着手し、1961年(昭和36年)から上野~勝田間での電車運転を実現しています。先の地磁気観測所の問題を解決するために、取手以北については交流電化としています。

我孫子駅に停車する常磐線の車両(2021年6月)

直流電流を流すと磁場が発生してその観測に悪影響を及ぼすということから、国鉄はこのような対策をとったということになります。国鉄は取手以北を交流電化としたため、都心から取手以北へ行くためには交直流電車が必要となります。しかしながら、交直流電車は高価であることから、国鉄にとっては常磐線による輸送力増強が結果的に遅れてしまうことになりました。

交直流電車TX-3000系(2021年10月)

この地磁気観測所の問題はつくばエクスプレスの建設にも持ち越されることになります。つくばエクスプレスにおいても、みらい平駅(茨城県つくばみらい市)以南は直流電化(直流1500ボルト)、みらい平駅(茨城県つくばみらい市)以北は交流電化(交流20キロボルト)となっています。

新型車両TX-3000系ロングシートの透明仕切板(2020年3月)

実際に、つくばエクスプレスに乗車して守谷~みらい平間を走行しているとき、車内の路線図の表示灯が一瞬停止してしまう場所があります。この区間に交流・直流の切り替えのデッドセクションが置かれているため、このような現象が起こることになります。ただ、最近の車両はデッドセクションを通過しても、あまりそうしたことを感じないことがほとんどです。

TX-2000系セミクロスシート(2017年8月)

つくばエクスプレスでは合理化と省力化によりワンマン運転を実現していますが、このワンマン運転に加えて、自動列車制御装置(ATC)・自動列車運転装置(ATO)を備える高性能車両および最先端の基盤整備により高速運転を達成することができているといえます。

つくば駅に停車するつくばエクスプレスの車両(2019年10月)

自動列車制御装置(ATC)は、列車の衝突や脱線事故を未然に防いで運転を安全にサポートする装置のことであり、線路の曲線や勾配および先行列車との距離などの情報を常に受信し、列車が定められた速度を超過した場合には自動的にブレーキが作動することにより、安全を保ちます。

新型車両TX-3000系の車内(2020年3月)

自動列車運転装置(ATO)は、乗務員が乗降客の確認を実施した後、ドア操作により車両ドアと可動式ホーム柵を閉じると、乗務員は運転席の出発ボタンを操作します。これにより、次の停車駅まで定められた運転パターンにしたがって、列車の発進、加速、減速、停止について自動運転を行います。複数の列車種別をもち、時速130キロの高速運転を行う線区でATO運転を採用したのは、つくばエクスプレスが日本で初めてということになります。

つくばエクスプレス守谷止最終電車(2016年12月)

2005年(平成17年)の開業当初より運行する車両にはTX-1000系とTX-2000系があります。TX-1000系直流電車となっており、先の地磁気観測所の問題があるために秋葉原~守谷間の走行に限定されます。車両前面のガラスはV字形をしていて、高速走行を実現する列車の雰囲気を醸し出しています。車両番号を表す色は青色となっています。

TX-1000系(2021年6月)

TX-2000系秋葉原つくば全区間を走行できる交直流電車となっています。外観はほとんどTX-1000系と同じですが、パンタグラフが1両あたりTX-1000系は3か所、TX-2000系は4か所となっています。また、車両番号を表す色は赤色となっています。

TX-2000系(2018年8月)

TX-2000系のうち2008年(平成20年)以降に製造された車両は車両前面にも赤い帯が付されています。TX-2000系秋葉原つくば間の長距離運転となるため、中間車両にはセミクロスシートが設けられている車両があります。

TX-2000系セミクロスシート(2017年8月)

また、TX-2000系にはクロスシート以外にもロングシートの車両も連結されています。車両の長手方向に配置された座席をロングシートといい、この座席の場合は車両の左右側窓を背にして座ることになります。都市部の通勤車両や地下鉄の車両、車幅の狭い路面電車などに採用されています。

TX-2000系ロングシート(2018年8月)

TX-3000系は2020年(令和2年)に登場した交直流電車であり、これまでの車両で用いられてた赤色と青色が配色されています。

TX-3000系(2020年3月)

TX-1000系およびTX-2000系よりも車両前面のガラスの傾斜を急にし、ライトの形も細長形へと変化させており、より高速運転をする実現する車両のイメージを醸し出しています。

TX-3000系の優先席付近の様子(2020年3月)

都営地下鉄大江戸線

大江戸線は東京都交通局が運行する地下鉄路線の一つであり、一般的に「都営大江戸線」と称されます。「都庁前~飯田橋~新御徒町~門前仲町~大門~六本木~都庁前」とめぐる環状部分と、都庁前から尻尾のように「都庁前~東中野練馬光が丘」と西へ延びる部分から構成され、山手線大阪環状線のような環状運転ではなく「6の字型運転」となっています。

 

飯田橋駅駅名標(2020年6月)

 

その歴史は1991年(平成3年)に光が丘練馬間が開業したのを皮切りとして、1997年(平成7年)に練馬~新宿間、2000年(平成12年)に新宿~国立競技場間、さらに同年残りの部分がすべて開業して全通となっています。将来的な延伸構想もあり、光が丘より大泉学園を経由して東所沢へ到達し、武蔵野線とののりかえを可能にするという計画もあります。