京都線[近畿日本鉄道]

投稿者: | 2019-03-26

奈良電気鉄道(奈良電) 奈良電気鉄道(奈良電)は後に、現在の近鉄京都線となる路線を敷設した鉄道会社ですが、1963年(昭和38年)に近畿日本鉄道に合併されています。奈良電気鉄道(奈良電)が路線を敷設する以前、奈良鉄道が1895年(明治28年)に京都~伏見間を開通させています。 澱川橋梁を渡る近鉄特急(2019年8月) 奈良鉄道の路線は現在の近鉄京都線と同じルートですが、奈良電気鉄道奈良鉄道は同じ鉄道会社ではありません。奈良電気鉄道が設立されたのは1925年(大正15年)ですが、奈良鉄道が設立されたのはそれよりもずっと以前の1893年(明治26年)のことです。この奈良鉄道の路線は1895年(明治28年)、当時の奈良鉄道伏見駅から市街地を通って桃山駅(現在のJR桃山駅)まで延伸された後、翌1896年(明治29年)には伏見~木津間(現在のJR奈良線)を開業しています。 JR桃山駅(2016年9月) img_1311 奈良鉄道は1905年(明治38年)に関西鉄道に譲渡された後、1907年(明治40年)には国有化されてこの路線は国鉄奈良線(現在のJR奈良線)となりました。国有化された国鉄奈良線(旧奈良鉄道/現在のJR奈良線)は単線であり、しかも1日に12往復しか運行されず、京都~奈良間の所要時間は1時間30分もかかっていたといいます。 JR奈良線のJR藤森駅~桃山駅間(2018年4月) こうした中、第一次世界大戦における好況期を迎えると鉄道敷設の要望は高まり、これを契機として1919年(大正8年)に奈良電気鉄道が発足しました。奈良電気鉄道は京阪電気鉄道の中書島駅と大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)の奈良駅を結ぶ鉄道路線敷設の免許申請を行いましたが、この路線は伏見,向島,小倉,大久保,寺田,富野荘,田辺,三山木,狛田,祝園,木津を経由するルートとなっていました。 狛田駅付近を走行する近鉄特急(2020年6月) その一方で、新たに設立された関西電気軌道(現在の近畿日本鉄道)が奈良を起点として、木津,田辺,宇治を経由して七条に到達する鉄道路線敷設の免許申請を行ったため、両社が競合する形となってしまいました。折りしも第一次世界大戦は終戦して経済情勢が悪化したため、京都府と奈良県の勧めにより協議の上で両社は合併することとなり、関西電気軌道(現在の近畿日本鉄道)は免許申請を取り下げて会社を解散しました。 京田辺の馬坂川桜並木(2019年4月) 免許を受けた奈良電気鉄道は経済情勢を鑑みて起点と終点を変更し、京阪電気鉄道の宇治駅と大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)の西大寺駅を結ぶことにしました。宇治駅では京阪電気鉄道と、西大寺駅では大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)と乗り入れることに合意しています。 京阪宇治駅ホーム(2017年12月)

1925年(大正14年)に奈良電気鉄道が正式に創立され、小倉以南の線路敷設工事は順調に進んでいました。一方で、宇治における用地買収において計画の変更を余儀なくされ、桃山付近で京阪電気鉄道と接続して三条まで乗り入れる計画としましたが、京阪電気鉄道がこれに難色を示すことになりました。

京阪線に沿って流れる鴨川(2016年12月)

これを受けて奈良電気鉄道は1926年(大正15年)、小倉~伏見間(伏見支線)における鉄道路線敷設を新たに申請し、この工事に着手することになりました。ところが、宇治川の渡河の方法について、周辺が陸軍の演習地であったため橋脚を設置すると演習の妨げになるという問題が発生したため、橋脚がない橋を設置することになります。 澱川橋梁を渡る近鉄特急(2019年8月)


澱川橋梁 この橋脚のない橋こそが現在の近鉄京都線の澱川橋梁です。比較的大きな橋梁でありながら橋脚がまったくありません。 橋脚のない澱川橋梁(2019年8月) この澱川橋梁は2000年(平成12年)、国の登録有形文化財に指定されています。 国の登録有形文化財に指定される澱川橋梁(2019年8月) 澱川橋梁へのアクセスには観月橋駅を利用するのが便利です。 観月橋(手前)の先に澱川橋梁が見える(2019年8月) 観月橋駅の改札口は観月橋北詰(中書島駅寄り)にありますが、これを出ると正面に宇治川に架かる澱川橋梁が見えてきます。 宇治川に架かる澱川橋梁(2019年8月)


近畿日本鉄道による合併 伏見には古くから商店街があり用地買収が進まず、地下線とすることを計画したものの、伏見は酒造地であったため地下水への影響の不安から地下線への理解を得ることはできませんでした。そこで、当時京都で初めての高架線とすることにして、1928年(昭和3年)、ついに桃山御陵前~西大寺(現在の大和西大寺)間の工事が完了します。 伏見城(2017年12月) これと並行して、桃山付近での京阪電気鉄道と接続を断念した後も、この路線の京都駅乗り入れの計画も進められていました。1921年(大正10年)に京都~伏見間(旧奈良線)は廃線となっていますが、奈良電気鉄道はこの用地の払下げを受けて京都~桃山御陵前間に新たな路線を敷設します。これにより、先の桃山御陵前~西大寺(現在の大和西大寺)間の開通に加えて、京都~桃山御陵前間が開通し、京都~西大寺(現在の大和西大寺)間が全通することになります。ここに京都~奈良間を約60分で結ぶ奈良電気鉄道が誕生しますが、これは現在の近鉄京都線と同じルートということになります。 宇治川にかかる澱川橋梁(2019年8月) この奈良電気鉄道は通称「奈良電」とよばれていましたが、奈良電時代の1945年(昭和20年)から奈良電気鉄道現在の近鉄京都線)京阪電気鉄道は相互乗り入れを実施していました。当時は奈良電気鉄道現在の近鉄京都線)の西大寺(現在の大和西大寺)~奈良(現在の近鉄奈良)まで直通運転も行われていましたので、近鉄車両も奈良電車両も京阪丹波橋を経由して三条へ、あるいは京阪車両が奈良電の線路を通って京都へというような運転が行われていました。 桃山駅(2017年12月) 1963年(昭和38年)に近畿日本鉄道が奈良電気鉄道現在の近鉄京都線)を合併しますが、合併後の1968年(昭和43年)までの間、相互直通運転は継続されています。その後、近畿日本鉄道が架線電圧を1500ボルトに昇圧したため、当時600ボルトであった京阪電気鉄道と相互乗り入れをすることができなくなり、廃止されてしまいました。 京都~奈良間を結ぶ特急列車(2018年3月)


安土桃山時代と伏見城 安土桃山時代は織田信長と豊臣秀吉がその政権を担っていたことから織豊政権ともよばれます。安土桃山時代の「安土」とは織田信長の居城があった現在の安土駅(滋賀県近江八幡市安土町)周辺の土地をさします。また、「桃山」とは豊臣秀吉の政治を支えた伏見城のあった現在の京都市伏見区周辺をさします。伏見城が廃城となった後、江戸時代のこの地に桃の木が植えられたことから「桃山」とよばれました。これより、伏見城は「桃山城」「伏見桃山城」ともよばれるようになります。 伏見城(2017年12月) 御香宮(ごこうのみやじんじゃ)神社は平安時代、病いに効果のある香水がその境内より湧き出たことから、清和天皇よりその名を賜ったとされます。その水は「伏見の御香水」として、環境省による昭和の名水百選に選定されています。御香宮神社の最寄り駅となるのは近畿日本鉄道の桃山御陵前駅京阪電気鉄道伏見桃山駅であり、徒歩5分ほどです。桃山御陵前駅は近畿日本鉄道の駅であり、1928年(昭和3年)に奈良電気鉄道が桃山御陵前~西大寺(現在の大和西大寺)間を開通した際に開業しています。その後、2週間と経たないうちに京都~桃山御陵前間も開業しました。 桃山御陵前駅の近くにある御香宮神社鳥居(2019年1月) 桃山御陵前駅と至近距離にある伏見桃山駅京阪電気鉄道の駅であり、1910年(明治43年)の京阪本線開通の際に伏見駅として開業しました。1915年(大正4年)には伏見桃山駅と改称し、京阪神急行電鉄の駅を経て、1949年(昭和24年)に京阪電気鉄道の駅となっています。 会津藩駐屯地跡/伏見御堂(2019年5月) 伏見桃山駅を下車して西へ徒歩10分ほど行くと伏見御堂があります。伏見御堂は教如が慶長年間に創建した寺院であり、1868年(慶応4年)には会津藩の先鋒隊がこの場所を宿陣としています。


京都駅

近鉄京都線はもともと1928年(昭和3年)、奈良電気鉄道(奈良電)が桃山御陵前~西大寺(現在の大和西大寺)間を開業したことにはじまります。その12日後には京都~桃山御陵前間が開業し、奈良電気鉄道(奈良電)は全通となっています。 近鉄京都駅に停車する特急列車(2016年10月) img_1406 奈良電気鉄道(奈良電)が1928年(昭和3年)に全通を果たした際、その始発駅として京都駅は開業しました。京都駅は当初、現在の京都駅の北側に地下駅として完成する予定でしたが、当時京都で行われた昭和天皇の即位の礼に合わせたため地上駅としての開業となりました。 京都駅のホームに停車する特急列車(2017年6月) その後、1963年(昭和38年)に東海道新幹線京都駅の開業に合わせて現在のような高架駅となった後、会社の合併にともない、近畿日本鉄道の駅となりました。現在の京都駅は2階部分に改札口があり、4面4線をもつ櫛形ホームとなっています。1番線と2番線はおもに特急の発着ホーム、3番線と4番線はおもに急行および各駅停車の発着ホームとして使用されています。 京都駅のホームに停車する特急列車(2017年6月)


東寺駅 京都駅を出発した列車は大きく左へカーブを切って南下すると、わずか1分ほどで東寺駅に到着します。駅間にするとわずか900メートルしかありません。東寺駅は小さな駅ですが、現在では特急以外のすべての列車がこの駅に停車します。東寺駅は1928年(昭和3年)に奈良電気鉄道(奈良電)の京都~桃山御陵前間が開通すると同時に開業しています。1963年(昭和38年)に近畿日本鉄道の所属となっています。 東寺駅(2016年10月) img_1353 現在の東寺駅は高架駅となっていますが、開業当時の東寺駅は地上駅でした。1939年(昭和14年)に十条駅側(南側)へ110メートルほど移設されて高架駅となりました。東寺駅と十条駅の駅間は、京都駅と東寺駅の駅間よりさらに短く、わずか600メートルとなります。 東寺駅(2016年10月) img_1351 この東寺駅で下車し、西へ5分ほど歩いて行くと東寺(教王護国寺)が見えます。 東寺(2016年10月) img_1360 東寺(教王護国寺)は創建から約1200年ほど経ち、唯一残る平安京の遺構です。桓武天皇による平安遷都の際、官寺として建立された東西両寺の一つです。西寺は早くに廃れ姿を消すことになりますが、一方の東寺は、唐より密教を学んで帰国した空海が嵯峨天皇により託されることになります。空海は東寺教王護国寺と称し、真言密教の根本道場として長く繁栄させました。 東寺五重塔(2016年10月) 東寺は1934年(昭和9年)に国の史跡に指定されており、1994年(平成6年)には「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」として世界遺産に登録されています。「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」は点在する17か所の寺社と城郭で構成されています。これは、東寺(教王護国寺)の他、賀茂別雷神社(上賀茂神社)、賀茂御祖神社(下鴨神社)、清水寺、延暦寺、醍醐寺、仁和寺、平等院、宇治上神社、高山寺、西芳寺、天龍寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、龍安寺、西本願寺、二条城より成ります。 五重塔の西側から見る(2016年10月) img_1361 京都線の車窓からもその姿を見ることができる五重塔はその高さが54.8メートルあり、木造塔としては日本一の高さを誇ります。826年(天長3年)に空海がこれの創建に着手しますが、実際に完成したのは空海が没した後の9世紀末となります。歴史的に4回ほど消失しており、現在の五重塔は5代目となっています。1644年(寛永21年)に徳川家光により建てられたものです。 東寺南大門(2016年10月) img_1357 南大門は1601年(慶長6年)、三十三間堂の西門として建てられたものです。 東寺南大門(2016年10月) img_1356 以前、ここにあった門が1868年(明治元年)に焼失したため、1895年(明治28年)に移築されました。 東寺南大門(2016年10月) img_1359


向島駅

東寺駅を出発して桃山御陵前駅を過ぎると宇治川を渡りますが、これを渡ると向島(むかいじま)です。向島はもともと巨椋(おぐら)に浮かぶ砂洲でしたが、豊臣秀吉が伏見城を築く際に宇治川の改修工事に着手し、向島となりました。現在では巨椋池は干拓されて、広大な水田となっています。向島ニュータウンは巨椋池の一部であった二の丸池が干拓されてできた住宅地であり、その最寄り駅が向島駅となります。向島駅は1974年(昭和54年)に開業した比較的新しい駅であり、2面4線を有し、橋上駅舎を擁しています。


新田辺駅

新田辺駅は1928年(昭和3年)に奈良電気鉄道(奈良電)が開業した駅です。 新田辺駅バスターミナル(2016年10月) img_1404 城陽市と京田辺市の境界となる木津川を渡ると新田辺駅へと到着します。新田辺駅から西へ5分ほど歩くと、片町線(愛称「学研都市線」)の京田辺駅があります。新田辺駅は2面4線を有する地上駅であり、1988年(昭和63年)に完成した橋上駅舎を擁しています。 新田辺駅バスターミナル(2016年10月) img_1403 新田辺駅の北側には新田辺車庫があり、かつて夏季には臨時駅として木津川駅が開設されたこともあります。新田辺駅から東へ5分ほど歩いたところの馬坂川沿いに伽和羅(かわら)古戦場跡の碑がひっそりと立っています。 馬坂川の川沿いの景色(2019年4月)

【伽和羅】 現地の説明板には次のようにあります。 『日本書紀』の崇神天皇の条に武埴安彦(たけにはやすひこ)が天皇にそむいて、輪韓河(わからがわ/木津川)の戦いに敗れ、軍兵は甲を脱ぎすてて逃げたが、後にその甲を脱いだところを「伽和羅」と称したと記されている。また『古事記』応神段に大山守命が宇治の近くでの戦に敗れて、宇治川に流され、訶和羅之前(かわらのさき/伽和羅)に来て沈んだ。鈎(かぎ)で探したところ、甲がかかり「かわら」と鳴ったという。そこでその地を「かわらのさき」と呼んだという。『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』に甲作郷(かわらづくりごう)の名が見え、この付近のことと長く考えられていたが、昭和63年(1988年)から行われた八幡市の正法寺文書の調査により現在の八幡市八幡付近が、甲作郷であることが判明した。この付近は『和名類聚抄』にいう志磨郷(しまごう)の地とされる。 伽和羅古戦場跡の碑(2019年4月)

馬坂川の川沿いの景色(2019年4月)


狛田駅

京都線新田辺駅を通過してさらに南下すると、京都線と片町線(愛称「学研都市線」)のそれぞれの線路はまるで接するかのように寄り添います。煤谷川(すすたにがわ)を渡ると、すぐに狛田(こまだ)があります。 狛田駅(2016年9月) img_1314 狛田は1928年(昭和3年)、奈良電気鉄道の桃山御陵前~西大寺(現在の大和西大寺)間が開通した際に開業しています。会社合併により1963年(昭和38年)には近畿日本鉄道の駅となっています。

狛田駅に停車する車両(2016年10月) img_1401

狛田駅(2020年6月)


平城京

西ノ京駅(2017年6月)


奈良交通バス

奈良交通は奈良県の路線バスなどを運営しているバス会社です。奈良県内の路線バスのほぼすべてを網羅する他、京都や大阪、和歌山などへも一部のバスを運行しています。 奈良~新宮間特急バス開通20周年記念乗車券

【奈良交通と奈良県内のバス路線史】 奈良県の乗合バスのはじまりは1917年(大正6年)、松山自動車商会が松山(大宇陀)~桜井間で運行を開始したことによります。このとき、関西鉄道桜井駅から山間の地域がバス路線で結ばれています。 奈良定期観光バス50周年記念乗車券 その後、大阪電気軌道(大軌)奈良電気鉄道吉野鉄道大和鉄道などの鉄道路線が続々と開業し、明司自動車は畝傍~橿原神宮間、南和自動車は五条~下山口間など多くのバス路線が開業しました。こうして鉄道駅と山間の地域が次々とバス路線で結ばれていくことになりますが、奈良市内のバス路線の開業はこれよりも遅れて1928年(昭和3年)に奈良市街自動車が奈良~春日大社間を結んだのがはじまりとなります。 唐招提寺へ向かうバス(2017年6月) 春日山は春日大社の東側にある花山(はなやま)と御蓋山(みかさやま)をさしますが、この山々は古くから人々に崇敬されてきました。花山は春日奥山ともよばれ、明治時代にはこれへの周遊路が開かれていました。奈良県がこれを整備して自動車を通行できるようにしたことを受けて、大阪電気軌道(大軌)春日奥山周遊バス「お一人でも乗っていただける名所巡り定期観光バス」の運行を開始し、奈良定期観光バスのはじまりとなります。1929年(昭和4年)に運行を開始したこの定期観光バスは、現在における観光地周遊バスの原型となりました。 奈良定期観光バス50周年記念乗車券 その後もバス路線は順調に拡大し、1933年(昭和8年)には28社が路線バスを運行するようになりました。このようなバス会社の乱立は淘汰を招くことになり、1936年(昭和11年)には大阪電気軌道(大軌)の傘下に入った奈良自動車へと多くのバス会社が集約されていくことになります。 奈良~新宮間特急バス開通20周年記念乗車券 日中戦争が勃発して戦時体制となると、さらにバス会社の整理統合がすすめられ、県北部は奈良自動車、県南部は関西急行鉄道(関急)の傘下となった吉野宇陀交通へと統合されていきます。1943年(昭和18年)になると、奈良自動車が残っていた他社4社を統合して奈良交通が発足することになりました。 奈良~新宮間特急バス開通20周年記念乗車券 奈良交通は奈良県のバス路線を一手に引き受ける巨大なバス会社となっていましたが、戦時中および戦後すぐにはバス路線の運営に苦戦を強いられることになります。経営努力を積み重ねて、1947年(昭和22年)に春日奥山周遊バスを復活させて、路線バスだけではなく定期観光バスの復興も実現していきました。 奈良~新宮間特急バス開通20周年記念乗車券 1961年(昭和36年)にはすべての車両が大型ディーゼルバスとなり、1963年(昭和38年)には奈良~新宮間の特急バスの運行を開始しています。 奈良~新宮間特急バス開通20周年記念乗車券

奈良交通は2007年(平成19年)、近鉄バス、奈良観光バスと合わせて近畿日本鉄道が設立したけいはんなバスホールディングス(現在の近鉄バスホールディングス)の傘下となりました。


奈良世界遺産フリーきっぷ

近畿日本鉄道が発売するお得なきっぷには「奈良世界遺産フリーきっぷ」というのがあります。 大阪または京都から奈良フリー区間までの往きの切符(2017年6月) このフリーきっぷには指定した当日限り有効の奈良・斑鳩(いかるが)1日コースと2日間有効の奈良・斑鳩2日コースの2種類があります。 大阪または京都から奈良フリー区間までの往きの切符(2017年6月) いずれも近鉄電車の発駅からフリー区間までの往復乗車券およびフリー区間の乗車券、奈良交通バスの奈良・斑鳩エリア内の乗り放題乗車券、奈良・斑鳩エリアの施設で利用できる割引特典が付いています。 奈良交通バスのフリー乗車券(2017年6月)

観光施設割引券(2017年6月)

奈良交通バスのフリー乗車券を提示すると指定区間の奈良交通バスが自由に乗り降りできます。指定区間は奈良公園・西の京・法隆寺地区となりますが、フリーきっぷを購入した際にもらった路線図でそのエリアを確認することができます。 奈良交通バス路線図(2017年6月)


唐招提寺

世界遺産「古都奈良の文化財」は奈良市内にある8件の遺産(東大寺・興福寺・春日大社・春日山原始林・元興寺・薬師寺唐招提寺平城宮跡)からなります。

【平城京】 平城京は奈良時代の都であり、唐の長安などを模倣して建造されたとされています。この平城京を中心として律令国家としてのしくみが完成し、天平文化が花開きました。平城京跡は近鉄奈良線の大和西大寺駅と新大宮駅の間にあり、国営平城宮跡歴史公園近鉄奈良線が横切ります。 近鉄電車から見た平城京跡(2017年6月)

このうちの1つである唐招提寺へも奈良交通バスのフリーきっぷを使って行くことができます。 唐招提寺東口バス停を出発し唐招提寺バス停へ向かうバス(2017年6月) 唐招提寺へは唐招提寺東口、唐招提寺などのバス停で下車すればアクセスできます。  北行きの唐招提寺東口バス停(2017年6月)

また、近鉄橿原線西ノ京駅からもアクセス可能です。

【西ノ京駅】 西ノ京駅は1921年(大正10年)、大阪電気軌道畝傍線(現在の近鉄橿原線)の駅として開業しました。 西ノ京駅(2017年6月) その後、鉄道会社の統合などにより、関西急行鉄道近畿日本鉄道の駅となっています。 西ノ京駅(2017年6月) 西ノ京駅は、世界遺産「古都奈良の文化財」となる唐招提寺薬師寺の最寄り駅となっているため、現在では急行や特急の一部も停車するようになっています。 西ノ京駅(2017年6月)

唐招提寺東口バス停で下車したら少し南へもどり、信号を右(西)へ曲がって秋篠川を越えると唐招提寺です。 秋篠川(2017年6月) 唐招提寺は南都六宗の一つである律宗の総本山です。 唐招提寺(2017年6月) 南都六宗とは奈良時代の平城京を中心として栄えた奈良仏教のことであり、三論(さんろん)宗、成実(じょうじつ)宗、法相(ほっそう)宗、倶舎(くしゃ)宗、律宗、華厳宗の6つをいいます。 唐招提寺(2017年6月) 律宗は中国で広まった仏教の一つであり、わが国へは754年(天平勝宝6年)に僧・鑑真が伝えた宗派です。 唐招提寺(2017年6月) 鑑真は苦難の末、日本へ到着して東大寺で過ごした後、土地を下賜されて759年(天平宝字3年)に唐招提寺を建立し、その晩年をこの寺で過ごしました。

唐招提寺(2017年6月)


薬師寺

薬師寺へも奈良交通バスの薬師寺駐車場や薬師寺東口などの停留所から、また西ノ京駅からもアクセスできます。 西ノ京駅前ロータリー(2017年6月) 薬師寺法相宗の大本山であり、平城京遷都の際に飛鳥から現在の場所へと移されました。 薬師寺(2017年6月) もとは680年(天武天皇9年)に天武天皇の発願によって藤原京の地に造営が開始されたものです。 薬師寺(2017年6月) 郡山城追手門(2017年6月)


郡山城への道

近鉄郡山駅は1921年(大正10年)、大阪電気軌道畝傍線(現在の近鉄橿原線)の開通と同時に郡山駅として開業しました。その後、所属会社の合併などにより、大軌郡山駅関急郡山駅近畿日本郡山駅などの名称変更を経て、1970年(平成19年)に近鉄郡山駅となっています。 近鉄郡山駅付近の踏切(2017年6月) 郡山城跡へは近鉄郡山駅を出て、線路沿いに北方向(大和西大寺方面)へと歩いて行きます。右手に大和郡山市役所がありますが、これを越えて踏切を渡ると郡山城跡へ到着します。 郡山城への道(2017年6月)


郡山城の歴史

郡山城は西ノ京丘陵の南端部に築かれた平山城であり、天守台のある本丸をいただき、内堀・中堀・外堀に囲まれた総構えの構造をもつ城です。 郡山城跡案内絵図(2017年6月) 筒井氏はこの辺り一帯に割拠していた豪族らを平定し、織田信長の絶対的権力を背景として安定勢力となりました。筒井順慶は1578年(天正6年)~1579年(天正7年)にかけて郡山城の縄張りを行い、1580年(天正8年)の一国一城令に基づいてこれを拡張し、大和国唯一の城郭として郡山城の築城を開始しました。1583年(天正11年)には天守閣を完成させています。 追手門の辺りから天守台を見る(2017年6月) 筒井氏の後には豊臣秀長(豊臣秀吉の弟)が大和国・和泉国・紀伊国3国の太守となり百万石の禄高をもって、1585年(天正13年)にこの地に入りました。城郭の骨格はこのころ本格的に建造され、また追手門もこのころ築かれたと考えられています。 1980年(昭和55年)に復元された追手門(2017年6月) 豊臣秀長城下町の建設にも尽力しましたが、その没後は養子の豊臣秀保がこれを治めました。その後は増田長盛が入り、1596年(文禄5年)には秋篠川の付け替えを行って外堀を一周させ、城下町の完成へと導きました。その外堀普請による城郭の形状は現代までその姿をとどめています。現在残っている縄張りは、左京堀、鰻堀、鷺堀で囲まれた本丸・二の丸・三の丸などが城内であり、それ以外の外堀に囲まれた地域が城下となっています。 増田長盛は1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで豊臣側として戦うものの破れて改易されます。郡山城は徳川氏に接収され、一時廃城(1600年~1615年)となってしまいます。その際、追手門をはじめとする建造物は伏見城へ移されています。 1615年(元和元年)になると、郡山城は交通の要衝として再認識され復興しています。大坂夏の陣以後は水野氏松平氏本多氏という譜代大名が入城し、1724年(享保9年)になると、甲斐国の柳沢氏が15万石余をもって入り、明治維新まで大和国の政治・経済・文化の中心地として栄えています。 柳澤神社(2017年6月) 柳沢文庫(2017年6月)


郡山城の復元

明治維新の際、廃城となりすべての建物が取り払われ、現在復興へ向けての取り組みが行われています。 極楽橋の再現(2017年6月) 天守台は本丸の北端部に位置し、城内の中でも高所にあります。天守に関する資料はほとんど存在せず「幻の天守」とよばれてきました。しかし、石垣の修理にともなって発掘調査を実施し、豊臣時代に7×8間規模の天守が建造されていたことが判明しました。 天守台へ上る(2017年6月) 天守台から見た景色(2017年6月) 発掘の様子(2017年6月)


旧奈良県立図書館

旧奈良県立図書館は1908年(明治41年)、日露戦争の勝利を記念して、現在の奈良県庁の南側にある奈良公園内(興福寺境内)に建設された奈良県で初めての県立図書館です。建築当初は奈良県立戦捷図書館と称し、1968年(昭和43年)に図書館本館のみが郡山城内に移築されて、市民会館や教育施設として利用されてきました。この建物の設計は奈良県の技師・橋本卯兵衛が担当しています。 旧奈良県立図書館(2017年6月)