竜ヶ崎線[関東鉄道]

関東鉄道竜ヶ崎線「まいりゅう号」(2024年5月)

「まいりゅう」は茨城県龍ケ崎市の公式マスコットキャラクターです。龍ケ崎市の伝統行事である「撞舞(つくまい)」と市名を組合わせて「まいりゅう」と名付けられたものです。そのキャラクターを描いた竜ヶ崎線のラッピングトレインが「まいりゅう号」です。

関東鉄道竜ヶ崎線「まいりゅう号」(2024年5月)

3代目「まいりゅう号」は2023年(令和5年)1月より運行を開始しています。そのデザインは春夏秋冬4つの季節が描かれており、それぞれ季節ごとに龍ケ崎市内の4つの高校が分担して描いているそうです。

竜ヶ崎駅前の風景(2024年5月)

竜ヶ崎線の終点となる竜ヶ崎駅前には懐かしい昭和の風景が残ります。

竜ヶ崎駅構内(2024年5月)

広瀬アリスさんが主演するドラマで、2024年(令和6年)4月よりフジテレビで放映される『366日』は、HYの名曲『366日』に着想を得たラブストーリーです。ドラマのロケが龍ケ崎市で行われた他、劇中アイテムとして「まいりゅう」も登場しています。

竜ヶ崎駅に停車する車両(2024年5月)

竜ヶ崎線は、龍ケ崎市内にある佐貫駅、入地(いれじ)駅、竜ヶ崎駅の3駅を結ぶ関東鉄道の路線であり、路線総延長わずか4.5キロの短い路線です。始点となる佐貫駅は常磐線の龍ケ崎市駅と連絡しており、乗換駅となっています。

関東鉄道佐貫駅とJR龍ケ崎市駅の乗換口(2023年12月)

常磐線の龍ケ崎市駅は、日本鉄道が1900年(明治33年)に開業して以来、「佐貫駅」という駅名でしたが、2020年(令和2年)に「龍ケ崎市駅」と改称しました。

龍ケ崎市駅に展示される駅名改称記念5000羽鶴文字(2024年5月)

関東鉄道の佐貫駅は同じく1900年(明治33年)に龍崎鉄道が開業して以来、現在も「佐貫駅」として周辺の地名を残した駅名となっています。

関東鉄道佐貫駅(2024年5月)

佐貫駅を開業した龍崎鉄道は、1900年(明治33年)に「茨城県内最古の私鉄路線」として佐貫~竜ヶ崎間(現在の竜ヶ崎線)を開業した鉄道会社です。

現在の竜ヶ崎駅駅舎(2024年5月)

そのルーツは、1898年(明治31年)に龍崎馬車鉄道が設立されたことに遡りますが、当初は龍ケ崎と藤代駅の間を馬車鉄道が結ぶ予定でした。

龍ケ崎市駅駅名標(2023年12月)

この計画は後に変更され、常磐線との最短距離となる佐貫駅と結ぶことになり、また馬車鉄道から小型蒸気機関車による軽便鉄道へと変更されます。

竜ヶ崎線の車内(2024年5月)

このとき、社名を「龍崎馬車鉄道」から「龍崎鉄道」に変更しています。その後、いくつかの合併などを経て、関東鉄道の路線となっています。

関東鉄道設立までの鉄道各社の歴史

開業当時は、佐貫、南中島(みなみなかじま)、門倉(かどくら)、龍ケ崎の4駅としましたが、開業翌年に入地駅を新設して5駅としました。

入地駅駅名標(2024年5月)

現在の入地駅のホームには、次のような立札があります。

「入地」。「地」…地力をつけて。「入」…入学(入社)する。受験生にとって、とても縁起のよい駅名である。そんな入地駅で受験生が入地駅に設置された黒板に数字の「5」を書くと、「5を書く」→「ごをかく」→「ごうかく」→「合格」。「合格(5を書く)」するかしないかはあなた次第です。

入地駅の合格祈願(2024年5月)

その後、1957年(昭和32年)に南中島駅と門倉駅を廃止し、現存する3駅となりました。竜ヶ崎線はかつては、肥料、米、繭、石炭などの貨物も運搬し、市の産業発展に大きな役割を果たしました。

B級ご当地グルメ「龍ケ崎コロッケ」を模した車内の吊り革(2024年5月)

天満橋駅[OsakaMetro/京阪電気鉄道]

天満橋駅を出て京都方面へ向かう京阪特急(2016年11月)
img_1984

大阪の中心部を流れる大川に架かる天満橋、天神橋、難波橋は「浪華三大橋」とよばれます。その一つ「天満橋」が初めて架けられたのは豊臣時代といわれています。

天満橋(2017年9月)

それ以来、幾度となく架け替えられた天満橋はすべて木橋でした。1885年(明治18年)の大洪水で流出した際、鉄橋に架け替えられています。

1888年に設置された鉄橋の説明とその姿(2017年9月)

1888年(明治21年)、ドイツから輸入したトラス橋が架けらました。その鉄橋の橋門上に設置された橋名飾板と、その鉄橋の姿が現在の天満橋北詰の公園に展示されています。

1888年に設置された鉄橋の橋名飾板(2017年9月)

現在の天満橋は、1935年(昭和10年)に架け替えられたものであり、珍しい2階建ての構造になっています。

2階建て構造の天満橋(2019年1月)

京阪電気鉄道が、天満橋~五条(現在の清水五条)間を開業した1910年(明治43年)に、天満橋の南側に天満橋ターミナルが誕生しました。

天満橋から見える京阪天満橋ビル(2017年9月)

大阪市電は当時、まだ天満橋には到達していませんでしたが、翌年1911年(明治44年)に梅田新道~天満橋間(曽根崎天満橋筋線)が開業しました。その後すぐに、天満橋~谷町六丁目間が開通し、これにより天満橋駅京阪電気鉄道大阪市電の乗り換え客で大いに賑わったといいます。

天満橋駅を大川側から見上げる(2019年1月)

開業当初の天満橋駅は、路面から直接電車に乗り込むようなスタイルであり、切符売場や係員詰所の小屋が並ぶ程度だったそうです。およそ「天満橋ターミナル」にはほど遠いものでした。しかしながら、年を追うごとに改良が重ねられ、徐々にではあるがターミナル駅としての体裁ができあがってきました。

天満橋から東側を見る(2017年9月)

1933年(昭和8年)になると京阪デパートが開店し、その後、天満橋マーケット、阪急百貨店天満橋支店と店名を変えながら営業を続けました。しかし、1961年(昭和36年)に京阪本線が淀屋橋まで延伸されることとなり、駅ビルが取り壊されたため閉店となりました。その後、天満橋駅には松坂屋大阪店が開業しますが、2004年(平成16年)に営業不振により閉店し、2005年(平成17年)より京阪シティモールとして生まれ変わりました。

飯能駅(西武鉄道)

▼飯能駅は1915年(大正4年)に開業。▼現在は、1番線~4番線が島式ホーム2面3線、5番線が単式ホーム1面1線となっていて、他に側線が3線ある。▼スイッチバック式のホームとなっているため、駅構内は比較的広くできている。

両毛線[JR東日本]

両毛線栃木駅ホーム(2024年5月)

4世紀~5世紀頃、群馬県と栃木県は「毛野国(けぬのくに)」とよばれました。その後、毛野国は上毛野(かみつけの)と下野(しもつけの)に分かれましたが、これが現在の群馬県と栃木県になり、両毛地域とよばれるようになりました。

栃木駅構内のからくり時計(2024年5月)

両毛鉄道は1887年(明治20年)に設立された鉄道会社であり、両毛地域の生糸や絹織物の輸送のため、1888年(明治21年)に小山~桐生間、翌年に桐生~前橋間を開通しています。

両毛線小山駅ホーム(2024年5月)

両毛線の起点となる小山駅は1885年(明治18年)、日本鉄道の駅として開業しました。1888年(明治21年)には両毛鉄道が開業し、現在の両毛線も乗り入れることになりました。

両毛線小山駅駅名標(2024年5月)

足利駅も1888年(明治21年)に両毛鉄道の駅として開業し、1897年(明治30年)に日本鉄道の駅となった後、1906年(明治39年)には国有化されています。

足利駅ホーム(2020年10月)

現在の足利駅の駅舎は昭和時代初期に建設された洋風の木造駅舎です。足利駅は1998年(平成10年)の関東の駅百選に選定されています。

足利駅北口改札口(2020年10月)

足利駅南口を出ると、南側には渡良瀬川が流れていますが、足利市はこの渡良瀬川により南北に分かれています。

足利駅南口(2020年10月)

足利駅北口前には「EF60-123形直流電気機関車」が静態保存されています。

EF60-123形電気機関車(2020年10月)

EF60-123形は、国鉄が1960年(昭和35年)に開発した平坦路線向け直流電気機関車です。かつては両毛線において貨物列車の牽引に活躍しました。

EF60-123形電気機関車(2020年10月)

市川真間駅(京成電鉄)

▼1912年(大正元年)に現在の京成高砂~江戸川間が開業した後、1914年(大正3年)に市川新田駅(現在の市川真間駅)まで延伸。▼1921年(大正10年)に市川新田駅は市川真間駅と改称。

市川真間駅(2023年12月)

鳥栖駅

▼鳥栖(とす)市は、佐賀市・唐津市に次いで佐賀県第3位の人口を擁する。▼人口密度は佐賀県第1位。▼その中心は鳥栖駅となる。▼九州鉄道が1889年(明治22年)、博多~千歳川停車場(仮駅)間を開通させた際に開業した九州最古の駅の一つ。▼鹿児島本線と長崎本線の2路線が乗り入れる。▼長崎本線の肥前山口駅から分岐する佐世保線や、鹿児島本線の久留米駅から分岐する久大本線に直通運転する列車に乗り換えることができる。

鳥栖駅(2019年10月)

福岡地下鉄空港線

▼福岡空港は福岡市博多市にある。▼市街地から5キロ以内の場所にあり利便性の高い空港。▼福岡地下鉄の空港線福岡空港駅は福岡空港の地下にある博多駅までは2駅およそ5分ほどで結ぶ。▼地下鉄空港線:姪浜(めいのはま)―天神駅―祇園駅―博多駅―福岡空港駅

福岡~宮城を結ぶ「むすび丸ジェット」(2020年6月)

博多駅

▼福岡市が誕生した1889年(明治22年)に開業。▼九州鉄道が博多~千歳川停車場(仮駅)間を開通。▼当時の博多駅の場所は現在の博多駅のある場所とは異なり、650メートルほど北西にあった。▼1890年(明治23年)、博多~赤間間開通の際、現在の地下鉄祇園駅付近に移転。▼1963年(昭和38年)に高架化され、現在の場所に移転。

特急「あずさ」

▼1966年(昭和41年)、中央東線(新宿~松本間)に特急「あずさ」登場。▼これにより、中央東線の主役は急行「アルプス」から特急「あずさ」へと世代交代。

あずさ特急券(2019年10月)

▼1986年(昭和61年)に急行「こまがね」廃止、急行「アルプス」は特急「あずさ」へ。▼2018年(平成30年)にE353系投入、2019年(平成31年)以降はすべてE353系により運行。▼2019年(平成31年)に、2017年(平成29年)より運行をはじめた特急「スーパーあずさ」はすべて特急「あずさ」へと統合。

新宿駅に停車する特急「あずさ」(2019年9月)

特急「あさかぜ」

▼1956年(昭和31年)~2005年(平成17年) ▼東海道本線を走る特急としてデビュー ▼東京博多間を一夜で結ぶ寝台特急 ▼1958年(昭和33年)に青地に白ラインが入った20系客車を採用 ▼「ブルートレイン」の先駆け ▼戦後初の夜行特急列車 ▼夕方、東京および博多を出発し、昼には博多および東京に到着 ▼2005年(平成17年)廃止

越中島駅(京葉線)

▼「越中島」の地はかつて、現在の隅田川の中州だった。▼江戸時代初期には旗本の榊原越中守照清の拝領地であり、「越中島」の名はこの「越中守」に由来する。▼現在の越中島二丁目にある越中島駅は「西越中島駅」として開業する予定だった。▼もともと存在した越中島駅(貨物駅)を「越中島貨物駅」と改称し、この駅を「越中島駅」として1990年(平成2年)に開業。

越中島駅駅名標(2022年3月)

鉄道唱歌(明治33年発表)

▼鉄道唱歌は1900年(明治33年)に発表されたもの。▼大和田建樹作詞、多梅稚作曲による唱歌。▼全5集334番から成るともいわれる。▼第1集(東海道編)第1番は有名な歌詞であり、広く知られています。

汽笛一声 新橋を
はやわが汽車は 離れたり
愛宕の山に 入りのこる
月を旅路の 友として

右は高輪 泉岳寺
四十七士の 墓どころ
雪は消えても 消えのこる
名は千載の 後までも

窓より近く 品川の
台場も見えて 波白く
海のあなたに うすがすむ
山は上総か 房州か

梅に名をえし 大森を
すぐれば早も 川崎の
大師河原は 程ちかし
急げや電気の 道すぐに

鶴見神奈川 あとにして
ゆけば横浜 ステーション
港を見れば 百舟の
煙は空を こがすまで

大杉神社(茨城県稲敷市)

▼茨城県稲敷市にある大杉神社は全国にある大杉神社の総本宮。▼この地はかつて、常総内海の半島地形でしたが、大杉神社の御神木であった巨大な杉の木は「海の道しるべ」となった。

大杉神社一の鳥居(2022年10月)

▼杉の木に宿る神様は、この地が「あんば」とよばれていたことから、「あんばさま(安婆嶋)」とよばれた。▼「あんばさま」とよばれた「太郎杉」は1778年(安永7年)に焼失したので、現在の御神木は「次郎杉」と「三郎杉」となっている。

大杉神社境内(2022年10月)

▼800年ほど前には、源義経と行動をともにしたことがある常陸坊海存が社僧を務めた。▼常陸坊海存は病気治癒により多くの人々を救ったことから、「天狗」であるという信仰へと拡がった。▼その後、烏天狗と鼻高天狗がその一族とすることになり、現在ではそれぞれ「かない天狗」「ねがい天狗」とよばれる。

かない天狗(2022年10月)

▼大杉神社の社殿群は、正徳年間(1711~1716)に造営された「あんば日光」とよばれる絢爛豪華な社殿群。▼しかしながら、1728年(享保13年)に焼失した後、幾度となく再建と焼失を繰り返した。

本殿・大杉殿(2022年10月)

▼2010年(平成22年)には二階建ての楼門「麒麟門」が約280年ぶりに再建された。

麒麟門(2022年10月)

▼2012年(平成24年)には、1728年(享保13年)に焼失していた神輿を納めておく神輿殿も再建されている。

神輿殿(2022年10月)

▼境内には大国神社や勝馬神社などの末社がある。▼大国神社には金運をもとめて、勝馬神社には競馬ファンらが数多く方が参拝する。

大国神社(2022年10月)

▼大杉神社へのアクセスは、成田線の下総神崎駅から車で15分ほど。▼以前は大杉神社へのシャトルバスが運行されていたが、現在は休止中。

休止中のバス停(2022年10月)

特急「いしづち」

▼特急「いしづち」は高松~松山間を結ぶJR四国の特急列車。▼「いしづち」の名は、四国山地の石鎚山(いしづちさん)に由来する。▼1963年(昭和38年)、小松島港~多度津間を結んでいた準急列車「阿佐」が松山駅まで延長運転した際、列車名を「いしづち」とした。

東海道本線[JR]

旧新橋駅駅舎(2023年2月)

1804年、リチャード・トレビシックは「蒸気機関のはずみ車を馬車の両輪にしてみる」というアイデアから世界で初めての蒸気機関車となる「ペニダーレン号」を製造し、鉄道の時代が開幕しました。1825年には、イギリスのストックトン~ダーリントン間(約19キロ)で世界初の鉄道が開通しています。

ストックトン=ダーリントン鉄道

 1829年には、世界初の公共鉄道がイギリスのリバプール~マンチェスター間において開業するにあたり、これを走る蒸気機関車を決めるためにレインヒルにて、蒸気機関車の試走会が実施されました。試走会には3両の蒸気機関車が登場し、ジョージ・スティーブンソンの「ロケット号」が優勝しました。「ロケット号」は世界鉄道史上、最も有名な蒸気機関車です。

東京駅(2019年3月)

ジョージ・スティーブンソンはこれに先立って、1814年に初めての蒸気機関車「ブルヘル号」を製造した後、「ロコモーション号」「ランカシャー・ウィッチ号」などを製造しています。後世、世界の人々はジョージ・スティーブンソンを「SLの父」とよび、その業績をたたえました。ただ「ロケット号」が客を乗せて走行したのは開業式だけであり、その後は石炭を載せた貨車を引いて走りました。

東京ステーションホテル(2019年3月)

一方、日本の鉄道を敷設しようという動きは幕末に来日した外国人から起こりました。日本における鉄道利権を手中にしたい各国のうち、1867年(慶応2年)にはフランス総領事であったペ・フロリ・ヘラルドが各国に先んじ、江戸幕府に対して鉄道および電信敷設の勧誘を行いました。翌年には横浜在住であったC・L・ウエストウッドが江戸幕府の外国奉行に対して江戸~横浜間の鉄道敷設請願書を提出しています。しかし、江戸幕府は両者ともに時期尚早として許可を与えませんでした。

東京駅(2019年3月)

ところが1868年(慶応3年)に、アメリカの外交官であったアントン・L・C・ポートマンは、江戸幕府老中の小笠原長行(ながみち)より江戸~横浜間の鉄道敷設許可を得ました。アントン・L・C・ポートマンはオランダ生まれのアメリカ合衆国の外交官でした。かつてペリー艦隊の一行として来日し、蒸気機関車模型の組み立て作業を行いました。当時この他にも、神戸駐在のアメリカ領事モリソンよりアメリカ資金による大阪神戸間の鉄道敷設の勧誘があったり、兵庫在住のアメリカ領事ロビネットより大阪~兵庫間の鉄道敷設の勧誘があったりしたが、いずれにも許可は与えられませんでした。

神戸駅近くに保存されるD51-1072(2019年4月)

1869年(明治2年)、江戸幕府より唯一鉄道敷設許可を与えられていたアントン・L・C・ポートマンに対して、明治新政府は江戸幕府の鉄道敷設許可承認日が新政府樹立後であるとして、これを無効としました。これはアメリカ資本による私鉄建設計画であったが、日本が植民地化されるリスクもあったがために、明治新政府はこの鉄道敷設許可について王政復古後、江戸幕府より与えられた許可であるとして無効を主張し続けました。明治新政府は官設鉄道を敷設することを目標としたものの、当時の日本には民間資本の蓄積が十分ではなかったので、イギリス資本によりこれを達成することとしました。

青梅鉄道公園に保存される8620形蒸気機関車(2020年10月)

明治新政府は、1869年(明治2年)には新橋~横浜間における鉄道を敷設することを決定していたものの、明治時代の人々にとって西洋の乗り物は恐怖でしかなく、政府による用地買収は難航しました。そのため、日本初の鉄道路線はその路線距離の3分の1が海上埋め立て地に敷設されることになりました。当初の鉄道建設計画をみると、東京~京阪神間を結ぶルートは中山道経由となっており、東海道経由となる新橋~横浜間の路線は幹線と考えられていませんでした。その理由の一つには国防上の問題、すなわち海岸線に近いと敵国の攻撃を受けやすいというものでした。

新橋駅近辺(2023年2月)

明治新政府内部においても反対派勢力は多く、その筆頭は弾正台(後の司法省)であり、1869年(明治2年)には鉄道建設反対の建議書を提出しました。兵部省(現在の防衛省)においても、兵部大輔であった前原一誠(まえばらいっせい)が鉄道用地よりも国防設備用地を優先するべきだとして、鉄道建設反対の建議書を個人名で提出しました。他にも開拓使次官であった黒田清隆や、鹿児島県大参事(現在の副知事)であった西郷隆盛らが国防上の問題として鉄道建設反対の立場にありました。一般世論においても、鉄道は外敵の来襲に利用される、国の土地を抵当に入れて外債を募るというのは国を売るようなものだとして反対意見が多かった他、旅籠屋や飛脚、馬方などの職業の人々も稼ぎがなくなるとして大いに反対し、鉄道反対派が世の大勢を占めました。

東京タワー(2023年2月)

明治新政府の中でも、大隈重信や伊藤博文らの鉄道建設推進派は、鉄道敷設反対や時期尚早が声高に叫ばれる中、身の危険も感じるような状況が続きました。大隈重信の盟友であった渋沢栄一や井上馨らは鉄道建設の必要性は感じていたものの、世の情勢を鑑みて大隈重信に対して鉄道建設をあきらめるように進言しました。しかし、大隈重信はその友情を聞き入れることはなく、鉄道建設に邁進していきました。

京都鉄道博物館のSLスチーム号(2019年1月)

1872年(明治3年)になっても、明治新政府はどの路線を幹線とするかを決めあぐねており、同年には東海道、翌年には中山道の調査を行うが、いずれを幹線とするかを決定することができませんでした。そのため、明治新政府は、イギリス人ブライトンがすでに述べていた「最初は短距離の模範鉄道を東京~横浜間に建設すべきだ」という意見や、外務省の建議による「鉄道の見本とする東京~横浜間の建設を先にすべきだ」という意見を参考として、東京~横浜間にまず鉄道を建設することを決定しました。

東京駅を発着するさまざまな列車(2019年3月)

官設鉄道(官鉄)は、明治時代の初めにできた明治新政府主体の組織であり、現在の東海道本線などの幹線を中心として日本に鉄道を敷設しました。

東京駅(2020年6月)

開業当初は外国の鉄道技術に頼ることが多くありました。後に、鉄道技術者の養成所である工技生養成所を設立するなどして日本人の鉄道技術者の養成に注力しました。イギリスから導入された資本と鉄道技術者の指導により、日本初の鉄道となる新橋~横浜間において鉄道の建設に着手しました。その建設の中心となったのはエドモンド・モレルでした。

青梅鉄道公園に保存されるED16とC11(2020年10月)

エドモンド・モレルはイギリスの技術者。▼明治時代初期にイギリス公使のハリー・S・パークスの推薦により来日する。▼初代の鉄道・建築師長として京浜間の鉄道建設に従事する。▼軌間を1,067ミリに定めた他、国産の木材を枕木に使用することを決める。

新梅田シティ滝見小路(2023年3月)

▼1869年(明治2年)、右大臣三条実美の私邸において、ハリー・S・パークスと政府高官の岩倉具視、沢宣嘉(のぶよし)、大隈重信、伊藤博文が会談した。▼日本における鉄道建設計画に関する下打ち合わせを行った。▼そこで、岩倉具視は鉄道建設はイギリスにバックアップしてほしいと伝える。▼東京京都間を幹線として位置づけ、幹線に接続する支線として東京~横浜間、京都神戸間、長浜敦賀間を計画してることを明らかする。

旧敦賀港駅舎/現・敦賀鉄道資料館(2019年7月)

▼ハリー・S・パークスは、日本の鉄道建設とその運営については明治新政府が自ら行うべきであると主張する。▼江戸幕府より鉄道建設の免許を与えられていたアメリカをおさえて、日本に国有鉄道を敷設する強い姿勢を示した。▼イギリスのハリー・S・パークスの提案は、イギリス資本で明治新政府の手による鉄道建設ということを強く主張していたため、明治新政府はイギリス資本による鉄道敷設を目指すこととなった。▼アメリカの場合にはアメリカ主体の鉄道敷設となること、フランスの場合には江戸幕府と明治新政府の対立を利用するものであることが避けられる要因となった。

青梅鉄道公園に保存される2120形式タンク式蒸気機関車(2020年10月)

▼エドモンド・モレルは、鉄道の技術教育を提唱するとともに鉄道建設を具体化し、日本鉄道史におけるその功績はきわめて大きかった。▼在職わずか1年6か月で病死し、その墓は横浜外人墓地にあり、1962年(昭和37年)に鉄道記念物に指定された。

この鉄道事業を主管したのは、1870年(明治3年)に民部省・大蔵省に設置された鉄道掛です。その後、工部省が創設され、鉄道事業は工部省主管へと変更されました。

国有鉄道のマーク(2019年1月)

▼主管:1871年(明治4年)工部省鉄道寮/1877年(明治10年)工部省鉄道局/1885年(明治18年)内閣鉄道局/1889年(明治22年)内閣鉄道庁/1892年(明治25年)逓信省鉄道庁/1893年(明治26年)逓信省鉄道局/1897年(明治30年)逓信省鉄道局=行政事務担当,逓信省鉄道作業局=鉄道作業事務担当/1907年(明治40年)逓信省帝国鉄道庁/1908年(明治41年)内閣鉄道院(院電)/1920年(大正9年)鉄道省(省電)/1949年(昭和24年)日本国有鉄道(国電)/1987年(昭和62年)日本国有鉄道分割民営化(JR)

世界初の鉄道が開通してから約50年後の1872年(明治5年)10月14日(旧暦:9月12日)、新橋~横浜間に日本初の鉄道が開業した。  旧新橋停車場(2023年2月) ▼この記念すべき明治5年9月12日、新暦でいうところの1872年10月14日は、1922年(大正11年)に当時の鉄道省によって「鉄道記念日」として制定された。▼1994年(平成6年)に当時の運輸省によって「鉄道の日」と改められ、国鉄を継承したJRだけでなく、全鉄道会社にとっての記念日となった。▼現在では「鉄道の日」には全国各地で各鉄道会社によってさまざまなイベントが開催されている。 青梅鉄道公園9600形蒸気機関車(2020年10月) ▼1874年(明治7年)に大阪神戸間の仮営業を経て、1877年(明治10年)に京都神戸間が正式に開業した。▼特に大阪京都への延伸については、一度に開通したわけではない。 京都駅(2019年5月) ▼1876年(明治9年)7月に向日町まで、9月に大宮通(仮駅)まで、1877年(明治10年)2月に京都へと達した。▼このときに、京都神戸間に設けられた中間駅は向日町、山崎、高槻、茨木、吹田、大阪、西ノ宮(現在の西宮)、三ノ宮だった。 吹田駅(2016年12月) ▼その後、新橋~横浜間および神戸大阪京都間、この東海道本線両端の間の線路は徐々に敷設され、1889年(明治22年)に最後に残った区間である関ヶ原~馬場(現在の膳所)間が開通して全通となる。 工事中の膳所駅(2018年1月) ▼東海道本線は1964年(昭和39年)に全線の電化を完了。▼1987年(昭和62年)4月1日には国鉄が分割民営化され、東海道本線のうち東京~熱海間はJR東日本、熱海~米原間はJR東海(熱海駅はJR東日本、米原駅はJR西日本)、米原~神戸間はJR西日本に分割された。 京都駅に到着する東海道本線の車両(2019年1月) ▼東海道本線は日本の鉄道史を象徴してきた路線である。▼現在でも、その営業距離は589.5キロ(支線を除く)にもおよび、駅数186駅を抱える日本の大動脈である。▼しかしながら、現在では全線走破する列車はほとんどない。 東京駅(2019年3月) ▼現在では、寝台特急「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」(愛称「サンライズエクスプレス)のみが東海道本線全線を走る。 サンライズエクスプレス(2022年12月) ▼「サンライズ瀬戸」の運行区間は高松~東京間、「サンライズ出雲」の運行区間は伯備線経由の出雲市~東京間である。▼2つの列車は岡山~東京間においては連結して運行される。 サンライズエクスプレス(2022年12月)

万世橋駅の歴史と旧万世橋駅の遺構

▼万世橋駅は、江戸時代より繁栄していた万世橋界隈に設置された駅。▼現在の中央本線神田駅と御茶ノ水駅の間にあった駅。▼万世橋駅は1912年(明治45年)に開業し、1943年(昭和18年)に営業を休止した。

神田川に架かる現在の万世橋(2019年10月)

▼江戸城三十六見附は、江戸城に置かれた見張り番所のうちの主な36か所をさす。▼一般的に、江戸城の堀に架けられた橋と一体になっている。▼赤坂見附などは現在でもその地名が残っているが、筋違見附(筋違橋門)は現在の万世橋と昌平橋の間にあった。

万世橋を跨ぐ中央線(2019年10月)

▼筋違見附(筋違橋門)は1872年(明治5年)に取り壊されている。▼翌年、その石材を再利用して「萬世橋(よろずばし)」と命名された石造りの橋が完成した。▼その後、しだいに「まんせいばし」という名が一般的となり、1896年(明治29年)にはこの橋の東側に木橋を渡して、馬車鉄道が走るようになった。

「万世橋架道橋」の文字が見える(2019年10月)

▼1903年(明治36年)になると、現在の万世橋のある位置に新しい万世橋が架けられた。▼筋違見附の場所にあった「元万世橋(萬世橋)」と名を代えていた眼鏡橋は後に撤去された。▼新しい万世橋には路面電車が走り、東京の名所にもなった。▼しかし、関東大震災で被災してダメージを受けたため、1930年(昭和5年)に架け直された。

昌平橋から旧万世橋駅方向を見る(2019年10月)

甲武鉄道は1904年(明治37年)に飯田町(現在は廃止)~御茶ノ水間を開業した後、御茶ノ水~万世橋間の工事に着手したが、その途中の1906年(明治39年)に甲武鉄道は国有化される。▼この工事は国有鉄道へと引き継がれるが、結果的に万世橋駅の完成までに約7年を要することになる。▼その間となる1908年(明治41年)に途上に仮駅として昌平橋駅を設けて中央本線の起点とした。▼その後、ついに1912年(明治45年)に万世橋駅までの延伸が完成した。▼このとき、昌平橋駅は廃止される。

昌平橋の上を跨ぐ中央線(2019年10月)

▼昌平橋が架けられたのは寛永年間(1624年~1644年)と伝えられており、「一口橋/芋洗橋(いもあらいばし)」「相生橋」などとよばれたこともある。▼「一口橋」の名は、この橋の南側を西に向かって坂を登ったところに一口稲荷神社(現在の太田姫稲荷神社)があったことに由来する。▼元禄時代には「相生橋」とよばれていたが、1961年(元禄4年)に徳川綱吉が湯島聖堂を建設した際、孔子誕生地の昌平郷にちなんで「昌平橋」とよばせることとなった。

神田川に架かる現在の昌平橋(2019年10がt)

明治時代になると、この橋は「相生橋」と改名されるが、1873年(明治6年)に大洪水で落橋し、1899年(明治32年)に再興されて「昌平橋」となった。▼現在の昌平橋は1928年(昭和3年)に架けられたものである。

現在の昌平橋(2019年10月)

▼その後、万世橋駅は1943年(昭和18年)に休止となってしまったが、赤レンガの万世橋高架橋の中にはホームや階段などの施設の一部が残っている。

旧万世橋駅の遺構(2019年10月)

▼現在ではこうした遺構を保存・整備している。▼これを「旧万世橋駅」としてリニューアルし、カフェなどのいくつかのショップが営業している。

「旧万世橋駅」として整備された建物(2019年10月)

土浦駅[常磐線]

史跡「土浦城址及び櫓門」の碑(2021年4月)

土浦駅は1895年(明治28年)、日本鉄道土浦線の駅として開業しました。その後、日本鉄道が国有化されて官設鉄道の駅となりました。1918年(大正7年)、筑波線(土浦~筑波間)が開業して乗換駅となりました。筑波線は1987年(昭和62年)に廃止となり、現在は常磐線の駅となりました。

江戸時代の土浦城(2021年4月)

この土浦駅から徒歩15分の場所にはかつて土浦城がありました。土浦城は江戸時代に築かれましたが、堀に映る本丸の姿が亀の姿に似ていたことから「亀城(きじょう)」ともよばれています。

本丸跡(2021年4月)

土浦城は平城(ひらじろ)であり、幾重にもめぐらされた堀を固めとする水城(みずじろ)でした。本丸、二の丸を中心とし、三の丸、外丸、武家屋敷、町屋がありました。北門、南門、西門をつなげる堀で囲む総構えとなっていました。

二の丸跡の碑(2021年4月)

現在では、本丸と二の丸の一部を公園として整備し、現在では「亀城公園」となっています。

土浦城址「亀城公園」(2021年4月)

土浦城の城主となったのは、戦国時代は若泉氏、信太氏、菅谷氏、織豊時代は結城氏、江戸時代前期は松平(藤井)氏、西尾氏、朽木氏、江戸時代中期以降は土屋氏でした。明治時代以降、その本丸は土浦県庁、新治県庁、新治郡役所などとして使われてきました。

土浦城址「亀城公園」(2021年4月)

亀城公園内にある現存する櫓門(やぐらもん)は1952年(昭和27年)に茨城県指定史跡第1号なりました。櫓門は1656年(明暦2年)に改築されたものであり、本丸にある江戸時代の櫓門としては関東地方唯一の遺構となっています。

櫓門(2021年4月)

その他に江戸時代の建築物としては、裏門の霞門、二の丸と外丸の間に移設された旧前川門(高麗門)があります。

霞門(2021年4月)

東櫓と西櫓は復元された建築物であり、これらは西尾氏の時代に本丸土塁の上に建築されたものとされます。

東櫓(2021年4月)

明治時代以降、多くの建築物が火災、移築、取り壊しなどにより消失し、本丸には櫓門、霞門、西櫓を残すのみとなってしまいました。このうち、西櫓も老朽化および台風の影響により取り壊しを余儀なくされました。現存する西櫓は1991年(平成3年)に復元されたものです。

西櫓(2021年4月)

湊線[ひたちなか海浜鉄道]

常磐線勝田駅(2022年2月)

ひたちなか海浜鉄道湊線は勝田~阿字ヶ浦間を結ぶ路線です。その歴史は1907年(明治40年)に設立された湊鉄道にはじまります。1913年(大正2年)に勝田~那珂湊間、1924年(大正13年)に那珂湊~磯崎間、1928年(昭和3年)に磯崎~阿字ヶ浦間が開業し、全通しました。

阿字ヶ浦駅に留置されるキハ2005とキハ222(2022年2月)


湊鉄道はローカル私鉄として営業を続けてきたものの経営が苦しい状態が続いていました。1944年(昭和19年)、県内の鉄道会社などと合併して茨城交通湊線となりました。茨城交通は2008年(平成20年)、湊線を廃線とする意向を示したものの、その後の協議によりひたちなか市と茨城交通が出資する第三セクターにより湊線を継続することとなりました。

勝田駅に到着する湊線の車両(2017年1月)

苦戦を続けるひたちなか海浜鉄道ですが、2017年度の決算においては輸送人員が初めて100万人を超え、業績が向上します。その要因としては、第一に国営ひたち海浜公園への観光客輸送があげられます。

ひたち海浜公園のネモフィラ(2019年5月)

2010年(平成22年)、金上(かねあげ)において列車交換設備が追加設置され、勝田~那珂湊間の列車を増発した。▼2014年(平成26年)に中根~那珂湊間において高田の鉄橋駅を新設開業。▼2021年(令和3年)に平磯~磯崎間に美乃浜学園駅を開業。▼2024年度の開業を目指して、現在の終点である阿字ヶ浦からひたち海浜公園への延伸を計画している。▼延伸部分には3駅を設ける予定。 阿字ヶ浦駅に到着する列車(2022年2月) ▼湊線ではレトロな旧型ディーゼルカーも現役として活躍中。▼キハ11形は東海旅客鉄道(キハ11-5)および東海交通事業(キハ11-6,11-7)で使用されていた車両であり、2015年(平成27年)に3両を購入したものである。▼購入後に設備の一部の改造や塗装の変更が実施され、同年より営業運行を開始。▼この車両の導入とともに、キハ2004形の営業運行終了。 キハ11-5(2017年1月)

▼勝田駅は常磐線の駅であり、ひたちなか海浜鉄道湊線の起点。▼勝田駅は、水戸駅から那珂川を渡ってすぐ北にある駅である。▼常磐線特急「ときわ」の多くは勝田駅始発となり東京方面へ向かう。 金町駅付近を走行する常磐線特急(2023年7月)

▼勝田駅にはひたちなか海浜鉄道湊線の単独の改札口はなく、東京方面から勝田駅に到着した場合にはJRの改札口を出ずに1番線ホームよりひたちなか海浜鉄道湊線に乗り換えとなる。

ひたち海浜鉄道は1番線へ(2022年2月)

1番線ホームにはひたちなか海浜鉄道湊線の乗換口があり、ICカード簡易精算機でここまでのJRの運賃を精算する。▼左手に、ひたちなか海浜鉄道湊線の乗車券販売所があり、ここでひたちなか海浜鉄道湊線の乗車券を購入することができる。▼ひたちなか海浜鉄道湊線ではICカードは利用できない。

写真左:1番線湊線ホーム/右:2番線常磐線上りホーム(2022年2月)

▼那珂湊駅の車両基地にはいくつかの古い車両が留置されている。▼那珂湊駅の駅舎を出て、県道6号(水戸那珂湊線)を水戸方面へ少し歩いてから右脇道へ逸れると、再び湊線と合流する踏切の横に「キハ203」「ケハ601」の案内表示がある。 踏切横の案内表示(2022年2月) ▼踏切を渡って右に行くと、那珂湊駅の駅舎の反対側に出て、留置車両を近くで見ることができる。▼オレンジの車両は国鉄から鹿島臨海鉄道へ譲渡された後、茨城交通へと渡ってキハ203として湊線を走った車両。▼2006年(平成18年)に引退し、那珂湊駅に留置されている。 キハ203(2022年2月) ▼シルバーの車体「ケハ601」は車輪部分もない。▼1960年(昭和35年)に新たに製造されたシルバーの車体は、当時は画期的な日本初のステンレス車体の気動車だった。 ケハ601(2022年2月) ▼阿字ヶ浦駅に留置されるキハ222は、1962年(昭和37年)に製造されて北海道の羽幌(はぼろ)炭礦鉄道で活躍した。▼1970年(昭和45年)にこれが廃線になると、茨城交通へ譲渡されて湊線を走った後、2015年(平成27年)に引退。 キハ222(2022年2月)

ひたちなか海浜鉄道の駅名標はすてきだ。▼駅名標の駅名の漢字の中には、それぞれの駅の名物などをイメージしたイラストが描かれている。▼たとえば、その起点となる勝田駅の駅名標には、鉄道の車両と会社のロゴマークが描かれている。▼駅名標のオレンジ色はひたちなか海浜鉄道のシンボルカラー。

勝田駅駅名標(2022年2月)

▼これらは現代アートプロジェクト「みなとメディアミュージアム(MMM)」により制作されたアート作品である。

キハ222(2022年2月)

▼MMMとは「産+学+芸」の三者からなる実行委員会により運営されているグループであり、「産」とは那珂湊地区商店街、ひたちなか海浜鉄道湊線、「学」とは主に大学教員、大学院生、大学生、「芸」とはアーティストをさす。

那珂湊駅駅舎(2022年2月)

▼現在の「工機前駅」は1962年(昭和37年)、「日工前駅」として開業した。▼当時、日立工機従業員専用駅として開業したが、日立工機の社名が工機ホールディングスとなったため、2019年(令和元年)に「工機前駅」に変更された。▼駅名標には、工機ホールディングスが製造する工具が描かれ、「機」の字の一部は電気マークとなっている。

工機前駅駅名標(2022年2月)

▼金上(かねあげ)駅の近くには陸上自衛隊の勝田駐屯地があり、この辺りは桜の名所もあることから、その駅名標には桜と戦車が描かれている。

金上駅駅名標(2022年2月)

▼中根駅周辺は田園地帯が広がっている。▼7世紀前半頃の虎塚古墳があることから、その駅名標には矛(ほこ)と前方後円墳が描かれている。

中根駅駅名標(2022年2月)

▼高田の鉄橋駅は2014年(平成26年)に開業した比較的新しい駅。▼駅の近くを流れる川に架かる中丸川橋梁は通称「高田の鉄橋」とよばれてきた。▼駅名標にも鉄橋を電車が渡る様子が描かれている。

高田の鉄橋駅駅名標(2022年2月)

那珂湊駅の駅名標には、近くにある反射炉那珂湊駅に保存される「日本初のステンレス製気動車ケハ601」、那珂湊駅の人気者である猫が描かれている。

那珂湊駅駅名標(2022年2月)

▼殿山駅の駅名標には、ひたちなか市の花であるハマギクの他、ケイトウの花の2種類が描かれている。

殿山駅駅名標(2022年2月)

▼平磯駅近くには海水浴場がある。▼平磯駅の駅名標には、平磯海水浴場のシンボルとなる「クジラの大ちゃん」と平磯海岸で見られる渡り鳥が描かれている。

平磯駅駅名標(2022年2月)

▼美乃浜学園駅は2021年(令和3年)に開業した新しい駅。▼その名の通り学校の最寄り駅となる。▼駅名標には、美しい海、学校名の語源となる万葉集の和歌、学校の屋上にあるソーラーパネル、地元の民謡にちなんだ三味線、近くの海岸に自生するスカシユリが描かれる。

美乃浜学園駅駅名標(2022年2月)

▼磯崎駅の近くに広がるサツマイモ畑と酒列磯崎(さかつらいそさき)神社。▼磯崎駅の駅名標にはサツマイモと酒、神社に祀られる少彦名命(すくなひこなのみこと)が描かれている。

磯崎駅駅名標(2022年2月)

▼阿字ヶ浦駅の駅名標には近くにある温泉と、海にちなんで釣り針と海藻、茨城名物「あんこう鍋」よりアンコウが描かれている。

阿字ヶ浦駅駅名標(2022年2月)

▼湊線(勝田~阿字ヶ浦間)の主要駅。▼1913年(大正2年)、湊鉄道の駅として開業。▼1944年(昭和19年)に茨城交通の駅となる。▼1998年(平成10年)に「歴史と伝統のある駅で開業当時の面影を残した駅」としてに関東の駅百選に選出される。

那珂湊駅舎(2022年2月)

▼現在の那珂湊駅も開業当時の雰囲気を醸し出す。これまでも映画やドラマ、CMなどの撮影に利用される。▼那珂湊は江戸時代より水運で栄えたまちであり、市中にも歴史ある建物などが残る。

那珂湊駅駅舎内(2022年2月)

▼山上門:那珂湊駅から徒歩5分。▼山上門は水戸藩江戸小石川邸正門右側の門であり、江戸時代後期に勅使奉迎のために設置された。▼小石川邸の建築物は山上門以外はすべて消失。▼その名前の由来は、後に小石川邸内の山上に移築されたことによる。▼山上門は本柱と控柱を結ぶ梁の中間に束をおき切妻屋根をのせた形であり、「薬医門」という江戸時代後期の典型的な屋敷門。▼1936年(昭和11年)に那珂湊出身の深作貞治が陸軍から払い下げを受け、ここに移築して保存した。▼1957年(昭和32年)に那珂湊市に寄贈される。

山上門(2022年2月)

▼茨城県指定史跡「那珂湊反射炉」は山上門のすぐ近くにある。▼この反射炉(大型の金属溶解炉)は1937年(昭和12年)にほぼ原型通りに復元された模型。

那珂湊反射炉(2022年2月)

▼幕末には、那珂湊沖にも異国船が出現。▼水戸藩主・徳川斉昭が「海防の要」を唱えて領内に砲台を建設するために、大砲の鋳造を目的としてここに反射炉をつくる。

那珂湊反射炉(2022年2月)

▼1855年(安政2年)に1号炉、1857年(安政4年)に2号炉が完成。▼1864年(元治元年)の天狗党の乱(元治甲子の乱)で壊される。

那珂湊反射炉(2022年2月)

▼反射炉建設にあたっては高熱に耐える煉瓦の製造が必要となる。▼そうした煉瓦を焼成するために築かれた登り窯(煉瓦焼成窯)の復元模型が反射炉の近くにある。

煉瓦焼成窯(2022年2月)

名古屋鉄道(名鉄)の歴史

▼1894年(明治27年)に設立された愛知馬車鉄道は、1896年(明治29年)に電気鉄道敷設の許可を得て名古屋電気鉄道と社名を変更した。▼1898年(明治31年)に笹島(後の名古屋駅前)~県庁前(後の久屋町)間の営業を開始。▼その後、押切線(柳橋~押切町間)の開業を皮切りとして、順調に名古屋市内の路線(市内線)拡大。▼1919年(大正8年)に熱田電気軌道の熱田伝馬町~南陽館前間を編入。▼郊外の路線についても、1912年(大正元年)に一宮線(枇杷島~西印田間)・犬山線(岩倉~犬山間)を開業。▼1921年(大正10年)に名古屋電気鉄道が出資して名古屋鉄道(旧)が設立される。▼名古屋電気鉄道の市内線は1922年(大正11年)、名古屋市に譲渡されて郊外の路線はこの名古屋鉄道(旧)が継承した。▼名古屋鉄道(旧)は1930年(昭和5年)、美濃電気軌道と合併して名岐鉄道となった後、1935年(昭和10年)には各務原鉄道を合併。▼同年、名岐鉄道は愛知電気鉄道を合併して名古屋鉄道(新)となった。

史跡足利学校(栃木県足利市)

▼足利学校は「日本最古の学校」といわれる。▼しかし、その創設には諸説あるという。

足利学校(2020年10月)

▼一つは、奈良時代における国学の遺制であるというもの。▼一つは、832年(天長9年)に小野篁(おののたかむら)が創建したというもの。▼一つは、足利尊氏の祖となる足利義兼(よしかね)が創建したというもの。▼一つは、1439年(永享11年)に関東管領の上杉憲実が建てたというもの。▼いずれにせよ、足利学校の歴史について記されているのは室町時代中期以後となる。

孔子像(2020年10月)

▼足利学校の範囲とその規模についてはその年代により異なるが、最盛期となる室町時代の遺構は明確ではない。▼大正時代に指定史跡となった際、その範囲のうち東半分がすでに小学校となっていて、その範囲では建物が取り壊されていた。▼ところが、近年では整備が進められ、東半分は江戸時代中期頃の様子へと復元されている。

大成殿(2020年10月)

▼大成殿、杏壇門、学校門、入徳門、稲荷堂の建物、土塁の一部などが現存する。▼方丈(ほうじょう)、庫裡(くり)、書院、土蔵、木小屋、衆寮(しゅうりょう)、裏門の建物、庭園、堀、土塁などは復原である。

学校門(2020年10月)

▼「史跡足利学校」へは、両毛線の足利駅からは徒歩10分。▼東武伊勢崎線の足利市駅からは徒歩15分。

足利駅(2020年10月)

▼三門とは、入徳門、学校門、杏壇門をいう。▼これは、江戸時代より受け継がれてきたものである。

入徳門を入ると学校門が見える(2020年10月)

▼「入徳」とは「徳に入る」の意である。▼道徳心を習得する場所(学校)に入るということを示す。▼入徳門は、足利学校への入口だが、1831年(天保2年)に近隣の火災により類焼し、1840年(天保11年)頃修築されるものの腐朽してしまい、1909年(明治42年)には裏門をここへ移転修築したと伝えられる。

入徳門(2020年10月)

▼学校門は、日本で唯一の「学校」の額が掛けられた門。▼1668年(寛文8年)に建てられたもの。▼これは、足利学校のシンボルとなっている。

学校門(2020年10月)

▼土蔵は、宝暦年間の姿に復元されたもの。▼外壁から屋根にかけて土で塗り固めた後、漆喰で仕上げたものである。▼土蔵は大切なものを格納するものであり、堅牢な耐火建築となっている。

土蔵(2020年10月)

▼孔子廟は、儒学の祖である孔子を祀る廟である。

孔子廟(2020年10月)

▼そのうち、大成殿は1668年(寛文8年)に建てられ、正面には孔子坐像、右側には小野篁像を安置している。▼孔子坐像は1535(天文4年)に造られた日本最古の孔子彫像である。

大成殿(2020年10月)

▼杏壇門は1892年(明治25年)に火災で焼失。▼しかし、1900年(明治33年)に再建された。

杏壇門(2020年10月)

▼方丈は、儀式や行事に使用される部屋。▼庫裡は土間や台所などがあり、日常の生活空間となっていた。▼書院は、接客の場所。▼方丈、庫裡、書院などを廊下でつなぐ建物が主屋となっていた。▼衆寮は、僧房または学生が寄宿する場所。▼現在のこれらの建物は宝暦年間の再現となっている。

復原された建物(2020年10月)

▼方丈の南北には、池がある築山泉水庭がある。

南庭園(2020年10月)

▼南庭園よりも北庭園の方が格が高く、広さも大きくなっている。

北庭園(2020年10月)

▼旧足利学校遺蹟図書館は1915年(大正4年)に建設されたもの。▼これは足利市重要文化財となっている。

旧足利学校遺蹟図書館(2020年10月)

▼その屋根は入母屋造桟瓦葺であり、基礎や外壁はレンガ積みをした上で石材および漆喰で仕上げられている。▼和風の屋根および洋風の外壁・内装の和洋折衷の様式などの意匠的特徴は大正時代の建築物として貴重な存在となっている。

旧足利学校遺蹟図書館(2020年10月)

桜ノ宮駅と廃線遺構

▼毛馬桜之宮公園は大川(旧淀川)にある毛馬水門から天満橋まで広がる川沿いの公園であり、きれいな桜並木が続く。

毛馬桜之宮公園(2018年3月)

▼その毛馬桜之宮公園とホテル街の間、大阪環状線の桜ノ宮駅から南へ徒歩7分ほどの場所にひっそりと櫻宮(桜宮神社)という神社がある。

櫻宮(2016年11月)

▼櫻宮(桜宮神社)には、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、八幡大神(やはたのかみ)、仁徳天皇が祀られる。

櫻宮(2016年11月)
img_1962

▼櫻宮(桜宮神社)はかつて現在の東野田町にあった。▼社殿が洪水で流され、現在の中野町(現在の桜ノ宮駅付近)に漂着し、そこに祀られた。

櫻宮(2016年11月)
img_1963

▼そこでも水害に悩まされた末、1756年(宝暦6年)に現在の地に移る。

櫻宮(2016年11月)
img_1964

櫻宮(桜宮神社)近くの桜ノ宮駅についての話。▼1975年(昭和50年)、山陽新幹線の岡山~博多間が開業する一方で、国鉄の累積赤字はより一層大きくなりその経営状況は大きく悪化していた。▼国鉄は、経営状況改善に向けて合理化に着手しようとするが、労働組合との関係も悪化してストライキが行われるなどしたため、国鉄に対するイメージは著しく悪化した。

毛馬桜之宮公園(2018年3月)

▼そうした中、1975年(昭和50年)~1976年(昭和51年)にかけて、累積赤字解消のため運賃値上げを実施した。▼結果的に、大都市においては乗客を私鉄に奪われ、長距離輸送においては飛行機に乗客を奪われた。

大川に架かる淀川橋梁(2019年2月)

▼当時の桜ノ宮駅にはホームのほとんどに屋根がなく、雨の日にホームで電車待ちをするには傘をさす必要があった。▼運賃値上げに対する見返りとして、国鉄はホームに屋根をつけ、乗客サービスを向上させるという提案をした。

桜ノ宮駅(2017年8月)
img_1617

▼ところが、屋根工事にあたって、戦前から道路沿いに植えられた桜が邪魔になっていた。▼桜を残すか、工事を強行するかで議論があった。▼結果的に、桜は切られて工事が実施された。▼その後、西口に桜が植えられたという。

大川に架かる淀川橋梁(2019年2月)

桜ノ宮駅のすぐそばを流れる大川沿いは、江戸時代から「桜の名所」として知られる。▼現在の桜ノ宮駅では、その発車メロディーに「さくらんぼ」(大塚愛)を使用。▼2004年(平成16年)のヒット曲だが、歌手の大塚愛さんが大阪出身であることと、大川沿いの毛馬桜之宮公園が「桜の名所」であることから選曲された。

淀川橋梁の桁下(2019年2月)

▼桜ノ宮駅は1898年(明治31年)、大阪鉄道(現在の大阪環状線の一部)の駅として京橋~天満間に新設開業した。▼その後、関西鉄道大阪鉄道を合併したため、関西鉄道の所属となった。

桜ノ宮駅東側の廃線遺構(2016年10月)
img_1622

▼桜ノ宮駅の北側には、かつて広大な淀川貨物駅・淀川電車区などがあった。

桜ノ宮駅東側の廃線遺構(2016年10月)
img_1618

▼そのため、現在の桜ノ宮駅周辺には数多くの廃線遺構があるといわれる。

桜ノ宮駅東側の廃線遺構(2016年10月)
img_1619

▼現在では、淀川貨物駅などの跡地は再開発により総合医療センターやマンション群へと変化を遂げた。▼そうした中、歴史を物語る古い遺構の数々も少しずつ姿を消している。

桜ノ宮駅東側の廃線遺構(2016年10月)
img_1623

▼桜ノ宮駅から大川沿いに北へ少し歩くと都島橋がある。▼都島橋東詰南側には「大阪市水道発祥之地」

大阪市水道発祥之地」石碑(2016年11月)

▼1895年(明治28年)、大阪市最初の上水道がこの場所から送水された。▼ここから、上水道が送水されるまで飲料水は淀川の井戸水に頼っており、感染症などのリスクがあった。▼その後、大阪市の人口が増えるにつれ施設の拡張に迫られ、柴島浄水場を建設した。▼そのため、この地での送水は1915年(大正4年)に停止している。

桜ノ宮駅を出発して淀川橋梁を渡る大阪環状線の車両(2019年2月)

▼桜ノ宮駅や櫻宮(桜宮神社)は大阪市都島区にある。▼櫻宮(桜宮神社)から大川沿いに少し下ると「都島区由来記」の石碑が立つ。▼遠い昔、母なる川である淀川に生成した多数の島や洲によって都島の大地がつくられたのがそのはじまりとなる。

「都島区由来記」石碑(2016年11月)

▼「都島区由来記」石碑が立つのは、京阪国道(国道1号線)の桜宮橋東詰。▼桜宮橋は大阪を代表する美しい橋の一つである。▼太陽の光が射すと銀色に輝き、地元の人々は「銀橋」として親しまれる。▼桜宮橋は1930年(昭和5年)に完成し、その長さは188メートル,幅23メートル。▼全国的に有名な桜の名所「造幣局の通り抜け」は桜宮橋西詰となる。

OAP(大阪アメニティパーク)を背にする銀橋(2016年11月)
img_1973

▼平安時代には民家や寺院なども見られたが、実際に都島区の各地に集落が形成されるようになったのは近世になってからのこと。▼京橋口から発する京街道が開発されて、京都大阪を結ぶ道が政治的にも経済的にも大動脈となってからのこと。▼1889年(明治22年)に大阪市制が施行されて大阪市が誕生した後、市域拡張および行政区の再編成などがあって、1943年(昭和18年)に都島区は現在の区域として誕生した。

毛馬桜之宮公園(2018年3月)

竹田駅と城南宮・鳥羽伏見の戦い

1.竹田駅 2.四神と城南宮 3.院政と鳥羽離宮(城南離宮) 4.城南宮へのアクセス 5.城南宮と曲水の宴 6.鳥羽伏見の戦い

 

城南宮/室町の庭(2019年4月)


竹田駅

竹田駅は京都線および京都市営地下鉄駅です。竹田駅はもともと、1928年(昭和3年)に奈良電気鉄道(奈良電)京都桃山御陵前間を開通した際に城南宮前(じょうなんぐうまえ)駅として設置されました。

 

竹田駅(2017年12月)

 

その後、1940年(昭和15年)に竹田駅と改称されています。旧駅名が城南宮前駅であることからわかるように、竹田駅城南宮の最寄り駅となります。

 

竹田駅(2017年12月)

 

城南宮は竹田駅より徒歩15分ほどの場所にあり、現在では「方除(ほうよけ)の大社」として全国的に知られています。

 

城南宮(2019年4月)

 

方除は引っ越しや工事、家相などの心配を取り除くことですが、古くから住まいを清めるための御砂や方角の災いを方除御札を城南宮で授かるという習慣もあります。また、現在では家庭円満や厄除、安全祈願および車の御祓いのため全国から多くの人々が訪れます。

 

城南宮(2019年4月)


四神と城南宮

城南宮の歴史は平安京に都を遷した794年(延暦13年)にまで遡りますが、このとき平安京の守護神として創建したと伝えられます。城南宮は国常立尊(くにのとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)、息長帯日売尊(おきながたらしひめのみこと)を合祀した平安京(平安城)の南に位置する宮です。

 

城南宮(2019年4月)

 

四神(しじん)は東西南北四方位の守護神のことですが、京においては東の青龍(蒼龍)、西の白虎、南の朱雀、北の玄武を示します。京の四方(東:八坂神社、西:松尾大社、南:城南宮、北:上賀茂神社)と中央(平安神宮)に位置する五社が守護する平安京は四神相応の都として造営されました。

 

城南宮東側の鳥居(2019年4月)


院政と鳥羽離宮(城南離宮)

院政とは天皇が譲位し上皇(太上天皇)となった後も、天皇に代わって政治を行うことであり、平安時代末期から鎌倉時代初期までに見られた政治形態です。1086年(応徳3年)に白河天皇は堀河天皇に譲位して上皇となった後も政務を担当し、これが院政のはじまりといわれています。

 

城南宮/平安の庭(2019年4月)

 

白河上皇は堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇の時代、鳥羽上皇は崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の時代、後白河上皇は二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇の時代、後鳥羽上皇は土御門天皇、順徳天皇、仲恭天皇の時代にそれぞれ院政を行いました。院政は後鳥羽上皇が承久の乱によりその実権を失うまで続きました。

 

城南宮にて再現される曲水の宴(2019年4月)

 

鳥羽離宮(城南離宮)院政が行われた広大な離宮であり、その広さは東西1.5キロメートル、南北1キロメートルにもおよびます。平安京の朱雀大路からまっすぐ南に下った場所にあり、その造営は院政のはじまりとされる1086年(応徳3年)に開始されました。白河上皇の時代に続き、鳥羽上皇の時代にも造営は続きました。

 

城南宮/城南離宮の庭(2019年4月)

 

北殿、南殿、泉殿、馬場殿が大きな池の近くに造られましたが、それぞれの殿舎の往来には船が使われました。鳥羽上皇の時代になると、東殿、田中殿が造営されました。

 

現地に掲示される鳥羽離宮の様子(2019年4月)


城南宮へのアクセス

近畿日本鉄道地下鉄烏丸線の竹田駅西口をしばらく南下すると右手には森があります。

 

森(2019年4月)

 

この辺りは鳥羽離宮の東殿のあった場所であり、三重塔3基、多宝塔1基が築かれるなどして他の殿とは異なる様相を呈していたといいます。こうした塔は白河天皇(成菩提院陵)、鳥羽天皇(安楽寿院陵)、近衛天皇(安楽寿院南陵/再建多宝塔が現存)の御陵となっています。

 

近衛天皇安楽寿院南陵(2019年4月)

 

森の中にある安楽寿院は真言宗智山派の寺院であり、鳥羽離宮の東に鳥羽上皇が造営した仏堂をその起源とします。その境内の近くには鳥羽天皇と近衛天皇の御陵があります。

 

安楽寿院(2019年4月)

 

このように東殿周辺は死後の世界に関わる領域となっています。

 

史跡安楽寿院境内(2019年4月)

 

この辺りの森を右手に見ながら、さらに南下すると大きな通り新城南宮道があります。これを西へ入るか、さらに南側には城南宮道がありますのでこれを西へ入ることもできます。新城南宮道または城南宮道を西へ進むと、高速道路(阪神高速8号京都線)の走る大きな通り(油小路通)があり、これを越えます。新城南宮道と油小路通の交差点の北東には北向山(きたむかいざん)不動院があります。

 

北向山不動院前より新城南宮道の東を見る(2019年4月)

 

北向山不動院は天台宗の寺院であり、1130年(大治5年)に鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮内に創建されたものです。開祖となった興教(こうきょう)大師が不動明王を王城鎮護のために北向きに安置したことにより、鳥羽上皇より「北向山不動院」の名を賜ったとされます。

 

北向山不動院(2019年4月)

 

現在本堂となるのは1712年(正徳2年)に東山天皇の旧殿を移設したものです。

 

北向山不動院(2019年4月)

 

城南宮道と油小路通の交差点の北西角には城南離宮道標を見つけることができます。

 

城南離宮道標(2019年4月)

 

さらに西へ歩いて行くと城南宮の東側の鳥居に到着します。この鳥居は1861年(文久元年)に兵庫津の北風家により寄進されたものです。兵庫津は現在の神戸港の前身であり、北風家はその兵庫の廻船問屋でした。城南宮の氏子であった長谷川家より貞忠がその養子となって北風家を継いでいます。

 

城南宮東側の鳥居(2019年4月)


城南宮と曲水の宴

城南宮東側鳥居の扁額の文字は有栖川宮幟仁(ありすがわのみやたかひと)親王によるものです。歌道と書道をその家学とする有栖川宮家において、有栖川宮幟仁親王は書道有栖川流を大成して確立しています。

 

鳥居の扁額(2019年4月)

 

鳥羽離宮(城南離宮)で院政が行われるようになると、城南宮はより一層崇められるようになり、平安時代後期には古来の弓馬術である流鏑馬(やぶさめ)や馬を走らせて勝負する競馬(くらべうま)などの行事が行われて賑わうようになりました。

 

城南宮(2019年4月)

 

城南宮の庭園「楽水苑」には花の庭、平安の庭、室町の庭、桃山の庭、城南離宮の庭というように趣向が凝らされた庭があり、ここでは毎年春と秋に「曲水の宴」とよばれる優雅な行事が行われます。

 

曲水の宴(2019年4月)

 

曲水の宴は、奈良時代から平安時代にかけて宮中で催された歌会を再現した行事です。平安の庭を模した緑の中をゆるやかな一筋の遣水(やりみず)が流れていて、そのほとりで雅やかな曲水の宴は催されます。

 

曲水の宴(2019年4月)

 

境内には小さな社がいくつかありますが、これらは摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)などとよばれます。いずれも本社に附属する神社ですが、特に本社と関係が深い神社は摂社とよばれるそうです。三照宮社(さんしょうぐうしゃ)、芹川天満宮(唐渡天満宮)、真幡寸神社(まはたきじんじゃ)、飛鳥田神社などがあります。

 

三照宮社(2019年4月)

 

芹川天満宮(唐渡天満宮)には菅原道真が祀られますが、1111年(天永2年)に城南宮の南となる芹川の地に勧請されたと伝えられます。大正時代の初めに現在地に遷されています。

 

芹川天満宮(2019年4月)


鳥羽伏見の戦い

王政復古の大号令により江戸幕府が廃された後、最後の将軍・徳川慶喜は二条城から大坂へと移り住みました。

 

城南宮西側の鳥居(2019年4月)

 

そして、徳川家の領地返納を決定した薩摩藩・長州藩などに対して不満を抱えた幕臣(会津藩・桑名藩など)は1868年(明治元年)正月一日に挙兵し、大坂から京へ攻め入りました。新政府軍(薩摩藩・長州藩など)は城南宮に布陣してこれを迎え撃ち、鳥羽伏見の戦いが勃発しました。

 

鳥羽伏見の戦い跡の碑(2019年4月)

 

この一戦がきっかけとなり、これから2年に渡る戊辰戦争がはじまりました。

瀬田の唐橋と唐橋前駅

1.瀬田の唐橋 2.唐橋前駅と瀬田川

 

瀬田の唐橋(2017年9月)


瀬田の唐橋

1986年(昭和61年)に当時の建設省(現在の国土交通省)が8月10日を「道の日」と定めました。その制定を記念して日本の道百選が選定されましたが、瀬田の唐橋「歴史をきざむ日本の名橋」として1986年(昭和61年)に選定されています。

 

瀬田の唐橋(2017年9月)

 

その歴史を見ると、架けられた年代は不詳ですが、『日本書記』にもその名が登場する古い橋です。唐橋の位置を現在の位置に移したのは織田信長であり、現在と同じように中島を挟んだ形にして、大橋と小橋に整備されたと考えられています。

 

大橋(2017年9月)

 

古くから「唐橋を制するものは天下を制す」といわれており、その場所は京へ通じる交通の要衝であることから、歴史上何度も戦乱の舞台となり、橋も幾度となく焼失しました。現在架かる橋は1979年(昭和54年)に架け替えられたものです。

 

車が多く見えるあたりが小橋(2017年9月)


唐橋前駅と瀬田川

瀬田の唐橋の最寄りとなる駅が石山坂本線の起点となる石山寺駅の1つ北にある唐橋前駅です。

 

唐橋前駅駅名標(2017年9月)

 

瀬田の唐橋瀬田川に架かります。瀬田川は琵琶湖南端の石山辺りから流れ出て南へ進み、しばらくすると大きく西へカーブして宇治市を通り宇治川となり、淀川へと注いでいます。

 

瀬田の唐橋(2017年9月)

 

かつては、東から東海道を通って京へ入るには、瀬田川を渡らなければなりませんでした。そうでなければ、南または北へ大きく迂回するか、琵琶湖を船で渡らなければなりません。

 

唐橋前駅ホームより京阪石山駅方面を見る(2017年9月)

 

1889年(明治22年)までは、瀬田の唐橋はこの瀬田川を渡す唯一の橋であったといいます。

 

唐橋前駅ホームより石山寺駅方面を見る(2017年9月)

日本初の蒸気機関車と日本初の電車

1.日本で初めての蒸気機関車登場 2.蒸気機関車の種類 3.国産蒸気機関車の誕生 4.日本初の電車

 

京都鉄道博物館「SLスチーム号」(2019年1月)


日本で初めての蒸気機関車登場

日本で初めて蒸気機関車が登場したのは、日本初の鉄道となる新橋~横浜間の走行用としてのものであり、当時10両の蒸気機関車が日本へ輸入されました。このとき、ストックトン=ダーリントン鉄道が開業してから、すでにおよそ50年になろうとしていました。

 

青梅鉄道公園「C11」タンク式蒸気機関車(2020年10月)

 

10両のうちたまたま「1号機関車」に設定された機関車は、バルカン・ファウンドリー社(イギリス)製のタンク機関車であり、1871年(明治4年)に製造されたものです。その動輪の直径は1,295ミリとなる小さな機関車です。

 

京都鉄道博物館:旧二条駅舎前の動輪(2019年1月)

 

この機関車は最初は「A1」とよばれ、後に「150形」と命名されています。その後、島原鉄道へ転じ、1936年(昭和11年)より東京(万世橋)にあった交通博物館において静態保存されていました。交通博物館が閉館となった後は鉄道博物館(さいたま市)に展示されています。この1号機関車は1958年(昭和33年)には鉄道記念物に指定され、1997年(平成9年)には国の重要文化財に指定されています。

 

青梅鉄道公園展示/上:150形、中:弁慶号、下:860形

 

「3号機関車」とよばれた後の「110形」はヨークシャー・エンジン社(イギリス)製の機関車であり、1号機関車よりやや小ぶりの機関車です。1961年(昭和36年)には鉄道記念物に指定され、青梅鉄道公園に保存展示されていましたが、現在ではその展示を終了しています。

 

蒸気機関車59609号

 

10両のうちの4両はシャープ・スチュアート社製の「A6」「A7」といわれた蒸気機関車であり、後に「160形」と称されました。その外観および性能は1号機関車とほとんど同じです。現在では、これらと同形式の蒸気機関車が明治村(愛知県)に保存されています。また、他の4両はロバート・スティーブンソン社製の「A4」とよばれ、後に「120形」となりました。

 

青梅鉄道公園「D51-452」後ろ姿(2020年10月)


蒸気機関車の種類

蒸気機関車にはタンク機関車とテンダー機関車(炭水車つき機関車)があります。タンク機関車は水および石炭を機関車本体に積載していますが、テンダー機関車は水および石炭を積載した燃料運搬車が接続された機関車となります。タンク機関車の型式番号は「C11」などのようにその数字が10~49、テンダー機関車は「C58」などのようにその数字が50~99となっています。また、アルファベットは動輪(動力を伝える車輪)の数を表し、たとえば「C」は動輪が3つ、「D」は動輪が4つとなります。

 

枝垂れ桜(2022年4月)


国産蒸気機関車の誕生

1877年(明治10年)になると、新橋~横浜間に次いで、京都神戸間が開業しました。京都神戸間は新橋~横浜間に比べると、その距離が長くなるため、テンダー機関車を使用することになりました。京都神戸間に投入された機関車は当初「D1」とよばれ、後に「5000形」とよばれます。これはシャープ社(イギリス)製であり、その出力は新橋~横浜間を走る蒸気機関車より約30%大きいものであったといいます。

 

新橋駅前に保存されるタンク機関車C11形(2018年9月)

 

当初こうした蒸気機関車の機関士として活躍し、またその整備や保守を担当したのはイギリス人でした。日本人はその下働きとして鉄道に携わることになります。日本人として初めての機関士が登場したのは1879年(明治12年)のことであり、それから10年以内にはさまざまな職種が日本人だけで運営できるようになりました。

 

京都鉄道博物館「SLスチーム号」(2019年1月)

 

1889年(明治22年)に東海道本線が全通した後、高崎~直江津間、上野~青森間、神戸~下関間などが開通し、より多くの機関車が必要となります。機関車を製造する世界の国々からはさまざまな機関車の売り込みが増えるようになり、さまざまな国のさまざまな機関車が輸入されるようになりました。

 

京都鉄道博物館から京都駅方面をのぞむ(2019年1月)

 

その後、国内で蒸気機関車を製造しようとする動きが出てきたため、外国から鉄道技術者を多く招き入れ、日本人の鉄道技術者を育成することに注力することになります。そして、ついに1893年(明治26年)、日本初の国産蒸気機関車が誕生しました。この蒸気機関車は後に「860形」(タンク機関車)と名付けられています。

 

青梅鉄道公園「2120形式タンク式蒸気機関車」(2020年10月)

 

この日本初の国産蒸気機関車はイギリス人技師の指導の下、森彦三、服部勤らの手により神戸工場で製造されました。この国産1号機は京都神戸間を走行した後、1918年(大正7年)に樺太鉄道に移籍し、1929年(昭和4年)に廃車となりました。

 

京都鉄道博物館:旧二条駅舎(2019年1月)

 

そして、国産2号機となったのは7150形(テンダー機関車)ですが、1895年(明治28年)に手宮工場(小樽市)にて日本人の手だけによって製造されたので、この蒸気機関車こそまさに「国産第1号」となります。その名は日清戦争に勝利した直後ということもあり「大勝(だいしょう)号」と名付けられました。

 

青梅鉄道公園:腕木式信号機と9600形式蒸気機関車(2020年10月)

 

1911年(明治44年)頃には日本の蒸気機関車は約3,000両近くにもなっていましたが、1906年(明治39年)には鉄道国有化法の施行によって、それぞれにばらばらに輸入されていた全国のさまざまな蒸気機関車をすべて国鉄にて保守・点検しなければならなくなっていました。それらに関連するコストを削減するため、すべての機関車を国産化するよう方針を転換し、1911年(明治44年)には蒸気機関車の輸入税率を引き上げることにより国産機関車の保護政策を実施します。

 

京都鉄道博物館:国産初量産型「230形233号機」(2019年1月)

 

1913年(大正2年)には9600形蒸気機関車、1914年(大正3年)には8620形蒸気機関車が製造され、前者は貨物用、後者は旅客用として大正時代の代表的蒸気機関車となりました。また、急行列車用としては1919年(大正8年)~1928年(昭和3年)にかけて18900形蒸気機関車(後のC51形蒸気機関車)が製造されています。

 

青梅鉄道公園「9600形式テンダー式蒸気機関車9608号」(2020年10月)

 

その後、昭和時代に入ってからもさまざまな蒸気機関車が製造されますが、やがて電車に取って代わられるようになっていきます。最終的に国鉄が蒸気機関車の営業を終了したのは1975年(昭和50年)のこととなります。しかしながら、蒸気機関車の人気は今でも衰えず、真岡鐵道のように復活して人気を博している蒸気機関車も数多くあります。

 

真岡鐡道C12-66号(2020年1月)


日本初の電車

一方、日本で初めての電車が走ったのは蒸気機関車が初めて走ったのと同じ明治時代であり、1890年(明治23年)の上野公園でした。当時、上野公園では第3回内国勧業博覧会が行われており、この会場でアメリカから輸入された2両の電車が、公園内に敷設された400メートルの線路上を走りました。短い距離でしたが、乗客を乗せて走行し、人々の人気を博しました。

 

京都市電2000形電車(2019年1月)

 

その後、営業用として初めて走行した電車は京都の路面電車であり、それは1895年(明治28年)のことでした。この路面電車は京都伏見間の7キロほどの距離を時速10キロで走りました。さらにその後、路面電車ではない「電車」が走ったのは1904年(明治37年)、甲武鉄道が敷設した飯田町~中野間でした。

西府駅(南武線)

▼西府村は1889年(明治22年)に周辺の3村が合併して発足した後、1954年(昭和29年)に府中町および多磨村と合併して府中市となる。▼「西府」の名は府中の西側にある地に由来し、「府中」とは律令時代に武蔵国の国府が置かれた地をいう。

西府駅前に掲示される地図(2020年7月)

南武線の前身となる南武鉄道。▼1929年(昭和4年)、南武鉄道線の屋敷分(現在の分倍河原)~立川区間が開通した際に西府停留場を開設した。

西府駅南口(2020年6月)

▼停留場名は先の地名に由来する。▼西府停留場は現在の西府駅とは700メートルほど離れた位置にあった。▼その後、駅に変更されたが、1944年(昭和19年)に南武鉄道が戦時買収され国有化された際に廃止となった。

西府駅周辺の地図(2020年6月)

▼現在の西府駅は、このとき廃止となった旧西府停留場のまさに「再興」。▼かつての西府駅から少し所在地を変更した現在の西府駅は、2009年(平成21年)に開業した南武線の最も新しい駅となった。

西府駅近くの市川緑道(2020年6月)

▼この付近にある熊野神社の本殿北側には、飛鳥時代(7世紀中頃)に築造されたという武蔵府中熊野神社古墳がある。

武蔵府中熊野神社古墳(2020年7月)

▼古墳は上円下方墳とよばれるもの。▼四角いの墳丘の上に丸い墳丘が重なった形状をしている。▼古代の中国では、天はドームのような半球形であり、大地は四角いものであると信じられていたので、そうした宇宙観を背景として築造されたものと考えられている。

武蔵府中熊野神社古墳(2020年7月)

▼上円下方墳は古墳時代末期に築造されるようになった。▼全国的に見てもきわめて珍しいもの。▼武蔵府中熊野神社古墳は石が葺かれている上円下方墳においては最古であり、最大規模の古墳である。

武蔵府中熊野神社古墳(2020年7月)

▼墳丘の1段目の一片の長さは約32メートル。▼2段目の正方形の一辺の長さは約23メートル。▼上円部の直径は約16メートルもある。▼墳丘の高さは上円部の頂上で約6メートルの高さ。▼内部の石室は横穴式石室とよばれるものであり、三室構造となっている。

武蔵府中熊野神社古墳(2020年7月)

▼内部に収められた副葬品も質の高いものであり、古墳の大きさや珍しさから見ると埋葬された人物は東国の有力者と考えられる。▼しかし、その人物名は判明していない。

武蔵府中熊野神社古墳(2020年7月)

▼古墳および熊野神社に隣接して古墳展示館がある。

古墳展示館(2020年7月)

▼古墳展示館に隣接して古墳石室復元展示室が設けられている。▼発掘調査による成果から当時の状況が復元されている。

古墳石室復元展示室(2020年7月)

▼西府駅南口の前には府中市指定文化財となる御嶽塚(みたけづか)がある。▼もともとは、古墳時代に築造された古墳だった。

西府駅前の古墳(2020年7月)

▼西府駅南口から少し歩いた場所に遊歩道が整備された市川緑道がある。▼市川緑道は南武線の南側に並行して所在する。

歩道橋下の市川緑道(2020年6月)

▼この市川緑道は多摩川の水や沿線の湧水を集めて流れる市川沿いに設置された緑道である。

市川緑道沿いの植生(2020年6月)

▼市川緑道に沿って府中崖線がある。▼ニセアカシア、ケヤキ、シカラシ林などの貴重な自然林。▼府中崖線から湧き出る貴重な湧水が見られる。

市川緑道沿いの植生(2020年6月)

▼西府駅と市川緑道の高低差は大きく、駅からは歩道橋を渡って緑道へと下りる。

崖の上の先に西府駅がある(2020年6月)

▼歩道橋には、エレベーターも設置されている。

エレベーター(2020年6月)

成田エクスプレス(N’EX)

▼現在、成田空港へのアクセス鉄道となるのは成田エクスプレス(N’EX)。▼成田エクスプレス(N’EX)は東京近郊の主要都市と成田空港を結んでいる。

東京駅に到着する成田エクスプレス(2018年3月)

▼その敷設が断念された成田新幹線の完成形となったのが成田エクスプレス(N’EX)である。▼当初、成田新幹線は現在の京葉線地下ホームからの乗車が予定されていたが、現在の成田エクスプレスは総武線ホームからの乗車となっている。▼成田エクスプレス(N’EX)は横須賀線、総武本線、成田線などを経由して成田空港へと向かう。

東京駅に到着する成田エクスプレス(2018年3月)

日立電鉄線の歴史

▼水郡線の常陸太田駅を降りるとすぐそばを国道349号線が走る。▼これを挟んで、かつてはこの地に日立電鉄の常北太田駅があった。▼日立電鉄線は、常北太田駅と日立市の鮎川駅を結んでいた鉄道路線である。▼日立電鉄線:常北太田駅―小沢―常陸岡田―川中子―大橋―茂宮―南高野―久慈浜―大甕―水木―大沼―河原子―桜川―鮎川。

磯原海岸海水浴場(日立電鉄線創立50周年記念乗車券)

▼終点の鮎川駅は日立駅より3キロほど南、現在の常磐線の日立駅と常陸多賀駅の間にあった。

常磐線(2020年6月)

▼常北電気鉄道が、1928年(昭和3年)に大甕~久慈(後の久慈浜)間、1929年(昭和4年)に久慈~常北太田間を開業し、日立電鉄線の歴史がはじまった。▼1944年(昭和19年)、日立製作所傘下にあった日立バスなどと合併して日立電鉄となった。▼日立電鉄となった後の1947年(昭和22年)に大甕~鮎川間が開業。▼2005年(平成17年)に橋梁などをはじめとする設備工事の経費がかかることなどを理由として、全線が廃線となった。▼日立電鉄線が廃線となった後の2013年(平成25年)に、その跡地を利用したBRT(バス・ラピッド・トランジット/バス高速輸送システム)が日立おさかなセンター~大甕駅間にて開業した。▼2018年(平成30年)には大甕駅~常陸多賀駅間が延伸開業。

フォードBBV8型(日立電鉄線創立50周年記念乗車券)

▼日立電鉄線を走ったフォードBBV8型は、1933年(昭和8年)~1935年(昭和10年)にかけて製造された車両。▼定員として34人~38人が乗車できる。▼クラクションはハンドル下にあるゴム製の風船状の物体を握ることで空気が圧縮され、吹鳴するようになっていた。▼当時の車両購入価格は約2,700円であり、車両重量は1,350キロであった。

ハフ3形(日立電鉄線創立50周年記念乗車券)

▼ハフ3形は集電装置がなく、ハンドブレーキが付随していた。▼1947年(昭和22年)頃まで、電動客車として連結して使用された。▼モハ101形(院電ナデ6141号)は、1914年(大正3年)に鉄道院新橋工場で製作された電動客車であり、中央線山手線で運行されていた。▼1925年(大正14年)に廃車となり、その後、目蒲電鉄(現在の東急目蒲線)、芝浦製作所、鶴見臨港鉄道と渡り歩き、1950年(昭和25年)に日立電鉄へ移された。▼当時においては、国産電動車の中では最も古いものであり、1972年(昭和47年)には鉄道記念物に指定された。

モハ101形(日立電鉄線創立50周年記念乗車券)

阪神西宮駅と西宮神社

▼西宮駅は1905年(明治38年)に阪神本線の開通と同時に開業。▼「西宮駅」の正式名称は「西宮駅」だが、阪急電鉄の西宮北口駅やJR線の西宮駅(以前は「西ノ宮駅」)と区別するため「阪神西宮」または「西宮駅」などと呼称されます。

 

西宮駅(2019年2月)

 

西宮市は兵庫県においては神戸市、姫路市に次ぐ都市であり、えびす神社の総本社となる「西宮神社」の門前町として栄えてきました。


えびす神社の総本社「西宮神社」

西宮神社は全国のえびす神社の総本社ですが、阪神電気鉄道の西宮駅がその最寄り駅となり、そこから徒歩5分ほどの場所にあります。

 

西宮駅(2019年2月)

 

創建時期は不明ですが、平安時代末期にはすでに高倉上皇のご奉幣をはじめ皇族神祇伯の参拝がきわめて盛んであったといいます。

 

西宮神社(2019年2月)

 

えびす様はもともと神戸和田岬の沖で出現され、鳴尾の漁師がお祀りしていました。西の方に宮地があるとのご神託により、この地に来られたとの言い伝えがあります。古くより漁業の神として信仰されており、西宮のまちの発展とともに商売繁盛の神として広く知られるようになります。

 

西宮神社前のえべっさん筋(2019年2月)

 

特に、中世以降には福の神と崇める信仰が盛んとなって、傀儡師の活動、謡曲や狂言を通じて社勢が広まっていきました。また、徳川時代以降には商業の発展にともない、海上守護神商売繁盛の神として広く知られるようになり、現在では全国各地から多くの人々の崇敬を受けています。

 

西宮神社境内図(2019年2月)

 

毎年1月9日から11日の十日えびすには百万人にもおよぶ参拝者が訪れます。本えびすの10日午前0時には神門を閉じて、神職は忌籠(いごもり)を厳修します。午前6時の表大門の開閉とともに走り参りを行う風習があり、福男が選ばれます。

 

福男選びの案内板(2019年2月)

 

表大門は豊臣秀頼による寄進と伝えられており、表大門の左右にある大練塀(おおねりへい)は国の重要文化財とされています。また、えびすの森は兵庫県の天然記念物に指定されています。

 

表大門(2019年2月)

 

表大門は東側練塀の南寄りにあり、旧街道に向かって東面して立ちます。全体が赤く丹塗りされていることから「赤門」として親しまれてきました。2本の円柱を本柱とし、4本の角柱を控柱とする四脚門(よつあしもん)となっており、全体の構造はそれぞれの柱を貫材および虹梁を用いてつなぐ簡素なつくりとなっています。

 

表大門(2019年2月)

 

大練塀は、境内を取り囲む築地塀のうち東面および南面に築かれている全長247メートルの練塀であり、室町時代初期以前に建てられたと推定される現存最古の築地塀です。

 

大練塀(2019年2月)

 

この塀は、京都三十三間堂の太閤塀と名古屋熱田神宮の信長塀と並んで三大塀の一つとされますが、その規模の大きさおよび構造の堅牢さにおいて他に類を見ない貴重なものとなっています。

 

大練塀(2019年2月)

 

嘉永橋(かえいばし)は境内に残る最も古い石造の桁橋であり、六甲山産の花崗岩を用いて作られています。

 

嘉永橋(2019年2月)

 

1848年(嘉永元年)に神池の西側中央部に架けられたものであり、境内社松尾神社への参道上に位置しています。敷石の上に石製欄干を組み、両橋詰に袖高欄を付しており、2013年(平成25年)に国の登録有形文化財となっています。

 

神池(2019年2月)

 

瑞寶橋(ずいほうばし)は拝殿正面に位置する石造の太鼓橋であり、六甲山産の花崗岩を用いて作られています。

 

瑞寶橋(2019年2月)

 

円弧状の桁石の上を十七等分して敷石を割り付け、青銅製の欄干を備えた丁寧なつくりとなっています。

 

瑞寶橋(2019年2月)

 

境内中央に配された神池に架かっており、2013年(平成25年)に国の登録有形文化財となっています。

 

瑞寶橋(2019年2月)

香枦園駅から香櫨園駅へ

1.香枦園駅から香櫨園駅へ 2.香櫨園駅周辺の風景

 

香櫨園駅(2019年2月)


香枦園駅から香櫨園駅へ

香櫨園(こうろえん)駅は阪神本線の駅であり、1907年(明治40年)に西宮駅~打出駅間に「香枦園駅」として誕生しています。

 

香櫨園駅の下り線ホームに入線する普通列車(2019年2月)

 

その後、高架工事が進められ、1998年(平成10年)には下り線ホームが高架駅となりました。また、2001年(平成13年)には上り線ホームが高架駅となり、このときに「香櫨園駅」と改称しています。

 

香櫨園駅駅名標(2019年2月)

 

この駅が開業した1907年(明治40年)、香櫨園駅から北へ徒歩10分程度の場所に香櫨園遊園地が開設されています。この遊園地は、大阪の商人であった香野蔵治と櫨山(はぜやま)喜一が中心となって開設を準備しました。

 

香櫨園駅駅舎(2019年2月)

 

「香櫨園」の名称は2人の商人の名に由来しています。阪神電気鉄道も遊園地の経営に参画して、当初は近畿最大の遊園地として人気を博しました。しかし、すぐに来園者が少なくなり経営難となり、1913年(大正2年)にこの遊園地は閉園しています。

 

手前側が下り線ホーム、向こう側が上り線ホーム(2019年2月)


香櫨園駅周辺の風景

香櫨園駅のレトロな佇まいはひと際目を引きますが、この駅は近畿の駅百選にも選定されています。

 

香櫨園駅駅舎(2019年2月)

 

駅構造としては2面2線をもつ高架駅となっています。夙川(しゅくがわ)は兵庫県南東部を流れる河川であり、六甲山地の東端にあり芦屋市と西宮市の境にあるゴロゴロ岳を水源として大阪湾へと注いでいます。

 

香櫨園駅のすぐ下を夙川が流れる(2019年2月)

 

夙川沿いは公園が整備され夙川河川敷緑地(通称「夙川公園」)となっていて、この公園へと続いている川沿いの道は夙川オアシスロードとよばれています。

 

香櫨園駅前には夙川オアシスロードの表示が見える(2019年2月)

 

香櫨園駅の駅舎はこの夙川をまたぐ形で設置されています。

 

夙川のすぐ上に設置される駅のテラス(2019年2月)

 

また、川のすぐ上の駅舎部分はテラスのようになっていて、ホームからこのテラスへ出ることができます。

 

テラスに出ると…(2019年2月)

鉄道線路名称とその愛称

1.国鉄の鉄道線路名称 2.鉄道線路名称とその愛称

 

東京駅丸の内駅舎(2019年3月)


国鉄の鉄道線路名称

国鉄の線路名称は、1909年(明治42年)に公布された「国有鉄道線路名称(明治42年鉄道院告示第54号)」により定められました。ここでは、大区分となる「部」と小区分となる「線」を設定しています。

 

東京駅丸の内駅舎の天井(2019年3月)

 

たとえば、東海道本線についてみると、当初は東京神戸間を「東海道本線」とよび、東海道本線に加えて山手線、鶴見線、御殿場線、福知山線などの支線を含めて「東海道線」としていました。

 

山手線(2020年7月)

 

すなわち、支線を含めた「東海道線」が大区分となる「部」であり、その中に東海道本線山手線、鶴見線、御殿場線、福知山線などの小区分となる「線」があるというものです。

 

京都駅付近から滋賀方面を見る(2019年1月)

 

また、小区分の筆頭となる「線」については「東海道本線」のように「本線」と設定されます。ただし、支線をもたない場合は「本線」となることができませんでした。

 

山崎駅を出発する普通列車(2017年4月)

 

その後、変更が実施されるなどして、国鉄分割民営化後はJR各社がそれぞれのその線路名称を引き継いだり、独自に名称を定めたりしながら現在に至ります。

 

東京駅(2019年3月)

 

東海道線についてみると、国鉄分割民営化の際に「東海道本線」のみを「東海道線」と定めたようですが、現在では「東海道本線」「東海道線」のいずれの名称も従来の「東海道本線」に対して用いられています。

 

大阪駅に停車する223系車両(2017年2月)


鉄道線路名称とその愛称

近年ではJR各社がそれぞれに愛称を定めている例も見受けられます。たとえば、JR西日本では、北陸本線長浜~米原間および東海道本線の米原~京都間を「琵琶湖線」、東海道本線のうち京都大阪間を「JR京都線」、東海道本線大阪神戸間および山陽本線神戸姫路間を「JR神戸線」、京都~園部間(山陰本線)には「嵯峨野線」などと愛称を付し、駅においても愛称で案内などをしています。

 

山崎駅に到着する「京都行き」普通列車(2017年4月)

 

JR西日本が「JR京都線」および「琵琶湖線」の愛称を用いるようになったのは1988年(昭和63年)からです。JR京都線については、すでにこの時点で阪急京都線および近鉄京都線があったことから混同しないように「JR」と冠することになりました。

 

米原駅に停車する東海道本線の車両(2017年8月)

 

琵琶湖線については、地元などからの要望もありこの愛称としました。その後、1991年(平成3年)に田村~長浜間(北陸本線の一部)が交流電化から直流電化へと変更されたため、米原~田村~長浜間も琵琶湖線に加えられることになりました。なお、現在では、長浜敦賀間も直流電化へと変更されていますが、この区間については琵琶湖線に加えられていません。

三帝の産湯となる霊泉がある「三井寺」

1.三井寺へのアクセス 2.園城寺

 

三井寺大門(2019年6月)


三井寺へのアクセス

長等(ながら)山(滋賀県大津市)山腹に広大な敷地を抱える山岳寺院「三井寺(みいでら)」へは京阪石山坂本線の三井寺駅より徒歩7分ほどでアクセスできます。同じく京阪石山坂本線の大津市役所前駅からは徒歩12分、東海道本線大津駅または湖西線大津京駅からは京阪バス「三井寺」下車にてアクセスできます。

 

京阪バス「三井寺」バス停付近交差点(2019年6月)

交差点から三井寺へ(2019年6月)


園城寺

三井寺の正式名称は「園城寺(おんじょうじ)」といい、672年(弘文天皇元年)の創建以来数々の史実と伝説があり、平安時代には四箇大寺(東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺)の一つに数えられました。

 

園城寺(2019年6月)

 

その境内には国宝や重要文化財が散在します。

 

現地に掲示される境内案内図(2019年6月)

 

そのうち金堂は1599年(慶長4年)に建立された桃山時代の代表的な建築物です。金堂西側に建つ閼伽井屋(あかいや)の内部には霊泉が湧き、これが天智天皇、天武天皇、持統天皇の産湯に用いられたとされることから「三井寺」とよばれるようになりました。

 

現地に掲示される境内ビューポイントの案内(2019年6月)

 

重要文化財である園城寺大門は入母屋造りの屋根、桧皮葺(ひわだぶき)の楼門です。1452年(宝徳4年)に常楽寺(滋賀県湖南市)に建てられた後、伏見城へと移されました。1601年(慶長6年)に徳川家康の寄進により当地へ移されて「仁王門」ともよばれています。

 

大門「仁王門」(2019年6月)

 

重要文化財「釈迦堂」は室町時代に建築されたものであり、現在は清凉寺式釈迦如来像を本尊として安置されています。

 

釈迦堂(2019年6月)

石岡駅[常磐線]

茨城県フラワーパーク「イルミネーションの入園券」(2020年1月)

石岡のまちには大化の改新の頃から人々が往来し、奈良時代には常陸国の国府が置かれました。『常陸国風土記』は713年(和銅6年)の詔により国司が常陸国の風土について記したものですが、現存する風土記は『常陸国風土記』の他、播磨、出雲、豊後、肥前の5か国のものだけです。

茨城県フラワーパーク「花束のオブジェ」(2020年1月)

常陸国風土記』は養老年間(717年~724年)に完成したとされますが、この編者としては当時、常陸国の国司として中央政府から派遣されていた藤原宇合(うまかい)と考えられています。藤原宇合は藤原不比等の子であり、大化の改新の中心人物となった中臣鎌足の孫にあたります。常陸国府跡は平成時代の発掘調査により発見され、現在の石岡小学校の敷地内にあります。石岡小学校から東へ1キロほどの場所に石岡駅があります。

茨城県フラワーパーク「イルミネーション」(2020年1月)

石岡駅の歴史をみると、1895年(明治28年)に日本鉄道の駅として開業し、その後国鉄の駅となりました。1924年(大正13年)には鹿島参宮鉄道(後の鹿島鉄道線の石岡~常陸小川間が開業し、石岡駅は乗換駅となりました。現在の石岡駅は1面1線をもつ単式ホームと1面2線をもつ島式ホームとなっていますが、かつて乗り入れていた鹿島鉄道線は2007年(平成19年)にすでに廃止となっています。

品川駅に停車する常磐線の車両(2019年1月)

石岡市にある茨城県フラワーパークは約30ヘクタールもの広大な面積をもつ花と緑の公園です。広大な敷地内にはバラテラス・品種園、ボタン園、シャガ園、アジサイ園、やまゆり園、ダリア園、福寿草園などがあります。

茨城県フラワーパーク(2020年1月)

花が少ない冬季にはイルミネーションの企画などもあり、最近では「恋人の聖地」などともよばれることがあります。都心部のスポットと比べると来園者もそんなに多くないので、ゆっくりとイルミネーションを楽しむことができます。園内の中央には「きらめくブーケの園」のエリアがあり、ブルーに輝くビックアーチが印象的です。ビックアーチの周辺はまるで光の海のようです。

きらめくブーケの園(2020年1月)

「冬の天の川」のエリアは約100メートルの光のトンネルがあり、中央の花束のオブジェと記念撮影ができるようになっています。

光のトンネル(2020年1月)

茨城県フラワーパークへは石岡駅よりフラワーパーク経由の柿岡車庫行きの関鉄グリーンバス(石岡駅関鉄グリーンバス1番のりば)に乗車し、約30分で到着します。車の場合は常磐自動車道の千代田石岡ICまたは石岡小美玉スマートICより約20分、土浦北ICより約15分、北関東自動車道の笠間西ICより約25分で到着します。敷地内には約900台を駐車できる無料駐車場があります。

駐車場と周辺の自然豊かな風景(2020年1月)

茨城空港は2010年(平成22年)に開港しました。この空港はもともと航空自衛隊百里飛行場であり、これを民間共用化したものです。札幌、神戸、福岡、長崎、鹿児島、那覇、下地島、台北、上海、西安との間を結んでいます。

茨城空港ターミナルビル(2020年6月)

茨城空港は茨城県小美玉市に所在します。小美玉市は2006年(平成18年)に小川町、美野里町、玉里村が合併して成立しました。

ゆるキャラ「ねば~る君」(2020年6月)

茨城空港近辺には鉄道駅がありませんので、鉄道でアクセスすることはできません。ただし、車でアクセスするにはとても便利な場所にあり、(東関東道)茨城空港北IC、(常磐自動車道)石岡小美玉スマートIC、千代田石岡ICなどからアクセスできます。空港駐車場の料金も無料となっています。

茨城空港駐車場(2020年6月)

また、茨城県の各地からバスによるアクセスも可能です。最寄り駅となる石岡駅の他、羽鳥駅、水戸駅、新鉾田駅などと茨城空港もバスで結ばれています。東京およびつくばからのバスは当面の間、運休となっています。

茨城空港へのバス路線図

地図内に小川駅とありますが、これは鉄道駅ではなく「かしてつバス(鹿島鉄道線廃止代替バス)」の停留所です。ここはかつて鹿島鉄道鹿島鉄道線(旧関東鉄道鉾田線)の常陸小川駅のあった場所であり、鉄道駅は2007年(平成19年)に鹿島鉄道線の廃止とともに廃駅となっています。

茨城空港ターミナルビル(2020年6月)

茨城空港ターミナルビル南側には茨城空港公園が隣接します。ここには自衛隊の「RF-4EJ戦術偵察機」と「F-4EJ改要撃戦闘機」の2機が展示されています。

RF-4EJ戦術偵察機(2020年6月)

RF-4EJ戦術偵察機は、戦闘機に偵察機器を装備した偵察機転用機です。偵察航空隊は百里基地に所在する航空自衛隊唯一の偵察機部隊です。展示機は1991年(平成3年)に偵察機への改修が行われたものであり、東京~大阪(約500キロ)間ならば11分程度で飛ぶことができます。

F-4EJ改要撃戦闘機(2020年6月)

F-4EJ改要撃戦闘機は要撃戦闘能力や対地対艦攻撃能力に優れています。これはF-4EJ戦闘機を改修したものであり、レーダーなどの能力が向上しました。この機体も東京~大阪(約500キロ)間ならば11分程度で飛ぶことができます。

茨城空港(2020年6月)

また、茨城空港公園内には小高い丘があり滑走路を眺めることができます。飛行機の離着陸する様子もよく見えます。

茨城空港開港記念碑の後ろに小高い丘が見える(2020年6月)

茨城空港のすぐ近くに空のえき「そ・ら・ら」があります。小美玉市は農業や酪農が盛んなまちですが、「そ・ら・ら」の物産館では小美玉市の特産品などを販売しています。

空のえき「そ・ら・ら」駐車場(2020年6月)

「そ・ら・ら」には農産物直売所もあり、小美玉市の農家で育てられた野菜などが販売されています。

空のえき「そ・ら・ら」(2020年6月)

神田川沿いの江戸川公園と江戸川橋駅

1.江戸川橋駅と神田川 2.神田上水(神田川) 3.江戸川公園

 

神田川沿いの江戸川公園(2020年9月)


江戸川橋駅と神田川

江戸川橋駅は地下鉄有楽町線の駅であり、1974年(昭和49年)に開業しました。

 

江戸川橋駅駅名標(2020年9月)

 

「江戸川橋」の名は、江戸川橋駅開業の少し前1971年(昭和46年)までこの場所を走っていた路面電車の停留所名を継承したものです。「江戸川橋駅」の「江戸川」というのは関宿(千葉県野田市)付近で利根川と分かれて、江戸川区から東京湾へ注ぐ江戸川ではなく、江戸川橋駅の付近を流れる「神田川」の旧称であり、「江戸川橋」はその神田川に架かる橋のことです。

 

神田川沿いの風景(2020年9月)

 

この川は、江戸時代には「御留(おとめ)川」とよばれていましたが、その後1965年(昭和40年)までは「江戸川」とよばれました。

 

神田川沿いの風景(2020年9月)

 

この川は昔からたびたび洪水を引き起こし、1910年(明治43年)の大洪水の後に大井玄洞(げんどう)は治水工事に着手します。治水工事は1919年(大正8年)に完成し、人々はこの治水工事の業績を称えて、1928年(昭和3年)に江戸川公園の入口に大井玄洞の銅像を建てました。

 

大井玄洞の銅像(2020年9月)


神田上水(神田川)

飲料用として河川や池などから引いた清水を上水とよびますが、神田上水(神田川)は徳川家康に命じられて大久保藤五郎が開いたものであり、水源は井の頭池に発します。

 

江戸川公園(2020年9月)

 

現地には明治39年頃、近辺の見事な夜桜と船から花見を楽しむ様子を描いた山本松谷の画が掲示されています。この風景は大正時代末期の護岸工事により失われてしまいました。

 

江戸川の夜桜の画(2020年9月)


江戸川公園

江戸川公園はこの神田川沿いにある東西に細長い公園です。

 

江戸川公園(2020年9月)

 

1983年(昭和58年)には神田川に沿ってソメイヨシノが植林され、かつての工事で失われた桜の風景を現在も楽しむことができるようになりました。

 

江戸川公園(2020年9月)

 

園内の「関口芭蕉庵」は神田上水の改修工事に携わった松尾芭蕉が住んだ「龍隠庵」だったものです。「関口」の名は、かつてこの辺りに奥州街道の関所があったこと、また神田上水の分水のための大洗堰(おおあらいせき)があったことに由来します。目白通りからから下って関口芭蕉庵と水神社へ至る急坂は「胸突坂」(別名「水神坂」)とよばれます。

 

胸突坂(2020年9月)

 

江戸時代の人たちは、胸を突くようにしなければ上れないような険しい急坂「胸突坂」の名を付しています。水神社は神田上水が開かれてから関口水門を守る神として祀られてきたといわれています。

 

水神社(2020年9月)

航空公園駅[西武鉄道]

航空公園駅駅舎に設置される時計(2020年9月)

東京近郊のベッドタウンとして発展した所沢市は、1911年(明治44年)に陸軍が日本で初めての飛行場を設置したことから「航空発祥の地」として知られています。所沢駅の隣の航空公園駅東口駅前広場には、かつてエアーニッポンで運航していたYS-11(わいえすいちいち)機が保存されています。

航空公園駅に保存されるYS-11(2019年12月)

YS-11は日本航空機製造が製造した戦後初の国産旅客機であり、エアーニッポンは全日空(ANA)の子会社としてかつて存在した航空会社です。このYS-11が保存されているのは所沢航空記念公園(通称:航空公園)の敷地内の一角となります。

所沢航空記念公園内に掲示される公園マップ(2019年12月)

公園の敷地面積は50.2ヘクタールにもおよび、埼玉県内の県営公園としては最大規模を誇ります。1911年(明治44年)に開設した日本初の飛行場となる所沢飛行場の跡地に所沢航空記念公園(通称:航空公園)として整備されています。現在では、公園内には航空発祥記念館、所沢市立図書館、日本庭園・茶室「彩翔亭」、テニスコート、野球場、フットサル場、ドッグラン、バーベキュー場、野外ステージなどの施設が設置されています。

航空公園駅(2020年7月)

所沢航空記念公園(通称:航空公園」)の最寄りとなるのは航空公園駅です。航空公園駅が開業したのは1987年(昭和62年)のことですが、新宿線の駅としては最も新しい駅となっています。航空公園駅は1998年(平成10年)には関東の駅百選に選定されていますが、その駅舎はアンリ・ファルマン複葉機をイメージしたものであり「航空発祥の地」のシンボルとしてふさわしいということからこれに選定されました。

航空公園駅駅舎(2020年6月)

ちなみに、アンリ・ファルマン複葉機とは日本で初めての試験飛行に使用された機体の一つです。駅舎の中央に設置される大きな時計の針は飛行機を模したものとなっています。

九度山駅[南海電気鉄道]

丹生官省符神社拝殿(2016年10月)
img_1875

九度山(くどやま)駅は1924年(大正13年)、当時の南海鉄道(現在の南海電気鉄道)が路線を延伸開業したことにより、当時の終着駅として開業しました。その後、路線は高野山駅(現在の高野下駅)まで延伸され、途中駅となりました。

九度山駅ホーム(2016年10月)
img_1827

九度山駅は高野山への代表的な入山道となる高野山町石道(ちょういしみち)への最寄り駅となります。真田幸村(真田信繁)が父(真田昌幸)とともに高野山蟄居を命じられた地の玄関口ともなっています。

真田父子が暮らした住居の跡地に建つ寺(2016年10月)
img_1912

2016年(平成28年)にNHK大河ドラマ「真田丸」の放送がきっかけとなり、この地は真田昌幸・真田幸村(信繁)父子ゆかりの地としての盛り上がりました。

九度山駅待合室に設置される真田父子のパネル(2016年10月)
img_1828

高野山麓にある和歌山県九度山町は人口5,000人足らずの町であり、美しい風景や歴史があります。大阪からは南海高野線に乗車し、河内長野・橋本を経由して九度山駅に到着します。

九度山駅(2016年10月)

真田幸村ゆかりの地へは九度山駅を出て、赤く塗られた九度山駅前バス停の横の階段を下りて右へ曲がります。

九度山駅前バス停(2016年10月)
img_1831

国道370号線を横切る歩道橋を渡ると「真田のみち」のゲートがあり「九度山まちなかエリア」へと入っていきます。

「真田のみち」入口(2016年10月)
img_1832

しばらく歩くと古民家を再利用した「まちなか休憩所」が見えてきます。休憩ができる他、おみやげも販売しています。

まちなか休憩所(2016年10月)
img_1833

長野県に生まれた真田幸村(信繁)が大坂と関係をもつのは、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭した後、父・真田昌幸がこれに服従することになったときのことです。真田幸村(信繁)は人質として大坂へ行くこととなり、秀吉の近くで馬廻衆を務め、秀吉の信頼を得るようになりました。

真田父子が蟄居した場所であった現在の「真田庵」(2016年10月)
img_1926

しかしながら、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の死後、石田三成らと結んだ真田昌幸は関ヶ原の戦いにて徳川家康に敗れます。本来なら死罪に相当するところ、関ヶ原の戦いで徳川方に従軍していた真田幸村(信繁)の兄である真田信幸(真田信之)と、その舅となる本田忠勝の執り成しにより、徳川家康より1600年(慶長5年)に高野山への蟄居を命じられます。

道の駅「柿の郷くどやま」(2016年10月)
img_1903

蟄居を命じられた真田父子は、はじめ高野山の蓮華定院(れんげじょういん)に身を寄せることになります。その後、妻子との生活が許されるようになったため、高野山麓の九度山へと移り住むことになりました。

九度山駅を出発し高野山方面へ向かう列車(2016年10月)
img_1826

真田父子が蟄居した場所の跡地にあるのが善名称院(ぜんみょうしょういん)です。「九度山まちなかエリア」の中心部にあります。現在では「真田庵」とよばれています。

真田庵(2016年10月)
img_1837

 父・真田昌幸は1611年(慶長16年)にこの地で生涯を閉じ、真田幸村(信繁)は1614年(慶長19年)に大坂より迎えが来るまで14年間この地で過ごすことになります。

真田庵(2016年10月)
img_1919

真田父子が暮らした住居の跡地に建てられた善名称院の境内には、真田昌幸が「真田地主大権現」として祀られています。

真田庵の守護神・真田地主大権現(2016年10月)
img_1917

さらに、真田を詠った松尾芭蕉の句碑、真田宝物資料館、真田幸村(信繁)が雷を封じたとされる「雷封じの井」などがあります。「雷封じの井」は大きな石を蓋として閉じられた井戸ですが、落雷を真田幸村(信繁)が井戸に封じ、人々を救ったとの伝説があります。

「雷封じの井」(2016年10月)
img_1916

まさに「真田」を感じられる寺ですが、1741年(寛保元年)に善名称院を建立したのは大安上人です。本尊として延命子安地蔵菩薩が祀られ、今では地元の人々が参る寺となっています。

真田父子四百回忌碑(2016年10月)
img_1915

境内にある善名称院土砂堂(他5棟)は九度山町指定文化財となっています。大安上人は盛んに土砂加持祈祷を行い、清浄な小石を納める土砂堂を創建しました。現在のお堂は江戸時代末期の建築となっています。

土砂堂(2016年10月)
img_1923

真田古墳はこの真田庵から東へ170メートルほどの場所にあります。真田古墳には伝説があり、この穴は大坂城につながっていて、当時の真田幸村(信繁)はこの穴を抜けて戦場の大坂へ出向いたというものです。

真田古墳(2016年10月)
img_1931

これは実際には地下式石室であり、その石室は南向きの横穴式で、割石積みの側壁と平石を用いた奥壁、そして天井により構成されたものとされています。すなわち、真田古墳は「抜け穴」ではなく、現在では古墳時代後期の横穴式石室をもつ円墳と判断されています。

真田古墳(2016年10月)
img_1929

九度山駅から徒歩10分、真田庵の近くには2016年(平成28年)にオープンした「九度山・真田ミュージアム」があります。

九度山・真田ミュージアム(2016年10月)
img_1840

ここでは、真田昌幸・真田幸村(信繁)父子と真田幸村(信繁)の子である大助の3代にわたる資料などを展示し、後世へとその業績を語り継ぐことを目的とした施設です。

九度山・真田ミュージアム(2016年10月)
img_1911

館内は、エントランス、上田時代、九度山時代、九度山異聞、大坂の陣、真田伝説、十勇士伝説、企画展示室の小部屋に区切られています。

南海電車「九度山きっぷ」の特典(2016年10月)
img_1958

九度山で暮らした当時のことだけではなく、それ以前・以後の真田家について知ることができます。

九度山・真田ミュージアム(2016年10月)
img_1839

真田古墳から東へ徒歩3分の場所にある「旧萱野家(大石順教尼の記念館)」は九度山町指定文化財です。ここはもともと「不動院」という寺であり、1703年(元禄16年)に建立されたものです。現在では民家となっており、全体的には江戸時代中期の建築となっています。

旧萱野家/大石順教尼の記念館(2016年10月)
img_1938

真田庵から徒歩3分ほどの場所にある「米金の金時像」は、明治時代から大正時代にかけての陶芸家である南紀荘平の作品であり、その高さは2メートルほどあります。このように大きな陶像はとても珍しいものであり、町の人々からも親しまれています。

米金の金時像(2016年10月)
img_1934

「九度山まちなかエリア」を抜けて丹生川を渡ると、道の駅「柿の郷くどやま」が見えてきます。

道の駅「柿の郷くどやま」(2016年10月)
img_1900

九度山駅からは徒歩約15分です。道の駅「柿の郷くどやま」には農産物直売所、カフェ、体験・研修施設、世界遺産情報センターなどがあります。

道の駅「柿の郷くどやま」(2016年10月)
img_1905

道の駅「柿の郷くどやま」の隅には大きな栴檀(せんだん)の木があります。ここから先は「九度山世界遺産エリア」へと入り、世界遺産の慈尊院までは徒歩約10分です。

栴檀の木(2016年10月)
img_1898

道の駅「柿の郷くどやま」からしばらく歩くと小さな慈尊院橋があります。

慈尊院橋(2016年10月)
img_1842

これを渡ると慈尊院に到着します。

慈尊院(2016年10月)
img_1845

慈尊院は816年(弘仁7年)、弘法大師・空海は朝廷より高野山を賜り、高野山を開く際に高野山参詣のための要所となるこの地に伽藍を創建しました。

慈尊院(2016年10月)
img_1896

ここは高野山入山への表玄関となり、高野山の庶務を担当する事務所が置かれ、宿泊所や修行の場として利用されました。

慈尊院(2016年10月)
img_1886

835年(承和2年)、空海の母が亡くなった際に廟堂を建立して弥勒菩薩を安置し、これ以降に弥勒菩薩の別名となる「慈尊院」と称されるようになりました。慈尊院弥勒菩薩坐像は国宝に指定されており、慈尊院本堂(弥勒堂)は重要文化財に指定されています。

慈尊院本堂(2016年10月)
img_1894

境内には「高野山町石道参詣登山の方は出発点である当院の国宝である本尊弥勒菩薩さまへお参りされ道中安全・諸祈願をしてお登りください」と案内があります。

慈尊院本堂(2016年10月)
img_1893

大師堂は「四国堂」ともよばれ、弘法大師像と四国八十八箇所のそれぞれの札所の本尊を模した88像を祀ってあります。ここに参れば、四国にお参りしたのと同様のご利益が得られるということです。

大師堂(2016年10月)
img_1849

多宝塔の本尊は大日如来が安置されているため「大日塔」ともよばれています。

多宝塔(2016年10月)
img_1883

弘法大師・空海が創立したものですが、現存する多宝塔は寛永年間に再建されたものであり、和歌山県指定文化財となっています。

多宝塔(2016年10月)
img_1848

多宝塔の横の急な階段を上ると、世界遺産の丹生官省符(にうかんしょうふ)神社があります。

丹生官省符神社(2016年10月)
img_1850

空海が慈尊院を建立した際に、守り神として地元にゆかりのある神を祀った神社です。急な階段の途中には石造大鳥居(一の鳥居)がありますが、九度山町指定文化財となるこの大鳥居をくぐって119段の階段を上ると、赤い鳥居(二の鳥居)があります。

石造大鳥居/一の鳥居(2016年10月)
img_1879

二の鳥居をくぐると広場があり拝殿があります。

丹生官省符神社拝殿(2016年10月)
img_1876

もともと丹生官省符神社は紀ノ川河畔にありましたが、その後この地に移されて神々が合祀され「七社明神」とも称されるようになりました。

丹生官省符神社拝殿(2016年10月)
img_1871

拝殿は向かって右から第一殿、第二殿、第三殿とされますが、明治時代に入ってから三殿となったものです。第一殿、第二殿は1517年(永正14年)にこの地に移築されて再建されたものであり、第三殿は1541年(天文10年)に再建されたものです。

丹生官省符神社拝殿(2016年10月)
img_1872

高野山への表参道となる町石道は慈尊院から高野山へと続く約20キロの道ですが、当時木製と卒塔婆を立てて道標としました。

町石道(2016年10月)
img_1858

現在でも1町(約109メートル)ごとに石柱が残っています。

町石道(2016年10月)
img_1856

高野山壇上伽藍が起点となっていて、慈尊院に至る道に180基の石柱があります。

町石道(2016年10月)
img_1854

高野山の弘法大師信仰が広まるにつれて全国から多くの人が参拝するようになり、高野山への道が7つ開かれて「高野七口」ともよばれました。

町石道(2016年10月)
img_1870

町石道は主要参詣道として多くの人が利用しましたが、この他、高野街道京大坂道(きょうおおさかみち)、黒河道(くろこみち)、大峰道(おおみねみち)、熊野古道小辺路(くまのこどうこへち)、相ノ浦道(あいのうらみち)、有田・龍神道(ありだりゅうじんみち)が「高野七口」となります。

現地に掲示される周辺地図(2016年10月)
img_1859

丹生官省符神社のすぐ近くに勝利寺があります。勝利寺は慈尊院より前に創建されたともいわれており、弘法大師・空海が42歳の頃には厄除けのために十一面観音を奉納しました。

勝利寺(2016年10月)
img_1860

急な階段を上ったところに勝利寺仁王門があります。仁王門は1755年(宝暦5年)に上棟し、1773年(安永2年)に完成したと考えられています。

勝利寺仁王門(2016年10月)
img_1861

仁王門をくぐると本堂が見えます。本堂は1771年(明和8年)くらいに建立されたものではないかと思われます。

勝利寺本堂(2016年10月)
img_1869

勝利寺の北には紙遊苑があります。高野紙の伝統文化とその技術を伝える体験資料館となっています。

紙遊苑(2016年10月)
img_1865

ここでは、弘法大師・空海に教えてもらったとされる紙漉きを体験することができます。

紙遊苑(2016年10月)
img_1867

梅小路蒸気機関車館と扇形車庫

1.梅小路蒸気機関車館の閉館 2.扇形車庫と転車台

 

京都鉄道博物館の扇形車庫(2019年1月)


梅小路蒸気機関車館の閉館

京都市にあった日本唯一の蒸気機関車専門博物館「梅小路蒸気機関車館」は2015年(平成27年)に閉館しました。2016年(平成28年)には京都鉄道博物館としてリニューアルオープンしています。

 

梅小路蒸気機関車館閉館記念切符
img_1374

 

さて、梅小路蒸気機関車館は1972年(昭和47年)に鉄道開業100周年を記念して開館したものです。開館当時、全国から蒸気機関車が集められ、その動態保存を目的として「SLスチーム号」の運行が行われた他、扇形車庫ではさまざまな蒸気機関車が展示されました。

 

梅小路蒸気機関車館閉館記念切符に掲載された館内案内図


扇形車庫と転車台

蒸気機関車専門博物館建設の計画時には、小山機関区(栃木県)がその有力候補地となっていました。しかしながら、日本で初めての蒸気機関車の動態保存を目的とした博物館にこだわったため、大型の蒸気機関車の保守実績にすぐれた梅小路機関区に建設されることになりました。

 

梅小路蒸気機関車館扇子のおみやげ

 

館内には旧二条駅舎を利用した資料展示館と、転車台を中心とした扇形車庫を擁した機関車展示館がありました。

 

京都鉄道博物館に保存される旧二条駅舎(2019年1月)

 

扇形車庫は国の重要文化財となった他、土木学会選奨土木遺産に認定されています。

 

京都鉄道博物館の扇形車庫(2019年1月)

 

土木学会選奨土木遺産は、歴史的土木構造物の保存に資することを目的として2000年(平成12年)に認定制度が設立されたものです。梅小路機関車庫は2004年(平成16年)に選奨されていますが、その際に1914年(大正3年)の設置以来、日本の近代化と復興・成長を支えた蒸気機関車の歴史を伝え、動態保存された世界最大級の蒸気機関庫と評されています。

 

京都鉄道博物館の転車台(2019年1月)

 

蒸気機関車を管理するためには、車庫の他、検修機械、給炭、給水、給砂、転車台、電力などの設備と事務所などが必要となります。1914年(大正3年)に完成した機関車庫は当時、京都駅2代目駅舎の完成に合わせて設置されたものです。

 

「梅小路蒸気機関車庫」の文字が見える(2019年1月)

 

車庫は鉄筋コンクリート造りであり、転車台を中央に置き、転車台の北側に引込線20線を扇形に設置して機関車が収納できるようになっています。

 

扇形車庫の引込線(2019年1月)

 

蒸気機関車の進行方向を変えるには、機関車の向きを変えるための転車台が必要でした。かつては駅の多くには転車台が設置されていましたが、時が流れて電気機関車やディーゼル機関車に取って代わられ蒸気機関車がだんだんと消えていく中で転車台も姿を消していき、扇形車庫もなくなっていきました。

 

梅小路のSLたち硬券セット
img_1377

img_1378

img_1379

 

給水設備も必要となりますが、敷地内の扇形車庫の近くには給水塔も見えます。ただし、この給水塔梅小路機関区が全盛期の際には見られなかったもののようです。

 

給水塔(2019年1月)

 

蒸気機関車用の車庫には蒸気機関車の煙を排出させるための煙突が必要となります。必然的に蒸気機関車は煙突位置に合わせて停車することになります。

 

扇形車庫内の煙突(2019年1月)

 

現存する扇形車庫は少なく、梅小路蒸気機関車館を引き継いだ京都鉄道博物館の他、津山まなびの鉄道館にある津山扇形機関車庫〔岡山県〕、米子駅に隣接する後藤総合車両所運用検修センター〔鳥取県〕などとなります。

とちぎ花センターの大花壇と大温室

1.とちぎ花センターへのアクセス 2.とちぎ花センター 3.フラワートレイン 4.いわふねフルーツパーク

 

とちぎ花センター(2022年10月)


とちぎ花センターへのアクセス

とちぎ花センターへは、JR栃木駅南口より「ふれあいバス(栃木市コミュニティバス)岩舟線(東回り)」に乗車し、「とちぎ花センター前」で下車します。乗車時間は約30分です。

 

とちぎ花センター(2022年10月)

 

このバスは途中、JR岩舟駅にも停車しますので、ここからバスに乗車すれば約10分ほどで「とちぎ花センター前」に到着します。また、無料駐車場が充実していますので、車でアクセスすることもできます。東北自動車道の佐野・藤岡インターから約3.5キロ(約5分)です。

 

とちぎ花センターポスター(2022年10月)


とちぎ花センター

園内にある「とちはなちゃんドーム(鑑賞大温室)」は一棟建ての温室としては国内最大級となります。

 

とちはなちゃんドーム/鑑賞大温室(2022年10月)

 

熱帯や亜熱帯の花が見られ、世界三大珍植物のキソウテンガイやヒスイ色の花を咲かせるヒスイカズラなどの珍しい植物を見ることもできます。「とちはなちゃんドーム(鑑賞大温室)」の入場料は410円(小人200円)です。

 

園内の花木(2022年10月)

 

大温室以外の園内施設としては大花壇やバラ園、フラワー館などがありますが、こうした施設では数多くの花木が育てられており、さまざまな植物を見ることができます。

 

浦和レッドダイヤモンズ(2022年10月)

 

大温室の名前にもなっている「とちはなちゃん」は、とちぎ花センター開園20周年(2012年/平成24年)を記念して誕生したキャラクターであり、「大花壇に舞い降りてきた花の妖精」とされています。

 

みかも山公園側の入口付近(2022年10月)

 

大花壇は6枚の花びらをイメージして作られたものですが、約3万株もの花が植えられています。

 

大花壇(2022年10月)

 

バラ園にもさまざまなバラが植えられ、約450種のバラを見ることができます。

 

大温室横ホール棟の玄関口(2022年10月)


フラワートレイン

とちぎ花センターに隣接する「みかも山公園」は栃木県最大の都市公園です。この公園は万葉集にも詠まれた三毳山(みかもやま)を利用して整備された公園で、園内にはコナラやクヌギなどの広葉樹林がある他、山野草が自生します。

 

三毳山(2022年10月)

 

とちぎ花センターの駐車場は「とちぎ花センター管理棟」の北側駐車場となりますが、「みかも山公園」の東口駐車場からも「とちぎ花センター」へと入場することができます。

 

みかも山公園東口駐車場(2022年10月)

 

みかも山公園の園内にはフラワートレインが走っています。

 

フラワートレイン「アジサイ号」(2022年10月)

 

コスモス号、キスゲ号、カタクリ号、アジサイ号の4両の列車が東口のりば、南口のりば、西口のりばとわんばく広場のりば、万葉庭園のりばを結びます。

 

フラワートレイン「チケット売場」(2022年10月)


いわふねフルーツパーク

とちぎ花センターのすぐ前には「いわふねフルーツパーク」があります。

 

いわふねフルーツパーク(2022年10月)

 

いわふねフルーツパークには農産物直売所やジェラートとお弁当の店舗などがある他、いちご狩りやぶどう狩りなどの果実の摘み取り体験ができます。

 

横断歩道を渡ると「とちぎ花センター」へ(2022年10月)

「阪神尼崎駅」と尼崎城の歴史

1.阪神尼崎駅 2.旧尼崎発電所 3.尼崎城の歴史 4.契沖生誕の地 5.櫻井神社

 

尼崎城復活のポスター(2019年2月)


阪神尼崎駅

阪神尼崎駅」は阪神電気鉄道の駅であり、1905年(明治38年)の阪神本線の開通と同時に開業しています。本来の駅名は「尼崎駅」ですが、この駅から北西方向約1.8キロの位置にJR西日本の尼崎駅があるため、阪神電気鉄道の駅は一般的に「阪神尼崎駅」とよばれています。

 

庄下川(しょうげがわ)を跨ぐ尼崎駅(2019年2月)

 

尼崎駅の東側には阪神電気鉄道の尼崎工場がありますが、この尼崎工場では阪神電気鉄道のすべての車両の整備や検査が行われています。尼崎工場には尼崎車庫が併設されています。また、開業当初にはここに阪神電気鉄道の本社がありましたが、現在は「阪神野田駅」前のビルに本社は移転しています。

 

阪神尼崎駅前に建つ時計(2019年2月)


旧尼崎発電所

尼崎工場に併設する尼崎車庫の西側には古い煉瓦造りの建築物を見ることができます。

 

煉瓦造りの建築物(2019年2月)

 

この煉瓦造りの建築物は、阪神電気鉄道が開業した1905年(明治38年)以前に建築されたものであり、かつての尼崎発電所です。

 

旧尼崎発電所(2019年2月)

 

この火力発電所で発電された電気により阪神電気鉄道の車両は走行していました。また、この沿線の一般の家庭にも電力を供給していたそうです。現在ではその役割を終え、資材倉庫として利用されています。

 

工事中の尼崎城址公園の向こうに見える旧尼崎発電所(2019年2月)


尼崎城の歴史

尼崎藩主・譜代大名の戸田氏鉄(とだうじかね)は1617年(元和3年)、大坂の西側を守る拠点として江戸幕府の命により尼崎城の築城に着手しました。尼崎城は甲子園球場3.5個分の広さに相当し、4層4階の天守を擁する巨大なものでした。

 

尼崎城址公園東側から見た尼崎城(2019年2月)

 

その城下町を建設するにあたっては、大物(だいもつ)周辺(現在の尼崎市大物~東本町)に散在していた寺院を城の西に集約して「寺町」をつくりました。現在においても、寺町の区画は当時と比べてほとんど変わりはなく、11の寺院が寺町に集中しています。国が指定する重要文化財や兵庫県および尼崎市が指定する文化財も多く残されており、寺町は城下町としての名残をとどめています。

 

阪神尼崎駅前に建つ「寺町案内」(2019年2月)

 

戸田氏鉄は徳川家の家臣であり、1603年(慶長8年)に家督を継いで近江膳所藩第2代藩主となります。大坂の陣の功績により、1616年(元和2年)に摂津尼崎藩5万石、1635年(寛永12年)に美濃大垣10万石へと移封されています。寺町に集約された寺院としては、滋賀県大津市にあった戸田氏の菩提寺である全昌寺がある他、現存する尼崎最古の古刹となる大覚寺、その本堂・多宝塔が国の重要文化財となっている長遠寺、文化財を多くもち寺町の中心的寺院となった本興寺などがあります。

 

尼崎城址公園南側から見た尼崎城(2019年2月)

 

戸田氏の後、1635年(寛永12年)になると青山幸成が遠江掛川より入城し、1711年(宝永8年)には桜井松平家の松平忠喬が入城します。これより幕末までは桜井松平氏が城主を務めていました。1846年(弘化3年)には本丸御殿が火災により全焼しましたが、1年半後に再建されています。

 

尼崎城址公園西側から見た尼崎城(2019年2月)

 

その後、1873年(明治6年)になると、明治新政府の廃城令により建物の一部を除いて取り壊されてしまいました。

 

再建される尼崎城(2019年2月)

 

戸田氏鉄が築城してから約400年が過ぎ、ミドリ電化の創業者であった安保詮氏が私財を投入し、尼崎城の再建計画がはじまりました。2016年(平成28年)に天守再建に着工し、2019年(平成31年)3月に建築工事が完了して一般公開されています。

 

尼崎城址公園南側から見た尼崎城(2019年2月)

 

新たな尼崎城は「阪神尼崎駅」の南側の尼崎城址公園内にありますが、この新しい尼崎城の天守の位置は、戸田氏鉄が築城した尼崎城の位置より北西へ約300メートルの場所となります。復活した尼崎城の天守は地上5階建の鉄筋コンクリート造となっています。

 

完成間近の尼崎城(2019年2月)


契沖生誕の地

契沖(けいちゅう)は江戸時代中期の古典学者です。彼の実家は下川氏であり、祖父は加藤清正の家臣、父は尼崎藩士であり青山幸成に仕えました。下川氏の三男として生まれた契沖の生誕の地となる「契沖生誕の比定地」の碑は尼崎城の南側にあります。

 

契沖生誕の比定地(2019年2月)

 

その後、父が浪人となり、契沖は11歳になると大阪今里の妙法寺で真言宗の僧として修業をするようになります。高野山で学んだ後、24歳のときに「阿闍梨」の位を得ました。水戸光圀の理解を得て、40歳の半ば頃には『万葉代匠記』を著した他、国学の発展に大きく寄与して「古学の祖」として称えられます。

 

古学の祖「契沖阿闍梨」の碑(2019年2月)


櫻井神社

尼崎城址公園のすぐ南側には櫻井神社がありますが、この神社は1882年(明治15年)に建立されています。櫻井神社には1711年(正徳元年)から幕末までの尼崎藩を治めた桜井松平家(後に桜井氏)の歴代藩主が祀られています。

 

櫻井神社(2019年2月)