▼明治時代、舞鶴への鉄道路線敷設計画が持ち上がった頃、福知山から宮津への鉄道を敷設しようという動きが起こり、1892年(明治25年)に宮津商港鉄道期成同盟会が結成された。
薄暮の福知山駅(2017年5月)
▼宮津には江戸時代、舞鶴と並ぶ港として栄えたという歴史がある。▼1894年(明治27年)に日清戦争が勃発し、舞鶴は軍港として注目されるようになった。▼その重要性が高まったことから、1899年(明治32年)に大阪~福知山間、1904年(明治37年)に福知山~新舞鶴(現在の東舞鶴)間の鉄道が開通した。
若狭湾の風景(2016年3月)
▼一方で、鉄道敷設の運動は高まるものの、福知山から宮津への鉄道敷設計画は取り残された。▼1919年(大正8年)にようやく福知山~河守(こうもり)~宮津間の鉄道敷設認可が下りる。
北丹鉄道2号機レプリカ(2018年4月)
▼そうした中、1923年(大正12年)に福知山~河守間の営業運転が開始され、1924年(大正13年)には舞鶴(現在の西舞鶴)~宮津間の鉄道(現在の宮津線)が開通した。
京都鉄道博物館「ハニ11形客車」(2019年1月)
▼福知山~河守間の路線を運営していたのは、かつて福知山市にあった北丹(ほくたん)鉄道。▼北丹鉄道は1920年(大正9年)に北丹軽便鉄道として設立され、路線開業の際に社名を「北丹鉄道」とした。
京都鉄道博物館「キハ102号気動車」(2019年1月)
▼1948年(昭和23年)には宮津鉄道建設促進期成同盟会が結成される。▼1959年(昭和34年)に宮津~河守間の建設が決定したことにより、この団体名は「宮守線建設促進期成同盟会」に改称された。▼1966年(昭和41年)に宮守線の起工式が行われたものの、その後の計画の変更により河守~宮津間の鉄道建設は頓挫する。▼また、鉱山が閉山したことなどにより貨物輸送も減少し、赤字が続くような状態となった。
宮福線・福知山市民病院口駅前に立つ宮福線建設の沿革(2018年4月)
▼1971年(昭和46年)に北丹鉄道は営業休止となり、1974年(昭和49年)には路線が廃線となった。▼北丹鉄道は解散する。
西駅公園「北丹鉄道本社跡」石碑(2018年4月)
▼さて、現在の福知山駅の隣りにはかつて、福知山西駅という駅があった。▼福知山西駅には、その北丹鉄道の本社と車庫があった。
福知山西駅駅名標(2017年5月)
▼現在では、福知山西駅跡は西駅公園となっていて、ひっそりと石碑が立つ。
西駅公園に保存される2号機のレプリカ(2017年5月)
▼1977年(昭和52年)には宮守線建設促進期成同盟会は「宮福線建設促進期成同盟会」と改称し、1978年(昭和53年)に宮津~福知山間の工事基本計画が決定した。▼にもかかわらず、1980年(昭和55年)には国鉄再建特別措置法が施工されることになり、この工事は凍結されてしまった。
西駅公園に保存される2号機のレプリカ(2018年4月)
▼1982年(昭和57年)になると、第三セクターによる鉄道運営が決定され、宮福鉄道が設立する。▼1983年(昭和58年)には線路敷設工事が認可され、ルートを変更しながらも1988年(昭和63年)に北近畿タンゴ鉄道宮福線として福知山~宮津間が開通した。
「北丹鉄道本社跡」石碑の立つ西駅公園(2018年4月)